イザヤ60章10節〜62章3節「神の救いがもたらす大逆転」

2010年12月4日

多くの人々は、「大切な何かを失うこと」を恐れて生きています。この恐れは豊かになるほど大きくなります。福音を聞き、それに感動しながらも、何か大切なものを失うことを恐れて決断できない人もいます。これは江戸時代からのキリシタン迫害のトラウマが日本人全体の心に深く染み込んでいるためでしょう。そればかりか、イエスはご自身に従う者が、この世で大切な家族や財産を失う可能性があるとさえ言われました。

しかし、不思議にも、歴史を見る限り、迫害があればあるほど、その後のクリスチャン人口は爆発的に増加しています。第二次大戦後の韓国の教会の成長はその代表例ですし、文化大革命後の中国でも福音が驚くべき勢いで広がっています。

ところが、日本の場合は、迫害を受けるたびに人々の心が臆病になってはいないでしょうか。それは、多くの日本人が信仰を「キリスト道」のような生き方としてとらえ、ご利益宗教ではないと強調する余り、神にある逆転を語ることが少ないからかもしれません。

その点、イザヤの表現は露骨です。簡単に言うと、「何かを失ってもそれは一時的なことに過ぎない。神は常にご自身にすがってくる者の味方であり、あなたを虐める者たちに神は報復し、繁栄を回復してくださる・・・」というものです。イスラエルは国を失うことによって神の民として整えられてゆきました。それは、このイザヤの預言を悲惨の中で味わったからです。

失うことを恐れながら生きる人は、生気を失います。しかし、「何が起こっても大丈夫・・・」という確信を抱きながら生きられるなら、様々な可能性が開けます。

私たちは、何を失っても、信仰さえ失わないなら、すべてが挽回できます。そして、その信仰を失わない秘訣とは、自分の心を信じるのではなく、自分の信仰が神のあわれみから始まり、神によって完成されるということを見ることです。

1.「主(ヤハウェ)があなたの永遠の光となり、嘆きの日々が終わる」

イザヤ預言は、神の都エルサレムがバビロン帝国によって廃墟とされることを前提に記されています。そのとき、城壁は崩され、壮麗な神殿も破壊され、その宝物はバビロンに運び去られました。

60章10節の「外国人もあなたの城壁を建て直し、その王たちもあなたに仕える」とは、かつて外国人に滅ぼされた神の都が、外国人の王たちの積極的な協力によって建て直されるという逆転です。

それはすべてイスラエルの神のみわざであり、そのことが、「なぜなら、わたしは怒ってあなたを打ったが、恵みをもってあなたをあわれんでいたからだ」と描かれます。

そしてエルサレムの繁栄の様子が、「あなたの門はいつも開かれ、昼も夜も閉じられない。国々の財宝があなたのところに運ばれ、その王たちが連行されてくるためである」(60:11)と描かれます。

これは都が敵の攻撃を恐れる必要がないばかりか、かつてエルサレムから運び去られた財宝とは比較にならないほども財宝が運び込まれるとともに、エルサレムを攻撃した国々の王たちが捕虜として連行されてくるという大逆転です。

その上で、ソロモンの時代にエルサレム神殿がレバノンの美しい木々によって建てられたことを思い起こしながら、それが再び起こるということが、「レバノンの栄光はあなたのもとに来る。もみの木、すずかけ、檜がそろって、わたしの聖所を美しくする。わたしの足台にわたしが栄光を与える」(60:13)記されます。

そればかりか神の民を虐げた者たちが神によって低くされる様子が、「あなたを苦しめた者たちの子らは、身をかがめてあなたのところに来る。あなたを侮った者どもはみな、あなたの足の裏にひれ伏す」(60:14)と描かれます。徹底的に人に屈服した姿が「足の裏を舐める」と表現されますが、その語源がここにあるのでしょうか。

そして、神の都エルサレムが諸国民の上に堅く立てられること様子が、「彼らはあなたを主(ヤハウェ)の町、イスラエルの聖なる方のシオンと呼ぶ。捨てられ、憎まれて、通り過ぎる人もいなかったのに代わりに、わたしはあなたを永遠の誇りとし、代々の喜びの町とする・・」(60:14b、15)と描かれます。

そして、これらの圧倒的な主のみわざを見た結果として、シオンの民が、「主(ヤハウェ)」を、「ヤコブの全能者」として知るというのです。信仰は道徳ではありません。私たちは神の逆転劇を見ることによって、神を知るようになると預言されているからです。

17,18節では引き続き神ご自身がエルサレムの繁栄と平和を実現してくださる様子が記されますが、その中で特に、「平和をあなたの管理者とし、義をあなたの監督者とする」という表現が際立っています。周辺の国々に略奪され、不正がまかり通っていた都が、今や、「神の平和」と「神の義」によって支配されるというのです。

しかも、そこでは、「太陽がもうあなたの昼の光とはならず、月の明かりもあなたを照らさず、かえって主(ヤハウェ)があなたの永遠の光となり、あなたの神があなたの美しさとなる。あなたの太陽はもう沈むことがなく、その月はかげることがない。それは、主(ヤハウェ)があなたの永遠の光となり、嘆きの日々が終わるからである」(60:19、20)という驚くべき世界が実現します。何と、神ご自身が直接に神の都を照らしてくださるというのです。

「信仰」とは、太陽や月の背後に創造主を見ることです。太陽はしばしば恵みと同時に、熱過ぎて災いの原因にもなりますが、それこそ、この目に見える世界の矛盾です。それは、人が神にそむいた結果、世界がのろわれてしまったからです。

現在の世界は、神の創造の美しさと同時に、神ののろいを現しています。私たちはその両方を見る必要があります。しかし、私たちが神の恵みに包まれるとき、恵みとセットになっていた災いはすべて消えてなくなります。

神は創造の四日目に、太陽と月を創造されました。新しい世界では、太陽や月を媒介することなく、神ご自身が世界を照らしてくださるというのです。不思議なのは、エルサレムの繁栄の回復の話が、「新しい天と新しい地の創造」に結びついているということです。

そのときの様子が黙示録では、「都には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都の明かりだからである。諸国の民が、都の光によって歩み、地の王たちはその栄光を携えて都に来る。都の門は一日中決して閉じられることがない。そこには夜がないからである。こうして人々は諸国の栄光と誉れとをそこに携えて来る」と描かれています(21:23-26)。

この黙示録に描かれた「新しいエルサレム」の姿は、明らかにこのイザヤ書を元に記されたものです。なお、そこでは続けて、この都に入ることができるのは「いのちの書に名が書いてある者」だけであると記されます。それはイエスを救い主として信じるすべての人です。つまり、イザヤの預言は、肉のイスラエル民族のためというよりは、彼らを含め、神の救いを信じるすべての民のために成就するのです。

なおイザヤは続けて、そのとき、神の民も内側から造りかえられということを、「あなたの民はみな正しくなり、とこしえにその地を所有しよう。わたしの植えた枝、この手のわざは美しさを現すものとなる」(60:21)と描きます。

つまり、神の民はすべて、キリストに似た者、神の創造の冠としての「美しさ」を現す者として完成され、キリストとともに新しい世界を治める王とされるのです。実際、黙示録では引き続き、「そのしもべたちは神に仕え、神の御顔を仰ぎ見る・・・神である主が彼らを照らされる・・・彼らは永遠に王である」(黙示22:3-5)と記されています。

またイザヤは、「わたしは主(ヤハウェ)、時が来れば、すみやかにそれをする」(60:22)と記しますが、それをもとに黙示録では、イエスが、「しかり、わたしはすぐに来る」(22:20)と言っておられます。私たちは世界を少しでも住みやすくするため努力しますが、光と同時にやみも強くなってゆくということを忘れてはなりません。

政治は所詮、様々な利害関係を調整する仕組みに過ぎません。世界が変わる前提は人間にあります。人を変えるのが福音の力です。そしてキリストの再臨の時、この世界が新しくされるという以前に私たち自身が新しくされているのです。

神は何度もご自身を裏切り続けたイスラエルの民とその都エルサレムをご自身の一方的なあわれみによって建て直してくださると約束してくださいました。人間の敬虔さや能力ではなく、神のあわれみこそがこの世界を新しくする鍵です。私たちに求められているのは、その神に信頼することだけです。

この世界の混乱が増し加わっても、キリストが支配する神の国は、今も成長過程にあり、完成に向かっているということを忘れてはなりません。

2.「貧しい者に良い知らせを伝えるため」

61章では最初に、「主、ヤハウェの霊が、わたしの上にある。それは、主(ヤハウェ)がわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝えるためである」と記されます。「油をそそぎ」とは、神がご自身の働きのために任職の油を注ぐことで、ここでは救い主を立てることを意味します。

キリストとは「油そそがれた者」のギリシャ語訳です。イエスがヨルダン川でバプテスマを受けたとき主の霊がくだったのはその任職式でした。それは、「貧しい者」、すなわち、霊的ばかりか肉体的な貧しさ、あらゆる種類の貧しさを感じている人に「よい知らせを伝える」ためです。

それは、新しい教えをことばで述べ伝えるというよりは、貧しさを覚えている人を根本から造りかえる恵みの働きです。

そして、「主はわたしを遣わされた」ということばとともに、その働きの内容が六つの観点から描かれます。それは、「うちひしがれた心を包み、捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げるため、主(ヤハウェ)の恵みの年とわれらの神の復讐の日を告げ、すべての嘆く者を慰め、シオンの嘆く者たちに施すため、すなわち、灰の代わりに頭の飾りを、嘆きの代わりに喜びの油を、憂いの霊の代わりに賛美の外套を着けさせるためである」と記されます。

「うちひしがれた心を包む」とは、1章6節でイスラエルは「打ち傷を・・・包んでももらえず」と記されていたことに対応します。傷つき、打ちひしがれた心は、外科的な治療以前に、包帯で優しく包む必要があります。

「捕らわれ人の解放」の「解放」とはヨベルの年の奴隷解放や負債の免除に使われたことばで、その人に新しい人生への歩みを保障するものです。

「囚人には釈放」とある「釈放」はここにしかないことばで、盲人の目を開けたり、難聴の人の耳を開いたりすることばと関連があります。ギリシャ語70人訳聖書では、「盲人の目が開かれる」と訳され、ルカ4章でのイエスのことばは、その訳が用いられています。

また、「主の恵みの年とわれらの神の復讐」は本来セットになっています。それは、この書でも繰り返し、神のさばきが、神の民の敵への「復讐として描かれ、それが神の民にとっての「救い」と同義語になっているからです。たとえば、自分の愛する子のいのちを奪われた親は、加害者に対する正当なさばきが下されることを切に望みます。それこそ、彼らにとってのせめてもの救いになります。

ルカ福音書4章によると、イエスが宣教の初めに、ナザレの会堂で朗読された箇所で、主はこの箇所をお読みになりながら、その解説としてひとこと、「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたの聞いたとおり実現しました」(ルカ4:21)と言われました。イエスがなされた様々なみわざと説教のすべては、イザヤの預言を成就させるものでもありました。

初代教会の時代に、イエスの弟子たちが読んだ福音書とは、イザヤ書であったということもできます。彼らは、この書を読みながら、イエスがこれらの預言をひとつひとつ成就されたことを知って神をあがめたのです。

ただし、主は、このとき、イザヤ書には記されている「われらの神の復讐の日を告げ」の直前で、朗読を止めておられます。それは「神の復讐」は、ご自身の十字架と復活の後の、再臨で成し遂げられることだからです。

そして、イエスは、「灰の代わりに頭の飾りを、嘆きの代りに喜びの油を、憂いの霊の代りに賛美の外套を着けさせ」(61:3)てくださいました。三種類の人生の嘆き苦しみの表情が、栄光と喜びと感謝と変えられるというのです。主はすべてを逆転させてくださいます。これは理屈ではなく、信仰生活で体験させていただける恵みです。

「主の霊がわたしの上にある」ということばは既に私たちに実現しています。復活のイエスは恐れ閉じこもっていた弟子たちに息を吹きかけながら「聖霊を受けなさい」と言われ、弟子たちを、イエスの代理として、世の人々を罪の支配から解放するための働きへと遣わされました(ヨハネ20:22,23)。神はご自身の力で、この「天と地」を、「新しい天と新しい地」へと変えてくださいます。そのとき世界には神の平和と喜びが実現します。

それは一方的な神のみわざですが、その働きの一部を私たちに担わすために、私たちにご自身の霊を与えてくださいました。これは将来の成功が約束された働きへと参画させていただけるという途方もない特権です。

なお、「貧しい者に良い知らせを伝える」とは、ことばによる宣教以前に、何よりも、「うちひしがれた心を包む」という寄り沿いのミニストリーから始まっています。これは訓練を積めば、誰にでもできる働きです。人々に行動の変化を促す以前に、絶望を味わっている人に寄り添うという行為が必要です。

現在のインターネット社会で、人々がますます孤立して行っています。情報はあふれるほどありますが、寄り添ってくれる人がいません。そこに私たちの働きの場があります。

3.「そのとき、あなたは新しい名で呼ばれる」

ところで、これに続いて、「彼らは昔の廃墟を建て直し、先の荒れ跡を復興し、廃墟の町々、代々の荒れ跡を一新する。他国人は立ってあなたがたの羊の群れを飼い、外国人はあなたがたの農夫、ぶどう作りとなる。しかし、あなたがたは主(ヤハウェ)の祭司と呼ばれ、われらの神に仕える者と言われる」(61:4-6)と記されますが、これも虐げられていたイスラエルの民がエルサレムを復興し、この世界を治める立場へと引き上げられるという約束です。

不思議にも使徒ペテロはこの最後の表現をすべてのクリスチャンに当てはめ、「あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です・・・・以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今は、あわれみを受けた者です」(Ⅰペテロ2:9,10)と記しています。

そして主は、イスラエルの民に豊かな祝福を与える様子を、61章6-9節で、「あなたがたは国々の財宝を味わい、その富を誇る。恥に代えて、二倍のものを・・・。彼らは侮辱に代えて、その分け前に歓喜する・・・」と描きます。イザヤ40章2節ではイスラエルに約束された救いが、「そのすべての罪に引き替え、二倍のものを主(ヤハウェ)の手から受けた」と記されていましたが、それがいよいよ成就するというのです。

しかも、イスラエルの民は繰り返し「不法な略奪」を受けて苦しんできましたが、主は「真実をもって彼らに報酬を与え、とこしえの契約を彼らと結ぶ」というのです。

イエス・キリストこそこの「とこしえの契約」を、ユダヤ人ばかりか異邦人をも含む新しい神の民と結んでくださいました。それは、私たちに聖霊が注がれ、内側から造りかえられ、神の民として完成されるという約束です。

61章10節の「わたしは主(ヤハウェ)にあって大いに楽しみ、このたましいも、わたしの神にあって喜ぶ」とは、主に油注がれた救い主のことばとして記されています。イザヤ50章や53章での「主のしもべの歌」では、救い主の苦難が描かれましたが、ここではそれと対照的な「喜び」が強調されます。

ヘブル書では、「イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました」(12:2)と記されますが、イエスは神から与えられた使命に伴う苦しみと同時に喜びをも味わっておられました。

喜びの伴わない使命感は、人を息苦しくさせるだけです。私はかつて、伝道者への召しを受けたとき、ヨーロッパ日本人キリスト者の集いの準備会のリトリートで、十字架の犠牲の尊さを熱く長々と語りました。でも、そのときの信仰の友の不快そうな表情が今も忘れられません。それは僕が余りにも押し付けがましかったからでした。

救いは喜びとして伝わってゆくということを忘れてはなりません。そのように福音が広まる様子が、「地が芽を出し、園が蒔かれた種を芽ばえさせるように、神である主が義と賛美とを、すべての国の前に芽ばえさせるからだ」(61:11)と描かれます。

62章1節も油注がれた救い主のことばとして受け止めることができます。「シオンのために、わたしは黙っていない(働くことをやめない)。エルサレムのために、黙りこまない(休まない)」(62:1)と記されますが、そこに込められた意味の中心は、エルサレムの救いを全うするという断固たる意思ではないでしょうか。

そして、「そのとき、国々はあなたの義を見、すべての王があなたの栄光を見る。あなたは新しい名で呼ばれる。主(ヤハウェ)の口が名づけた名で」(62:2)とは、エルサレムが神の義と栄光を表わす都となり、それは「新しい名」で呼ばれるというのですが、それはバビロン捕囚の際に、「見捨てられている」とか、「荒れ果てている」と呼ばれたことの対照であり、その新しい名には、「わたしの喜びは、彼女にある」という意味が込められています(62:4)。

アブラハムもヤコブも、主によって新しい名を与えられました。私たちにも、「主(ヤハウェ)の口が名づける新しい名」があるのではないでしょうか。イエスが洗礼のときに、天の父なる神から、「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」(ルカ3:22)と言われたように、イエスの御霊を宿す私たちに対しても、「あなたの神はあなたを喜ぶ」(62:5)と言われます。私たちはもちろん、自分の罪深さを認めて、それに涙を流す必要がありますが、それと同時に、イエス・キリストによって与えられた新しいアイデンティティーを発見し、喜ぶべきでしょう。

「新しい名」とは、たとえば、「鈍感に対する敏感」「恩知らずに対する感謝の心」「自己中心に対する愛の人」などのように、自分の問題点を人間的な意味で逆転させるような努力目標ではありません。それは、神が一方的な恵みによって与えてくださった神による大逆転の新しい名です。

たとえば、私は、「不安と孤独」に動かされている自分を発見し、「愛と平安」に満たされる状態を憧れ、それを新しい名にいただきたいと思ったことがあります。しかし、それでは、今もなお、不安と孤独感に襲われる自分の気持ちとの戦いを強化し、自己嫌悪を増すということになりました。

しかし、このままの自分が神にとらえられ、支えられていると分かったとき、その葛藤から少しは自由にされたような気がします。そのような私にとっての新しい名とは、「抱擁されている者」とか「支えられている者」という名でした。

イエスはルカ6章20-26節にある「平地の説教」で不思議な逆転を語られました。この背後に今回のイザヤ書のみことばがあるのではないでしょうか。「イエスは目を上げて弟子たちを見つめながら」次のように言われました。

「貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものだから。/ いま飢えている者は幸いです。やがてあなたがたは満ち足りるから。/ いま泣く者は幸いです。やがてあなたがたは笑うから。/ 人の子のため、人々があなたがたを憎むとき・・・あなたがたは  幸いです。その日には 喜びなさい、おどり上がって喜びなさい。彼らの父祖たちも、預言者たちに同じことをしたのです」

それと同時に、イエスは続けて、「富む者」「食べ飽きている者」「笑う者」「ほめられている者」は「哀れ」だと語りました。なぜなら、彼らはこの世の幸せの中で神を求めていないからです。

受胎告知などの絵で有名な15世紀のフラ・アンジェリコは次のような詩を残しています。
「私達が試練、悲しみ、義務と呼ぶすべてのものは、そこに天使の手があり、贈り物があり、神の存在の神秘があるのだ。人間的な喜びそのものに満足してはならない。人生には多くの意味と目的が隠されていて、その包みの下に美しさが満ちていることを悟るとき、この世は天国を隠していると悟るだろう。あなたがたには勇気がある。あなたがたは、見知らぬ国を通って我が家に歩み進む巡礼者である。だから、勇気を持って人生に立ち向かいなさい。」

今もし、あなたが、何かの苦しみに会っているなら天使の手に触れるチャンスではないでしょうか。

しかも、主の大逆転の救いは既に始まっています。何と全宇宙の創造主がひ弱な赤ちゃんとなられました。私たちはこの無力な赤ちゃんに神のみわざを見るようにと召されています。この世で強い者が神の前には弱く、この世で誰よりも弱い者が神の救いのみわざを現すというのです。

それは単なる精神的な慰めではありません。世界は二千年前から神の救いの大逆転の中に足を踏み入れています。クリスマスは救い主の初臨を意味します。そして、そこには再臨の約束が伴っています。

それは、「神の復讐の日」であり、この世の不条理がなくなる日です。それはこの「天と地」が「新しい天と新しい地」こ変えられ、私たちが「主の手にある美しい冠」へと変えられる日です。