ゼカリヤ9章〜11章「ろばの子に乗った救い主」

2014年4月13日

イエスは柔和な王として、「子ろば」に乗ってエルサレムに入城されました。それはゼカリヤ書9章に記されていることをそのまま演じたことを意味します。しかし、この箇所は、軍事闘争を正当化しているように読まれる可能性もあります。私たちは救い主に何を求めているのでしょうか。

ゼカリヤ8章までは預言が与えられた正確な年代が記されていました。それは神殿再建工事の真っ最中の紀元前520年から518年のことでした。9章からの記事は、いつの時代に与えられた啓示なのかは不明です。そこに描かれている状況は、明らかにペルシャ帝国の末期から紀元前332年ごろのアレキサンダー大王によるギリシャ帝国のパレスチナ支配とそれ以降の世界情勢に当てはまるように思われるからです。

しかし、この預言書は伝統的に常にひとつのまとまった書として見られてきました。そして、何よりも、主イエス・キリストご自身がこの書を熟読し、この書の預言を生きられたことが明らかだからです。特に、9章と11章を読むことなしに、キリストの受難が旧約預言の成就であったことを知ることは不可能とさえ言えましょう。

1.「主の目は、人に向けられ・・・今、わたしがこの目で見ているから」

9章最初の「宣告」ということばは12章初めにも記されます。ですから、9章から14章は、11章の終わりまでと12章初めからのふたつの部分に分かれます。

なお、「宣告」には「重荷」という意味があります。そして、「主(ヤハウェ)のことばはハデラクの地にあり、ダマスコは、そのとどまる所」と記されますが、「ハデラク」とはシリヤ北部のハマテの近くで、アブラハムに約束された地の最北端、「ダマスコ」はヘルモン山の北にあるシリヤの首都、イスラエル王国を脅かす北の驚異の象徴的な町ですが、それらの町々に「宣告」としての「主のことば」が臨むというのです。

 続けて、「主の目は人に向けられ、イスラエルの全部族に向けられている」とありますが、それによって、イスラエルが異教の国々の支配から解放されるという望みが生まれます。

一方、「これに境を接するハマテにも、また、非常に知恵のあるツロやシドンにも向けられている」とありますが、「ハマテ」は約束の地の北限、ツロとその北のシドンは、ダマスコから西に向かった地中海沿いの海上貿易で栄えた町々で、これらの町々には、主のさばきが下ろうとしています。アハブの妻イゼベルはシドンの王女で、イスラエルにバアル礼拝を持ち込んだ張本人です。

  34節では、都市国家ツロの金銀を積んだ繁栄の様子と、「主はツロを占領し・・ツロは火で焼き尽くされる」というさばきが描かれます。

また、5-7節ではエルサレムの南西の地中海沿いのペリシテの四つの町々に対する主のさばきが描かれますが、その際の主ご自身の意図が、「わたしはペリシテ人の誇りを絶やし、その口から流血の罪を除き、その歯の間から忌まわしいものを取り除く」と描かれます。同時に彼らが絶滅を免れる様子が、「彼も、私たちの神のために残され、ユダの中の一首長のようになる。エクロンもエブス人のようになる」と描かれます。

エクロンとは四つの都市の中でエルサレムに最も近い町、エブス人とはエルサレムの先住民族で、ダビデによって完全に征服された民です。ですから、ここでは、これらのイスラエルを苦しめ続けたペリシテの町々は、主のさばきを受け、完全にアイデンティティーを失いながら、細々とユダの氏族の一部となって残されると描かれているのです。

8節では、主ご自身が、イスラエルの民の住まいを「わたしの家」と呼びつつ、ご自身の守りの確かさを、「わたしは、わたしの家のために、行き来する者を見張る衛所に立つ。それでもう、しいたげる者はそこを通らない。今わたしがこの目で見ているからだ」と約束されます。

1節で述べられた「主の目」がここにも引用され、8節までの一連の文章を通して、主の目が主の民に向けられ、守り続けてくださるということが強調されています。

イスラエルの民はこれらの近隣諸国の驚異に人間的な政策で対処しようとして、自分たちのアイデンティティーを失ってしまい、国を滅ぼすに至りましたが、大切なのは、いつでもどこでも主の眼差しを意識して生きることだったのです。

2.「あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜り、柔和で、ろばに乗られる」

9章 9節は、イエスの十字架にかけられる前の「しゅろの日曜日」のエルサレム入城において成就した預言として有名です(ヨハネ12:12-15)

ただ、マタイ21章によると、これはイエスご自身が父なる神との交わりの中で、慎重に準備されたことであると分かります。イエスは、ゼカリヤ9章を黙想しながら、父なる神がご自分のために「ろばの子」を用意しておられることを知り、弟子たちに連れて来させ、ご自分がこの預言を文字通り成就する救い主であることをエルサレム中の人々に明らかにされたと言えます。私たちもイエスの心になってこの箇所を味わってみましょう。

 預言者ゼカリヤはここでまず、「シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜り、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに」と記しています。

この背景には、ダビデが自分の後継者がソロモンであることを人々に明らかに示すために、祭司ツァドクと預言者ナタンを遣わし、ソロモンをダビデの雌騾馬に乗せ、当時のエルサレム城壁の東にあったギホンの泉に下って行かせ、そこで任職の油を注いて、「ソロモン王。ばんざい」と叫ばせたという故事があります。

それにしても、ここでは特に、「あなたの王があなたのところに来られる」と描いた上で、その方の特質を、「正しい方で、救いを賜り」とばかりか、「柔和で」と描かれていることです。この箇所はユダヤ教の標準英語訳では「He is victorious, triumphant, Yet humble」と訳され、王としての勝利の入城が強調されています。

なお、マタイの福音書ではこの「柔和」ということばのみを記すことで、読者の期待する「勝利」ではない不思議な「救い」を示唆しています。

そして、「柔和」であることのしるしが、「雌ろばの子の子ろば」に乗るという形で現されます。戦いを主導する王であるならば、馬に乗って来るはずで、「子ろば」に乗るという行動に、人々の常識を変えるという意味がありました。

なお、ゼカリヤ書では続けて、主ご自身が「ろばの子」に乗ったイスラエルの「王」によって実現する救いを、「わたしは戦車をエフライムから、軍馬をエルサレムから絶やす。戦いの弓も断たれる。この方は諸国の民に平和を告げ、その支配は海から海へ、大川から地の果てに至る」(10)と描いています。

つまり、主ご自身が、「戦車」も「軍馬」も「戦いの弓」などの戦いの道具を、主の民の間から絶やしてしまい、また、救い主である王自身が、「諸国の民に平和を告げ」、「海から海」、「大川から地の果て」までにおよぶ全世界を「支配」されるというのです。

  そして、11節ではまず、「あなたについても」と、外国の支配下に置かれているイスラエルの民に向かって、「あなたとの契約の血によって、わたしはあなたの捕らわれ人を、水のない穴から解き放つ」と約束されます。彼らに与えられる救いは、彼らが勝ち取ったものではなく、主ご自身がアブラハムと結んでおられる契約に基づくものなのです。

その上で、12節では、まず、「とりでに帰れ」と命じられます。それは真の砦である神のもとに立ち返るようにという回心の勧めです。そして、その対象が、「望みを持つ捕らわれ人よ」と解説されます。これはイスラエルの民がなお、バビロン捕囚から解放されても外国の圧政下に置かれていることを示したものです。

私たちはこの地にあってはある意味で「捕らわれ人」ですが、私たちは「望みを持つ」という心の自由を奪われることはありません。「望み」に関してここでは、主ご自身が、「わたしは、きょうもまた告げ知らせる。わたしは二倍のものをあなたに返す」と言われます。

「きょうもまた」と記されているのは、イザヤ40:261:7でほとんど同じ表現があったからですが、ここでは、すでに失われたダビデの時代の繁栄、失った祝福の二倍のものが返されるというイメージが前面に出されます。 

13節は、「なぜなら、わたしはユダを曲げてわたしの弓とし、これにエフライムを(矢として)つがえたのだから」と訳すことができます。先に、主ご自身が「戦いの弓」を無くすと言われましたが、ここでは武具を持たない神の民自身を神ご自身の戦いの道具とされるというのです。

キング牧師やマンデラ氏は暴力を否定しながら、敢然と圧政者と戦いました。死を恐れずに丸裸で敵に立ち向かう神のしもべを、神ご自身が守り、用いてくださいます。それは、「シオンよ。わたしはあなたの子らを奮い立たせる」とあるように、主の聖霊を通してなしてくださるみわざです。

なお続けて「ヤワン(ギリシャ)はあなたの子らを攻めるが、わたしはあなたを勇士の剣のようにする」と記されるのは、後に、ギリシャが力を持って中東地域を支配し、神の民を迫害することを示唆したものと思われます。ギリシャの王に関しては、ダニエル821節にも明確に記されています。

なお、紀元前490年のマラトンの戦いで、ギリシャ都市国家連合軍がペルシャ帝国に奇跡的な勝利を遂げますが、それはゼカリヤの最初の預言から30年後のことです。

ですから、ここに描かれていることは、後のアレキサンダー大王の登場やエルサレム神殿を汚したアンティオコス・エピファネスの登場の可能性を示唆するものかもしれません。のちにユダ・マカベオスは、この預言を成就するかのように、「勇士の剣」となることによってギリシャの支配からの独立を導きますが、ゼカリヤの預言の中心は、武力闘争ではなく、神の民自身が、自分自身のからだを神の武具として差し出すことでした。

  1415節では、主のみわざが、「主(ヤハウェ)は彼らの上に現れ、その矢はいなずまのように放たれる。神である主は角笛を吹き鳴らし、南の暴風の中を進まれる。万軍の主(ヤハウェ)が彼らをかばう」と描かれます。

そして15節の新改訳は、主の民がまるで血に飢えているような誤解を与えますが、原文に「血」ということばはありません。この箇所は勝利の祝宴を描いていると解釈すべきで、「彼らは、石投げ器の石を踏みつけながら、食べる。また、ぶどう酒に酔ったかのように、騒ぎながら飲む。まるで、祭壇の四隅に注ぐための鉢のように満たされる」と訳すことができます。

そして、その勝利の喜びの様子が、1617節で、「その日、彼らの神、主(ヤハウェ)、彼らを主の民の群れとして救われる。彼らはその地で、きらめく王冠の宝石となる。それは、なんとしあわせなことよ。それは、なんと麗しいことよ。穀物は若い男たちを栄えさせ、新しいぶどう酒は若い女たちを栄えさせる」と美しく表現されます。

残念ながら今も昔も、主が私たちを「勇士の剣のようにする」と言われるとき、私たちは武器を取って、敵の血を流しながら勝利をおさめるというイメージを抱きがちです。

しかし、主はここでまず、神の民から武器を絶やし、主ご自身が主の民を「かばう」、「救われる」と約束しておられるのです。復活の主に出会った弟子たちは、剣を捨て、柔和に神のみことばだけを宣べ伝えながら、最終的にローマ帝国をキリストのもとにひざまずかせました。 

3.「わたしは彼らを連れ戻す。わたしが彼らをあわれむからだ」

10章の初めは、「後の雨の時(春の雨季)に、主(ヤハウェ)に雨を求めよ」と記されます。当地ではバアルは雨をもたらす雷の神かのように当地では慕われていましたが、ここでは、「主(ヤハウェ)」ご自身が、「いなびかりを造り、大雨を人々に与え、野の草をすべての人に下さる」と描かれます。

2節の「テラフィム」とは家の祭壇に飾られた偶像で、それが、「つまらないことをしゃべる」とともに「占い師」や「夢見る者」の惑わしによって、「人々は羊のようにさまよい、羊飼いがいないので悩む」と描かれます。

それに対してここでは、主ご自身が、「わたしの怒りは羊飼いたちに向かって燃える。わたしは雄やぎ(指導者)を罰しよう」(3節)と、イスラエルの指導者に対するさばきが宣言されます。 

ただそれに続き、「万軍の主(ヤハウェ)はご自分の群れであるユダの家を訪れ、彼らを戦場のすばらしい馬のようにされる」と約束されます。これは異教徒の軍事力に恐れていた「ユダの家」が、誇りに満ちた王の馬のようにされることを意味します。

また、45節では、彼らが主の戦に豊かに用いられる様子が「この群れから」という四回に繰り返しで描かれますが、その結果が、「馬に乗る者どもは恥を見る」と記されます。これは、主ご自身が主の民を守ってくださるので、勇猛な馬に乗って戦いを挑んでくる敵の勇士たちが恥じ入らざるを得なくなるという意味です。

そして、6節では、主ご自身が、「わたしはユダの家を強め、ヨセフの家を救う。わたしは彼らを連れ戻す。わたしが彼らをあわれむからだ」と約束してくださいます。そればかりか、バビロン捕囚の悪夢が終わることが、「彼らは、わたしに捨てられなかった者のようになる」と描かれ、その理由が、「わたしが、彼らの神、主(ヤハウェ)であり、彼らに答えるからだ」と、すべてが主の選びに基づくことが明らかにされます。

また、78節では、北王国の回復が、「エフライムは勇士のようになり・・・その心は主(ヤハウェ)にあって大いに楽しむ。わたしは彼らに合図して、彼らを集める。わたしが彼らを贖ったからだ。彼らは以前のように数がふえる」と描かれます。

そのプロセスを要約しつつ9節で、主は、「わたしは彼らを国々の民の間にまき散らすが」と言いながら、「彼らは遠くの国々でわたしを思い出し、その子らとともに生きながらえて帰って来る」と、彼らが放蕩息子のように遠い国で神を思い出すことが描かれます。 

  10節で主は、「わたしは彼らをエジプトの地から連れ帰り、アッシリヤから彼らを寄せ集める」と言いつつ、民の数が急増するので、「わたしはギルアデの地とレバノンへ彼らを連れて行くが、そこも彼らには足りなくなる」と言われます。「ギルアデ」はヨルダン川東岸の豊かな地、「レバノン」もイスラエル北部の森林地帯ですが、そこが狭くなるほどに、北王国の繁栄が回復されるというのです。

そして、1112節では彼らの誇りの回復が、「彼らは苦難の海を渡り、海では波を打つ・・・彼らの力は主(ヤハウェ)にあり、彼らは主の名によって歩き回る」と描かれます。

111-3節は、1010節との関連で理解されるべきです。先にギレアデと呼ばれたヨルダン川東岸の地はここではバシャンとして描かれます。ここに登場するレバノンの「もみの木」も、「バシャンの樫の木」も、その地の繁栄と豊かさの象徴ですが、それらの地は、かつてはダビデ王国の支配地でありながら、このときは神の民の敵によって支配されていました。

しかし、そこにエレミヤ2534-37節に預言されたような、主の燃える怒りが臨み、その支配者である「牧者たち」が嘆きに追いやられるというのです。また、自分の力を誇る「若い獅子」としての権力者も、自分の支配地が主の怒りを受けて荒らされ、権力基盤がなくなることを嘆きつつ、「ほえる」というのです。

なお、この箇所は、114-17節に記された良い牧者を拒絶した結果による主のさばきと理解されることもあります。 

なお、エフライムを代表とする北王国はその後、捕囚として散らされた地において異教徒と混ざり合ってしまい、主のみことばを捨ててしまい、自分で救いへの道を閉ざしてしまいました。エフライムという部族がなくなった以上、この救いの計画は、文字通りに成就されることはありません。

しかし、キリストの復活以降、彼らへの約束は全世界の民において成就して行きます。そのことをペテロの手紙第一では、異邦人に向けて、「あなたがたは。選ばれた種族、王である祭司、神の所有とされた民です・・・あなたがたは、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者です」と記しています(2:9,10)

4.「私はもう、あなたがたを飼わない。死にたい者は死ね」

114-17節は、「良い牧者」としてのキリストご自身が、ご自分の民によって退けられる様子が描かれています。イエスはご自分が、たった銀貨三十枚で、弟子のユダによって売り渡されることを、この箇所を通してして知っておられました。この箇所は、イエスご自身のお気持ちになって読むと、イエスの葛藤が理解できるかもしれません。 

4-6節は、ゼカリヤが「私の神、主(ヤハウェ)」と呼びながら、主からの「ほふるための羊の群れを養え」という命令を記します。「羊」は、権力者の犠牲にされるイスラエルの民です。5節では、彼らの支配者である「牧者たち」が皮肉にも、「主(ヤハウェ)はほむべきかな。私も富みますように」と言いつつ、民を売って金儲けしている姿が描かれます。

そして、6節では、その背後に、主ご自身が、「この地の住民を惜しまない」と言って、彼らを「隣人の手」や、「王の手」に「渡し」てしまわれたということがあったと描かれます。

イエスも、父なる神からイスラエルの民を養うように命じられていました。彼らは身勝手な指導者を自分で選び、救いの御手を拒絶し、神から見放される道に自分から向かって行きました。

ですからイエスはご自分の十字架への歩みを悲しむ人たちに向かって、「エルサレムの娘たち。わたしのことで泣いてはいけない。むしろ自分自身と、自分の子供たちのことのために泣きなさい」(ルカ23:28)と言われました。イエスは、今まさに、ローマ帝国に滅ぼされようとしている民を必死に守ろうとしておられたのです。 

  7節では、ゼカリヤが主の命令を受けて、「羊の商人たちのために、ほふられる羊の群れを飼った」と記されますが、その際、「二本の杖を取り、一本を『慈愛』と名づけ、他の一本を、『結合』と名づけた」というのです。

良い牧者は、イスラエルに「慈愛(好意)」と「結合」をもたらす救い主として、誠実な務めを果たします。これは、イエスがご自分の民から退けられることを予期しながら、ご自分の民の痛みを担い続けたことに相当します。

しかし、そのような中でゼカリヤは、「私は一月のうちに三人の牧者を消し去った。私の心は、彼らにがまんできなくなり、彼らの心も、私をいやがった」(8)と述べます。

これは彼が、民の指導者に怒りを燃やされる主のお気持ちを代弁して語ったことばと解釈できます。イエスご自身も、当時の宗教指導者に対して怒りを燃やされました。 

  続けてゼカリヤは、「私はもう、あなたがたを飼わない。死にたい者は死ね。隠されたい者は隠されよ。残りの者は、互いに相手の肉を食べるがよい」と言います(9)。これは羊飼いの導きを拒絶する民を見放して、「やりたいようにやらせ、自滅するのを見守る」という姿勢です。

イエスご自身もご自分を拒絶した民に向かって、「ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者。わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。見なさい。あなたがたの家は荒れ果てたままに残される」(マタイ23:37,38)と言われました。それは、エルサレムの町と神殿が、この約四十年後に、ローマ帝国によっては廃墟とされることを知っておられたからです。

その後ゼカリヤは、「慈愛の杖を取り上げ、それを折った」(10)というのです。そればかりか彼は、「良い牧者」としての契約を閉じるにあたって商人たちに、「あなたがたがよいと思うなら、私に賃金を払いなさい。もし、そうでないなら、やめなさい」と言います。

それに対し、「すると彼らは、私の賃金として、銀三十シェケルを量った」と(12)いうのです。これは奴隷が牛に突き殺された際に支払われる賠償金で(出エジ21:32)、これより安い賃金はないと言えるほどです。

それに対し、主はゼカリヤに、「彼らによってわたしが値積もりされた尊い価を、陶器師に投げ与えよ」と言われます。それは、主ご自身がイスラエルの指導者によって「値積もりされた」という意味で、イエスも同じ代価でご自分の弟子ユダによって売り渡されます。

そしてその結果がここでは、「そこで、私は銀三十を取り、それを主(ヤハウェ)の宮の陶器師に投げ与えた」と描かれます(13)。イエスも同じ値段で売られましたが、マタイ27910節ではこの預言の成就として陶器師の畑を買う代金に用いられたと記されます。

なお、マタイでは「預言者エレミヤを通して言われたこと」とありますが、これはこの預言がエレミヤ19章等の大きな枠の中に入っているからだと思われます。イエスご自身も、弟子に裏切られる悲しみの中で、このゼカリヤの預言を思い巡らしていたことでしょう。

  そして、14節では、「そして私は、結合という私のもう一本の杖を折った。これはユダとイスラエルとの間の兄弟関係を破るためであった」と記されます。これは、イスラエルが内紛によって滅亡する様子を描いたものと言えましょう。とにかく、良い牧者を退けたイスラエルの民は、ローマ帝国に無謀な戦いを仕掛け、自滅して行きます。

  15-17節は、愚かな牧者の役割を演じるようにゼカリヤに告げたものです。そこでその特徴が、「彼は迷い出たものを尋ねず、散らされたものを捜さず、傷ついたものをいやさず、飢えているものに食べ物を与えない。かえって肥えた獣の肉を食らい、そのひづめを裂く。ああ。羊の群れを見捨てる、能なしの牧者」と描かれます。

イエスはそのことを思いながら、「わたしは良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます」(ヨハネ10:11)と言われました。イエスを拒絶したイスラエルの民は、その後、次々と「愚かな牧者」に支配されて滅亡に向かって行きました。

イエスは、イスラエルの民を襲うその後の悲劇を知っておられたからこそ、十字架にかけられながら、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているか自分で分からないのです」と祈られました。これは、主の赦しを願う祈りであるとともに、その祈りをあざ笑う者へのさばきの宣言ともなります。主の赦しを軽んじてはなりません。

イエスは、人間的な目からは、敗北としか見えない道に向かって行かれました。しかし、それはゼカリヤの預言をご自分で生きたということでもあります。主は、人間的な意味での戦いを拒絶し、「ろばの子」に乗ってエルサレムに入城されました。イエスはご自分の尊い働きが、当時の奴隷の価値にも評価されないことを知っておられました。

しかし、主は、そのいのちを捨てた姿勢こそが、「勇士の剣」(9:13)としての生き方だったのです。主はそれによって私たちをサタンの支配の手から贖い出してくださいました。

イエスの時代の人々は、柔和な王を拒絶して、自分たちの武力闘争を正当化し、自滅しました。私たちも惑わされてはなりません。真の強さとは、人間的な強さを捨てられることに現されます。永遠のいのちを確信しているからこそ、目先の損得勘定を超えた生き方ができるのです。