イザヤ41章〜43章「恐れるな。わたしは、あなたとともにいる」

2011年1月1日

AKB48の 「Beginner」を聞いて、これを書いた秋元康さんは本当にこの時代を見ていると妙に感心しました。「昨日までの経験とか、知識なんか荷物なだけ、風はいつも通り過ぎて、後に何も残さないよ、新しい道を探せ! 他人(ひと)の地図を広げるな! 伏せた目を上げた時に 0(ゼロ)になるんだ・・・今 僕らは夢見てるか、子どものようにまっさらに…支配された鎖は引きちぎろう Change your mind 何も知らなくていい Beginner! チャレンジは馬鹿げたこと? リスク回避するように愚かな計算して何を守るの? 僕らは夢見てるか? 未来を信じているか? 何もできない、ちゃんとできない、それがどうした? 僕らに可能性があるんだ、君は生まれ変わった Beginner!

私たちは今、過去の体験がなかなか生かされない前人未到の世界に向かっています。過去の成功や人の成功に学ぶのではなく、すべてを支配しておられる神が道を開いてくださることに信頼して歩みたいものです。

1.『恐れるな。わたしが、あなたを助ける恐れるな。虫けらのヤコブ』

41章8-20節では、無力なイスラエルに対する慰めが語られています。8節の始まりには、「お前」という神からの呼びかけが記され、それが転換点になっています。そして主は彼らを、「わたしのしもべ」「わたしが選んだ」「わたしの愛するアブラハムのすえ」と繰り返し呼びかけます。

そこには、全世界の創造主である方がイスラエルをかけがえのないご自分の宝物と見て、世の権力者たちの手から守るという、主の熱い思いが込められています。

彼らは「地の果て」(41:9)に追い散らされていても、神が彼らをとらえ、約束の地に連れ戻してくださいます。そのことが、「わたしはあなたを選んで捨てなかった」といわれています。それは神がこれまでひとりのアブラハムからイスラエルという奇跡の民を造り出して下さったという歴史に現されています。

このような神の一方的な愛を前提として、「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから」(41:10)と語られます。

人間的な誇りにより頼むのではなく、天地万物の創造主から「わたしのしもべ」と呼ばれることに喜びを見出す者に対し、神は、「わたしはあなたを強め、また、助け、さらに義の右の手で、あなたを守る」と言われます。

私たちが神の救いにあずかることができるのは、私たちの側に罪の自覚があるからでも、また反対に、正義があるからでもありません。一方的に神の義の右の手が差し伸べられたことから救いが始まります。罪の自覚や本当の意味での自分の弱さの自覚は、救いを受けた結果として生まれるものです。

救いの主導権は、私たちではなく神の側にあります。そのことが先の「わたしはあなたを選んで、捨てなかった」という語りかけになっているのです。

そして、「見よ。あなたに対していきりたつ者はみな恥を見、はずかしめられ、争う者たちは、無いもののようになって滅びる」(41:11)とは、神がイスラエルの味方になってくださるという意味です。パウロも、「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう」(ローマ8:31)と言っています。

その上で、主は、「わたしは主(ヤハウェ)、あなたの神。あなたの右の手を堅く握り、そして言う、『恐れるな。わたしが、あなたを助ける恐れるな。虫けらのヤコブ、イスラエルの人々よ。わたしが、あなたを助ける』」(41:13、14)と言われます。イスラエルは当時の世界から見たら「虫けら」のようにちっぽけな存在でしたが、主が彼らを選び彼らの味方となってくださいました。「わたしが」ということばは、その主の主導権を明確にすることばです。

その上で、主ご自身が彼らをしっかりととらえていてくださるので、彼らは周囲の大国をも圧倒することができるということが比喩的に15,16節で述べられます。「鋭い・・・打穀機」とは、神の民が敵を圧倒する様子を描いたものですが、これは大国から踏みつけられている弱小民族にとっては身近な表現でした。

そしてこの部分の最後に、8節の「お前」という呼びかけから始まった神の慰めのことばが、「あなたは、主(ヤハウェ)によって喜び、イスラエルの聖なる者によって誇る」(41:16)と締めくくられます。これは、自分の無力さに絶望している民にとっての何よりの希望です。

2.「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしは、あなたを愛してしてる」

43章では、燃える怒りを向けていたイスラエルの民に向かって一転、「だが、今、主(ヤハウェ)はこう仰せられる。ヤコブよ。あなたを創造された方が、イスラエルよ。あなたを形造った方が」(43:1)と優しく呼びかけつつ、「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ」と言われます。

「贖う」とは、たとえば、借金が返せなくなって自分の身を奴隷に売らざるを得なくなった場合に、兄弟が彼を「買い戻」し、再び自由人に復帰できるというような救いを意味します(レビ25:48)。

イスラエルの民は、自業自得で神の「のろい」の下に置かれました。そこでは働いた労苦の実を自分で享受できないばかりか、ありとあらゆる災いに襲われ、怯えながら生きていました。

そのような状態から、生きることを喜ぶことができる自由人の状態へ回復されるという約束のことを、主は、「わたしがあなたを贖った」と預言されます。それは、「のろい」から「祝福」へという百八十度の立場の変化です。

それがなされたのは、イスラエルの民が悔い改めたからという以前に、父祖ヤコブに由来する民が、神ご自身によって「創造され」「形造られた」という神の選びに基づきます。ヤコブはそれに値する人間ではなく、父や兄を騙すようなことをしたにも関わらず、主ご自身が、彼の生まれる前から、彼を兄のエサウの上に立つ者と一方的に計画されたのです。

また、神は、ヤコブの母の故郷への旅行を守り、豊かな財産を与え、約束の地カナンに戻る途中のヤボクの渡しで、彼にご自身を現し、イスラエルという新しい名前を与えてくださいました。

そして、主がイスラエルを贖ったということが「あなたの名をわたしは呼んだ」と言い換えられます。そして、主は彼らに優しく、また断固として、「あなたは、わたしのもの」と語りかけられます。

そして、主に贖われた結果の祝福に満ちた歩みのことが、「あなたが水の中を過ぎるときも、わたしは、あなたとともにいる。川を渡るときも、あなたは押し流されず、火の中を歩いても、焼かれず、炎はあなたに燃えつかない」(43:2)と描かれます。

海も山も川も火山も創造された全能の神が、「わたしは」と強調しつつ、「あなたとともにいる」と保障してくださっています。

そして、この選びによる創造は、ダビデが「生まれる前から、私はあなたに、ゆだねられました。母の胎内にいたときから、あなたは私の神です」(詩篇22:10)と告白したように、私たちすべてにとっての霊的な現実です。そして、私たちキリスト者はすべて、キリストの十字架の血潮によってサタンの奴隷状態から贖い出されました。

ですから、この「ヤコブよ、イスラエルよ」という部分を自分の名前に置き換えて朗読しながら、神の絶対的な守りを私たちは味わうことができます。確かに、私たちはこの地で様々な災いに会います。

しかし、その災いは決して、私たちに与えられた「永遠のいのち」を損なう力にはなりません。そのことをパウロは、「あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。私たちのいのちであるキリストが現れると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現れます」(コロサイ3:3,4)と断言しました。

与えられた「永遠のいのち」のすばらしさは、時とともに明らかにされてゆきます。信仰生活はその恵みの豊かさをより深く味わうプロセスです。

そして、主はイスラエルに対する保障を、「わたしは、主(ヤハウェ)、あなたの神、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主だから」(43:3)と言われます。これも一言一言、心の底で味わうべき全能の神からの語りかけです。「イスラエルの聖なる者」とは、イスラエルにとって主は、いかなる比較も超えた、人のいかなる想像も及ばない圧倒的な神であるということを表します。ですから、彼らは、地上のいかなる権力をも恐れる必要がありません。

そのことが、「エジプトをあなたの身代金とし、クシュとセバをあなたの代わりとする」と言われます。「クシュとセバ」はナイル川上流のエジプトの南の地域を指します。これは、ペルシャ帝国がナイル川全域を支配するために、その前線基地としてのイスラエルに特別な恩恵を施すという政治状況を示唆したものと思われます。エルサレム神殿の建設が許されたのは、ペルシャがイスラエルの民の好意を得てエジプト支配を容易にするためでした。これは、エジプトの犠牲の上にイスラエルの繁栄が築かれるという意味です。この背後に、神のあわれみのご計画がありました。人の目にはちっぽけなイスラエルが、神の目にはあの大国エジプトよりも重い存在だったからです。

主は、それを前提に、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしは、あなたを愛している」(43:4)と言われます。

「高価」とは、かけがえのない価値とか希少価値を意味します。たとえばアブラハムにとってイサクは、かけがえのないひとり子であり、イエスは、神にとってかけがえのないひとり子でした。

また、「尊い」とは、「重くされている」という意味で、「栄光」と同じ語源のことばが用いられています。これは、神が私たちひとりひとりを救うためにご自身の御子を犠牲にされたほどに、私たちの存在を重いものとして見ておられるということを表します。

その上で、主は、「わたしは」ということばを強調しながら、「あなたを愛している」と言っておられます。全宇宙の創造主である方が、イスラエルに向かってそのようにパーソナルに語りかけてくださるのです。そして、その具体的な意味を、主は、「だから、人をあなたの代わりにし、民をあなたのいのちの代わりにする」と言われます。これは、イスラエルに繁栄をもたらすために、あの大国エジプトを犠牲にするのも厭わないという神の断固とした意思の現われです。このように、人との比較で自分の価値が計られるのは、あまり上品な表現には聞こえないかも知れませんが、当時の政治状況を考えれば、神の意図は明確です。当時のイスラエルは、北からの脅威に南のエジプトの助けを得て対抗するという政策を伝統的にとってきました。これはたとえば、会社の上司の間に対立関係がある場合、そのふたりの陰に身を隠しながら、その対立を利用して自分の立場を守ろうとするような生き方です。

それに対して、主は、人と人との信頼関係を軽蔑するような、姑息で卑怯な生き方ではなく、堂々と自分の立場を明確にするように命じられたのです。あなたが頼りにしようとしている権力者はすぐに消えてしまうはかない存在であるばかりか、神の目には、その権力者よりもあなたの方がはるかに重い存在とされているのです。

それを覚えて、人の奴隷にならずに、自分が神にとってどれほどかけがえのない存在かを意識しながら生きたいものです。

ところで、多くの人は、自分が人と異なった感性を持っていることを恥じてしまいがちですが、私たちが他の人とまったく同じなら、あなたの代わりはいくらでもいることになります。あなたが他の人と違った感性を持っているからこそ、あなたは神にとって「高価」でかけがえのない、「尊い」、重い存在となるということを忘れてはなりません。

そして、この世の大帝国や権力者たちを恐れる人々に対し、「恐れるな。わたしは、あなたとともにいる」(43:5)と言われました。そこでは、「わたし」と言われる方の存在の大きさを味わうような語りかけがなされています。

そして主は、「東から、あなたの子孫を来させ、西から、あなたを集める。北に向かっては、引き渡せ、と、南に向かっては、引き止めるな、と言う」(43:5、6)と言われます。これは、主が四方の国に散らされたイスラエルの民を、もう一度約束の地に集めてくださるという約束です。

そして、それを命じる主のことばが、「来させよ。遠くからわたしの子らを、地の果てからわたしの娘らを」と記されます。

そして、主は、43章1節のことばを繰り返しながら、「わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、これを創造し、形造った」(43:7)と言われ、すべてをまとめるように、「確かに、わたしがこれを成した」と、すべてが主ご自身のみわざであることが強調されます。

3.「見よ。新しい事をわたしは行う。今、もうそれが芽生えている。」

43章10節で、主は、「あなたがた」ということばを強調しながら、「あなたがたは、わたしの証人、─主(ヤハウェ)の御告げ─わたしが選んだわたしのしもべ」(43:10)と言われます。

私たちこそ、神がどのような方かを証するために立てられている「ヤハウェの証人」なのです。

ただ、私たちはその責任の大きさの割には神を知っていないと卑下するかもしれませんが、そのような懸念を払うように、「これは、あなたがたが知って、わたしを信頼し、わたしがその者であることを悟るためだ」と言われます。私たちは自分たちの人生の体験を通して、主を深く知り、深く信頼し、主がどのような方であるかを悟るのです。

なお、10節後半では、「その者」というあいまいな表現があえて用いられながら、それを説明するように、「わたしより先に造られた神はなく、わたしより後にもない」と、ご自身が他の神々と比べようのない方、ただひとりの創造主であることを証しています。そして、主は、あえて「わたし」ということばを二回重ねながら、「わたし、わたしが主(ヤハウェ)」(43:11)とご自身の名を紹介しておられます。

そして再び、ご自身のことを、「わたしのほかに救い主はいない。このわたしが、告げ、救い、聞かせた」(43:12)と紹介しながら、「あなたがたのうちに、他はいなかった。あなたがたは、わたしの証人」と、10節のことばを繰り返しながら、「主(ヤハウェ)の御告げ─わたしは神だ」と断言されます。

そして、未来に目を向けさせながら、「これから後もわたしがそれだ。わたしの手から救い出せる者はなく、わたしが事を行えば、だれがそれを戻しえよう」(43:13)と、ただ主だけに信頼するように訴えておられます。

その上で主は、不思議な救いのご計画を分かち合ってくださいます。14節の「主(ヤハウェ)は、こう仰せられる」という表現は、43章16節でも用いられますが、そのたびに、その方が、どのような方かが描かれます。

ここでは、まず、「その方は、あなたがたを贖うイスラエルの聖なる方」と表現されます。主は、イスラエルをエジプトの奴隷状態から解放してくださった方、また、この世を超越したという意味で、「聖なる方」と呼ばれます。

そして、その救いのみわざが、「あなたがたのために、バビロンに使いを送り、彼らをすべて亡命者として下らせる。カルデヤ人をその歓喜の船から」と描かれます。

この書が読まれたとき、イスラエルは国を失った捕囚の民、バビロンの情けでかろうじて生かされている亡命者の立場になっていましたが、その立場が逆転するというのです。カルデヤ人とはバビロンの中心的な民族で、彼らは「歓喜の船」に乗っているような気持ちでいましたが、そこから追い出されるような悲惨な状態に追いやられるというのです。

そして、その根拠を、主は、「わたしは、主(ヤハウェ)、あなたがたの聖なる者、イスラエルの創造者、あなたがたの王である」(43:15)と述べておられます。

これらの箇所で、イスラエルやヤコブという名前を、自分と置き換え、バビロンやカルデヤ人ということばを、あなたを虐げ迫害している人々に当てはめると、この箇所の意味が、よりパーソナルに響くことでしょう。

そして、再び、「主(ヤハウェ)は、こう仰せられる」(43:16)と宣言されながら、主がかつてエジプトの軍勢を紅海におびき出し、絶滅させたことが、「その方は、海の中に道を、強い流れの中に通り道を設け、戦車と馬、強力な軍勢を連れ出された。彼らはみな倒れて起き上がれず、燈心のように消えた」(43:17)と描かれます。

その上で、主は、逆説的な意味で「先の事を思い出すな。昔の事を思い巡らすな」(43:18)と言われます。神はイスラエルの民に、繰り返し、出エジプトの事を始めとする過去の偉大な救いのみわざを思い起こすように命じておられましたから、この命令はまったく意外なものです。「柳の下に二匹目のどじょうを探す」というような笑い話だったら良いのですが、彼らは過去の成功に奢り高ぶって国を滅ぼそうとしていました。

たとえば、エルサレムがアッシリヤに包囲されたときに、神が包囲軍を混乱させ、奇跡的に撤退させてくださいましたが、彼らは同じことがまた起きると期待して、神のさばきという現実を見ようとしなくなっていました。これは、日本の神風神話と同じです。

しばしば、過去の成功談は偶像化されて、人を失敗に導きます。「失敗は成功のもと」と言われる以上に、「成功は失敗のもと」になることをいつも注意深く現実を見る必要があります。私たちは、常に、神の救いのみわざは、毎回、ユニークなもので、パターンが違うということを覚えなければなりません。それどころか、神がこれからもたらしてくださる救いは、それまでの成功も苦しみも色あせて見えるほどに奇想天外な偉大なものだというのです。

そのことを、主は、「見よ。新しい事をわたしは行う。今、もうそれが芽生えている。それをあなたがたは知らないのか」(43:19)と言われました。私たちは、過去の体験に基づく自分の期待から心が自由にされるとき、日々の生活の中に、常に、何か、新しいことの芽生えを見つけることができます。

そして、このとき彼らはバビロンの向こうに、強大なペルシャ帝国の出現の前触れを見ることができました。しかし、彼らは南の大国エジプトの政治情勢にばかり目が向かっていました。イスラエルの民は、エジプトから解放されるときは、海が真っ二つに分かれましたが、このとき彼らはバビロンに捕囚とされており、彼らの帰還を妨げたのは、起伏の激しい、水のない荒野でした。

それを前提に、主は、「確かに、荒野に道を、荒地に川をわたしは設ける。野の獣がわたしをあがめる。ジャッカルや、だちょうさえも。荒野に水を、荒地に川をわたしが与え、わたしの民、選んだ者に飲ませるからだ」(43:19、20)と、荒野や荒地の中に、約束の地への帰還の道を開くことを保障してくださいました。

なお、「ジャッカル」も「ダチョウ」も忌み嫌われた動物の代名詞のような存在でした。「ジャッカル」は山犬とも訳されますが、少数の群れをなして歩き回り、他の動物が食べ残したものをあさって食べる臆病な動物でした。

「ダチョウ」は、自分で産んだ卵を置き去りにし、そのひなは別の孵化しない卵を餌として育つという無慈悲で貪欲な動物の代名詞でした。両者とも廃墟を住処としていました。

つまり、そんなのろわれた動物さえも神の救いにあずかるというのですから、神に選ばれた民であるイスラエルが救いにあずかるのはなおさらのことであるというのです。そして、そのことが、「この民は、わたしのために造った。彼らはわたしの栄誉を宣べ伝えよう」(43:21)と描かれています。

福山雅治作「道標」に次のような歌詞がありました。「愛に出逢い愛を信じ 愛に破れて、愛を憎み 愛で赦し また愛を知る 風に吹かれ 迷いゆれて 生きるこの道、あなたの笑顔 それは道標・・・傷もためらわず 痛みもかまわず 「勝つこと」ただそれだけが正義と 壊れてもまだ走り続けるわたしにも、あなたはやさしく…」

この一年、勝つことばかりを考えて人を押しのけて生きるのではなく、神の愛に信頼し、互いに愛し合いながら、何度裏切られても人を愛し続け、自分の笑顔を人の道しるべのようにできたら幸いです。私たちはそのように生きることができます。

それは、天地万物の創造主が、「恐れるな。わたしは、あなたとともにいる」と言ってくださるからです。