先日の日曜日、米国で恐ろしいことが起きました。共和党の大統領候補のトランプ氏が、暗殺されそうになりました。
耳をぶち抜かれていますから、ほんの数センチずれていたら確実に死んでたことでしょう。
すべてが神の御手の中にあるという意味では、全能の主の守りの中で生かされたと考えることもできましょう。 “米国の悲劇——対立を超えて〜創世記3章5節” の続きを読む
主がおられるのに、それを知らなかった〜創世記28:16
母のためにお祈りいただき心より感謝申し上げます。昨日と本日、それぞれ一時間ちかく、母の手を握り、頭に手を置き続けて、お祈りすることができました。昨日は、「忙しいのに、よく来てくれたね……」とはっきりと言ってくれました。僕もつい、「母ちゃん、大好きだよ。母ちゃんがいなかったら僕が存在していないけど、すべて母ちゃんのおかげだよ、本当に感謝しているよ……」と心から言うことができました。 “主がおられるのに、それを知らなかった〜創世記28:16” の続きを読む
目が開かれる体験 —— 恥と癒し〜ルカ24章、創世記3章
イエス様の死からの復活をともに喜ぶことができることを感謝します。 “目が開かれる体験 —— 恥と癒し〜ルカ24章、創世記3章” の続きを読む
「人とその妻はふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった」 —— 35年前の卒業論文〜創世記2章25節
最近、facebook を通して、聖書解釈に関しての様々な対話を重ねています。その中で、35年前に自分が素朴に持っていた疑問が、今、ホットな議論になっていることに気づかされています。それは、第一に私たちが持つ痛みの感覚としての「恥」の意識です。創世記では、アダムとエバが禁断の木の実をとって食べる前の調和が、「人とその妻はふたりとも裸であったが、(互いに)恥ずかしいとは思わなかった」と、エデンの園での調和として描かれています。しかし彼らが神に逆らったことで互いの信頼関係が崩され、そこからアダムがエバに責任を擦り付け、二人から生まれた最初の子が弟殺しになるというストーリーが描かれています。 “「人とその妻はふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった」 —— 35年前の卒業論文〜創世記2章25節” の続きを読む