イザヤ62章4節〜63章17節「諦めることなく、主に訴える」

2010年12月12日

「あきらめ」には良い面と悪い面があります。これは、本来、「明きらむ」から生まれた言葉のようですが、そこには、「心を明るく楽しくする」という意味がありました。依存症の原因に、自分では変えようのない過去への後悔や恨みがあると言われますが、目の前の現実を明らかに見るときに、断念すべきことがわかります。

そして、そこから明るい心が生まれるということで、「あきらめ」に「思い切る」という意味が込められたようです。そして、諦めのうまい人は、日々の生活に喜びを見出すことができますから、多くの人は、「主にゆだねる」ということを「あきらめ」と同じような意味で使います。

しかし、聖書における「ゆだねる」ことの中心的な意味は、抱えている問題を主に祈るという主体的な行動です。私たちの人生には、決して諦めてはならないことがあります。そして主は、諦めずに、祈り続けることを求めておられます。諦めが早すぎる人は、自分の人生を開くことも、この世界をより良くするために貢献することもできません。聖書の信仰とは、どんな逆境の中でも諦めずに希望を持つことに結びついています。

日本では自分の希望を前面に出さないことがお行儀の良いこととされますが、日本のクリスチャンはしばしば、神の前でお行儀が良すぎて、聖書が勧める祈りの世界の豊かさを味わいきれていないのかもしれません。

1.「主に休みを与えてはならない」

イザヤ書61章1節の「主、ヤハウェの霊がわたしの上にある」以降の文章は、多くの場合、父なる神によって立てられた救い主、キリストご自身のことばとして理解できます。それは62章4節においても同じです。

キリストはエルサレムに対し、「あなたはもう、『見捨てられている』と言われず、その地はもう、『荒れ果てている』とは言われない。かえって、『わたしの喜びは彼女にある』と呼ばれる。あなたの地は『夫がある』と・・・。それは、主(ヤハウェ)の喜びがあなたにあり、あなたの地が夫を得るからである。」と言われます。それは、エルサレムがバビロン捕囚の際に、「見捨てられている」とか、「荒れ果てている」と呼ばれたことと対照的です。

それはたとえば、自分の欲望を抑えることができず、借金に借金を重ね、自己破産し、夫にも見捨てられ、ホームレスとなってしまったような人に対する語りかけです。自業自得で社会的に見捨てられたような人に向かって、主ご自身が、「わたしの喜びは、彼女にある」と言われました。それは、「わたしはあなたを妻に迎え、今までの借金を返済し、すべての必要を満たす」と言ってくださるようなものです。

使徒パウロは問題だらけのコリント教会の信徒たちに対し、「私はあなたがたを、清純な処女として、ひとりの人の花嫁に定め、キリストにささげることにした」(Ⅱコリント11:2)と言っています。私たちはイエスの父なる神を、「アバ、父」と呼ぶ特権が与えられたばかりか、キリストの花嫁ともされているのです。

6,7節は不思議な表現ですが、これは「あなたの城壁の上に、エルサレムよ、わたしは見張り人を置いた。昼の間も、夜の間も、彼らは決して黙っていることはない。主(ヤハウェ)に思い起こしていただく者たちよ。休んではならない。主に休みを与えてはならない。主がエルサレムを堅く立て、この地でエルサレムを栄誉とされるまでは」と訳すことができます。

見張り人は本来、敵の襲撃を告げ知らせる役割ですが、ここでは、主に必死に訴える働き手として描かれています。これは、王宮において家臣たちが、王に向かって、状況に左右されずに、王の最初の約束を政策として実行することを訴え続けるようなイメージとして記されています。キリストご自身が父なる神に訴え続ける者としての「見張り人を置いた」と言っておられるのです。

「主に休みを与えてはならない」とは不敬虔とも言える表現ですが、最近のほとんどの英語訳でも、「Give Him no rest until He establishes Jerusalem」と記されています。

ルカ18章でイエスは、「いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために」ご自分の弟子たちに「たとえを話され」ました。それは、「ある町に、神を恐れず、人を人とも思わない裁判官がいた。その町に、ひとりのやもめがいたが、彼のところにやって来ては、『私の相手をさばいて、私を守ってください』と言っていた。彼は、しばらくは取り合わないでいたが、後には心ひそかに『・・・どうも、このやもめは、うるさくてしかたがないからこの女のために裁判をしてやることにしよう・・・』と言った」というものです。

私たちは悩みを抱えたとき、身近な人に自分の不満を聞いてもらおうとはしても、「神を恐れず、人を人とも思わない」ような裁判官のような立場の人には近づきません。しかし、この「やもめ」は、この「裁判官」こそが、この問題にさばきをつけることができる立場にあることを見極め、何度拒絶されても訴え続けていたというのです。彼女は裁判官に休みを与えませんでした。その結果、この裁判官も重い腰を上げざるを得なくなります。

このたとえ話をもとに、主は、「不正な裁判官の言っていることを聞きなさい。まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。あなたがたに言いますが、神は、すみやかに彼らのために正しいさばきをしてくださいます」(6-8節)と言われました。

私たちもこの地に神の平和が実現するように、真に権威のある方に、恐れおののきつつ訴える必要があります。

主の祈りでは「御国が来ますように」と祈るように教えられています。これは、主のご支配が目に見える姿で実現することを被造物に過ぎない私たちが祈るという不思議で、この「見張り人」に課せられた使命と似ています。主はご自身の支配を完成するという救いのご計画の中に私たちの祈りの働きを参加させてくださっています。

そして、このように祈る者は、次第に、この世界を自分ひとりの観点ではなくて、主のご計画の観点から見ることができるように変えられてゆきます。

あなた個人にとっては都合悪く見えることでも、神の国の完成という観点から必要な働きがあります。自分の視点からしか神のみわざを見られないのは、神の民として未成熟と言わざるを得ません。

イエスの誕生のとき、救い主を待っていた「女預言者のアンナ」が登場します(ルカ2:36)。彼女は短い結婚生活の後「やもめ」となり、当時としては高齢の84歳になって、「宮を離れず、夜も昼も、断食と祈りをもって神に仕えて」いました。神殿の祭司たちが偽善と謀略の中に生きているのを見ながらも、ただ神に望みを抱き、神殿に留まって、ただ「神に仕え(礼拝し)」、神の正義、神の救いが実現するようにと必死に祈り続けていました。

それはイザヤが預言した「見張り人」の姿そのものでした。そして、その結果として、「エルサレムの贖いを待ち望んでいるすべての人々に」、この幼子の誕生の中に神の不思議な救いがあるということを告げることができました。

しばしば、大きな理想ばかりを掲げる人は、目の前に争いを引き起こし、かえって問題をこじらせてしまいます。エデンの園の外の世界では、ひとつの矛盾の解決は、次の矛盾を生み出すということを決して忘れてはなりません。大切なのは、人間的な解決を急ぐのではなく、神のさばきを待つという姿勢です。

もちろん、積極的に改革のために立つべき時がありますが、それは「神に仕える(祈る)」という日常生活を基本として起こるべきことです。

2.「見よ。あなたの救いが来る・・・復讐の日が・・・」

主がご自身の「右の手と、力強い腕によって誓われた」ことの内容が、「わたしは再びあなたの穀物を、敵に食物として与えはしない。あなたが労苦した新しいぶどう酒を、外国人が飲むことはない。取り入れをした者がそれを食べて、主(ヤハウェ)をほめたたえ、ぶどうを取り集めた者が、わたしの聖所の庭で、それを飲む」(62:8、9)と描かれます。これは一言で、自分たちの労苦が無駄にならない世界を神ご自身が実現してくださるという約束です。

これはその逆の悲惨がバビロン捕囚の際に起きることを前提に記されていますが、それはあらかじめ神が申命記28章で警告していたことであり、同時に、申命記30章では神ご自身の主導によって祝福が回復されると記されていました。それこそ、新しいエルサレムで実現する祝福です。私たちにはその永遠の都の市民権が与えられています。

それを前提に使徒パウロは、「堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあって無駄ではないことを知っているのですから」(Ⅰコリント15:58)と言いました。

そして、「シオンの娘に言え。『見よ。あなたの救いが来る。見よ。その報いは主とともにあり、その報酬は主の前にある』と」(62:11)という呼びかけが主からなされます。そして、イエスのエルサレム入城は、「救い」が文字通り「シオンに来た」ことを表すものでした(マタイ21:5)。そして、主は私たちの労苦に正当に報いてくださいます。

63章では先の59章17節の「復讐の衣を着て・・」のみことばの意味がより具体的に描かれています。「エドムから来るこの者はだれか。ボツラから深紅の衣を着て・・・」とは、主(ヤハウェ)が遣わす救い主が、イスラエルに敵対し続けるエサウの子孫のエドムとその首都ボツラをさばいて来たという記述です。

そして、「なぜ、あなたの装束は赤く、その衣は酒ぶねを踏む者のようなのか」(63:2)という問いに対して、「わたしはひとりで酒ぶねを踏んだ・・・わたしは怒って彼らを踏み・・・それで、彼らの血のしたたりがこの衣にふりかかり、わたしの装束を、すっかり汚してしまった。それは復讐の日がこの心のうちにあり、わたしの贖いの年が来たからだ」(63:3,4)と残酷な表現があります。

これは、主ご自身がイスラエルの味方となり、その敵を滅ぼしてくださるということを意味します。

そして、「見回しても、助ける者はだれもいない。支える者がだれもいないことに、わたしは驚いた。それで、わたしの腕がわたしのために救いをもたらしわたしの憤り、それがわたしを支えた。わたしは怒って、民たちを踏みつけ、わたしの憤りをもって彼らを酔わせ、彼らの血のしたたりを地に流した」(63:5,6)とありますが、これは59章16節の「ご自分の御腕で救いをもたらし、その義をご自分のささえとされた」を、特に主の復讐と言う面に焦点を当てて再度記したものです。つまり、神の民の救いとその敵の滅亡はセットになっているということです。

イエス・キリストは二千年前、ひ弱な赤子として生まれ、私たちとまったく同じ人間となり、私たちすべての罪を負って十字架にかかられました。そして、主の復活と昇天は、主が再びこの世界に来られることのしるしでした。黙示録6章9-11節には、主への信仰のゆえに殺されたたましいが主の祭壇の下で、大声で叫びながら、「聖なる真実な主よ。いつまでさばきを行わず、地に住む者に私たちの血の復讐をなさらないのですか」と訴える場面が描かれています。それに答えるのが主の再臨であると記されています。

そして、それは私たちに愛する力を与えるためのものでもあります。パウロは、「自分で復讐してはなりません。神の怒りに任せなさい」と言い、それを前提として、「もしあなたの敵が飢えたら・・食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい」と勧めました(ローマ12:19,20)。

つまり、神のさばきを信じることと、敵を愛することは矛盾することではなく、かえって、さばきを主にゆだねているからこそ、敵を愛するという行動を取ることができるというのです。

私たちは、「こんなことを許していては、悪人がつけあがるだけだ・・」と思い、自分が必殺仕置き人にでもなって悪人をさばかなければというような思いになることがあります。しかし、そんな先走りは必要ないのです。

3.「私へのたぎる思いとあわれみを、あなたは抑えておられるのですか」

63章7節は、「主(ヤハウェ)の恵み(ヘセッド)を私は思い起こそう」から始まっており、節の始まりと終わりがともに、「恵み(ヘセッド)」ということばが記されています。それは、主(ヤハウェ)がイスラエルの家と結んでくださった契約への真実さを強調するためです。

その「恵み」は同時に「主(ヤハウェ)への賛美」と言い換えられます。そして、どのように「思い起こす」のかという説明が、「主(ヤハウェ)が私たちに報いてくださったすべてのこと、すなわち、イスラエルの家への豊かないつくしみ(良いこと)に従って」と描かれます。

そして、改めて、「主が報いてくださった」と言われながら、その動機が、主の「あわれみ(ラハム)」と、「主の恵み(ヘセッド)」であると説明されます。

そして、8節の、「主は仰せられた」ということばから、主のみこころが美しくが描かれます。その最初は、「まことに彼らはわたしの民、偽りのない子たちだ」という語りかけです。それこそ「主(ヤハウェ)の恵み(ヘセッド)」の動機であり、放蕩三昧をして落ちぶれて帰って来た息子を迎える父の気持ちです。

そして、「こうして、主は彼らの救い主になられた」という表現と共に、まず、「彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、主の御顔の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって、主が彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた」(63:9)という主の「愛とあわれみ」が描かれます。

ここで「主の御顔の使い」とあるのは、単にご自分の代理としての御使いを送ったというのではなく、主がご自身のあわれみの御顔を向けておられるという意味です。しかも、主は、私たちの痛みを上から見下ろしておられる方ではなく、ともに「苦しみ」、また、「背負い、抱いて」来られた方だというのです。

今から約三十年前、フィリップ・ヤンシーという米国のジャーナリストを有名にした本があります。そのタイトルは、「Where is God when it hurts」(痛むとき神はどこにおられるのか)でした。それは誰もが避けたいと願う「痛み」に創造的な価値があるということを解き明かした本として米国で絶賛されました。しかし、それは別に目新しい教えではなく、今から二千七百年前に、神がイザヤを通して語っていたことでした。

イスラエルの民は、自分たちの痛みを通して、「彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ・・・彼らを背負い、抱いて来られた」という霊的現実を体験できたのです。神を遠く感じるとき、神は私たちの最も身近におられるという逆説があるのです。

なお、イスラエルの民がシナイの荒野において金の子牛を作って拝んだ時、主(ヤハウェ)は、「わたしは、あなたがたの中にあっては上らない」と仰せられましたが、それに対しモーセは、「もし、あなたご自身がいっしょにおいでにならないなら、私たちをここから上らせないでください」と食い下がりその結果として、主ご自身が彼らの真ん中に住み、彼らを約束の地に導かれたと描かれています(出エジ33:2,3,15)。

つまり、主は御使いをイスラエルに遣わしたのではなく、民の反抗に耐えながら、ご自身が彼らの真ん中に住んで、彼らを救い出されたのです。

ところがそれにも関わらず、主の民は「逆らい、主の聖なる御霊を痛ませた」ので、「主は彼らの敵となり、みずから彼らと戦われた」(63:10)というのです。これは、イスラエルの民のバビロン捕囚に至るまでの神のさばきの全体を表わしたものだと思われます。

その過程で、主は、敢えて異教の国々を動かし、イスラエル攻撃に仕向けられました。約束の地に至る過程では、主はイスラエル側に立たれて外国と戦っておられましたが、約束に地に入ってから、特にダビデ以降の時代は、神は外国の国々を用いてイスラエルを懲らしめられました。それは、まるでイスラエルの神、主(ヤハウェ)が外国人の味方となり、イスラエルの敵となられたような印象を与えます。

そして、このような中で、「そのとき彼は思い起こした。モーセと彼の民のいにしえの日々を」と記されます。「彼」とはイスラエルだと思われ、現在の悲惨な状況との対比で、「その群れを牧者たちと共に海から上らせた方は、どこにおられるのか。その中に主の聖なる御霊を置かれた方は、どこにおられるのか」(63:11、12)と繰り返し尋ねます。それは、今のイスラエルにはモーセのような牧者もいなく、主が彼らの間から離れ、主の神殿も破壊されていたからです。

そして、彼は昔の出エジプトの際の主のみわざを、「その方は、美しい御腕をモーセの右に進ませ、彼らの前で水を分け、永遠の名を成し、荒野の中を行く馬のように、つまずくことなく彼らに深みの底を歩ませた」と思い起こし、それをまとめて「家畜が谷に下るように、主(ヤハウェ)の御霊が彼らをいこわせた」(63:14)と結論付けます。

なお、ここで、主のみわざが何よりも、主ご自身が彼らの真ん中に「聖なる御霊」を置かれ、「主(ヤハウェ)の御霊が彼らを憩わせた」という聖霊のみわざとして描かれています。これは旧約では極めて珍しい記述です。

なお、パウロは反抗的なコリントの教会に向かって、「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることをあなた方は知らないのですか」(Ⅰコリント3:16)と語りましたが、今、主ご自身が私たちの交わりのただなかに住んでおられ、私たちを新しい天と新しい地、新しいエルサレムへと導いておられます。私たちは聖霊が宿っているという教会の交わりを軽蔑して約束の地に達する事はできません。

その上で、イザヤは、「どうか、天から見おろし、聖なる美しい御住まいからご覧ください。あなたの熱心と御力はどこにあるのでしょう。私へのたぎる思いとあわれみを、あなたは押さえておられるのですか」(63:15)と、主ご自身が「たぎる思いとあわれみを」、今、敢えて、「押さえておられる」と表現します。

それは、イスラエルの悲惨が、主の無力さのあらわれではなく、主ご自身のみわざによるものであり、主のみこころひとつで、すべてが変わるという希望を示すためです。「たぎる思いとあわれみ」と同じことばを用いながらエレミヤ書で主は、「わたしのはらわたは彼のためにわななき、わたしは彼をあわれまずにはいられない」(31:20)と言っておられます。

さらにイザヤは、「まことに、あなたは、私たちの父です。たとい、アブラハムが私たちを知らず、イスラエルが私たちを認めなくても、あなたは、主(ヤハウェ)よ、私たちの父です」(63:16)と告白します。旧約において主(ヤハウェ)を「父」と呼ぶのは珍しいことです。

後にパウロはこの箇所における「御霊」また「父)」という表現を用いて、「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を恐怖に陥れるような奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、『アバ、父』と呼びます」(ローマ8:14,15)と記しています。

その上でイザヤは、イスラエルの不信仰が主ご自身に由来するものであるかのように、「なぜ、主(ヤハウェ)よ、あなたの道から迷い出させ、私たちの心をかたくなにして、あなたを恐れないようにされるのですか。どうかお帰りください」(63:17)と訴えます。つまり、イスラエルの不信仰は、主が彼らからご自身の御顔を隠し、彼らの間に住まわれなくなったことの結果でもあるというのです。

私たちは自分の不信仰のゆえに様々な悲惨を招きますが、自己嫌悪に陥る代わりに、自分たちの不信仰は、主にも責任があるかのように大胆に訴えることができるなら、もっと気が楽になるのではないでしょうか。私たちはこのように、自分の不信仰を責める代わりに、「主よ、私を変えてください」と祈るべきなのです。

そして、主はそのように祈る私たちのために、創造主ご自身である御霊を遣わしてくださいました。私たちが御霊に心を開くなら、御霊ご自身が私たちを内側から造り変え、私たちの信仰を成長させてくださいます。そして、私たちが神との交わりを深めた結果として、神の平和の器として用いていただけます。

12月8日は、中高年の人にとっては、太平洋戦争の始まった真珠湾攻撃の日としてよりは、ビートルズの元リーダー、ジョン・レノンの命日として記憶されているようです。彼は、昔は反キリスト者と見られていましたが、今や、平和への夢を語り続け、歌った人として評価されています。

それに比べて、福音的なクリスチャンは、しばしば、いたるところで争いを引き起こす人と見られています。どうしてこんなことになってしまったのでしょう。それは主の救いを待つ代わりに、自分が動き出し、また、主に祈り続ける前に、人を説得することばばかりを発するからではないでしょうか。

私たちはどれだけ心を込めて、「御国が来ますように(神のご支配が現れますように)」と祈っているでしょうか。主ご自身が教えてくださった祈りを忘れて、動き出してはなりません。

それにしても、世界の創造主は、この世の不条理を力で正そうとする前に、ご自身が不当な苦しみを引き受けることができるためにひ弱な人間の姿となってくださいました。それは、この不条理な世界のただ中において、私たちの祈りを導くためではないでしょうか。私たちの周りに神の平和が少しでも広がるように、諦めずに祈り続ける者とさせていただきましょう。