私たちの視野は非常に狭いばかりか、その思い込みが強化されることがあります。 “ヨナ2章〜4章「あなたは当然のことのように怒るのか」” の続きを読む
ヨナ1章〜2章「主の御顔を避けることの愚かさ」
僕の郷里の近くから育った一学年上の歌手、藤圭子さんが痛ましい死を遂げました。「十五、十六、十七と私の人生暗かった・・・一から十までバカでした、バカにゃ未練はないけれど・・・夢は夜開く」という人生を投げ出したような歌詞が、心に焼き付いています。演歌というより怨歌と呼ばれた歌い方には、人生の不条理に対する彼女の怒りが込められていたのかもしれません。中学時代は勉強が好きで評判になるほど成績が良かったのに、流しの旅芸人のような親に振りまわされて進学をあきらめ、歌がヒットしてもお金は父親の博打に消えて行きます。 “ヨナ1章〜2章「主の御顔を避けることの愚かさ」” の続きを読む
ピレモン「あなたの信仰の交わりが生きて働くものになりますように」
聖書が描く歴史のゴールは「平和(シャローム)」の完成です。「平安」と訳されている言葉は、多くの場合「平和」と訳した方が良いとも言われます。そして、「平和」とは、人間の罪を真正面から見据えながら、しかも、それを赦すことから生まれます。 “ピレモン「あなたの信仰の交わりが生きて働くものになりますように」” の続きを読む
オバデヤ「あなたの報いは、あなたの頭上に返る」
オバデヤ書は旧約聖書中、一番短い書ですが、そこには聖書のメッセージの核心部分が記されています。人はときに同じ親から生まれた兄弟姉妹との関係で深く傷ついたり、また想像を絶する裏切りに合うことがあります。 “オバデヤ「あなたの報いは、あなたの頭上に返る」” の続きを読む
アモス9章「偶像礼拝からの救い」
多くの人々の心には、「これさえ達成できれば、すべてが変わるはず」と思える理想があります。それは、仕事の目標であったり、結婚であったり、子育ての理想であったり、政治理念であったりします。でも、どんな美しい理想も、それ自体が人生の目標とされると、それは偶像になります。 “アモス9章「偶像礼拝からの救い」” の続きを読む
アモス7章〜8章「きょう、もし御声を聞くならば……」
宗教改革者マルティン・ルターは、繰り返し、「救いはただ、一方的な主の恵みによる」ということを宣べました。しかし、彼に始まったドイツのルター派教会は、主の恵みを当然の権利と思うようになって、世俗化して行きました。 “アモス7章〜8章「きょう、もし御声を聞くならば……」” の続きを読む
アモス5章18節〜6章14節「幻想の中で主の日を待ち望む者へのさばき」
将来に対する私たちの見方は、そのときの気分によって大きく変わります。しばしば、鬱状態にある人は、「これから先、生きていても、何の良いこともないに違いない」と思い込んでしまいます。 “アモス5章18節〜6章14節「幻想の中で主の日を待ち望む者へのさばき」” の続きを読む
コロサイ4章2〜8節「キリストの奥義を味わう交わり」
あなたはクリスチャンの特権を十分に味わっているでしょうか?「いつくしみ深き」の原歌詞では、「何というすばらしい友をイエスにあって私たちは持っていることでしょう。彼こそは私たちの罪と悲しみを担ってくださる。すべてのことを祈りのうちに神に持って行けるのは何という特権でしょう。私たちがしばしば平安を失い、不必要な痛みを担ってしまうのは、祈りのうちに、すべてのことを神に携え行こうとしないからです」と歌われています。信仰の喜びは、神との交わりのうちにあります。それはまた目に見える信仰者との交わりを伴うものです。 “コロサイ4章2〜8節「キリストの奥義を味わう交わり」” の続きを読む
コロサイ3章12節〜4章1節「キリストを身に着けた生き方
私たちはすべて、神を賛美し、礼拝し、神の救いを祝うために創造されています。しかし、それに先だって、神ご自身が、あなたを祝っておられることを忘れてはいないでしょうか? “コロサイ3章12節〜4章1節「キリストを身に着けた生き方” の続きを読む
コロサイ3章1〜11節「隠された新しいいのちが明らかにされる歩み」
人はみなどこかで自分を「みにくいアヒルの子」のように思うことがあります。不思議なのは、みんな自分のことをそのように思うことがあるとしたら、実際には、「みにくいアヒルの子」が存在するのではなく、自分をそのように「誤解」している人がほとんどであるということになります。 “コロサイ3章1〜11節「隠された新しいいのちが明らかにされる歩み」” の続きを読む