ピリピ2章1〜11節「神のかたちとしての生き方」

2015年12月20日

福音宣教が、「私は惨めな人間でした。そのとき、私は主イエスを見出しました」というパターンに偏りすぎてはいないかと批判されることがあります。確かに、惨めさを知れば知るほど、イエス・キリストの赦しが分かるという面があります。それで、自分の過去の傷や失敗を思い起こすことで、救いのすばらしさを理解しようとするのかもしれません。 “ピリピ2章1〜11節「神のかたちとしての生き方」” の続きを読む

ピリピ2章1〜18節「志を立てさせ、事を行なわせてくださる神」

2013年1月1日

私たちはそれぞれ、他の人から見たら不思議に思えるほどの、偏りやこだわりを持ちながら生きているのではないでしょうか。イエスは、人間的な観点から言うと、なぜ十字架にかけられたのでしょう。それは当時の感覚から言ったら、あまりにもバランスを欠いた「過度」のゆえではないでしょうか?世の人々から尊敬を集めている宗教指導者の偽善をあばいて徹底的に批判し、一方で、やくざのような人と仲良く食事をしたのです。 “ピリピ2章1〜18節「志を立てさせ、事を行なわせてくださる神」” の続きを読む