イザヤ9章8節〜12章6節 「暗闇迫る中で、『I have a dream!』と叫ぶ力」

2008年2月3日

四、五十年前の日本と現在の違いは、「夢」にあるのかもしれません。昔の夢は、今から見れば愚かしい面もあったかもしれません。しかし、どんな夢であれ、夢を持っていた時代には人々に活気があり、人情も豊かだったのではないでしょうか。夢には力があります。ナチスドイツによるアウシュビッツ虐殺収容所を生き延びたユダヤ人精神科医のフランクルは、「ひとつの未来を信じることができなかった人間は収容所で滅亡していった。未来を失うと共に彼はそのよりどころを失い、内的に崩壊し身体的にも心理的にも転落したのであった」と語っています。そして、「繊細な性質の人間がしばしば、頑丈な身体の人間よりも、収容所の生活をよりよく耐え得たと……なぜなら、彼らにとっては、恐ろしい周囲の世界から精神の自由内的な豊かさへと逃れる道が開かれていたからである」とも語っています。心の中に、夢を持っている人は、逆境の中でなお自分を保つことができます。ユダヤ人の強さは、イザヤ書などを通して、暗闇が迫れば迫るほど、神の救いが近いことを確信したということにあるように思います。目の前の状況が変わっても、失望に変わることのない永遠の夢を持ち続けることができる人は何と幸いでしょう。

1.北王国イスラエル(サマリア)へのさばき (9:8-10:4)

「主がヤコブに一つのことばを送られた。それはイスラエルに落ちた」(9:8) とは、北王国イスラエルに対する神のさばきがアモスやホセアという預言者を通して伝えられ、それが実現し始めたことを指します。9章12、17、21節、10章4節で「それでも、御怒りは去らず、なおも、御手は伸ばされている」と四度繰り返されますが、すべてのわざわいの背後に、主の怒りの御手があることを思い起こさせるためです。ところが、「この民は、自分を打った方に帰らず、万軍の主 (ヤハウェ) を求めなかった」(9:13) と記されます。士師記の時代、彼らは自業自得で苦しむたびに、主を呼び求め、それに応えるように主が「さばきつかさ」を送られましたが、このときは、そのように主に立ち返る動きはありませんでした。私たちも注意が必要です。苦しみに会うときに求められているのは、人間的な原因を探って反省すること以前に、主を呼び求めることです。神は私たちが神に向かって叫ぶのを待っておられます。

「悪は火のように燃えさかり……」(9:18) とは、罪が恐ろしい感染症のように広がる様子です。それに対し、「万軍の主 (ヤハウェ) の激しい怒りによって地は焼かれ……」(9:19) とは、病原菌をすみやかに焼き尽くそうとするかのような主の働きです。つまり、「悪」と「主の怒り」が、同時に燃え広がるというのです。何という恐怖でしょう。そのような中で、人々は自分を守るのに忙しく、互いの間の愛が冷えます。これはたとえばパニックに陥った人々が人を踏みつけてでも逃げようとする姿に似ています。神のさばきが、神の民の間に争いを起こすことになるというのです。

国が滅びるときは内側から滅びてゆきます。指導者が腐敗し、民も互いに傷つけ合い、自滅してゆきます。そこでは人間の「悪」が火のように燃えさかり広がってゆきます。そして、そのただ中に置かれた人は、ますます互いの罪を非難しあうという悪循環に陥り、神が見えなくなります。しかし、そこでこそ神は、ご自身の栄光を現すことができるようにと、私たちの祈りを待っておられます。互いに非難し合うことは、溺れる者が身体を硬直させ、自分で沈んで行くのと同じです。そこに求められているのは、「やめよ。わたしこそ神であることを知れ」(詩篇46:10) という主の語りかけを聞くことです。溺れそうだからこそ、力を抜くことのです。すると、主が浮かび上がらせてくださいます。人の罪しか見えないようなそのとき、主は、「わたしを仰ぎ見て救われよ」(45:22) と、招いておられるのです。

2.アッシリアへのさばき (10:5-19) と、イスラエルの残りのものの回復 (10:20-34)

アッシリヤは、神の道具としての、「怒りの杖」「憤りのむち」(10:5) に過ぎないとまず記されます。しかし、「彼自身は……そうは考えない。彼の心にあるのは滅ぼすこと……断ち滅ぼすことだ」(10:7) とあるように、アッシリヤ自身は、破壊自体を喜び楽しんでいるというのです。それで、主は、「斧は、それを使って切る人に向かって高ぶることはできようか。のこぎりは、それをひく人に向かっておごることができようか……」(10:15) と語って、主ご自身が人を動かすのでなければ何も起きないと、彼らの高慢を責めました。そして、アッシリヤを用いてイスラエルをさばいた主ご自身が、今度はその当のアッシリヤ自体を滅ぼしつくすと預言されています (10:18、19)。

神は私たちの能力を用いてご自身のみわざを進められます。私たちは神の御手の中のひとつの道具に過ぎません。もし、その立場を忘れ、傲慢になって自分を神の立場に置くことがあるなら、主はそれまでのようにご自分の道具を用いることができなくなります。ですから、私たちは主のみこころに従う柔軟さを保つ必要があります。

「その日になると、イスラエルの残りの者、ヤコブの家ののがれた者は……イスラエルの聖なる方、主 (ヤハウェ) にまことをもって、たよる。残りの者……は力ある神に立ち返る」(10:20、21) とは、彼らが国を失って初めて、自分の愚かさを反省し神に立ち返るというのです。なおその際、「壊滅はすでに定められており……すでに定められた全滅を……」(10:22、23) とあるように、神のさばきの計画はひるがえる可能性のないところまで来ており、残りの者の救いも、さばきの後に起こると言われます。そのことのゆえに、「シオンに住むわたしの民よ。アッシリヤを恐れるな」(10:24) と語られます。それは歴史の支配者は、超大国ではなく、イスラエルの神ご自身であるからです。

「その日になると、彼の重荷はあなたの肩から、彼のくびきはあなたの首から除かれる。くびきはあなたの肩からもぎ取られる」(10:27) とは、ユダがやがてアッシリヤの圧迫から解放されるときを指しています。ただし、「その日、彼はノブで立ちとどまり、シオンの山、エルサレムの丘に向かってこぶしをあげる」(10:32) とは、エルサレムの陥落が目前に迫ったことのしるしです。ところが、そのときになって、「見よ。万軍の主 (ヤハウェ)、主 (アドナイ) が恐ろしい勢いで枝を切り払う」(10:33) というのです。これは後にアッシリヤ軍が、主の御使いによって混乱させられ敗走することを預言したものです。そして、やがて、「主は林の茂みを斧で切り落とし……」(10:34) とは、主の「斧」として用いられたアッシリヤ軍が、別の「斧」であるバビロン帝国によって滅ぼされることを指していると思われます。

つまり、エルサレムの住民にとって、滅びが迫っているとしか見えない状況は、救いが近づいているしるしだというのです。目の前の危機が、神のさばきによるものならば、それが全うされることによって、新しい時代が出現するからです。イエスの十字架は、神が私たちの罪に対して怒りを発しておられるしるしです。しかし、それを通して、死の力が打ち破られ、主の復活による新しい時代が実現することになりました。自業自得で苦しむとしても、そこで主を見上げるなら、さばきは救いの始まりとなります。パウロは、「夜はふけて、昼が近づきました」(ロマ13:12) と言いましたが、それは、暗闇が増し加わると見えることは、光が近づいているしるしだと解釈できるからです。

3.救い主が実現する平和 (シャローム)(11章)

11章では、驚くべきことに、クリスマス預言と新天新地の預言がセットになっています。つまり、二千年前のキリストの降誕は、全世界が新しくされることの保証と見られているのです。

「エッサイの根株から新芽が生え」(11:1) とありますが、エッサイはダビデの父です。彼は羊飼いであり、決して王家になるような家ではありませんでした。ダビデの根株ではなく、「エッサイの根株」と呼ぶ中に、救い主の誕生の貧しさが示唆されています。それは、「主の救い」が、絶望の後で初めて実現することを意味するかのようです。

救い主は、人々の注目を集めずひっそりと生まれますが、彼の上に、「主の霊がとどまる」(11:2) というのです。そしてイエスは、公の働きを、ユダヤ人の会堂で、「わたしの上に主の御霊がおられる……」(ルカ4:18、イザヤ61:1) と宣言することから始められました。そして、ここには理想的な王を導く三つの御霊の働きが描かれます。

第一の、「知恵と悟り」とは、3、4節にあるような、正しいさばき、公正な判決を下すためのものです。第二の、「はかりごとと能力」とは、4節にあるように、外の敵と、内側の敵に適正に対処する計画力と実行力を意味します。決して口先だけの政治家の約束ではなく、その口から出ることばが、必ず結果を生み出すような王となるということです。そして、三番目は原文では「主を知り恐れる霊」となっていますが、「知る」とは、主との生きた交わりを意味し、「恐れる」とは、自分の心にではなく主のみこころに徹底的に服従する姿勢を表します。これは、理想の王が、日々主との豊かな交わりのうちに生き、その生涯を通して父なる神のみこころに従順である姿勢を現します。

そして、この理想の王は、「正義はその腰の帯となり、真実はその胴の帯となる」(11:5) とあるように、帯をしっかりとしめて働きをまっとうし、正義と真実で世界を治め、この地に理想の世界をもたらすというのです。

ところで、神は、エデンの園という理想的な環境を造り、それを人に管理させましたが、アダムは神に従う代わりに自分を神とし、この地に荒廃をもたらしました。残念ながら、アブラハムの子孫たちも、乳と蜜の流れる豊かな約束の地を治めることに失敗してしまいました。そこで、神である方ご自身が、人となり、自らこの地に平和をもたらそうとしたのです。11章6節からはダビデの子として生まれた救い主が、エルサレムに完全な平和を実現し、エデンの園を再興すると語られます。この世界こそが、65:17-25によると、「新しい天と新しい地」と呼ばれます。

「狼と小羊、ひょうと子やぎ、子牛と若獅子」(11:6) とは、食べる側食べられる側の関係ですが、新しい世界においては弱肉強食がなくなり、それらの動物が平和のうちに一緒に生活できるというのです。「小さい子供がこれを追う(導く)」とは、エデンの園での、人が動物を治めるという信頼関係が回復されることです。

そして、続けて、「熊」も「獅子」も、「牛」と同じように草を食べると描かれるのは (11:7)、神が遣わしてくださる救い主は、そのような原初の平和 (シャローム) を回復してくださるという意味です。人が神に従順であったとき、園にはすべての栄養を満たした植物が育っており、肉食は必要なかったからです。そして、「その子らはともに伏し」とあるように、その平和は一時的なものではなく、それぞれの子らにも受け継がれるというのです。

また、「乳飲み子」や「乳離れした子」が、コブラやまむしのような毒蛇と遊ぶことができるというのは (11:8)、「女の子孫」と「蛇の子孫」との間の敵意 (創世記3:15) が取り去られ、「蛇」がサタンの手先になる以前の状態に回復することです。なお、「わたしの聖なる山」(11:9) とは、エルサレム神殿のあるシオンの山を指しますが、それが全世界の平和の中心、栄光に満ちた理想の王が全世界を治めることの象徴的な町になるというのです。現在のエルサレムは、残念ながら民族どうしの争いの象徴になっています。それは、それぞれが異なった神のイメージを作り上げてしまっているからです。しかし、完成の日には、「主 (ヤハウェ) を知ることが、海をおおう水のように、地を満たす」ので、宗教戦争などはなくなります。預言者エレミヤは、この終わりの日のことを、神がご自身の律法を人々の心の中に書き記すので、もはや「主を知れ」と互いに教える必要もなくなると預言しています (エレミヤ31:33、34)。

そして、「その日、エッサイの根は、国々の民の旗として立ち、国々は彼を求め、彼の憩う所は栄光に輝く」(11:10) とは、このような神の完全な平和シャロームは、イエスが世界中で「全地の王」、「主」としてあがめられることによって実現するという意味です。私たちはすでにそのような世界に一歩足を踏み入れています。

私たちに対しては今、「あなたがたも……約束の聖霊をもって証印を押されました。聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証であられます」(エペソ1:13、14) と語られています。それは、私たちのうちに、何とキリストご自身を導いたと同じ聖霊ご自身が住んでおられることを意味します。これこそが最大の奇跡です。それゆえ、キリストが王であられたと同じように、私たちひとりひとりも、小さなキリスト、小さな王として、この世に平和を実現するために労することができます。そして、その働きは、キリストにあって成功が約束されているものなのです。

1963年8月28日のワシントン市のリンカーン記念堂において、マルティン・ルーサー・キングは、「I have a dream」という有名な演説を行いました。彼は自分がいつか暗殺されることを意識しながら、「夢」を語りました。彼は、その夢、白人と黒人との平和を、「狼は子羊とともに……」のレトリックを用いて表現しています。

友よ。私は今日、皆さんに申し上げたい。今日も明日もいろいろな困難や挫折に直面しているが、それでも私にはなお夢がある……私には夢がある。それは、いつの日か、ジョージア州の赤い丘の上で、かつての奴隷の子孫とかつての奴隷主の子孫が、ともに兄弟愛のテーブルにつくことができることである。

私には夢がある。それは、いつの日か、不正義と抑圧の暑さにうだっているミシシッピー州でさえ、自由と正義のオアシスに変えられる事である……

私には夢がある。それは、いつの日か私の幼い4人の子供たちが、彼らの肌の色によってではなく、人格の深さによって評価される国に住めるようになることである。私は、今日、夢を持っている。

私には夢がある。それは悪意に満ちた人種差別主義者に牛耳られているアラバマ州で、いつの日か、幼い黒人の男の子と女の子が、白人の男の子と女の子と手をつなぎ、兄弟姉妹として歩けるようになることである……

それに続いて、彼は、「私は今日、夢を持っている」と言いつつ、それを、「このようにして、主 (ヤハウェ) の栄光が現されると、すべての者が共にこれを見る」というイザヤ40章4、5節の夢に結び付けます。そして、「これが私の希望なのである……こういう信仰があれば、私たちはこの国の騒々しい不協和音を、兄弟愛の美しいシンフォニーに変えることができるのである」と語っています。イザヤの預言こそ、死を超えた希望を持つことができた根拠でした。それから五年後、彼はメンフィスで暗殺されますが、その前日、自分の死を予感しつつ次のように語ります。

「過去何年もの間、人々は戦争と平和について語ってきた。だがもはや、ただそれを語っているだけでは済まされない。それはもはや、この世での暴力か、非暴力かの選択の問題ではなく、非暴力か、非存在かの問題なのである……早急に手を打たなければ世界は破滅する……この挑戦の時代に、アメリカを本来あるべき国にするために前進しようではないか……私だって、ほかの人と同じように長生きはしたいと思う。長寿もそれなりの意味があるから。しかし、神は私に山に登ることをお許しになった。そこからは四方が見渡せた。私は約束の地を見た。私はみなさんと一緒にその地に到達することができないかもしれない。しかし、今夜、これだけは知っていただきたい。すなわち、私たちはひとつの民として、その約束の地に至ることができるということを……。だから、私は今夜、幸せだ。もう不安なことはない。私はだれをも恐れていない。この目で、主が来られる栄光を見たのだから」

それから40年たったアメリカで、当時誰も予期しなかったこと、あるひとりの黒人と白人との間に生まれた子が有力な大統領候補になっています。それはキング牧師の言った「夢」が、現実になっている一つのしるしではないでしょうか。主の再臨によって実現する「夢」と、目の前の平和の夢は切り離せない関係にあります。それどころか、イザヤの預言が成就することを信じているからこそ、私たちは目の前の問題に、平和の使者として向かってゆくことができます。永遠の夢を持つからこそ、私たちの中に、この世の悪に屈しないための力が生まれるのです。

4.救いの完成を先取りした歌(12章)

イザヤ12章は、1-12章の結論部分で、礼拝で言えば最後の頌栄の部分に相当します。そこには、神のさばきによってもたらされた暗黒の時代が過ぎ去り、神の救いを全身全霊で歌うことができる喜びが満ちています。

「その日」(1節) とは、11章の神の救いが完成する日です。神はイスラエルの罪に対して「怒りを燃やされ」、外国を用いてイスラエルを廃墟としますが、その「怒りをひるがえし」、苦しんだ民を「慰めてくださいました」。

それが、「神は私の救い」、「主 (ヤハウェ) こそ・・私の救い」と心から告白されます (12:2)。そして、主の救いは、何よりも、「喜びながら水を汲む」こととして表現されます。エルサレムは山の上にある町で、城壁の中には泉がありませんでした。ですから敵に包囲されたとき、水がないために死の苦しみが待っていました。しかし、水が確保されている限り、エルサレムは天然の要害として敵の攻撃を退けることができました。水は救いの象徴だったのです。

たとえば、後の時代に、仮庵の祭りの最中、祭司たちは七日間の間、毎日、シロアムの池から水を汲み、約1kmの道を上り、神殿の祭壇に水を注ぎましたが、その際、このイザヤ書12章が全会衆によって朗誦されました。

そして、そのような祭りのクライマックスのとき、イエスは神殿の真ん中に立って大声で、「誰でも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい……」(
ヨハネ7:37) と驚くべきことを言われたのです。この12章3節では、「救いの泉から」と追記されていますが、「救い」ということばはヘブル語で「ヨシュア」、それを、ギリシャ語にすると「イエス」です。つまり、イエスは、終わりの日の預言の成就とは、イエスの泉から水を飲むことだと言ったのです。

マイム・マイムという有名なフォークダンスがありますが、これはこの三節のみことばをそのまま歌ったものです。私たちは、「イエスの泉から、喜びながら、水を汲む」者としてこれを踊ることができます。

「その日、あなたがたは言う」(12:4) とは、先の個人の告白が、共同体の告白へと広がることを意味します。そして、私たちは、主の救いの「みわざが、国々の民の間で知られるように」と、「語り告げる」ことが求められますが、それは世界中で主 (ヤハウェ) の「御名があがめられるように」なるためです。賛美の広がりこそ、宣教の目的です。

そして、またその宣教の働きは、「歌え!主 (ヤハウェ) を」とあるように、主への賛美を通してなされるというのです。なぜなら、「主がなさったすばらしいことが全世界で知られるように」(5節)、そのために、「歌え!」と命じられているからです。つまり、賛美こそ宣教の手段であり、また宣教の目的も、賛美の輪が世界に広がることなのです。

そして、その宣教の賛美は、「大声をあげて、喜び歌う」ことを通して伝わります。「救い(イエス)の泉」から生まれる「喜び」こそが、賛美による宣教の原動力です。喜びのない宣教は、力のない教訓に過ぎません。

そして最後に、「大いなる方」、人々の想像を超えた偉大な救いをもたらす方、本来、汚れた民の真ん中に住むことができない「イスラエルの聖なる方」が、「あなたの中におられる」というのです。そうです、全宇宙の創造主は、今、聖霊によってあなたの中に住んでおられます。それこそ、イエスが語られたこと、「生ける水の川が」、イエスを信じる者の「心の奥底から流れ出る」(ヨハネ7:38) と言われたことだったのです。イエスを信じるすべての人の心の奥底には、既に、この生ける水の川の泉が与えられています。私たちは、しばしば、この世的な恐れにとらわれ、またこの世的な発想に縛られて、この泉に自分でふたをして、流れ出ないようにはしていないでしょうか。その泉のふたをあけることができるためにも、ときには、はじけ飛んでマイム・マイムと踊ったら良いのかもしれません。

キング牧師は、I have a dream! と、イザヤ書に約束されている平和の「夢」を、白人と黒人の平和という身近な「夢」に置き換えて訴えることによってアメリカを動かしました。私たちの目の前に、こじれにこじれ、解決が見えないという大きな山が見えるかもしれません。何の希望もないと思えることがあるかもしれません。しかし、私たちの救い主は、神から見捨てられたという罪の暗闇の中を通り過ぎてくださいました。暗闇の中で私たちは十字架のイエスに出会うことができます。そして、十字架のイエスに出会ったものは、復活のイエスにも出会っています。私たちはどんなに弱くても、イエスが私たちとともに歩み、力を与えてくださいます。死の力に打ち勝たれたイエスがともにいてくださるのがわかるから、「私は恐れることなく、明日に向かって生きることができる」と告白できるのです。