イザヤ59章1節〜60章9節「世のやみの中で私の光を見る」

2010年11月21日

人はみな自分の努力が正当に報われることを心から願います。しかし、大学新卒者の就職内定率が五割という状況の中で、そのような成功志向が、ますます目先の損得勘定に敏感な品格のない人間を育てることになってはいないでしょうか。高度経済成長の時代は、努力がそれなりに報われたかもしれませんが、それは長い歴史の中ではほんの一瞬でした。

イスラエルの歴史においても、モーセ、ヨシュア、ダビデの時代が例外的に見えるほどです。それは今の日本と似ているのかもしれません。イザヤの預言は、そのような閉塞感の中で語られています。

ある牧師が、「人に勝つなどという小さな勝利に酔っているその浅ましさが、何か醜く感じられることがある。美しく生きるためには、どうしても勝てないものを相手に生きなければならない」と書いていました。「How to・・」を身につけても解決できない問題と取り組み続けることが、その人を、本当の意味で輝かせ、美しくするというのです。

私たちの信仰、それは自分の人生をコントロールできる手段ではなく、変えようのない現実を、神の御手にあって受け入れ、そこにおいて誠実に生きられるように、生かされるということではないでしょうか。

1.「主(ヤハウェ)の手が短くて救えないのではない・・・あなたがたの咎が、あなたがたと神との仕切りとなり」

59章1,2節は私たちにイエスの十字架の必要性を認識させてくれる中心聖句です。そこでは、「見よ。主(ヤハウェ)の手が短くて救えないのではない。その耳が重くて、聞こえないのではない。それは、あなたがたの咎が、あなたがたと神との仕切りとなり、その罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたからだ」と述べられます。

イエスが十字架で息絶えられたとき、「神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた」(マタイ27:51)と記されますが、その「幕」とは、聖なる神と罪人である私たちを隔てる「仕切り」でした。しかし、それがイエスの十字架によって取り払われ、今、「私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができる」(ヘブル10:19)のです。

私たちは今、イエスの御名によって、イエスの父なる神を、「アバ、父」と呼び、自分の祈りが天の父なる神に届いていることを確信することができます。それこそが私たちに与えられた救いの本質です。多くの人は、自分の祈りが願いどおりに叶わないことに不満を覚えますが、イエスの父に向かって、信頼を込めて、「お父様!」と呼びかけることができるということ自体が、私たちの世界観を変える出来事なのです。

先の57章18,19節の解説の際、神は深く悲しむ者たちに、くちびるの実である賛美の歌を与えることによって、平安を回復させてくださるという話をしました。讃美歌520番はスパフォードというシカゴの法律家の作詞によるものです。彼は家族とともにヨーロッパで休暇を過ごそうとして、奥さんと四人のお嬢さんをアーヴル号という大型客船で先に送りました。しかし、この船は鉄運搬船に衝突され12分間で沈み、226人の乗客が命を落としました。その中に四人のお嬢さんも含まれていました。

失意のため命を絶ちかねない奥さんを迎えに行くために彼は船に乗ります。そして、沈没した辺りを通り過ぎる中で、神からの深い慰めが彼の心の奥底に届き、この歌が生まれました。

私たちの人生には何が起こるかわかりません。しかし、どのような悲しみに会おうと、たとえ、この目に見える天と地が滅び去ると思えるような中でも、私たちのたましいは神の御手の中に守られ続けています。それは、十字架にかけられ、三日目によみがえられたイエス、その父なる神、全能の神が、あなたの父となってくださったからです。

2.「害毒をはらみ、不義を産む」

59章3-8節ではイスラエルの民の罪の現実が生々しく描かれます。4節最後の「害毒をはらみ、不義を産む」とは、母体の中で胎児が成長するように、心の中で害毒が育まれ、時が満ちて産み出され、人々に災いをもたらすという罪の成長の様子です。

5節の「まむしの卵を彼らはかえし、くもの巣を織る」とは、人に苦しみを与える毒蛇の世話をし、また人をわなにかける「くもの巣」を織り上げながら、当人自身が毒蛇によって死ぬばかりか、彼らが織り上げたくもの巣は、自分の身体には何の役にも立たないという皮肉な描写です。

7,8節では、罪の広がりの速さが、「彼らの足は悪に走り、無実の血を流すのに速い。彼らの思いは不義の思い。破壊と破滅がその大路にある。平和の道を彼らは知らず・・・」と描かれますが、これはローマ書3章15-17節で引用されます。

その結論が、「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスの贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです」(同3:23,24)と記されています。

私たちが自分の心を神のあわれみに対して閉ざし続けているときに、心の中で「害毒」が育まれます。それはまるで、「まむしの卵」を温めているようなものです。人への恨みに駆られることも、「くもの巣」を織り上げるようなもので、無益なことです。それは復讐の連鎖を引き起こすばかりです。

静かに船を走らせていてもぶつかってくる船があります。私たちは、そのような罪に満ちた世界で、どのように生きるべきかが問われているのです。

3.「真実は失われてしまった。悪から離れる者も、そのとりこになっている」

9-13節には、イスラエルの民を代表するように、預言者イザヤ自身の悔い改めが表現されます。そこでは、まず自分たちの悲惨が自業自得であるとの告白が、「それゆえ、さばきは私たちから遠ざかり、義は私たちに追いつかない」と記されます。

「さばき」とは、虐げる者たちに対するもので、私たちにとっては「救い」を意味しますが、それが「遠ざかり」、私たちを義とする神の恵みも追いつかないというのです。

そのような中で、「私たちは光を待ち望んだ。しかし、見よ、やみ。輝きを・・・。しかし、暗やみの中を歩む。盲人のように壁を手さぐりし、目のない者のように手さぐりする。真昼でも、たそがれ時のようにつまずく、強健な者の中にあって、死人のようだ」と描かれます。

これは申命記28章29節で警告されていたことで、そこでは、神の御教えを軽蔑する者に対して、「あなたは、盲人が暗やみで手さぐりするように、真昼に手さぐりするようになる。あなたは自分のやることで繁栄することがなく、いつまでもしいたげられ、略奪されるだけである。あなたを救う者はいない」と記されています。

その苦しみの様子がさらに11,12節では、「私たちはみな、熊のようにほえ、鳩のようにうめきにうめく。さばきを待ち望む。しかし、それはない。救いを・・・、しかし、それは遠く離れている」と描かれながら、その理由が、「それは、私たちのそむきが御前に数多くなり、その罪が私たちに不利な証言をするから」と記されています。

その上で、イザヤは12節の後半で、自分たちを支配している罪の現実を、「まことに、そのそむきは私たちとともにあり、自分の咎を私たちは知っている」と表現します。これは詩篇51篇3節に見られるダビデの告白につながる表現で、悔い改めの基本となる告白です。

そして13節では、「咎を私たちは知っている」という内容が、「そむきながら、主(ヤハウェ)を否み、私たちの神に従うことをやめ、しいたげと反逆とを語り、偽りのことばをはらみ、心からつぶやいているのを」と描かれます。

ここでも、4,5節にあった、「はらんで、産む」という描写を用いながら、「偽りのことばをはらみ」それを心に蓄え、それを口に出して「つぶやいている」というプロセスが描かれています。

私たちも神の真理のみことばの代わりに、たとえば、「力こそすべてだ。あわれみや誠実さなど役に立たない。人に利用されるだけだ。力がない者は、強い者に頼るしかない・・・」などという「偽りのことば」を心に蓄え、それを始終「つぶやいている」ということがないでしょうか。

武力とお金で動くこの世の論理に心と身体を任せ、静まって神を待ち望み、今ここで誠実を尽くすことを空虚な道徳のように受け止める誘惑に負けることがないでしょうか。

そして、そのような「偽りのことば」に身を任せた結果が、14、15節で、「こうして公正は退けられ、正義は遠く離れて立っている。それは、真実が広場でつまずき、正直は中に入ることもできないから。真実は失われてしまった。悪から離れる者も、そのとりこになっている」と描かれます。

最後のことばは衝撃的です。社会から「公正」や「正義」の基準が失われてしまうとき、せっかく自分の生き方を改めようとした人も、自分の「真実」が報われないのを見て、「正直者はバカを見る・・・」という気持ちになり、以前よりもますます堕落してしまうという悪循環です。

4.「主は・・・とりなす者のいないのに驚かれた・・・そこで、ご自分の御腕で救いをもたらし」

それに対し、15節後半から16節にかけて主の不思議な救いのご計画のことが、「主(ヤハウェ)はこれを見て、さばきのないのに心を痛められた。主は人のいないのを見、とりなす者のいないのに驚かれた。そこで、ご自分の御腕で救いをもたらし、その義を、ご自分のささえとされた」と、神ご自身の心の痛みとともに記されます。

神は民を救いたいと願っておられるのですが、彼らの中には、「真実」も「正義」も「正直」も見られなくなっており、悔い改めようにもその基準すら失われているのです。これはたとえば、最低限の衣食住を持つことができない家族の中に育った子供が、親から万引きやスリの仕方を教えられて、どうにか食べ物を得ているようなところに行って、上から目線で「万引きは犯罪です」と諭したところで意味がないようなものです。

同じように、罪の中に生きている人は、本当の意味で悔い改めることが困難になっています。残念ながら、不道徳な生き方にはそれなりの刺激と興奮があります。タバコを止めたいと思いながら止められないのと似ています。そのような中で、上から目線で「心から悔い改めたら、神はあなたを赦してくださいます」と杓子定規に言われても、かえって、「こんな私は救われようがない・・・」というあきらめか、その反対に、そのような弱い心を造った創造主への憎しみが生まれます。

「主は・・・とりなす者のいないのに驚かれた」とありますが、「とりなす」とは、イザヤ53章の「主のしもべの歌」の最後では、「彼は・・・そむいた人たちとともに数えられ・・・そむいた人たちのためにとりなしをする」と言われていたことばと同じです。

つまり、主は、上から罪人に悔い改めを迫る代わりに、罪人の仲間となる救い主を遣わそうとされたのです。そして、ここでは続けて、「そこで、ご自分の御腕で救いをもたらし」と描かれていますが、これは、悔い改めようともしない罪人を、神ご自身が一方的にあわれんでくださるという意味です。

そして今、私たちにとって、イエスこそが「主(ヤハウェ)の御腕」(イザヤ53:1、ヨハネ12:38)であり、「世の罪を取り除く神の小羊」です(ヨハネ1:29)。イエスはイスラエルの罪ばかりか、全人類のすべての罪をその身に負って、父なる神にとりなしをしてくださいました

私たちは十字架に、罪に対する神の怒りとさばきを見ると同時に、神がご自身の御子を犠牲にして私たちの罪をご自身の側から赦してくださろうとする、燃えるような愛を見ることができます。

なお、17節では、「主は義をよろいのように着て、救いのかぶとを頭にかぶり」(59:17)と描かれますが、これは主の御腕としての「救い主」の姿であると解釈できます。

なお、これをもとに私たちがイエスの代理としてサタンが活動する世に遣わされるときの姿も、「胸には正義の胸当てを着け・・・救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい」(エペソ6:14-17)と描かれています。

しかも、この方は、「復讐の衣を着て、ねたみを外套として身をおおわれた」とありますが、これはキリストが再びおいでになるときのさばき主の姿です。

その主の「さばき」のことが18節では、「彼らのしうちに応じて主は報いる。その仇には憤りを、その敵には報復を、島々にも報復をする」と記されますが、「報復」と「平和(シャローム)」ということばは同じヘブル語の語根から生まれています。

多くの人は、不当な扱いを受けるときに、「こんな不正をまかり通らせてはならない!」と怒り、また、不条理な悲惨が起こるときに、「神がおられるなら、なぜこのような悲惨が起こるのか・・・」とつぶやきますが、神の「報復」とはそのような不条理に正当な「さばき」をもたらし、真の「平和」を実現してくださるという創造的な意味があるのです。

その結果として、19節では、「そうして、西のほうでは主(ヤハウェ)の御名が、日の上るほうでは、主の栄光が恐れられる。それは、主が激しい流れのように来られ、その中で主(ヤハウェ)の息が吹きまくっているからだ」と描かれます。これは、主が長い眠りから覚めて、再びモーセやヨシュアの時代のような偉大な力を現されるという意味です。

多くの人は、神の沈黙に不審を抱きますが、主は、眠っておられたのではなく、世界の罪に対して、忍耐に忍耐を重ねておられたのです。しかし、主は必ず見える形でこの地に正義を実現してくださいます。

5.「これが、彼らと結ぶわたしの契約である」

その上で20節では突然、「しかし、シオンには贖い主として来られる。そむきから立ち返ったヤコブの中の者たちに」と述べられます。「シオン」とはエルサレム神殿の立てられていた丘ですが、キリスト者の共同体である教会こそが今、神の神殿です。イエスは私たちのための「贖い主」として来てくださったのです。

21節の始まりは原文で、「そして、わたしは」という不思議な書き出しになっています。その上で、「これが、彼らと結ぶわたしの契約である」と記されます。これは、主ご自身の主導によって「新しい契約」を神の民と結んでくださるという意味です。それが救い主イエスによって明らかにされました。

そのことが、「あなたの上にあるわたしの霊、あなたの口に置いたわたしのことばは、あなたの口から離れることはない、あなたの子孫の口からも、すえのすえの口からも、今よりとこしえに」と述べられます。

これは、新約の時代は、イエスの上に神の霊があり、またその口には神のことばがありましたが、それがイエスの子孫である私たちにも受け継がれていると解釈できます。

イエスの時代、聖書の教えは人々を矯正するための律法と捉えられていましたが、イエスはその誤解を正し、神の愛こそが核心であると言われました。

また、弟子たちはイエスの教えにさえ従うことができずに、一番弟子のペテロは三度もイエスを否認しましたが、イエスはそんな弟子たちにご自身の霊を与え、内側から造り替えてくださいました。神の御教えを守ることができない者を、守ることができるように変えるというのが新約の核心です。

多くの人は新約の福音を誤解しています。私たちは確かに、キリストの模範に習い、キリストと似た者になることを目指さなければなりませんが、その前提を忘れてはなりません。バプテスマとは、キリストにつぎあわされるというキリストとの結婚式のようなものです(ローマ6:3-5)。

私たちは既に、キリストと一体とされたのです。夫婦は一緒に暮らすうちに、「似たもの夫婦」へと成長します。また、夫婦は財産を共有しますが、私たちはキリストと結ばれたとき、そのすべての罪がキリストのものとされ、キリストのすべての聖さが、私たちのものとされました。その霊的な現実を、目に見えるように現すというのが、キリストに似た者にされるというプロセスです。

6.「あなたの光が来て、主(ヤハウェ)の栄光があなたの上に輝いている」

そして、60章1、2節で、「起きよ。光を放て。あなたの光が来て、主(ヤハウェ)の栄光があなたの上に輝いているからだ。見よ。やみが地をおおっている、暗やみが諸国の民を。しかし、あなたの上には主(ヤハェ)が輝き、その栄光があなたの上に現れる」と描かれます。

そして今、イエスは、「あなたの光」として世に来てくださいました。この世界は、今も「やみ」におおわれています。しかし、イエスはすでにこの世界を照らしています。やみが深く見えるのは、光が強いほど陰も濃くなるのと同じです。やみよりも、あなたの上に輝く「光」にこそ目を向けるべきです。

そして、さらに、イエスはひとりひとりの心を照らしていてくださいます。私たちはイエスを知る前は自分の心の闇に気づいてはいませんでしたが、主を深く知るにつれ、自分の中に住む罪の性質に唖然とするようになります。

自分の内側の汚れが照らし出されることを恐れる必要はありません。心のやみを隠すことこそが罪の始まりでした。そして、罪を照らし出す光は、同時に、罪によって病んでいるアダムの子孫をいやす光でもあるからです。

なお、3節は、「国々はあなたの光に向かって歩んで来る。王たちもその輝きの明るさに向かって」と訳すことができます。これは、やみの中に住む人々が、「あなたの光」に吸い寄せられるようにして近づいてくるという意味です。

伝道とは、相手の誤りを指摘し、救い主を信じるようにと「説得する」ことではありません。あなた自身がイエスにしっかりつながっているときに、周りの人々が、吸い寄せられてくるというプロセスです。証しという名のもとに人の評価を恐れる必要はありません。いつでもどこでも、イエスだけを見上げて生きればよいのです。

4節からは、やみの中に住む人々が、光に吸い寄せられてくる様子が、「目を上げて、あたりを見回せ。みなが集められ、あなたのところに来る・・・そのとき、あなたはこれを見て、晴れやかになり、心は震えて、喜ぶ。それは、海の富はあなたのところに移され、国々の財宝はあなたのもとに来るからだ・・・」と描かれています。

私たちは自分の無力さや貧しさに気を落とすことが多くありますが、世界中の富は、神のものです。私たちはそのすべての富を相続するのです。私たちが富を獲得しようとしなくても、富のほうが向こうからやってくるというのです。なお、イエスの誕生のとき、東方の博士たちが、黄金、乳香、没薬をささげたのは、この預言が成就しはじめたことのしるしです。そして、イエスの国は今も広がり続けています。

私たちは自分たちの教会堂の貧しさを嘆く必要はありません。「金は天下のまわりもの」と言われますが、お金自身が、魅力的な投資先を求めています。証券会社にいたとき、株式投資のもっとも大切な尺度は、会社の社風というような、数値化できない魅力にあると教わりました。教会堂建設に関しても、人間的な計画よりも、主の光を仰ぎ見ることを第一に考える必要があります。

なお、60章7節、9節の最後で、主は、「わたしの美しい家をわたしが美しくする」、また、「主があなたを美しくされたからである」と描かれています。私たちは霊的にはすでに主の「美しい家」ですが、それを目に見えるように「美しく」してくださるのも、私たちの努力というよりも、神の一方的なあわれみのみわざなのです。

私たちは知らないうちに、信仰の世界すら、努力と報酬の関係で見てしまいます。しかし、私たちは自分で自分を変えようとしても変えられないくらいに、罪の束縛の中に生きています。モーセやヨシュアの時代は、目に見える敵に勝利することで、神の栄光が現されました。

しかし、イザヤの時代は、アッシリヤやバビロン帝国という異教の国に敗北しながら、なおそこで、神の栄光を見るようにと導かれました。目に見える状況が人間的には暗闇のようでありながら、なお、そこで神の栄光を見るというのが今の時代に問われている生き方ではないでしょうか。

主は、とりなす者のいないのに驚かれ、ご自分の御腕で救いをもたらしてくださったのです。それこそイエス・キリストの救いです。私たちが自分で神の好意を勝ち取るのではなく、神が罪人の仲間になるまで降りてくださいました。「飼い葉おけの傍らに」(賛美歌107)というドイツの詩人ゲルハルトの名曲は、世界の創造主が、誰よりも貧しい姿で、しかも、卑しい罪人の仲間となるために世のやみの只中に下りてきてくださったことを黙想する曲です。