イザヤ13章〜20章「愚かな誇りと持つべき誇り」

2008年2月17日

キリスト教会では「謙遜」が最大の美徳と呼ばれます。しかし、そのために「誇り」の大切さを忘れてはいないでしょうか。牧師の集まりなどで感じるのは、「謙遜」よりも、それぞれの強烈なまでの「誇り」です。だからこそ、なかなか意見がまとまらないということがあります。そしてあのパウロも、「私は自分の誇りをだれかに奪われるよりは、死んだほうがましだからです」(Ⅰコリント9:15) と言っているほど、自分の誇りを大切にしていました。カール・バルトは、「栄誉」を「最高の地上的な財宝」と呼び、「栄誉を失うならば、すべてを失う」とまで言いました。実際、「誇り」を持っていない人に、あなたは何かを任せることができるでしょうか。誇りのない人は、自分の都合で約束を平気で破るのではないでしょうか。ただし、「誇り」は、創造主を忘れさせる最大の力ともなります。本日の箇所では、「宣告」ということばが五回繰り返され (13:1、14:28、15:1、17:1、19:1)、それぞれにおいて、神がこの世の王国の誇りを砕かれるという趣旨のことが記されます。それを通して、神に敵対する「誇り」が何なのかを覚えたいと思います。

1. 力と富を誇るバビロンへのさばき

13章1節から14章27節まではバビロンに対するさばきの宣告です。預言者イザヤの時代の超大国はアッシリヤ帝国であり、バビロンはその東でどうにか独立を保っているような国でしたが、そこはかつてバベルの塔が建てられたシヌアルの地でもありました (創世記11:1–9)。神はイザヤを通して、バビロンこそがアッシリヤよりもはるかに恐れるべき国であると告げられながら、同時に、その国もやがて神の御手にあって滅びることをあらかじめ知らせてくださいました。「はげ山の上に旗を掲げ……貴族の門に、入らせよ」(13:2) とは、バビロンが全面降伏して首都の正面ゲートが敵の征服者に開かれる様子を表しています。それは、神はご自身の「怒りを晴らす」(13:3) ために「聖別」した者としてのペルシャ帝国を立てたことによってやがて実現します。それが、アッシリヤ帝国が全盛期を迎える前から予言されているのは何という不思議でしょう。当時の「全世界」(13:5) とはバビロンからエジプトに至る世界ですが、その東果ての国が「主の憤りの器」(13:5) として用いられるのです。それが、「主 (ヤハウェ) の日」(13:6、9) として描かれます。なお、最終的な「主 (ヤハウェ) の日」は、「天の星」、「太陽」、「月」の光が失われるとき、「世」「悪者」「罰する」日であり、そのとき「人間」の数は、純金よりも……「少なく」なるというのです (13:9–12)。

そのことをまとめるように、「わたしは天を震わせ……大地はその基から揺れ動く」(13:13) と描かれます。それは、人間がすべてのあわれみを捨て、「幼子たち」さえ「八つ裂きに」するほど野蛮になる日でもあります (13:16)。神のさばきは、天からの火としてよりは、人と人とが互いに殺しあうままに放置されることとして表されています。主は、「わたしはメディヤ人を奮い立たせる」(13:17) と言われますが、それはペルシャ帝国の先駆けとしてその連合国のメディヤの王ダリヨスがバビロンを滅ぼすことを示唆しています (ダニエル5:30、31)。そこでも「胎児」「子ども」などの社会的弱者が誰よりも苦しむ様子が描かれています。それにしても、「彼らは胎児をもあわれまず」(13:18) とあるのは驚くべきことです。それは残虐さの象徴ですが、平和なはずの日本で同じ残虐がまかり通っています。

「こうして、王国の誉れ……バビロンは、神がソドムとゴモラを滅ぼした時のようになる」(13:19) とは、神のさばきが天からの火ではなく、人と人との戦いを通して実現するということを表しています。それと同時に、栄華を極めた都から住む人がいなくなり、軽蔑された獣の住まいとなるという悲劇が強調されています (13:20–22)。

そして、「まことに、主 (ヤハウェ) はヤコブをあわれみ、再びイスラエルを選び、彼らを自分たちの土地にいこわせる」(14:1) と、バビロンへのさばきとイスラエルの再興がセットになって描かれています。つまり、主は、アッシリヤの攻撃を恐れている民に、はるかその後のことまで知らせて励ましておられるのです。そして、それは、「主 (ヤハウェ) が……あなたへの激しい怒りを除く」(14:3) からなのですが、同時に、それはバビロンの王の「横暴」と「憤り」をさばくことによってもたらされるというのです (14:4–6)。そして、それを「全地は……喜びの声を上げる」(14:7) と、世界の解放と結びつけています。つまり、どのような悲惨も、すべてが神の御手の中にあって起こっているというのです。

一方、「下界のよみ」(14:9) では、それまでに滅びたすべての王たちが、権勢を誇ったバビロンの王を「迎えようとざわめき」ます。それは人の栄華がいかにむなしく、神のさばきがいかに厳しいかを確認するためです。

「暁の子、明けの明星よ。どうしてあなたは天から落ちたのか」(14:12) は、しばしばサタンの由来として引用されます。ただし、文脈は明らかに、バビロンのことを述べています。旧約においては神の絶対的な主権を強調するためサタンへの言及は少なく、神の御許しの範囲内でしか動くことができない存在として描かれます。なお、創世記3章で、蛇が人に、「あなたがたがそれを食べるその時……神のようになる」(創世記3:5) と誘惑したことは、サタンと私たちの思いがいかに似ているかを指し示しているとも言えましょう。そして、私たちの堕落もサタンの堕落も、「私は天に上ろう……いと高き方のようになろうと」(14:13、14) と願うことへのさばきという点では同じです。

なお、「北の果てにある会合の山」(14:13) とは、神々が高い山の上にいて地上の人間を治めるという当時の人々の観念を表したものです。サタンもバビロン王も、神の被造物であり、神のさばきを執行するために特別の力が与えられただけです。しかし、彼らは自分の力に酔って創造主に逆らい、さばきを受けるというのです。その際、「しかし、あなたはよみに落とされ、穴の底に落とされる」(14:15) と描かれますが、これはサタンばかりかサタンのように自分を誇るすべての者の末路です。上昇志向がサタンへの道となることがないように注意したいものです。

これに対し、私たちの主イエス・キリストの歩みは、「神の御姿でありながら……ご自分を無にして、仕える者の姿を取り、人間と同じようになられ……自分を卑しくし……十字架の死にまで従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました」(ピリピ2:6–9) と描かれます。つまり、イエスはご自分を低くすることによって、神によって高くされた方なのです。これこそ私たちが従うべき模範です。

「あなたを見る者は、あなたを見つめ、あなたを見きわめる……」(14:16) とは、バビロン帝国の最後がどの国よりも悲惨なものになるからです。その理由が、「あなたは……自分の民を虐殺したからだ」(14:20) と説明されます。そして、改めて、「万軍の主 (ヤハウェ)」は、「わたしは彼らに向かって立ち上がる……バビロンからその名と……子孫とを断ち滅ぼす」と仰せになられます。しかも、「万軍の主 (ヤハウェ)」なる方は、「必ず、わたしの考えたとおりに事は成り、わたしの計ったとおりに成就する」(14:24) と言われた上で、「わたしはアッシリヤをわたしの国で打ち破り、わたしの山で踏みつける。アッシリヤのくびきは彼らの上から除かれ、その重荷は彼らの肩から除かれる」(11:25) と、10章27節の表現を繰り返しつつ、アッシリヤへのさばきも成就すると言われます。

そして、最後に、「万軍の主 (ヤハウェ) が立てられたことを、だれが破りえよう……」(14:27) と、神の「はかりごと」が必ず成就すると締めくくられます。たとえば、ヨブは不条理な苦しみの原因が分からずに悩みますが、最後に神の御声を聞くことで、「あなたには、すべてができること、あなたはどんな計画も成し遂げられることを、私は知りました」という告白に導かれました (ヨブ42:2)。私たちは自分を世界の中心に置きながら、目の前の不条理の意味が分からず、「神なんか信じられない!」と不信仰に陥りがちです。しかし、ヨブは、自分の疑問を神に訴えながら、最終的に神のみことばに慰めを見出しました。そのような告白をしたヨブに、神は失ったものすべての二倍のものを回復してくださいました。私たちの目も、この世の力に惑わされます。しかし、神が歴史の真の支配者であることを認め、神にすがり続けるなら、神がすべてのことを働かせて益に変えてくださるというのが私たちの確信です。しかし、この世の不条理を自分の力で正そうとする者は、自分自身が力の虜になり、最後にさばかれてしまいます。

この世の権力者バビロンへのさばきは、「天と地」が滅びるという「主の日」の前触れです。黙示録では、「すべての淫婦と地の憎むべきものとの母、大バビロン」(17:15) がキリスト者を迫害すると記されています。私たちのまわりには今も、富と力を神とあがめる人々が満ち、その偶像礼拝に参加しない者が居場所を奪われるという迫害があります。しかし、力と富の支配は滅びに向かっていることが定まっています。私たちは、過ぎ去るものではなく、「正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます」(Ⅱペテロ3:13)。その神の計画は必ず成就するのです。

2.この世の弱者が持っている危険なプライド

14章28節では、再び、「宣告」ということばとともにペリシテの地へのさばきが告げられます。「喜ぶな。ペリシテの全土よ。おまえを打った杖が折れたからと言って」とは、アッシリヤに媚を売っていたアハズ王の死と共にユダ王国の没落が目前に迫り、そのことをペリシテ人が喜んだからです。しかし、アロンの杖が蛇になり、おなじような蛇になったエジプトの呪術者の杖を飲み込んだように、ダビデの子孫はペリシテにとっての「燃える蛇」のような存在であり続けると言われます。そして、続けて、ユダの「貧しい者はやすらかに伏す」(14:30) と描かれる一方で、ペリシテの子孫は「飢えで、死なせ」、北からのアッシリヤ軍の前に滅びることが告げられます。しかも、「主 (ヤハウェ) はシオンの礎を据えられた」とあるように、エルサレムはアッシリヤの攻撃から守られるという確信が与えられます。

15章1節から16章の終わりまでは「モアブ」に対する「宣告」です。モアブは死海の東側の国でロトの子孫、ルツの故郷です。彼らはダビデのときもウジヤのときもユダ王国に服従していました。それで主は、モアブが北のアッシリヤからの攻撃によって滅びそうな様子をご覧になり、「わたしの心はモアブのために叫ぶ」(15:5) と言われます。その中で、モアブは、「子羊を、この国の支配者に送れ……シオンの娘の山に」(16:1) とエルサレムに助けを求めます。彼らは「荒らす者」であるアッシリヤ帝国から「逃れて来る者の隠れ家となれ」と要請しますが、それは軍事的な保護を求めるものでした。しかし、イザヤはこれに対し、「しいたげる者が死に、破壊も終わり、踏みつける者が地から消えうせるとき、ひとつの王座が恵みによって堅く立てられ……」と目先の危急の後に来る、ダビデ王国の完成の預言を語ります。これはつまり、ユダとの軍事同盟よりも、イスラエルの神ヤウェに救いを求めるようにとの信仰的な訴えです。目に見える国よりも、それを超えた神の国、神のご支配にこそ目を向けるべきなのです。

ところが、モアブは、「高ぶり」「高慢」、「誇り」「おごり」のゆえに、ヤウェの前にへりくだることができません (16:6)。そのことは、この章の終わりに、「モアブが高き所に詣でて身を疲れさせても……もうむだだ」という記述から分かります (16:12)。そして、モアブは、モアブ自身のために泣きわめくような悲惨に陥ります (16:6、7)。これに対し、主は、「わたしのはらわたはモアブのために……立て琴のようにわななく」(16:11) と描かれます。しかし、彼らの悔い改めのなさにより、彼らの栄光は三年のうちに失われると、その危急性が告げられます (16:14)。

ペリシテもモアブもイスラエルに屈服した国です。しかし、彼らは力に屈服しただけであり、イスラエルの神を求めていたわけではありません。私たちのまわりにも、ただ具体的な援助だけを求めるような人がいるかもしれません。しかし、私たちに預けられているわずかな富や力を一時的に提供しても、彼らに真の救い主を紹介できないならすべてはむなしく終わります。やがて彼らは、私たちがその要求に応えられなくなると共に、私たちを非難して去って行くかも知れません。人に媚を売るような人は、人を利用することを考えているだけで、心のうちには高慢があります。彼らは自分の責任を直視する代わりに、自分を被害者に仕立てているだけです。モアブのように保護を求める人が、高慢と誇りに満ちていると言われるのは、何とも不思議ですが、それが心の現実でしょう。残念ながら、今も昔も、自分の弱さをアピールして人を振り回すような人がいます。彼らは悲劇の主人公になることによって、自分を世界の中心に置こうとしています。彼らは神にすがる代わりに、まわりの人を支配しようとしているだけです。

使徒ペテロは、エルサレム神殿の入り口で、足のなえた人から施しを求められたとき、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい」と言って、彼の右手を取って立たせました (使徒3:3–7)。私たちの何よりの使命は、イエスの御名を伝えることです。私たちの力ではなく、イエスご自身がひとりひとりの心の中に働きかけ、生きる気力を与えてくださいます。イエスご自身が困難に向かって立ち上がる勇気を与えてくださいます。パウロは、「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです」(ピリピ4:13) と言い、「誇る者は、主を誇りなさい」(Ⅱコリント10:17) と言いました。それこそ真の誇りです。

3.諸国との協力ばかりに頼る者の危うさ

17、18章は「ダマスコに対する宣告」から始まり、「クシュ」(エチオピア)(18:1) のことに及びます。「ダマスコは……廃墟となる……エフライムは要塞を失い」(17:1、3) とは、ユダの王アハズが、アラム、イスラエル連合を恐れてアッシリヤと手を結んだことへの答えです。預言者イザヤは、そのような人間的な外交政策で国を守ろうとする姿勢を非難し続けていました (7:4)。「アラムの残りの者は、イスラエル人の栄光のように扱われる」(17:3) とは、アラムと北王国イスラエルが同じようにアッシリヤ帝国によって滅ぼされることを語っています。そして、彼らはその繁栄を失うことを通して、「自分を造られた方……イスラエルの聖なる方」(17:7) に立ち返るというのです。それは、彼らが自分たちの悲惨は、「救いの神を忘れ……力の岩を覚えていなかった」(17:10) ことの結果であると認めるからです。

「ああ、多くの国々の民がざわめき……騒いでいる。しかし、それをしかると、遠くへ逃げる。山の上で風に吹かれるもみがらのよう……夕暮れには、見よ。突然の恐怖……」(17:12) とは、ユダ王国を取り囲む国々に対する神のさばきの結果を表現したものです。これらの国々に共通するのは、アッシリヤのような超大国の攻撃に、小さな王国の連合で立ち向かおうとすることです。しかし、力に対し、力の連合で立ち向かおうとする者は、いつも自分たちの同盟国がいつ裏切るか分からないという疑心暗鬼の不安の中に置かれるのではないでしょうか。

そのような中で、はるか遠く、エジプトの南の「クシュ」から使者がきます (18:1)。このころのエジプトは、その南の現在のエチオピアの王朝に支配されていました。彼らはパピルス製の早舟を送り、パレスチナの国々に、「すばやい使者よ、行け。背の高い、はだのなめらかな国民のところに」(18:2) と、エチオピアとの同盟に誘います。「多くの川の流れる国、力の強い、踏みにじる国」とはエチオピアを指すと思われますが、ユダ王国はアッシリヤの脅威に対してこの南の国との連合によって対抗しようとしました。それに対し、主は、「わたしは静まって、わたしのところからながめよう……」(18:4) と言われます。それは、主が、高いところから国と国が互いに戦い、滅んでゆく様子をご覧になっておられるという意味です。エルサレムの民は、自分たちの軍事力の弱さを嘆き、はるか南の国にまで援助を請いますが、真に頼りになる方は、もっとも身近なところにいます。南の国はやがてそれを知るようになり、彼らの方からエルサレム神殿に贈り物を届けに来るようになるというのです (18:7)。つまり、イスラエルの神こそ歴史の支配者であられ、またその住まいであるエルサレム神殿こそが世界の中心であるというのです。

ユダ王国も、北王国イスラエルも、南のエジプト、北のアッシリヤやバビロンという超大国にはさまれ、大国の顔色を見ながら国の独立を図るという政策を続け、真の支配者であられるイスラエルの神をあがめることを忘れて自滅しました。これは私たちにも当てはまることではないでしょうか。人との協力関係を築くことは仕事のうえで何よりも大切です。多くの企業が新規採用を考える際に何よりも重んじるのが、協力を築き上げる能力であると言われます。それはこの世の常識ではありますが、私たちはその中で、さらに大切なことを忘れてはなりません。それは、主 (ヤハウェ) こそが、すべての権威のみなもとであるということです。人との関係を築く能力も私たちにとっての愚かな誇りとなり得ます。私たちの信仰は、孤独の中でこそ養われるということを決して忘れてはなりません。

4.この世の知恵と伝統を誇るエジプトへのさばき

19章、20章は「エジプトに対する宣告」です。「見よ。主 (ヤハウェ) は早い雲によってエジプトに来る」という書き出しと共に、「わたしは、エジプト人を駆り立ててエジプト人にはむかわせる」(19:2) と言われます。実際、これ以降のエジプトは常に内戦によって国力を落としてゆきました。その中で、「彼らは偽りの神々や死霊、霊媒や口寄せに伺いを立てる」(19:3) とあるのは、彼らがピラミッドに象徴される死者崇拝に生きていたからです。

そして、主は、「わたしは、エジプト人を厳しい主人の手に引き渡す」(19:4) と言われますが、こののちエジプトはアッシリヤやバビロンに敗北するばかりか、その後のペルシャ帝国、ギリシャ帝国、ローマ帝国の支配下に入ってゆくことを示唆するものです。それとともにエジプトの豊かさのみなもとであるナイル川が、流れをせき止められたり干上がったりするような自然災害に襲われると言われます。

「ツォアンの首長たち」(19:11) とはナイル河口デルタの北東部の町、エジプトの主要都市でなされる政治が「まったく愚か」と言われ、「パロの知恵ある議官たちも愚かなはかりごとをする」と言われます (19:11)。そして、「あなたの知恵ある者たちはいったいどこに……」と問われます。当時、エジプトは文化の中心で、彼らは受け継がれ蓄積されてきた知恵を誇っていました。しかし、「主 (ヤハウェ) が、彼ら(諸族のかしらたち)の中に、よろめく霊を吹き入れられたので、彼らはあらゆることでエジプトを迷わせる」(19:14) というのです。そればかりか、エジプトにおいて、彼らが軽蔑するカナン語が五つの町で話され (19:18)、そこではイスラエルの神、主 (ヤハウェ) に誓いが立てられるばかりか、その一つの町は、イル・ハヘレス(滅びの町)と呼ばれるようになります。

そして、「その日」には、ピラミッド等の巨大建造物で有名な「エジプトの真ん中に、主 (ヤハウェ) のために、ひとつの祭壇が立てられ、その国境のそばには、主 (ヤハウェ) のために一つの石の柱が立てられ」(19:19) と言われます。

つまり、エジプトが主 (ヤハウェ) を礼拝する国になるというのです。これは、日本で言えば、宗教的な伝統と慣習に縛られた天皇家がクリスチャンになるというようなものです。それは、「主 (ヤハウェ) はエジプト人を打ち、打って彼らをいやされる。彼らが主に立ち返れば、彼らの願いを聞き入れ、彼らをいやされる」(19:21、22) とあるように、伝統文化に安住する彼らの誇りを打ち砕き、主にすがらざるを得なくなるという状況を作ることによってです。

そして、そのとき、「エジプトからアッシリヤへの大路ができ」(19:23) とあるように全世界に平和が実現し、国境がなくなり、二つの超大国にはさまれて苦しんでいたイスラエルこそが世界の中心となると言われます。

20章ではアッシリヤ帝国がペリシテ人の地アシュドテを征服したとき、主はイザヤに、腰をはだけはだしで歩くことを通して、エジプトに訪れる悲劇を告げ知らせるように命じられます。この四、五十年後、エジプトにアッシリヤが攻め入り、預言は成就します。そのとき「海辺の住民」は、エジプトを頼みとする愚かさに気づくのです (20:6)。

私たちのまわりにも伝統文化に通じ、知恵に満ちた人がいます。その前で、しばしば自分の信仰を恥じるようなことがあるかもしれません。しかし、主 (ヤハウェ) を知らない彼らこそ、最も大切な人生の真理に無知であるということを忘れてはなりません。聖書なしに、誰が、世界の、また人生の始まりと終わりを知ることができるでしょう。

主は、預言者エレミヤを通して、エジプトとバビロンの間で揺れ動くユダの人々に対して、「知恵ある者は自分の知恵を誇るな。つわものは自分の強さを誇るな。富む者は自分の富を誇るな。誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを」(エレミヤ9:23、24) と言われました。私たちは神と人に対して謙遜になることが求められていますが、それは自分の意思を殺した奴隷になることではありません。私たちは神に恋い慕われ、愛されているという誇りのゆえに、必要ならば自分の権利を捨て不当な非難に耐えることができるのです。主は預言者イザヤを通して、イスラエルの民がこの世の力のはざまで、神の民としての誇りを失っていることを非難しているのではないでしょうか。この世の王国はすべて滅びます。大切なのは、この世の王国の上にあってすべてを支配しておられる主 (ヤハウェ) を礼拝することです。世の終わりには、世界中のすべての人々が、主を礼拝しにやってきます。私たちはその主を、まわりに人々よりも先に知らせていただいたのです。私たちは愚かなプライドに縛られてはならず、神と人とに対して謙遜にならなければなりません。しかし、謙遜になるための秘訣は、私たちが真の誇りに満たされることではないでしょうか。多くの人は、心の余裕がない結果として頭を下げることができないのです。