イザヤ63章7節〜66章24節「神による新しい創造と報復」

2008年8月3日

私たちの社会では、自分で自分を律することが何よりも大切な徳とされます。確かにそれは大切なことですが、それはすべての宗教や道徳に共通する倫理基準に過ぎません。聖書の教えのユニークさはそれを超えたところにあるのではないでしょうか。主はイザヤを通して、最初から最後まで、偽善の礼拝者を非難していました。それはイエスがパリサイ人を非難したのと同じです。しかも、イザヤのメッセージは、国がなくなるまでイスラエルの人々には理解できない性質のものであると予め語っておられました(6:9-13)。これは私たちの現実では、自分自身に真に失望するまでは福音が心に届かないということを意味します。私たちは良い人間になりたいと思いながら、そうなれないから福音を求めたのです。それを忘れてはいないでしょうか。しかも、神のみこころを何よりも傷つけ、神が怒りを発せられるのは、神のあわれみを軽蔑し、神を求めない自称、「善人」たちです。

1.「彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ・・・彼らを背負い、抱いて来られた」

63章9節のみことばは多くの苦しむ人々にとっての何よりの慰めです。そこには、「彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身(御顔)の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた」(63:9)という主の「愛とあわれみ」が描かれます。主は、私たちの痛みを上から見下ろしておられる方ではなく、ともに「苦しみ」、また、「背負い、抱いて」来られた方だというのです。

今から約三十年前、フィリップ・ヤンシーという米国のジャーナリストを有名にした本があります。そのタイトルは、「Where is God when it hurts」(痛むとき神はどこにおられるのか)でした。それは誰もが避けたいと願う「痛み」に創造的な価値があるということを解き明かした本として米国で絶賛されました。しかし、それは別に目新しい教えではなく、今から二千七百年前に、神がイザヤを通して語っていたことでした。イスラエルの民は、自分たちの痛みを通して、「彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ・・・彼らを背負い、抱いて来られた」という霊的現実を体験できたのです。神を遠く感じるとき、神は私たちの最も身近におられるという逆説があるのです。

なお、ここで、「ご自身の使い」とは、原文で、「彼の顔の使い」と記されており、単に、ご自分の代理としての御使いを送ったというのではなく、主がご自身のあわれみの御顔を向けておられるということが強調されています。イスラエルの民がシナイの荒野に老いて金の子牛を作って拝んだ時、主(ヤハウェ)は、最初、「わたしはあなたがたの前にひとりの使いを遣わし・・・乳と蜜の流れる地にあなたがたを行かせよう。わたしは、あなたがたの中にあっては上らないからである」と仰せられましたが、モーセは、「もし、あなたご自身がいっしょにおいでにならないなら、私たちをここから上らせないでください」と食い下がり、その結果として、主ご自身が彼らの真ん中に住み、彼らを約束の地に導かれました(出エジ33:2,3,15)。つまり、主は、御使いをイスラエルに遣わしたのではなく、民の反抗に耐えながら、ご自身が彼らの真ん中に住んで、彼らを救い出されたのです。

パウロは反抗的なコリントの教会に向かって、「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることをあなた方は知らないのですか」(Ⅰコリント3:16)と語りましたが、今、主ご自身が私たちの交わりのただなかに住んでおられ、私たちを「新しい天と新しい地」、「新しいエルサレム」へと導いておられます。私たちは誰も、「聖霊が宿っている」という教会の交わりを軽蔑して、約束の地に達する事はできません。

2.「しかし、彼らは逆らい、主の聖なる御霊を痛ませた」

ところがそれにも関わらず、主の民は「逆らい、主の聖なる御霊を痛ませた」ので、「主は彼らの敵となり、みずから彼らと戦われた」(63:10)というのです。これは、イスラエルの民のバビロン捕囚に至るまでの神のさばきの全体を表わしたものだと思われます。その過程で、主は、敢えて異教の国々を動かし、イスラエル攻撃に仕向けられました約束の地に至る過程では、主はイスラエル側に立たれて外国と戦っておられましたが、約束に地に入ってから、特にダビデ以降の時代は、神は外国の国々を用いてイスラエルを懲らしめられました。それはまるでイスラエルの神、主(ヤハウェ)が外国人の味方となり、イスラエルの敵となられたことを意味します。

そして、このような中で、「主の民は、いにしえのモーセの日を思い出し」ます。そして、「羊の群れの牧者たちとともに、彼らを海から上らせた方は、どこにおられるのか。その中に主の聖なる御霊を置かれた方は、どこにおられるのか・・・彼らに深みの底を歩ませた方は、どこにおられるのか」(63:11-13)と三度の疑問形が繰り返されながら、主が海をふたつに分けて彼らを救い出された「輝かしい御腕」のことが思い起こされます。そして、それをまとめて、「家畜が谷に下るように、主(ヤハウェ)の御霊が彼らをいこわせた」(63:14)と結論付けられます。なお、ここで、主のみわざが何よりも、主ご自身が彼らの真ん中に「聖なる御霊」を置かれ、「主(ヤハウェ)の御霊が彼らを憩わせた」という聖霊のみわざとして描かれています。これは旧約では極めて珍しい記述です。

その上で、イザヤは、「どうか、天から見おろし、聖なる輝かしい御住まいからご覧ください。あなたの熱心と、力あるみわざは、どこにあるのでしょう。私へのあなたのたぎる思いとあわれみを、あなたは押さえておられるのですか」(63:15)と、主ご自身が「たぎる思いとあわれみを」、今、敢えて、「押さえておられる」と表現します。それは、イスラエルの悲惨が、主の無力さのあらわれではなく、主ご自身のみわざによるものであり、主のみこころひとつで、すべてが変わるという希望を示すためです。そして、その上で、「まことに、あなたは私たちの父です。たとい、アブラハムが私たちを知らず、イスラエルが私たちを認めなくても、主(ヤハウェ)よ、あなたは私たちの父です」(63:16)と告白されます。旧約において、「主(ヤハウェ)」を「私たちの父」と呼ぶのは珍しいことです。

パウロは、この箇所における「御霊」また「父)」という表現を用いて、「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を恐怖に陥れるような奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、『アバ、父』と呼びます」(ローマ8:14,15)と記したのではないでしょうか。

私たちも主の聖なる御霊を痛ませることによって、自分を神の敵としてしまうことがないように注意すべきでしょう。パウロも、「神の聖霊を悲しませてはいけません」(エペソ4:30)と言いました。それは「無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなど」に身を任せることをやめて、「神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦しあいなさい」という愛を実践する事です(同4:31,32)。主がご自身のいのちをもって贖い取ってくださったキリストのからだなる教会を傷つけることにまさって神の御霊を悲しませる行為はありません。私たちは、主(ヤハウェ)を、「私の父」と告白するのではなく、「私たちの父」と告白するように召されています。信仰は確かに極めて個人的なものですが、キリスト信仰は何よりも、共同体の出来事として表されるということを忘れてはなりません。

3.「主(ヤハウェ)よ。これでも、あなたはじっとこらえ、黙って、私たちをこんなにも悩まされるのですか」

64章8,9節で、イザヤは不思議にも、「あなたは私たちから御顔を隠し・・・私たちを弱められました。しかし、主(ヤハウェ)よ。今、あなたは私たちの父です。私たちは粘土で、あなたは私たちの陶器師です・・・主(ヤハウェ)よ。どうかひどく怒らないでください。いつまでも、咎を覚えないでください。どうか今、私たちがみな、あなたの民であることに目を留めてください」(64:7-9)と告白します。これは、救いの主導権は、私たちの心以前に、陶器師である主のみこころにあるという告白です。だからこそ、主のあわれみに必至にすがることが大切なのです。

そして、イザヤは自分達をやがて襲う悲惨を予見しつつ、「あなたの聖なる町々は荒野となって・・・私たちの先祖があなたをほめたたえた私たちの聖なる美しい宮は、火で焼かれ、私たちの宝とした物すべてが荒廃しました」と生々しく描きますが、そのときの主ご自身の葛藤を、不思議にも、「主(ヤハウェ)よ。これでも、あなたはじっとこらえ、黙って、私たちをこんなにも悩まされるのですか」と問いかけています(64:10-12)。主はご自身の民の悲惨を冷たく見下ろしておられるのではなく、彼らの痛み合わせてみこころを痛めながら、なお助けたい気持ちをこらえておられるというのです。これは放蕩息子の父親の気持ちを描いている表現と言えましょう。

4.「わたしは黙っていない。必ず報復する。」

65章3節では、イスラエルの罪が、「この民は、いつもわたしに逆らってわたしの怒りを引き起こし、園の中でいけにえをささげ、れんがの上で香をたき、墓地にすわり、見張り小屋に宿り、豚の肉を食べ、汚れた肉の吸い物を器に入れ、『そこに立っておれ。私に近寄るな。私はあなたより聖なるものになっている』と言う」と描かれます(65:3-5)。彼らの問題は、自己認識の欠如にありました。彼らは、主のみこころに反してまったく汚れた者になっていながら、自分達は『聖なる』ものであると言い張っていたのです。それに対して主は、「わたしは黙っていない。必ず報復する。わたしは彼らのふところに報復する・・・報復する」と三度も繰り返されます(65:6,7)。

その上で、「わたしは、ヤコブから子孫を、ユダからわたしの山々を所有する者を生まれさせよう。わたしの選んだ者がこれを所有し、わたしのしもべたちがそこに住む。わたしを求めたわたしの民にとって、シャロンは羊の群れの牧場、アコルの谷は牛の群れの伏す所となる」(65:9、10)と記されます。神はかつて、シャロンを荒地に(33:9)にし、アコルの谷にアカン一族を石で撃ち殺させ、石の山を築かせましたが(ヨシュア7:24-27)、今や、選び残された神の民にとって、「のろい」の時代が過ぎ去り、祝福の時代が始まるというのです。

そして、その祝福に関しては、「この世にあって祝福される者は、まことの神によって祝福され、この世にあって誓う者は、まことの神によって誓う。先の苦難は忘れられ、わたしの目から隠されるからだ」(65:16)と描かれますが、「この世」とは厳密には、「地において」と記され、この地における祝福と、霊的な祝福の格差がなくなることを意味します。それは、信仰者の歩みが、「約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白していたのです」(ヘブル11:13)と描かれるような憧れに生きる状態が解消され、約束されたもの目の当たりに見るようになることを意味します。

5.「見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。」

そして、神が新しく実現してくださる世界のことが、「見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。先の事は思い出されず、心に上ることもない。だから、わたしの創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ。見よ。わたしはエルサレムを創造して喜びとし、その民を楽しみとする。わたしはエルサレムを喜び、わたしの民を楽しむ」(65:17-19)と描かれます。「わたしは・・創造する」と三度も繰り返され、「新しい天と新しい地」の創造は、「初めに、神が天と地を創造した」という聖書の最初のことばに対応して記されます。その上で、失われた喜びの園「エデン」を回復するという意思を込めて、「わたしの創造するものを・・楽しみ喜べ」と勧められます。ここに、廃墟とされたエルサレムを主ご自身が新しく創造されるという断固たる意思が見られます。これは、黙示録の「新しいエルサレム」につながります。しかも、ここでは主ご自身が、「わたしの民を楽しむ」と繰り返しておられます。それは、主が天と地を新しくされる前に、私たち自身をも内側から造り変えてくださるからです。

私たちは自分自身の進歩のなさ、この世の不条理がはびこる現実にしばしば失望を味わいます。しかし、聖書を通して読む事によって、「私の人生のストーリーを、世界の救いのストーリーのひとこまと見る」ことができるように召されています。私たちは、「神が、なぜこのような不条理を許しておられるのか?」の理由を知ることはできません。しかし、「神を愛する人々・・のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」(ローマ8:28)と大胆に告白することができます。この世に悲惨をもたらすのは人間の罪です。しかし、神は、人間の罪に打ち勝って、私たち自身を、そして世界を造り変えてくださるのです。

今や、キリストの復活によって、その祝福の時代が既に実現し始めています。それは、真冬の寒い時に、梅や桜のつぼみが芽を吹きだしたようなものです。春は目の前にあり、待っていれば確実に美しい花を見ることができます。そして、「新しい天と新しい地」のつぼみこそ、このキリストの教会です。だからこそサタンは必至に教会を壊そうとします。しかし今、既に、想像を絶する偉大なことがここで始まっていることを忘れてはなりません

また、「彼らが呼ばないうちに、わたしは答え、彼らがまだ語っているうちに、わたしは聞く」(65:24)とは、主がご自身の民に対して御顔を隠しておられたという状態がなくなって、ご自身の御顔をいつも向けておられる親密な交わりが回復することを意味します。ここでは、「わたしは答え・・わたしは聞く」という主ご自身の意思が強調されています。私は、長い間、泣く必要のないほどに心が安定することに憧れましたが、それを意識するほど、不安な自分を赦せなくなるだけでした。ところが、不安のままの自分が、神によって、見守られ、抱擁され、支えられていることがわかった時、気が楽になりました。赤ちゃんに向かって、「泣くな!」と叱って、かえって大泣きさせるように、自分や人の感情を非難して空周りを起こすことがあります。母親の愛情が赤ちゃんを安定させることができるように、神の御前では、あなたの臆病さ、不安定さ、弱さは、人生の障害とはなりません

 

6.「わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ」

66章の初めで、主(ヤハウェ)は、「天はわたしの王座、地はわたしの足台。わたしのために、あなたがたの建てる家は、いったいどこにあるのか。わたしのいこいの場は、いったいどこにあるのか。これらすべては、わたしの手が造ったもの、これらすべてはわたしのものだ」と仰せられますが、これはソロモンが神殿を建てたときに、「神ははたして地の上に住まわれるでしょうか。実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして、私の建てたこの宮などなおさらのことです」(Ⅰ列王8:22)と祈ったことに対比される表現です。主は、主を恐れる者たちのただなかにしか「いこいの場」とすることができません。そのことを主は、「わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ」(66:2)と表現されます。

それに対し、イスラエルの偽善に満ちた礼拝の姿が、「牛をほふる者は、人を打ち殺す者。羊をいけにえにする者は、犬をくびり殺す者。穀物のささげ物をささげる者は、豚の血をささげる者。乳香をささげる者は、偶像をほめたたえる者。実に彼らは自分かってな道を選び、その心は忌むべき物を喜ぶ」(66:3)として描かれます。彼らは主を喜ばせようとしているようでありながら、同時に、実際には、主の忌み嫌われることを平気で行っているというのです。それに対して、主は、「わたしも、彼らを虐待することを選び、彼らに恐怖をもたらす。わたしが呼んでもだれも答えず、わたしが語りかけても聞かず、わたしの目の前に悪を行い、わたしの喜ばない事を彼らが選んだからだ」(66:4)と応答されるというのです。彼ら自身が主の怒りを招いているからです。

一方で、エルサレムに訪れる祝福の事が、「すべてこれを愛する者よ。これとともに楽しめ。すべてこれのために悲しむ者よ。これとともに喜び喜べ。あなたは、彼女の慰めの乳房から乳を飲んで飽き足り、その豊かな乳房から吸って喜んだからだ」(66:10、11)と、母親が乳飲み子を慰め、喜ばせることにたとえられます。そして、またエルサレムの繁栄の様子が、「見よ。わたしは川のように繁栄を彼女に与え、あふれる流れのように国々の富を与える。あなたがたは乳を飲み、わきに抱かれ、ひざの上でかわいがられる。母に慰められる者のように、わたしはあなたがたを慰め、エルサレムであなたがたは慰められる」(66:12、13)と美しく表現されます。ここで、神の民に与えられる祝福が、母親のふところで慰められる子どもとして表現されるのは興味深い事です。

五世紀のエジプトでのある修道院でのことです。そこの指導者のポイメン神父に、長老の幾人かが行って、「兄弟たちが時課祈祷や徹夜祈祷のとき居眠りしているのを見たら、目を覚ますように揺り起こすべきだとお考えですか」と尋ねました。それに対し、彼は、「私ならば、兄弟が居眠りをしているのを見たら、彼の頭を膝の上に置いて休ませる」と答えたとの事です(ポイメン92「砂漠の師父の言葉」引用:水垣渉著「初期キリスト教とその霊性」日本キリスト改革派西部中会文書委員会2008年p125)。そのような答えは、この箇所から生まれているように思います。幼児が母親のひざの上でかわいがられ、安心するように、神は私たちを慰めてくださるというのです。この世的に考えると、「主のことばにおののく」という観点と礼拝での居眠りは、決して相容れないものでしょう。しかし、疲れやその他の理由を抱えながら、なおも、礼拝に来られる方は、神の目には「主のことばにおののく者」に他なりません。

聖書の神は、私たちにとっての父であるとともに、慈愛に満ちた母のような方です。そして、このような新しい神のイメージをいただく事によって「あなたがたの骨は若草のように生き返る」(66:14)と約束されるのです。イエスは当時の人々の、忘れられていた母としての神のイメージを表してくださったのではないでしょうか。

そして、主は最後に、新しい世界の永遠性について、「わたしの造る新しい天と新しい地が、わたしの前にいつまでも続くように・・・あなたがたの子孫と、あなたがたの名もいつまでも続く。毎月の新月の祭りに、毎週の安息日に、すべての人が、わたしの前に礼拝に来る」と記されます(66:22、23)。これこそ、主が喜ばれる礼拝の完成のときです。イエスはサマリヤの女との対話で、「真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です」と言われましたが(ヨハネ4:23)、イエスの救いとは、何よりも、偽善に満ちた人間のわざとしての礼拝を退け、イエスが与える御霊と、「わたしが道であり、真理(まこと)であり、いのちなのです」(ヨハネ14:6)と言われるイエスご自身を通して、イエスの父なる神を礼拝することに表されます。私たちはその意味で、すでに、新しい天と新しい地の住民、新しいエルサレムの市民とされているのです。

しかし、同時に、神の敵に対するさばきが最後に、「彼らは出て行って、わたしにそむいた者たちのしかばねを見る。そのうじは死なず、その火も消えず、それはすべての人に、忌みきらわれる」(66:24)と警告されます。「神が愛であるならば、地獄は空になるはずだ」などと言う人がいますが、聖書はそのように語ってはいません。神を恐れる者に対する永遠の祝福と、神の敵に対する永遠のさばきはセットとして記されているのです。

今回の箇所を通して、「へりくだって心砕かれ、主(ヤハウェ)のことばにおののく者」に対して、主が乳飲み子を慰める母親のような姿で現れてくださる一方で、自分は「聖なるものになっている」という偽善の礼拝者たちに対しては、「すべての人に、忌み嫌われる」という永遠ののろいが宣告されます。私たちはこのような対比に戸惑いを感じざるを得ません。しかし、パウロは、「多くの人々がキリストの十字架を敵として歩んでいる・・彼らの最後は滅びです・・彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです」(ピリピ3:18,19)という厳しいさばきを宣告しながら、人間の肉の力によって神の好意を勝ち取ろうとする律法主義者たちに対し、「私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません・・・大事なのは新しい創造です」(ガラテヤ6:15)と言いました。今、神は私たちの交わりの真ん中に御霊を遣わし、主を、「アバ、父」と呼ぶことを可能にしてくださり、私たちを内側から造り変え、また「新しい天と新しい地」を創造しようとしておられます。神の御霊による「新しい創造、これらすべてが、イエスの七百年前にイザヤが預言していたことでした。