イザヤ59章14節〜63章6節「主 (ヤハウェ) の光に満ちた世界に向かって」

2008年7月20日

世界の最初は、「やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた」(1:2)という不思議な状態でした。その上で、「神は仰せられた」と、おことばひとつで、「光」が創造されます。そして、神は、光と闇とを区別されました。そして、この世界の完成は、光に満ちた世界です。ですから、この世界に、「やみ」に支配されていると思えるときがあったとしても、それを私たちは、新しい恵みの世界が生み出される前触れと見ることができます。私たちの人生の中に何が起ころうとも、それは「やみから光へ」という変化の一プロセスに過ぎません。しかも、創世記では、その日ごとに、「夕があり朝があった」と記されます。聖書の民にとっての一日の始まりは、日没にありましたが、それぞれの日の創造のわざに、やみから光へというリズムが見られるのです。そして、私たち今も、神のことばによって創造された世界に、希望をもって目覚めさせていただくというリズムを感じ取ることができます。それゆえに、私たちは、明日のことを思い煩う必要がありません。今日なすべきことを力いっぱいやって、後は、お祈りして寝るだけですが、神にあっての一日は、この夜の休みから始まっているというのです。

1.「主は・・・ご自分の御腕で救いをもたらし、ご自分の義を、ご自分のささえとされる」

主は、「見よ。【主】の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ」(59:1,2)と言われました。つまり、イスラエルの苦しみは、イスラエルの神、主(ヤハウェ)が無力だからではなく、彼らの側から、主が助けることができないような状況を作り出したからだというのです。それに対し、イザヤは、「私たちは、そむいて、【主】を否み、私たちの神に従うことをやめ、しいたげと反逆を語り、心に偽りのことばを抱いて、つぶやいている。こうして公正は退けられ、正義は遠く離れて立っている」(59:13、14)と告白しています。イザヤはイスラエルを代表して自分たちの罪を主に告白し、自分たちが神の怒りを受けて当然であることを認めますが、同時に、民はその声に耳を傾けず、それは民全体の告白とはなっていないというのです。

それに対し、「【主】はこれを見て、公義のないのに心を痛められた。主は人のいないのを見、とりなす者のいないのに驚かれた。そこで、ご自分の御腕で救いをもたらし、ご自分の義を、ご自分のささえとされる」(59:15,16)という不思議な救いをもたらすというのです。ここには神ご自身の心の痛みが描かれています。神は民を救いたいと願っておられるのですが、彼らの真の悔い改めがなされないまま、安易に救いの御手をさし伸ばすことは、彼らの罪を助長することになります。それで、神ご自身の方から、「とりなす者」としての「救いの御腕」をまず伸ばしてくださるというのです。そして、使徒ヨハネは、イエスこそが「主(ヤハウェ)の御腕」(イザヤ53:1、ヨハネ12:38)であると明言しています。またバプテスマのヨハネはイエスを、「見よ。世の罪を取り除く神の小羊」と呼びました(ヨハネ1:29)。イエスはイスラエルの罪ばかりか、全人類のすべての罪をその身に負って、父なる神にとりなしをしてくださいました。私たちはイエスの十字架に、罪に対する神の怒りとさばきを見ると同時に、神がご自身の御子を犠牲にして私たちの罪をご自身の側から赦してくださろうとする、燃えるような愛を見ることができます。

2.「起きよ。光を放て」⇒「あなたの太陽はもう沈まず・・・【主】があなたの永遠の光となり・・」、

60章の初めで、突然、「起きよ。光を放て」と語られます。これは廃墟とされたエルサレムへの語りかけです。それは、人の想像を超えた神の力が働くからです。そのことが続けて、「あなたの光が来て、【主】の栄光があなたの上に輝いているからだ・・・見よ。やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっている。しかし、あなたの上には【主】が輝き・・・国々はあなたの光のうちに歩み、王たちはあなたの輝きに照らされて歩む」と描かれます。

イエスは、これをもとに、「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです」(ヨハネ8:12)と言われました。この世界は、今も「やみ」におおわれています。しかし、イエスはすでにこの世界を照らしています。やみが深く見えるのは、光が強いほど陰も濃くなるのと同じです。イエスは、この世界の結婚関係を変え、すべてのいのちが同じように尊いという価値観を、既にこの世界に根付かしてくださいました。二千年前の世界と現代の世界の倫理観の違いは、福音が広まった結果です。そして、さらに、イエスは私たちひとりひとりの心を照らしていてくださいます。私たちはイエスを知る前は自分のこころの闇にあまり気づいてはいませんでしたが、イエスを深く知るにつれ、自分の中に住む罪の性質に唖然とするようになります。自分の内側の汚れが照らし出されることを恐れる必要はありません。罪を照らす光は、同時に、罪によって病んでいるアダムの子孫をいやす光でもあります。そして、その光は、今、私たちが何を第一にし、どこに向かって歩むべきかを指し示す光でもあります。私たちはイエスに向かって、「シャイン・ジーザス・シャイン・・」(イエスよ、照らし出してください)と祈るべきではないでしょうか。そして、イエスの光が私たちを照らすとき、私たち自身がイエスの代理として、この世界を照らすことができます。イエスは、「あなたがたは世の光です」と断定してくださったのですから。

そして、「目を上げて、あたりを見よ。彼らはみな集まって、あなたのもとに来る・・・そのとき、あなたはこれを見て、晴れやかになり、心は震えて、喜ぶ。海の富はあなたのところに移され、国々の財宝はあなたのものとなるからだ・・・」(60:5、6)とありますが、これがイエス・キリストにおいて成就しました。なぜなら、今、イエスは世界中で、「王の王、主の主」としてあがめられているからです。そして、イエスの国は今も広がり続けています。

それが完成するときの様子が、「あなたの門はいつも開かれ、昼も夜も閉じられない。国々の財宝があなたのところに運ばれ、その王たちが導かれて来るためである」(60:11)と描かれています。これは新しいエルサレムにおいて成就します。そのときのことが黙示録では、「都には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都の明かりだからである・・都の門は一日中決して閉じられることがない。そこには夜がないからである。こうして人々は諸国の栄光と誉れとをそこに携えて来る」と描かれています(21:23-26)。

そして、この60章14-20節では、バビロンによって滅ぼされた神の都エルサレムが諸国民の上に高く立てられることが預言されています。その成就がこの黙示録における「新しいエルサレム」の姿であり、それは既に、ここでイザヤが、「太陽がもうあなたの昼の光とはならず、月の輝きもあなたを照らさず、【主】があなたの永遠の光となり、あなたの神があなたの光栄となる。あなたの太陽はもう沈まず、あなたの月はかげることがない。【主】があなたの永遠の光となり、あなたの嘆き悲しむ日が終わるからである」(60:19、20)と預言していたことでした。

先に、「起きよ、光を放て」と目覚めさせられた光の輝きが増し加わり、やがて、主が再びおいでになるときには、主ご自身が全世界を照らす光となってくださるというのです。もちろん、世の終わりに近づくにつれ、この世界の混乱がなお増し加わるという現実もあります。しかし、同時に、キリストが支配する神の国は、今も成長過程にあり、完成に向かっているということを忘れてはなりません。「義人の道は、あけぼのの光のようだ、いよいよ輝きを増して真昼となる。悪者の道は暗やみのようだ。彼らは何につまずくかを知らない」(箴言4:18、19)と、あるように私たちは何につまずくかを知らされながら、いよいよ輝きを増すという神のご支配の中に生かされています。

そして、そのとき、神の民も内側から造りかえられています。そのことが、「あなたの民はみな正しくなり、とこしえにその地を所有しよう。彼らはわたしの栄光を現す、わたしの植えた枝」(60:21)と描かれます。神の民は、すべて、キリストに似た者に変えられているからです。そして、なおここでは、「最も小さい者も氏族となり、最も弱い者も強国となる」(60:22)と述べられていますが、そのことが黙示録では、「そのしもべたちは神に仕え、神の御顔を仰ぎ見る・・・神である主が彼らを照らされる・・・彼らは永遠に王である」(黙示22:3-5)と記されます。そして最後に、「時が来れば、わたし、【主】が、すみやかにそれをする」(60:22)とありますが、イエスは、「しかり、わたしはすぐに来る」(22:20)と言っておられます。私たちはこの世界を少しでも住みやすくするように努力すべきではありますが、光と同時にやみも強くなることを忘れてはなりません。政治は所詮、様々な利害関係を調整する仕組みに過ぎません。この世界が変わるためには、人間が変えられなくてはなりません。それこそまさに福音の力です。そして、キリストの再臨のとき、この世界が新しくされるという以前に、私たち自身が新しくされているのです。

3.貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすため

61章では最初に、「神である主の霊が、わたしの上にある。【主】はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、

【主】の恵みの年・・を告げ」と記されますが、このみことばは、ルカ福音書4章によると、イエスが宣教の初めに、ナザレの会堂で朗読された箇所で、主は、これの解説としてたったひとこと、「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたの聞いたとおり実現しました」(ルカ4:21)と言われました。それはこのみことばにこそ、イエスのみわざの核心が記されているからです。初代教会の時代に読まれた福音書とは、イザヤ書であったということもできます。彼らは、この書を読みながら、イエスがこれらの預言をひとつひとつ成就してくださったことを知って、神をあがめたのです。ただし、主はこのとき、イザヤ書には記されている「われわれの神の復讐の日を告げ」の前で、朗読を止めておられます。それは「神の復讐」は、ご自身の十字架と復活の後の、再臨で成し遂げられることだからです。

「わたしは【主】によって大いに楽しみ、わたしのたましいも、わたしの神によって喜ぶ」(61:10)とは、主に油注がれた救い主のことばとして記されています。イザヤ50章や53章での「主のしもべの歌」では、救い主の苦難が描かれましたが、ここではそれと対照的な「喜び」が強調されます。それは、「主がわたしに、救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせ、花婿のように栄冠をかぶらせ、花嫁のように宝玉で飾ってくださるからだ」と記されている通りです。なお、「衣」や「外套」(ローブ)は、たとえば裁判官が着るローブのように、その働きに任じることを示し、花婿の栄冠とか花嫁の宝玉とは、最高の喜びの祝宴のイメージです。ヘブル書の著者は、「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」と言いつつ、その直後に、「イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました」(ヘブル12:2)と記しています。イエスは、神から与えられた使命に伴う苦しみと同時に喜びをも味わっておられました。喜びの伴わない使命感は、人を息苦しくさせるだけです。僕は、伝道者への召しを受けたと感じ、ヨーロッパ日本人キリスト者の集いの準備会もかねたリトリートで、十字架の犠牲の尊さを熱く長々と語りました。でも、そのときの信仰の友の不快そうな表情が今も忘れられません。それは僕が余りにも押し付けがましかったからでした。救いは喜びとして伝わってゆくということを忘れてはなりません。そのように福音が広まる様子が、「地が芽を出し、園が蒔かれた種を芽ばえさせるように、神である主が義と賛美とを、すべての国の前に芽ばえさせるからだ」(61:11)と描かれます。

「シオンのために、わたしは黙っていない(働くことをやめない)。エルサレムのために、黙りこまない(休まない)」(62:1)と記されますが、ふたつの動詞とも、活動をやめないというのが中心的な意味であり、先に主のしもべが「彼は叫ばず、声をあげず、ちまたにその声を聞かせない」(42:2)といわれていたのと矛盾するものではありません。そこに込められた意味の中心は、エルサレムの救いを全うするという断固たる意思ではないでしょうか。その希望が、「その義が朝日のように光を放ち、その救いが、たいまつのように燃えるまでは」と表現されています。

そして、「そのとき、国々はあなたの義を見、すべての王があなたの栄光を見る。あなたは、【主】の口が名づける新しい名で呼ばれよう」(62:2)とは、エルサレムが神の義と栄光を表わす都となり、それは「新しい名」で呼ばれるというのですが、それはバビロン捕囚の際に、「見捨てられている」とか、「荒れ果てている」と呼ばれたことの対照であり、その新しい名には、「わたしの喜びは、彼女にある」という意味が込められています(62:4)。

アブラハムもヤコブも、主によって「新しい名」を与えられました。私たちにも、「主(ヤハウェ)の口が名づける新しい名」があるのではないでしょうか。イエスが洗礼のときに、天の父なる神から、「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」(ルカ3:22)と言われたように、イエスの御霊を宿す私たちに対しても、「あなたの神はあなたを喜ぶ」(62:5)と言われます。私たちはもちろん、自分の罪深さを認めて、それに涙を流す必要がありますが、それと同時に、イエス・キリストによって与えられた新しいアイデンティティーを発見し、喜ぶべきでしょう。

「新しい名」とは、たとえば、「鈍感に対する敏感」「恩知らずに対する感謝の心」「自己中心に対する愛の人」などのように、自分の問題点を逆転させるような努力目標ではありません。神が一方的な恵みによって与えてくださった新しいアイデンティティーです。たとえば、私は、「不安と孤独」に動かされている自分を発見し、「愛と平安」に満たされる状態を憧れ、それを「新しい名」としていただきたいと思ったことがあります。しかし、それでは、今もなお、不安と孤独感に襲われる自分の気持ちとの戦いを強化し、自己嫌悪を増すということになりました。しかし、このままの自分が神にとらえられ、支えられていると分かったとき、その葛藤から少しは自由にされたような気がします。そのような私にとっての新しい名とは、「抱擁されている者」とか「支えられている者」という名でした。

4.「見よ。あなたの救いが来る」「わたしの心のうちに復讐の日があり、わたしの贖いの年が来た」

62章11節で、主(ヤハウェ)ご自身が「地の果てまで聞こえるように」、「シオンの娘に言え。『見よ。あなたの救いが来る。見よ。その報いは主とともにあり、その報酬は主の前にある』と」(62:11)仰せられたと記されます。イエスのエルサレム入城は、この約束がイエスにおいて成就したことを表すものでした(マタイ21:5)。ただそのとき、「彼らは、聖なる民、【主】に贖われた者と呼ばれ、あなたは、尋ね求められる者、見捨てられない町と呼ばれる」(62:12)とありますが、イエスの入城によって目に見えるエルサレムの救いが実現したわけではありませんでした。それどころか、それから四十年後、エルサレムはローマ帝国によって滅ぼされ、神殿も廃墟とされました。

同じような現実が私たちにも起こるのではないでしょうか。救い主があなたの心の中に、またあなたの家庭に来てくださったと喜んだのも束の間、かえって苦しみが増し加わっているようにさえ見えることがあります。「あなたはイエスを信じて、救われたのです・・」と言われても、それが嘘のように思えるときさえあるかもしれません。それは、神が、神の民に敵対する勢力をまだ滅びしていないからです。あなたの周りにはサタンに動かされているとしか思えないような人がたくさんいて、あなたに攻撃を仕掛けています。それに対する答えが63章に記されます。

「エドムから来る者、ボツラから深紅の衣を着て来るこの者は、だれか・・・」(63:1)とは、主(ヤハウェ)が遣わす救い主が、イスラエルに敵対し続けるエサウの子孫、エドムとその首都ボツラをさばいてくださったという記述です。「なぜ、あなたの着物は赤く、あなたの衣は酒ぶねを踏む者のようなのか」という問いに対して、「わたしはひとりで酒ぶねを踏んだ・・・わたしは怒って彼らを踏み・・・それで、彼らの血のしたたりが、わたしの衣にふりかかり、わたしの着物を、すっかり汚してしまった。わたしの心のうちに復讐の日があり、わたしの贖いの年が来たからだ」(63:3,4)と残酷な表現があります。これは、主がイスラエルの味方となり、その敵を滅ぼしてくださるということを意味します。かつて、イエスは、イザヤ書を朗読したとき、「われわれの神の復讐の日を告げ」(61:2)の手前で止められました。それは、イエスが神のさばきの日を、ご自身の再臨のときまで遅らせるという意味でした。

なお続けて、「わたしは見回したが、だれも助ける者はなく、いぶかったが、だれもささえる者はいなかった。そこで、わたしの腕で救いをもたらし、わたしの憤りを、わたしのささえとした。わたしは、怒って国々の民を踏みつけ、憤って彼らを踏みつぶし、彼らの血のしたたりを地に流した」(63:5,6)と記されますが、これは59章16節の「ご自分の御腕で救いをもたらし、ご自分の義をささえとされた」というみことばを、主の復讐と言う面に焦点を当てて、再度述べたものです。つまり、神の民の救いと神の民の敵の滅亡は神の目にはセットになっているのです。

イエス・キリストの再臨の様子は、黙示録19章15、16節では、「この方の口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた。この方は、鉄の杖をもって彼らを牧される。この方はまた、万物の支配者である神の激しい怒りの酒ぶを踏まれる」と描かれます。それはこのイザヤ63章の要約のような表現です。そしてその黙示録の箇所では、それに続けて、「その着物にも、ももにも、『王の王、主の主』という名が記されていた」と描かれています。イエス・キリストは、今、すでに、「王の王、主の主」としてこの地を支配しておられます。それがあの有名なヘンデル作のオラトリオ「メサイヤ」の「ハレルヤ・コーラス」で歌われています。私たちの目には、何も変わっていないように見えても、イエスは確かに、この世界を変え始めておられます。ただ、それはあなたが期待するように、またあなたの都合の良いようには進んでいないといだけのことです。神は、「ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられる」(Ⅱペテロ3:9)ために、さばきを遅らせているのです。この地上の不条理がなくならないのは、神が罪人たちに忍耐をしておられるという神のあわれみの現れでもあります

ところで、ローマ帝国によってエルサレムが再び廃墟とされたことは、福音が世界に広がるきっかけになりました。イエスが十字架と復活で、私たちの罪の贖いを成し遂げてくださったので、私たちはもうエルサレム神殿を必要とはしません。それによって、今、私たちは、いつでもどこでも、このように集まって主を礼拝することができるようになりました。しかも、黙示録によると、エルサレムに対するイザヤの預言は、イエスの再臨のときに必ず成就するのです。私たちの人生のゴール、それは新しいエルサレムです。イザヤの預言はひとつひとつ確実に成就しました。そして、残されている預言も成就します。私たちは、主(ヤハウェ)の光に満ちた世界へと招きいれられるのです。

この世界は不条理が満ちています。しかし、よく見ると、何も変わっていないということはありません。確かに、主の光は私たちを既に照らし出しているのです。やみが深く見えるのは、光が生み出す陰に過ぎません。また汚れが目立つようになったのは、光が輝いてことの結果です。すでに、あなたの心に希望が生まれました。しかも、ずっと振り返ってみてください。神はどれだけあなたにいつくしみ深く、あなたに優しくしてくださったことでしょう。目の前が暗いときこそ、主の恵みを数えなければなりません。「光がやみの中から輝き出よ」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです」(Ⅱコリント4:6,7)とパウロは述べましたが、主ご自身が私たちの心を照らし、主(ヤハウェ)の栄光を知らせてくださいました。私たちは今、キリストを通してその栄光を見ています。私たちは、主(ヤハウェ)の光に満ちた世界に向かっています。目の前に様々な暗やみがあっても、人生のゴールを忘れてはなりません。