ヘブル10章32節〜11章13節「待ち望みつつ、今を生きる」

2010年11月28日

北朝鮮が韓国の島の民家を攻撃したことで、戦争は起きないはずだという信仰?が揺るがされています。しかし、戦争が起きないと思うのは希望的観測であって信仰とは無関係です。それどころか、聖書は終わりのときが近づくに連れて世界に争いが広がるとさえ語っています。

もしある人が、「信仰をもって傘を持たずに出かけよう」と言って雨でずぶぬれになったとしたら、そんな風に「信仰」ということばを使うのは愚かだと誰もがわかります。ところが、意外に、信仰という名のもとに楽観的な見方が正当化されてはいないでしょうか。

しかし、信仰ということばは、常に神の約束に結びついています。神の明確な約束のないところに聖書の「信仰」という概念は生まれません。

そして、信仰の核心とは、神の約束の実現を「待ち望む」ことです。しかし、多くの人にとって最大のストレスは待たされることです。待たされると不安が募ります。その不安定な状況を打開し、自分で積極的に状況を支配しようと戦いを始めることがあります。

今日からアドベントですが、それは救い主の到来を昔の人々が「待っていた」ということを思い起こすときです。私たちは今、「待ち望む」ということに込められた創造的な意味を思い起こすべきではないでしょうか。その中で、神のみわざが私たちのうちに現され、今を喜ぶ平和な生き方が生まれるからです。

1.「苦難に会いながら激しい戦いに耐えた」

ヘブル人への手紙は、ユダヤ人クリスチャンに向けて記されています。イエスはユダヤ人から偽預言者と断罪されて十字架にかけられました。イエスの弟子となるということは、ユダヤ人にとっては異端の教えに従う者となることを意味しました。そのような中で、ユダヤ人クリスチャンは誰よりも同胞のユダヤ人から激しく迫害されていました。そして、彼らの中には苦しみに耐えられなくなってもとの信仰生活に戻ろうとする者が出てきました。

著者はそのように忍耐が限界になりそうな人に向かって、「あなたがたは、光に照らされて後、苦難に会いながら激しい戦いに耐えた初めのころを、思い起こしなさい」(10:32) と、回心直後の忍耐を思い起こすように勧めています。「耐える」ということばは「忍耐」と同じことばです。そして、「忍耐」とは不安定な中に身を置き続けることを意味します。

そして、その当時の信仰者たちが置かれた状況が、「人々の目の前で、そしりと苦しみとを受けた者もあれば、このようなめにあった人々の仲間になった者もありました。あなたがたは、捕らえられている人々を思いやり、また、もっとすぐれた、いつまでも残る財産を持っていることを知っていたので、自分の財産が奪われても、喜んで忍びました」(10:33、34) と描かれています。

彼らは様々な迫害を受ける中で、互いの間の愛を成長させることができました。そればかりか、「財産が奪われても、喜んで忍ぶ(受け止める)」ことができたというのです。

イエスの時代には、ローマ軍を力で打ち滅ぼして「神の国」を実現しようという運動が盛んで、この手紙が記された頃には、ユダヤ人の過激派の武力闘争が最盛期を迎え、その攻撃の矛先がクリスチャンにも向けられました。そのような中で彼らは、イエスのことばを思い起こしていました。

それは、「悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬をも向けなさい。あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着をもやりなさい」(マタイ5:39、40) というものです。

それは非暴力、無抵抗の教えというよりも、神ご自身が「神の国」をもたらしてくださる、そのときを「待ち望み」ながら生きることの勧めでした。事実、彼らが自分の財産が奪われることすら喜んで受け止められたのは、「もっとすぐれた、いつまでも残る財産を持っていることを知っていたので」と説明されています。これこそが信仰の核心と言えましょう。彼らは目の前に神の豊かな報酬を見ていたからこそ、苦しみを受け止めることができたのです。これはたとえば、豪勢な夕食を前に、空腹を我慢することに似ています。

「信仰」とは、不条理のただ中でも、霊の目をもって神の約束が実現しつつあるということを「見る」ことです。

私たちがいつも、自分の身を守ることに夢中になり、ときには過剰防衛さえしてしまうのは、将来への不安があるからです。神が私たちのために祝福に満ちた世界を用意しておられるという確信が強くなればなるほど、苦しみに耐える力が生まれてくるのです。不安に耐えられるなら、世の中から戦いは格段に減ることでしょう。

それを前提に、「ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです」(10:35) と記されます。これは、キリストのために不当な苦しみを耐え忍ぶなら、そこには豊かな報いがあるという確信にとどまり続けるようにという勧めです。

ただし、天での報いを待ち望みながら、この地上の苦しみに耐え続けるということは容易ではありません。とくに昨今は、「待つ」ということが非常に難しくなっている時代です。私も待たされるというのは好きではありません。そして、世の中も、待たせないということを何よりも大切にしています。私たちは、「待つ」ことができないように馴らされてしまっているのかもしれません。それこそサタンの誘惑ではないでしょうか。サタンは今、待つことができない人間を作ることに大きな精力を費やしています。

しかし、今朝、信号待ちをしながら、これは神様に向かってお祈りできる恵みのときに変えられるのではないかと思わされました。

2.忍耐がもたらす救い

そのような中で、私たちの信仰生活にとって何よりも大切なことばが、「あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です」(10:36) と記されます。これこそこの書の中心的な勧めではないでしょうか。ただし、そこには、神のみこころを行っていても、すぐに報酬が与えられるわけではないという前提があります。

「忍耐」とは、もともと軍隊用語だったようで、敵の最前線に留まり続けるというようなニュアンスで使われたと思われます。この反対の意味が、38節に記されている「恐れ退く」ことです。たとえば、最前線の砦に立てこもった軍隊は、援軍の到着を今か今かと待っています。しかし、前線から退却してしまえば今までの苦労が一瞬のうちに水の泡になります。援軍の約束を待ちながら、前線に留まるのには何よりも「忍耐」が問われています。

そして、10章37、38節では、ハバクク書2章4節の有名なことばが自由に引用され、「もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。おそくなることはない。わたしの義人は信仰によって生きる。もし、恐れ退くなら、わたしのこころは彼を喜ばない」と記されます。

なお、「義人は信仰によって生きる」とは、パウロが、ローマ人への手紙1章17節、またガラテヤ人への手紙3章11節でも引用している福音の核心です。しかも、「生きる」とは生き方の問題ではなく、「滅びる」こととの対比で、「救われる」ことと同じ意味を示します。

そのことが続く39節では、「私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です」(10:39) と改めて強調されます。38、39節では、「信仰によって生きる」「恐れ退く」「恐れ退いて滅びる」「信じていのちを保つ」という交叉法の表現が用いられています。

ヘブル書の著者にしてもパウロにしても、なぜハバクク書をわざわざ引用したのでしょう。ハバククはユダ王国で最も尊敬されたヨシヤ王の時代に活躍した預言者だと思われます。ヨシヤのもとでユダの民は偶像礼拝を捨て神に立ち返りました。ただ、そのような中で、多くの偽預言者楽観的な希望的観測ばかりを語るようになりました。しかし、イスラエルの罪はそれまで積もりに積もり、一時的な悔い改めでは神の怒りは静まらないところにまで来ていました。そしてハバククには、エルサレムに対する神のさばきは避けることができないと示されていました。

彼は、そのことを深く悲しみながら、この書の冒頭で、「主 (ヤハウェ) よ。私が助けを求めて叫んでいますのに、あなたはいつまでも聞いてくださらないのですか……なぜ、あなたは私に、わざわいを見させ、労苦をながめておられるのですか……」(1:2、3) と述べています。

しかし、そのような訴えの中で、神は「終わりの日の幻」を彼に与えてくださいました。ただそれは、神がまずバビロンを用いてイスラエルの民の不信仰をさばき、その上で、また自分の力を誇っているバビロンを初めとする国々をさばくという、期待はずれの遠回りな救いのご計画でした。

これはたとえば、今から七十年近く前に、「大日本帝国が敗北して初めて、新しい日本が生まれる……」と語るようなものです。さしあたりは理解してもらえません。しかし、実際に悲劇が起きたときに、そのことばが生きて、人々に勇気を与えます。

つまり、神は預言者ハバククを通して、今、エルサレムが滅びようとしているけれども、その苦しみを通して神の民は生まれ変わることができるという希望を語ったのです。それは、目に見える状況は、イスラエルの神が何もできないかのような現実を表しているけれども、それでも神の真実は変わることがなく、神はご自身に信頼する者を、わざわいの中で守り通し、救い出してくださるという希望です。

「信仰によって生きる」の「信仰」とは、「真実」とも訳すことができます。ヘブル語では、「アーメン」と同じ語源のことばです。私たちがお祈りの後に、「アーメン」と入れるのは、「本当にこのとおりです」「この祈りは私たちの真実からのことばです」という意味がこめられています。

聖書のテーマは、「神の真実」です。目の前にどれほどの苦しみや不条理があっても、神の真実は変わることがありません。神は必ず、神に頼る者を救い出してくださいます。その「神の真実」は、しばしば、悲劇を通して明らかにされます。また、何度も死に目にあいながら、生かされているということを通して現されます。

その意味で、ひとりひとりが、人生のどこかでそのような神の真実を体験させていただいているのではないでしょうか。そして自分の人生に現された神の真実の原点に立ち返ることから、あきらめそうになったときの「忍耐」が生まれます。

私は以下のような話しを母から聞かされ続けてきました。私は1953年3月に北海道の大雪山のふもとで生まれました。大変な難産で、自宅で僕を産んだ母は、大量の出血を助産師さんに雪で止血してもらいながら、死にかけたとのことです。

どうにか命を取り留めた母は、休む間もなく農作業に出ました。ひとり家に置かれた幼児の僕は、泣くばかりでした。あるとき、声がしないと思ったら、おくるみで鼻と口が塞がり、窒息しかけていました。それで、一歳を過ぎた後の田植えの時期には、父が持ち運びできる小さな屋台を作ってその中に寝せ、あぜ道に置きながら父母は農作業をしていました。ところが、僕は風邪をひいて四十度以上の高熱が続き、喉の奥全体を腫らし、ついには呼吸困難に陥りました。

どうにか、30㎞あまりも離れた旭川の市立病院にバスを乗り継いで運ばれました。幸いその分野では北海道一と言われる院長先生に診てもらえましたが、「あきらめてください」と言われるほどの重症でした。

しかし、懇願する母の願いで荒療治が行われました。三人の医者と、何人かの看護師の方のもとで、一歳の僕は逆さにされ、喉が何度にも分けて切開されました。そのたびに大量の血が流れ、脈がストップしたとのことです。しかし、そのたびに母が抱くと、心臓が再び鼓動を始めました。それが何度も繰り返され、命を取り留めたとのことです。

その後も、何度も、死ぬ寸前の危険に会いました。そのため発育が極端に遅れ、小学校に入った頃は、三月生まれだったことも相まって、運動も勉強でも「落ちこぼれ」という状態でした。

幼児期の苦しみは、心にもマイナスの陰を落します。また、発育の遅れは、強い劣等感の原因になりました。僕の記憶にかすかに残っているのは、ひとり泣きじゃくる自分の姿です。その後も、何をやっても遅れを取る落ちこぼれ意識を培ってきました。どうにか小学校高学年からめきめきと成績が良くなりましたが、幼児期の心の傷は、僕の心に暗い影を落し続けていました。

社会的には成功を収めているかのように見える中でも、いつも心の中には漠然とした不安が巣食っていました。イエスを救い主として信じた後も、「信仰によって不安を克服しよう!」などと思い、かえって自分の不信仰に悩まされてきました。

しかし、あるときから、自分の不安定さの原因をさかのぼるよりも、神がそのような苦しみのただ中で現していてくださった「真実」を見るようにと目が開かれました。苦しんだと同じ分だけ神によって守れていたのです。それは、苦しんだと同じ分だけ「忍耐」が養われたとも言えます。

このヘブル書では、「信仰」とは、不動の心を持つというようなことではなく、何よりも「忍耐する」こととして描かれています。そして、不信仰とは、心が揺れることではなく、「恐れ退く」こととして描かれています。

私は結構、怖がりなところがあります。しかし、怖がりは不信仰ではありません。不信仰とは、目の前の危険を見て、持ち場を放棄して退くことを意味します。

怖がりながら、「神様、助けてください!」と叫びながら、逃げずに留まるという姿こそ、信仰の本質です。私は自分の心の不安定さをもてあます事があります。しかし、神は、「不安」と「忍耐」をセットに与えていてくださいました。あなたの人生にも同じような恵みがあるのではないでしょうか。

3.「はるかにそれを見て喜び迎え」

11章1節では「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです」と記されています。これは、「信仰は望んでいることの実体であり、目に見えない事実の証明である」とも訳すことができます。

「信仰」とは、自分の夢が実現すると信じ込むということや、目に見える事実を無視して、向こう見ずな冒険をできるというようなことではありません。それは、目に見える現実が、神の約束とあまりにも異なるように見える中でなお、神の約束が実現することを待ち望むことができる力です。

また、目に見える悲惨な現実の背後に「神の真実」を認めることができることです。そして、著者は、まず最初に、12節まで「信仰によって」ということばを七回繰り返しながら、信仰が「昔の人々」(11:2) の人生にどのように働き、「称賛され」たかを記して行きます。

第一は、「信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟る」と描かれます。たとえば、科学は目に見えるものの成り立ちを分析することですが、この世界がなぜ存在し、どのような方向に向かっているかを説明することはできません。

小惑星探査機「はやぶさ」が小惑星イトカワから宇宙のちりのようなものを採取してきました。それは人間の身体を構成する原子と何らかの関連があることでしょう。しかし、それで人間の心やたましいが分析されるということはありません。人間が単なる宇宙のちりに過ぎなかったら、人を殺すことに躊躇する必要はないという結論だって導きえるのです。

ですから、20世紀最高の科学者と称されるアインシュタインは、「宗教のない科学は凶器であり、科学のない宗教は盲信である」と語りました。信仰とは目に見える現実の背後にある霊的現実を見ることなのです。

第二に、「信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげた」(11:4) と言われます。「信仰」は、「真実」と訳すこともできますが、神は、目に見えるささげ物の背後にあるアベルの真実を喜ばれたのです。カインの不真実はその後の行動に現れています。信仰とは、神の真実に対する私たちの真実な応答です。

第三に、「信仰によって、エノクは死を見ることのないように移されました」(11:5) とありますが、このエノクがそのような特別な恵みを受けることができたのは、「神に喜ばれている」ことの結果であったと説明されています。

そしてその上で、「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです」(11:6) という信仰生活の核心が描かれます。

「信仰」とは神に向かって祈ることです。パリサイ人は自分の立派さを神にアピールしましたが、取税人や遊女ややもめたちは、神に必死にすがりました。そしてイエスはそのような信仰を称賛されました。

立派な行いができることよりも、自分は神のあわれみなしには生きることができないことを認め、神にすがることこそ信仰の本質です。

第四に、「信仰によって、ノアは、まだ見ていない事がらについて神から警告を受けたとき、恐れかしこんで、その家族の救いのために箱舟を造り……」(11:7) とあるように、信仰とは神のさばきを真剣に受け止めることです。

第五に、「信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました」(11:8) とありますが、信仰とは、神の約束を信じて、目の前に開かれている道を一歩一歩進むことです。

アブラハムは神が示してくださった約束の地があることは知っていましたが、その地でどのような生活をすることになるのかなどという事前情報を知らずに歩み出しました。私たちも自分の人生がこれからどうなるかを知らないまま、神が最善に導いてくださるという約束にすがって歩むのです。

第六に、「信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに相続するイサクやヤコブとともに天幕生活をしました。彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し建設されたのは神です」(11:9、10) とありますが、信仰とは、目に見える現実が自分の期待したものと違うような中にあっても、この肉体的ないのちを越えた神の約束を信じて生きることです。

この地上の生活がすべてだとしたなら、目に見える土地の所有に縛られ、土地を奪い取るための戦いをしなければならなくなります。

第七に、「信仰によって、サラも、すでにその年を過ぎた身であるのに、子を宿す力を与えられました。彼女は約束してくださった方を真実な方と考えたからです」(11:11) と記されますが、この「真実な方」の「真実」とは「信仰」と同じ語根のことばで、サラの信仰とは神が真実だと思ったことです。不信仰とは、神の真実を疑うことです。

サラの信仰は確かに報われ、「死んだも同様のアブラハムから、天の星のように、また海べの数えきれない砂のように数多い子孫が生まれ」(11:12) ることになりました。

ただし、彼女はこの地上では、たったひとりのイサクしか産むことしかできませんでした。しかし、彼女の信仰は、後の世代を作り出しました。信仰は世代を超えて働きます。

そして、最後に、これらをまとめるようにして、「これらの人々はみな、信仰の人として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです」(11:13) と描かれます。

ここで「はるかにそれを見て喜び迎え」ということばは、最初の、「信仰は望んでいることの実体であり、目に見えない事実の証明である」ということばに結びつきます。

そして、その結果として、「地上では旅人であり寄留者であることを告白」するという生き方ができます。それは地上での目に見える結果に固執しない生き方です。地上的な報酬がなくても、ひとときひとときを誠実に生きる力です。

信仰とは、多くの人々が思うように、期待通りに物事が進むという確信ではなく、不条理に満ちた目に見える現実に振り回されることなく、神の真実に信頼して、神の真実に応答して生きる私たちの真実なのです。

「信仰」ということばは、しばしば、「真実」と訳し変えたほうが良いかもしれません。それは神の真実から生まれるものです。

私たちは、「神がおられるならどうしてこんな悲惨が……」と思うことがありますが、神の御子がわざわざ人生の悲惨と不条理とを身をもって味わうために人となってくださいました。救い主はこの世の不条理を正す前に、不条理をその身に背負い、自ら十字架にかかって死なれたのです。

この不思議な恵みは、不条理のただ中に身を置きながら、神を「待ち望む」という中でこそ理解できるものです。それを通して私たちは自分の願望から自由になるように導かれます。すると、自分の願望を押しと通そうとして戦う必要がなくなります。そこに平和が生まれます。

そればかりか、日々の生活の中に、すでに神が与えてくださっている様々な恵みを天国の前味として発見することができるようになります。このように、「忍耐」して神の救いを「待ち望む」ことは、「今を生きる」ことでもあります。