ルカ17章20〜37節「目の前にある神の国」

2008年6月15日

私たちの生活では、ジェットコースターのような上がり下がりがあるかもしれません。そのようなときに、常に心に留めるべきことは、神の国には、すでに実現しているという側面(already)と、まだ実現していない(not yet)という両面があるということです。そして、そのふたつをつなぐのが、イエスを見上げて生きるということです。 “ルカ17章20〜37節「目の前にある神の国」” の続きを読む

ルカ17章1〜19節「私たちは……なすべきことをしただけです」

2008年4月27日

「古人言く、径寸十枚、これ国宝に非ず。一隅を照す。これ則ち国宝なり、と」は、比叡山の開祖、最澄が日本に広めたことばです。私は高校の修学旅行のとき、根本中堂でこのことばを聞き、いたく感動しました。これは直径が一寸(3.03cm)もある宝石十個よりも、自分に与えられた場で全力を尽くす人こそが国の宝であるという意味です。 “ルカ17章1〜19節「私たちは……なすべきことをしただけです」” の続きを読む

ルカ16章14〜31節「神の恵みをむだに受けないようにしてください」

2008年3月2日

私たちは様々な恵みの賜物を受けています。しかし、それは常に両刃の剣です。富が罠となるように、ある種の才能も罠になります。たとえば、「僕には、道産子の忍耐心がある!」などと自分を誇っていると、それは同時に、「融通の効かない頑固さ」として、人を振り回すことになってしまいます。 “ルカ16章14〜31節「神の恵みをむだに受けないようにしてください」” の続きを読む

ルカ16章1〜13節「小さいことに忠実であること」

2008年1月27日

私は十年間証券会社に勤め、主に営業畑を歩み、退職して牧師になりました。証券会社のことをよく知っている人は、しばしば、「あんなあこぎな商売から早く足を洗って良かったね・・・」とか、「あんな恐ろしい会社をやめて良かったね・・・」はなどと言ってくれます。それを聞くたびに、何か複雑な気持ちになります。 “ルカ16章1〜13節「小さいことに忠実であること」” の続きを読む

ルカ15章「失われていた二人の息子」

2007年11月4日

私は昔、「あなたはどうして、そう肩肘張って生きているの・・・」と言われたことがあります。先日、シンガポールでは、「高橋先生は、完璧から程遠いけれど、何とも愛嬌がある・・」という趣旨のことを何人からも言われ嬉しくなりました。私は昔、「完璧」と「完全」の区別がついていませんでした。 “ルカ15章「失われていた二人の息子」” の続きを読む

ルカ14章15〜35節「神の国の祝宴を目指して」

2007年9月26日

19世紀のドイツの哲学者ショーペンハウアーは、「生への意思」に注目しつつ、「人間の生命は苦難と退屈の間を振り子のように行ったり来たりするものだ」と述べましたが、それは世の多くの人の現実ではないでしょうか。人は苦難から逃れることを望みますが、幸せも束の間、すぐに「倦怠感」が生まれます。それこそ現在の日本の問題でしょう。 “ルカ14章15〜35節「神の国の祝宴を目指して」” の続きを読む

ルカ14章1〜14節「すでにある神のご支配を喜ぶ日」

2007年6月17日

「時は金なり」とこの世の常識が教える中で、神は、「週に一日の休み」を勧めるのではなく、命じておられます。それは、人はいつも、時間でも人でも、何かの目的達成の「手段」におとしめてしまうからです。しかし、一方で、「主の日」を「義務を果たす日」としてしまい、喜びを失っている信仰者も意外に多いのかもしれません。主の日を、神にある「自由」と「喜び」の日として、本来の意味を回復させることは、現代の課題でもあるように思われます。 “ルカ14章1〜14節「すでにある神のご支配を喜ぶ日」” の続きを読む

ルカ13章18〜35節「神の国に生きる祝福」

神の国の成長ということから、ふとフローレンス・ナイティンゲールの伝記を読んで感動したことを分かち合いました。
たったひとりの女性が、世界の医療の歴史を変えたからです。しかし、それは神のみわざでした。
今日のイエス様のお話は厳しいところがあります。イエス様は、「わたしに向って、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者が入るのです」(マタイ7:21)とも言っておられますが、それと同じ趣旨のことがここで語られています。しかし、その厳しさの背後に、何ともいえない優しさが込められています。

2007年6月3日

イエスを主と告白し、神の国の民とされることは想像を絶するほどの大きな祝福です。ところが、その喜びを味わうことができていない人が多くいます。その鍵は、「絶えず祈りなさい」という命令と結びついてはいないでしょうか。なぜなら、神の子とされた恵みは、何よりも祈りの生活の中で体験できるからです。その際、私たちはもちろん遠慮することなく何を願っても良いのですが、それ以前に、祈りの基本は神に聴くことにあるのではないでしょうか。 “ルカ13章18〜35節「神の国に生きる祝福」” の続きを読む

ルカ13章1〜17節「真の安息への招き」

2007年5月13日

先日、人は運動によって五十歳の肉体年齢を八十歳までは保つことができるという記事を読んで感動しました。この世ではこのような原因結果の関係が分ることは大きな励みになりますが、それは両刃の剣でもあります。既に大きな痛みを抱えている人を、「あのことのせいで、自分の人生は駄目になった・・・」という絶望に追いやるからです。 “ルカ13章1〜17節「真の安息への招き」” の続きを読む

ルカ12章13〜34節「あなたのたましいへの気遣い」

2006年12月3日

身体を、健康に、美しく保つための施設が注目を集めています。しかし、「たましい」への気遣いが忘れられてはいないでしょうか?ダビデはサウルから逃げ回り、荒野にいながら、「私のたましいは、あなたに渇き・・・こうして聖所で、あなたを仰ぎ見ています・・・私のたましいが脂肪と髄に満ち足りるかのように・・・喜びにあふれて賛美します」(詩篇63:1,2,5)と歌っています。あなたの「たましい」はどのように養われ、装われているのでしょうか? “ルカ12章13〜34節「あなたのたましいへの気遣い」” の続きを読む