2015年10月21日は、30年前に公開された映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』の日として話題になりました。映画の中では、過去を変えてその未来に戻り、変えられた現代を喜ぶという話しですが、この発想と違ったback to the futureがあるように思います。それは、「新しい天と新しい地」が、すでに実現したかのように、つまり、未来の視点から現代を見直すということです。 “ヨハネ11章1〜27節「わたしは、よみがえりです。いのちです」” の続きを読む
ホセア13章〜14章「いのちの喜びの復活」
しばしば、預言というと、未来のことが予め神から知らされることとして理解されがちですが、預言書全体には、「イスラエルの死と復活」という一貫したメッセージがあります。 “ホセア13章〜14章「いのちの喜びの復活」” の続きを読む
レビ21章〜23章「人間の奴隷とならないために」
2015年10月18日
この世では、「時は金なり」と言われます。そして、自分の働きの結果ばかり気にすると、「休み」は最小限にすべきと思われます。しかし、このことばで有名になった米国独立の父と呼ばれるベンジャミン・フランクリンは、何よりも、規則正しい生活を大切にした人であり、際限なく働くことを勧めたわけではありません。 “レビ21章〜23章「人間の奴隷とならないために」” の続きを読む
レビ17章〜20章「聖なる神の基準で、隣人を愛する」
2015年10月11日
バブル経済が崩壊してまもなくの頃、「同情するなら金をくれ」と12歳の女の子が叫ぶドラマが大きな人気を博しました。そこには、薄っぺらな同情に、「家なき子」への残酷とも言える軽蔑が込められていたことへの皮肉があったのかもしれません。 “レビ17章〜20章「聖なる神の基準で、隣人を愛する」” の続きを読む
ヨハネ10章22〜42節「わたしと父とは一つです」
私たちはいつも、目の前の問題解決に心を奪われますが、それが別の問題を生み出すということを忘れてはいないでしょうか。たとえば、医療の公平性を守ろうと必死になる結果として、すべてが細い点数でコンピューター管理され、医者の自由裁量による心の通った医療が難しくなってきたとも言われます。イエスによる癒しのみわざが、「安息日破り」として非難されたことに通じる面があります。 “ヨハネ10章22〜42節「わたしと父とは一つです」” の続きを読む
レビ16章「贖罪の日-キリストの十字架の原型」
2015年9月27日
日本には、大晦日から元日にかけて百八つの除夜の鐘を聞き、一年の歩みを振り返りながら、自分を駆り立てていた様々な煩悩を過ぎ去らせて、新しい年を迎えるという習慣があります。それは三千数百年前のこの教えの影響を受けているのかも知れません。 “レビ16章「贖罪の日-キリストの十字架の原型」” の続きを読む
イザヤ65章17〜19節「神のシャロームを待ち望みつつ」
多くの人にとっての天国のイメージは、愛する人、尊敬する人が、神の光に包まれ、主を賛美している祝福の世界ではないでしょうか。それを示唆する箇所が黙示録4,7章などにあるようにも見えますが、そこのテーマは、天での勝利への賛美が、不条理に溢れる地に実現することに他なりません。 “イザヤ65章17〜19節「神のシャロームを待ち望みつつ」” の続きを読む
ヨハネ9章41節〜10章18節「豊かないのちを与えてくださる牧者」
多くの人は、「主(ヤハウェ)は、私の飼い主。私は乏しいことがありません。主は私を緑に牧場に伏させ、憩の水際に伴われます。主は私のたましいを立ち返らせ、御名のために、義(ただ)しい道筋に戻されます。たとい、死の陰の谷を歩むことがあっても、わざわいを恐れはしません。あなたが、いつもともにいてくださいますから」という詩篇23篇のみことばに慰めを得ています。 “ヨハネ9章41節〜10章18節「豊かないのちを与えてくださる牧者」” の続きを読む
レビ11章〜15章「聖なる者とされる」
2015年9月6日
しばしば、キリスト教国に行くと、障害者の多さに驚くという人がいます。しかし、統計的には日本と何の差もありません。日本では障害を恥じ、また隔離するから目に付かなかっただけです。そこには、枠から外れた人を排除する文化があります。そして、本日のレビ記の箇所にも同じような排除の原理が記されているのでしょうか? “レビ11章〜15章「聖なる者とされる」” の続きを読む
レビ8章〜10章「聖なる神との親密な交わりのために」
2015年8月23日
レビ記には礼拝規定とともに、神によるふたつの死刑が記されます (他は24:10-14)。両方とも、創造主を神としてあがめなかったことに対するさばきです。 “レビ8章〜10章「聖なる神との親密な交わりのために」” の続きを読む