ルカ18章15〜30節「富と力の中にある罠」

2008年8月10日

イエスは山上の説教で、「だれもふたりの主人に仕えることはできません・・・あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません」と言われました(マタイ6:24)。ところが、このイエスのみことばほど理解し難い、腹に落ちにくいことばはありません。旧約聖書で意味する「祝福」とは、豊かさや力を持つこと、子どもが増えることを意味しまし、イエスの教えは、旧約聖書と矛盾するものではないはずだからです。お金も、地位も能力も大切です。今回の箇所の最後でもイエスはご自身に従う者への豊かな報酬を約束しておられます。イエスのお話は逆説的です。富も力も、手段に過ぎません。それを目的としてしまうとき、人生で最も大切なものを忘れるからでしょう。

1.「神の国は、このような者たちのものです」

「イエスにさわっていただこうとして、人々がその幼子たちを、みもとに連れて来た。ところが、弟子たちがそれを見てしかった」(18:15)とありますが、「幼子」とは「幼児」とも訳される言葉で、弟子たちが幼子を連れてきた人々を「しかった」ことにも一理あります。マタイの並行記事を見ると、イエスはこのときパリサイたちと、「結婚」に関する重要な議論をしていたからです(マタイ19:13)。しかも、幼子は、自分で来たのではなく、「人々がその幼子たちを・・連れて来た」のです。彼らはイエスに自分の子を祝福して欲しかったのでしょうが、場の空気を読んでいません。ところがマルコでは、イエスがこのときの弟子の対応に対して、「それをご覧になり、憤った」(10:14)とさえ記されています。イエスは、人々を「しかった」という弟子たちの対応に、「憤慨」されるほど、こころを痛められたのです。

そしてイエスは、ご自分の方から「幼子たちを呼び寄せ」、弟子たちに向かって、「子どもたちをわたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです」と言われました(16節)。「神の国」とは、神ご自身が「王」としてご自分の民を守ってくださるという当時の人々の憧れの世界です。ただ、当時の人々は、失われたダビデ王国の再興を願っており、そこに入れていただくためにはローマ帝国の支配に屈しない命がけの覚悟が必要だと思われていました。ところが、イエスは、自分の意思でイエスに近づこうとしたわけでもない幼子たちを指して、「神の国はこのような者たちのもの」と言われたのです。私たちの常識でも、「神の国は、信じる者だけが入ることができる」と言われます。ところがイエスは、「神の国」は、大人に連れられなければイエスに近づくことができないような「幼子」のためのものだと言われました。神の国は、自分の弱さを自覚せざるを得ない者たちのために開かれているのです。それは先のパリサイ人と取税人のたとえに通じます。

イエスは続いて、「まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません」(17節)と、何よりも、子どもの姿勢に習うようにと勧められました。子どもが大人に勝っている点は何でしょう?それは、与えられたものを素直に受け止めるということではないでしょうか。しかも、子どもは、どんな厳しい環境の中にも、喜びを発見する天才です。子どもは柔道でいう「受身」の天才かもしれません。信仰の醍醐味は、自分を受動的な者として神に積極的に差し出すという、「能動的受動性」にあります

ただ、これは知性や主体性を否定するような勧めとして誤解される可能性もあります。イエスは私たちに愚かで盲目になることを勧めておられるのでしょうか?パウロは後に、「知性」を用いて分かることばで教えることの大切さを強調しながら、「物の考え方において子どもであってはなりません。悪事においては幼子でありなさい。しかし、考え方においてはおとなになりなさい」と言いました(Ⅰコリント14:19,20)。しかも、イエスご自身が、何よりも「ことば」を大切にし、無学な群集の心に分かるように語っておられました。ですから、ここには当時の宗教指導者たちを意識した逆説が込められています。彼らは、聖書を良く学び、神学の議論がよくできましたが、「木を見て、森を見ず」のような状態の人で、聖書の中心テーマを誤解したばかりか、まったく逆のことを自分で教えていました。

私たちも、最も大切な真理は、「受け入れる」しかありません。どんなに科学が進歩しても、宇宙の誕生の瞬間を解明することはできません。科学かのように語られていることは、推測であって、証明できた真理ではありません。また、宇宙の創造主がどのような方であるのか人間の知恵で知ろうとすることは、「あり」が「象」を分析しようとするようなものです。ところが、しばしば世の宗教家は、自分が真理を会得したようなことを言って、三千年前から人々を導いてきた聖書の教えを否定さえします。たとえば、すべてのいのちに固有の価値があるという教えだって聖書以前にはなかった教えです。それはこの百年の日本の歴史を見れば分かることです。私自身、聖書が、誤りなき神のことばであると信じられない時期がありました。しかし、これは証明の対象とすべきことではなく、受け入れるべき前提であるということが分かったとき、深い感動を味わうことができるようになりました。しかも、それで科学を否定したり、この世の様々な学問的な発見に目をつぶる必要があるなどと思ったことは一度もありません。敢えていうと、私は科学の方法論に無知であったときに、聖書を信じることに躊躇を感じてしまったとさえ言えます。

2. ある役人が、「何をしたら、永遠のいのちを受け継ぐことができるか」と尋ねたことの矛盾

「ある役人が、イエスに質問して言った」(18節)とありますが、マタイは、この人は「青年」として描きますが、ルカは、社会的な立場により注目をします。これは厳密には、「ある指導者」と訳すべきで、若くしてユダヤ人議会(サンヘドリン)の「議員」に選ばれていたのだと思われます(新共同訳では「議員」と訳している)。まるで若い時のパウロのような立場でした。そして、この人は、「尊い先生。私は何をしたら、永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか」と尋ねました。「尊い」とは、本来、「良い」とか「立派な」というような広い意味のことばです。そして、質問の中心は、「永遠のいのち」を「受け継ぐ」ために「何をする」べきかというものです。「永遠のいのちを受け継ぐ」とは、「神の国に入る」(25節)ということとほとんど同じ意味です。彼はこの地上でも既に良い地位を勝ち得ていましたが、聖書に預言された「神の国」に入れていただけるという「救いの確信」がなかったのでしょう。これは、先にイエスが、「神の国は、このような者たちのもの」と、大人に連れて来られた幼児たち指し示したのと正反対の考え方です。マタイでもマルコでも、この金持ちの青年の話と幼子を受け入れる話はセットになっています。

それに対してイエスは、「なぜ、わたしを『尊い』と言うのですか。尊い方は、神おひとりのほかにはだれもありません」という不思議な答えをします(19節)。それはこの役人の目を、ご自分ではなく、天の父なる神に目を向けさせることにありました。そして、イエスは、「戒めはあなたもよく知っているはずです。『姦淫してはならない。殺してはならない。盗んではならない。偽証を立ててはならない。父と母を敬え』」(20節)とごく当たり前のことを言われました。これは、この「役人」が、イエスに何か目新しい教えとか秘訣を求めていることに対して、神の教えは、すべての人に十分に明らかになっているということを印象付けることばでもありました。この役人の問題は、このような質問をすることによって、神は、最も大切な教えを、意地悪にも、人々の目から隠している方であるかのように思っていたということではないでしょうか。しかし、モーセは、律法の締めくくりとして、「この命令は、遠くかけ離れたものでも・・天にあるのでも・・海のかなたにあるものでもない・・・みことばは、あなたがこれを行うように、ごく身近にあり、あなたの口にあり、あなたのこころにある」(申命記30:11-14私訳)と言っていたのです。

ところが彼は、そのようなイエスの意図に気づくことなく、 「そのようなことはみな、小さい時から守っております」(21節)と答えてしまいます。彼は、律法を守ってきたという自負がありながら、なお、「永遠のいのち」を「受け継いでいる」という確信がなかったのです。マルコは、この役人が、「イエスに走りよって、御前にひざまずいて」(10:17)尋ねたというほど切羽詰った様子を描いています。それは彼が、「自分の良い行い」と引き換えに、「永遠のいのち」を受け取るという発想に生きていたからです。そのとき彼は、「みことば」自体を神からの賜物として喜ぶのではなく、それを目的達成の「手段」におとしめていたのです。しかし、律法のみことばは、一方的な恵みとして与えられたものであり、それを喜び受け入れることのなかに「永遠のいのち」は含まれていたのです。私たちはいつも自意識過剰になりがちです。しかし、神のみことばにただ、受動的に心を開き、神の語りかけに感動しているとき、そこに「神の国」は実現しています。この神との生きた親密な交わりこそ「永遠のいのち」です。ところが彼は、聖なる神のみおしえを、「そのようなことはみな」と呼び、恵みではなく、常識かのように受け取っていました。

イエスはこれを聞いて、その人に、「あなたには、まだ一つだけ欠けたものがあります。あなたの持ち物を全部売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい」(22節)と言われました。マルコは、このときの様子を、「イエスは彼を見つめ、その人をいつくしんで言われた」(10:21)と描いています。つまり、イエスは、彼に自分の罪を思い知らせてやろうと敢えて意地悪を言ったわけではありません。なお、イエスはこの際、敢えて、「そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります」と付け加えられました。それは、彼の目を、地上のことから、天に向けさせる意味がありました。しかもイエスは、「そのうえで、わたしについて来なさい」と、彼をご自分の弟子として招いておられます。これは主が、ペテロやヨハネやマタイを招いたときと同じことばです。この役人は、イエスの御前にひざまずいて教えを請うだけの思いがあったのですから、それは不可能ではありませんでした。ところが、「すると彼は、これを聞いて、非常に悲しんだ。たいへんな金持ちだったからである」(23節)と、彼の反応が記されています。マルコは、「すると彼は、このことばに顔を雲らせ、悲しみながら立ち去った」(10:22)と明確に記しています。

たぶん、彼がペテロのような貧しい漁師であったなら、またマタイのように人々から軽蔑されていた取税人であったなら、イエスの招きに応じるのはより易しかったことでしょう。しかし、彼の場合には失うものが多すぎました。

マザー・テレサは、「富は、悪ではなく、不幸である・・・富は人の気前のよさをなくし、心を閉ざし、窒息させてしまうからです」と言っていました。3億円の宝くじが当たった人の実話のテレビドラマがあったそうです。そこで、ほとんど大金を急に得た人は悲惨な人生を歩むようになるという統計が明らかにされていました。誰もが自分は大丈夫だと思います。しかし、人は弱いのです。無駄なものを買う、金額に鈍感になる、欲が出てくる、人が寄ってくる、人から騙される、ほとんど破滅の道に進んで行くとのことです。3億円あってもいつの間にかなくなります。いくら得たかではなく、人にどれだけ与えることができたかを大切にしなければなりません。パウロは「貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持っていないようでも、すべてのものを持っている」(Ⅱコリント6:10)と言っています。

ただし、貧乏も確かに辛いものです。貧乏に苦労した若い牧師が、次のような詩を書いています。

貧乏はつらいもの 貧乏は人を縛りつけます 
貧乏は人を変えます 性格までねじ曲げてしまいます
貧乏が 『貧乏神』と呼ばれるゆえんは それなのでしょうか
貧乏は 愛する人ができれば こたえます 
病気をするとこたえます 子供ができれば身にしみてこたえます
貧乏に負けてしまう人もいる つらかったことでしょう 
貧乏のつらさは経験者でないとわからない 
(でも) 貧乏をしていると 人の心が見えてくる 
ものの声が聞こえてきます
貧乏をして 見えないものが見えてきた 
それまで知りえなかった すばらしいものが 見えてきた 
貧乏が 『貧乏神』と呼ばれるゆえんは それなのでしょうか

感動的なのは、彼がここで、貧乏の辛さを語りながら、それを通して、「見えないものが見えてきた」と語っている点です。これはお金の問題に限りません。私たちのうちにある、自分の「知恵」に対する「誇り」なども同じです。「自分に知恵がある、能力がある・・」という人は危ない面を抱えています。イエスに必死に尋ねてきたこの青年は、お金も、能力も、知恵も、地位もあり過ぎました。それゆえ、それを捨てることができなかったのです。

3.「人にはできないことが、神にはできるのです」

イエスは彼を見て、「裕福な者が神の国に入ることは、何とむずかしいことでしょう。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい」(24、25節)と言われました。これは、「優秀な人は・・」、「人から尊敬されている立派な人は・・・」、「成功している人は・・」などと言い変えても良いことばです。自分の力で人生を切り開いてきたという自負がある人は、しばしば、「すべてが恵みである」ということが分かりません。パウロは自分の知恵を誇っている人に対し、「いったいだれが、あなたをすぐれた者と認めるのですか。あなたには、何か、もらったものでないものがあるのですか。もしもらったのなら、なぜもらっていないかのように誇るのですか」(Ⅰコリント4:7)と厳しく迫っています。たとえば、人の外見も知能指数も腕力も、遺伝子によって大部分が既に決まっているのではないでしょうか。それは、まさに「もらったもの」であって、誇るべきものではありません。それは、神から与えられた賜物です。私たちが問われていることは、それをどのように用いたかということです。

イエスは、「すべて、多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます」(ルカ12:48)と言われました。ここから、フランス語の格言、noblesse oblige(ノブレス・オブリージュ)が生まれます。これは「貴族の責任(義務)」とも訳しえることば、日本語では「武士道」と訳すこともできましょう。たとえば、第一次世界大戦のとき、イギリスでは貴族の子弟の戦死者が非常に多かったと言われます。また、アメリカでは、裕福な人が何のボランティア活動もしていなければ白い目で見られるような風潮があります。それは、より豊かに与えられているほど、より厳しく責任が問われるということの実例です。ところが、人はしばしば、それを逆転して考えます。それは、「私が豊かで能力があるのは、神から特別に愛され、重く見られているしるしであって、私のいのちの価値は誰よりも重い。だから、人が私のために働くのは当然だ・・・」という特権意識です。そして、人は、基本的に、すべてを自分に都合よく考えようとします。イエスは、この青年の中に、「ノブレス・オブリージュ」を忘れた特権意識を見たのかもしれません。とにかく、この青年は、富も地位も手にした上で、「永遠のいのち」さえ、自分の手でつかみとろうとしていたことは確かです。彼は確かにこの世の成功者であり、努力家でしょうが、そこに罠があります。自分で成功を掴み取って来たと自負する人は、かえって、自分の願望に縛られてしまい、手放すことができなくなるからです。

ところで、イエスのことばを聞いた人々は、「それでは、だれが救われることができるでしょう」と尋ねました(26節)。それは、彼らも、誤った特権意識に捉えられていたからです。彼らは、「裕福であるのは、神から特別に愛される理由があったからであって、そのような人こそ、誰よりも神の国に近い」と考えていたからです。しかし、現実は、自分が豊かで、才能があり、自分の力で成功を掴み取ることができると自負する人は、神の必要を感じなくなってしまうのです。イスラエルは、約束の地に入って、生活に困らなくなったとたん、偶像礼拝に走ったのです。イスラエルの神は人に服従を求めましたが、カナンの宗教は、楽しいことばかりを約束してくれたからです。しかし、それは、恵まれた環境に生まれ育った人は、心に渇きがないから、救われようがないのでしょうか。

それに対し、イエスは「人にはできないことが、神にはできるのです」(27節)と言われました。その代表例はパウロです。彼は、自分の罪に悩んだあげく、救いを求めたのではありません。彼はクリスチャンを迫害することに情熱を傾けて、ダマスコに行く途上で、「突然、天からの光が彼を巡り照らし」、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」という声を聞いたからこそ、イエスを信じることができたのです(使徒9:3,4)。彼は、自分で求めたのではなく、一方的に捉えられたのです。ただし、それは特権というより、福音のためにいのちをかけて働くためという、ノブレス・オブリージュへの招きでした。確かにパウロは特別でしょうが、しばしば、頭が良いと思われる人に限って、信仰に導かれるきっかけは単純なものです。昔から最も多いのは、恋愛が入信のきっかけになるというものです。自分に自信がある人は、恋愛でもしないと自分から自由になれないからでしょう。また、そうでなくても、神は、優秀な人であればあるほど、適度な試練を与えて、その高慢を打ち砕いてくださるということがあります。私たちはすべて、パウロと同じように、神に選ばれて、天地万物の創造主である神の子どもという貴族的な立場が与えられました。それは特権意識を味わうためではなく、「貴族としての責任」(ノブレス・オブリージュ)を果たすためです。

ところで、このときペテロが、「ご覧ください。私たちは自分の家を捨てて従ってまいりました」(28節)と言いましたが、何という無神経で愚かな応答でしょう。彼はたまたま、この役人より、富も地位も、聖書知識も少なかったからこそ、イエスの招きに従うことができただけなのに、それがまるで自分の功績かのように誇っているからです。しかも、マタイの記録によると、このときペテロは、「私たちは何がいただけるのでしょうか」と(19:27)と、露骨に報酬を期待していたのです。彼も、金持ちの青年と、まったく同じ発想の中に生きていたことが明らかです。

ところがイエスは、それを叱責する代わりに、「まことに、あなたがたに告げます。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子どもを捨てた者で、だれひとりとして、この世にあってその幾倍かを受けない者はなく、後の世で永遠のいのちを受けない者はありません」(29,30節)と言われました。それは、彼らがイエスに従っているということ自体に価値があるからです。彼らはどちらにしても、自分の不信仰や愚かさを思い知らされることになります。それはことばで教えてわかるようなものではありません。人は、所詮、何かの報いなしには働くことができないほど自己中心な思いにとらわれているのが現実だからです。今、弟子たちに必要なのは、何があってもイエスのみもとにとどまり続けるということです。彼らは、どちらにしても、この直後、自分の愚かさや弱さのゆえにつまずいてしまいます。それは、目に見えない神よりも、目に見える人を恐れてしまうからです。だれの人生にも、挫折はつきものです。そのときに、支えになるのは、神が私たちの苦労に、正当な報いを与えてくださるという保障です。

イエスは禁欲主義を教えたのではありません。イエスは私たちが富や力の奴隷になることを何よりも警告されたのです。この金持ちの役人がその後、どうなったかは分かりません。しかし、ここにパウロの姿を見ることもできるのではないでしょうか。ひよっとしたら、この人も、後に、復活のイエスに出会い、パウロのような働きができたかもしれません。しかし、そのたびごとに、彼は、イエスが自分にきっぱりと財産を捨てて従うように勧めてくれたことに、イエスの深い配慮を感じて感謝したことでしょう。イエスはこの青年を冷たく追い返したのではありません。イエスはこの青年をいつくしんでくださったのです。表面的な拒絶の背後に、イエスのあわれみに満ちた招きが見られます。聖歌582番の歌詞は、そのまま読むと、あまりにも過激な内容です。そんなこと心から歌うことは無理だと感じます。しかし、この歌詞が、スコットランド民謡「アニー・ローリー」のメロデイーに載せて歌われるとき、それが無理ではなく感じられます。もともとの歌詞は、「アニー・ローリー」という女性への恋いの歌です。その歌詞の最後は、「ダーク・ブルーの瞳の、かわいいアニー・ローリーのためなら僕は死んでもかまわない」というものです。恋する人のためにいのちをささげることができるなら、どうして、どんな富や地位や名誉にもまさって魅力的なイエスのために、すべてを捨てることができないことがありましょう。そんな恋い心を持って、この曲を味わってみましょう。