民数記27章12節〜30章「あなたがたの霊的な礼拝」

2016年6月19日

以前、米国行きの飛行機に一人で乗った時、出発直前に、エコノミーの料金でビジネス・クラスへの変更をしていただけました(重量バランス対策)。そこで初めて受けた待遇はとても気持ちの良いものでした。同時に、エコノミークラスに乗ることが初めて惨めに思えたばかりか、「ファーストクラスに乗ってみたいな・・」とまで思ってしまいました。

お金持ちになると、いろんな場面で、人は特別待遇を受けることができます。ここに、お金の力と誘惑があります。お金があると、世のため人のために様々な良い働きができますが、お金の魅力は何よりも、その持ち主に、「お前は、重要な存在だ」と思わせてくれる力にあるのではないでしょうか。

しかし、それは本来、創造主なる神が、私たちに与えようとしておられるアイデンティティーです。だからこそ、多くの人々にとって、お金は神の代わりになってしまいます。それを前提に、「金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました」(Ⅰテモテ6:10)と記されています。

ただ、そのためにお金の大切さを忘れてしまうのも問題と言えましょう。信仰の父アブラハムは、「相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くかを知らないで、出て行きました」(ヘブル11:8)とその信仰が称賛されています。確かに彼は、当時の文化の中心地であったカルデヤのウルを離れて旅に出ましたが、それは決して、みすぼらしい家族の移動ではありませんでした。

彼は一度エジプトに下った後にカナンに戻り、そこで甥のロトを救出するために急遽、軍隊を組織したことがありますが、そこでは「彼の家で生まれたしもべども318人を召集して・・追跡した」創世記14:14)と記されています。つまり、それほどの兵士が生まれる集団として、彼は旅を始めていたのです。

鍋谷氏は、これを「使用人だけで500人にはいたであろう大集団による移動で・・・新しく牧畜業を始め、多くの使用人を雇い入れ、また、物々の売買や交換によって財産を増やして行く事業家のイメージにふさわしい」と言われるほどのものと述べます。

また、「アブラムは家畜と銀と金とに非常に富んでいた」(創世記13:2)という記述から、「彼が神の声に従って行く先を知らないで、出て行った先々で、アブラハムは今日的でいえば『村おこし』をし、財のつくり方のモデルとなっていたかもしれない」と記しています。

一方イエスは、公生涯の初めにユダヤ人の会堂でイザヤ書61章1節を開いて、「主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれた」と言われました(ルカ4:18)。その福音とは、貧しい人々を貧困と抑圧から解放するという趣旨のものでした。

主は、私たちがこの地で神からのビジョンを受けて大胆に行動し、成功を収めることを喜んでくださいます。しかし、それは決して、ファーストクラスの特別待遇を受けながら、エコノミークラスの人をあわれむような成功志向ではありません。神が与える祝福は、私たちを謙遜に導きますが、この世の富がもたらす成功は、人々を傲慢にします。その結果、富が争いを引き起こします。

本来、主に財をささげることこそ、謙遜を学ぶための訓練とも言えるかもしれません。

1.「主の会衆を、飼う者のいない羊のようにしないでください」

モーセは、荒野の四十年の旅路の最終局面で、主(ヤハウェ)を「彼らの目の前に・・聖なる者としかなかった」(27:14)ことのため、約束の地に入れないと再度宣告されます。

過ちの根本は、主がモーセに、「岩に命じれば・・岩は水を出す・・会衆と家畜とに飲ませよ」(20:8)とあわれみに満ちたみことばを宣べられたのに、それを歪め、「彼の杖で岩を二度打って(20:11)、自分の権威を示したことにありました。

ここでモーセは「すべての肉なるもののいのち(霊)の神、主(ヤハウェ)よ」(27:16)と呼びかけます。これは、自分のいのちが、主の御許しなしには一瞬ともあり得ないことを謙遜に認めた表現です。

その上で、「ひとりの人を会衆の上に定め、彼が・・先立って出て行き・・また彼らを・・入らせるようにしてください。主(ヤハウェ)の会衆を、飼う者のいない羊のようにしないでください」(27:17)と嘆願します。ここには多くの羊の先頭に立って、羊たちを牧草地に導き、また夜は囲いの中に入れて休ませる羊飼いの仕事が描かれており、モーセはその人に自分に代わって民を導かせてほしいと願った言葉です。

そこには至極当然な「この会衆の頑なさのせいで主のさばきを受け・・・」という恨みは見られません。彼は不信仰な民を「主(ヤハウェ)の会衆」と呼びつつ、今後のことを気遣っています。それは「地上では旅人であり寄留者であることを告白」(ヘブル11:13)する生き方です。

「私の働き」という気持ちが、所有欲に結びつき、主のみわざの障害となります。モーセは「私が・・」と主張して、主を聖なる者としなかった反省を十分にしているのです。

しかも、興味深いのは、モーセにとっての後継者はヨシュア以外には考えられなかったはずなのに、あくまでも主(ヤハウェ)に「ひとりの人を・・・定めてください」と願ったことです。

ヨシュアは、イスラエルの民が紅海を通って荒野に入ってすぐ、アマレクとの戦いの指導を委ねられています(出エジ17:9)。またモーセが律法を受けるためにシナイ山に上った時、ヨシュアを従者として同行させています(同24:13)。また、カデシュ・バルネアで約束の地を探らせるために十二部族それぞれから代表者を遣わそうとした時、エフライム部族からはヨシュアを選びますが、そのとき、「モーセはヌンの子ホセアをヨシュアと名づけた」(民数記13:16)と記されますが、これは明らかに、モーセがヨシュアの新たな名付け親となり、ヨシュアを後継者として育てるという意味が込められています。

つまり、モーセは会衆のただ中でヨシュアを後継者として訓練してきたのですが、最終判断は、あくまでも主ご自身に委ねているのです。

これは教会の後継者人事に関しても適用できます。私たちは誰かを選んで後継者として訓練し育てることができたとしても、その最終的な決断は、最後の最後まで主にお任せして、既成事実としてはならないのです。

主(ヤハウェ)はご自身の判断として、ヨシュアを後継者として任命させますが、その際モーセに「あなたは、自分の権威を彼に分け与え。イスラエル人の全会衆を彼に聞き従わせよ」(27:20)と言います。

「権威を・・」とは、「威光のいくつかを・・」とも訳せる言葉で、ヨシュアとモーセの立場の違いを顕にします。これは、ESVなど多くの英語訳では、You shall invest him with some of your authorityと記されており、ヨシュアはモーセに預けられていた権威または栄光の一部が委ねられるに過ぎません。

27章21節にあるように、ヨシュアには、アロンの後継者エリアザルがウリム(くじのようなもの)で神のみこころを求めた結果にただ従うことが命じられ、モーセのように顔と顔とをあわせて主と語り、主のことばを取り次ぐ栄誉に浴してはいません。

そこでは、「ヨシュアと彼とともにいる全会衆は、エルアザルの命令によって出、また彼の命令によって、入らなければならない」と命じられます。これ以降、イスラエルの民は、大祭司アロンの子を通して神のみこころを知り、政治、軍事的な指導に関してはヨシュアに従ってカナンの敵と戦うようになるのです。モーセの働きが、大祭司とヨシュアとの間で分けられることになりました。

これを通して、主は、モーセの謙遜な応答に対し、彼に与えた栄誉を思い起こさせたとも言えます。モーセが受けた栄誉は、約束の地を自分の足で踏むヨシュアの栄誉に、はるかにまさるものです。

あなたにも、全身全霊を傾けた働きの半ばで、それを他人に譲らざるを得ないことが起こり得ます。しかしその際、その働きを主の救いのみわざの全体像の中での一部分としてとらえ、結果よりも与えられた使命を果たせたことを、しかも後継者に引き継げること自体を喜ぶべきでしょう。

その最たるものは主の教会です。地上のどのような組織も百年以上続くことは稀です。しかし、教会は様々な困難を潜り抜けながら二千年間続き、なおも成長を続けています。それは、教会が単なる人間的な組織ではなく、「キリストのからだ」であることのしるしです。

しばしば、真のキリストの教会か、新興宗教的な組織であるかは、その指導者の謙遜さで判断されます。それがなければ、働きは真の意味で引き継がれないからです。

2.「主へのなだめのかおりの火によるささげもの」

28,29章はひとつのまとまりで、「主(ヤハウェ)はモーセに告げて仰せられた」から始まり、「モーセは、主(ヤハウェ)が命じられたとおりを、イスラエル人に告げた」で終わります。ここでは一年を通しての幕屋での礼拝規定が記されます。

これはレビ記23章に対応しますが、レビ記では「いっさいの仕事をしてはならない」などの時間の聖別が強調されているのに対し、ここでは「大量なささげもの」という「財産の聖別」がテーマになっているとも言えます。

また、民数記15章では、イスラエルの民の約束の地への侵入が約40年間も遅らされるというさばきが下された後に、約束の地に入ってからの「穀物、油、ぶどう酒」のささげ物を命じることで、約束の地での豊かな収穫を思い起こさせました。一方ここでは、その時毎にささげられるべき動物のいけにえの量が規定されます。

なお、ヨシュア記5章6-11節には、イスラエルの民はカデシュ・バルネア以降の荒野の四十年間、割礼も授けられず、過越も祝うことができなかったと記されているので、ここでモーセに命じられたいけのえの規定は、ヨルダン川を渡って後に用いられるものと言えましょう。

これは、主がモーセを通して語る最後の礼拝規定という位置づけになります。

ここでは「なだめのかおりの火によるささげもの」(28:2)ということばが繰り返されますが、厳密には、「安息のかおり」(英訳 NKJではa sweet aroma、ESVではmy pleasing aroma)と記されています。それは「全焼のいけにえ」として全てを焼き尽くすものです。

「主(ヤハウェ)は、そのなだめのかおりをかがれ」(創世記8:21)、ご自身の怒りを鎮めて、民の真ん中に住むことができます。そこに想像を絶する祝福が始まるのです。主は、ご自身にお献げしようとする私たちの心自体を喜び受け入れてくださるというのです。

約束の地において、彼らは「常供の全焼のいけにえ」(28:3)として、朝夕一頭ずつ「一歳の傷のない雄の子羊」を毎日ささげるように命じられました。

それが、安息日には二倍になりました(28:9,10)。

また、「月の第一日」(新月の祭り)には、「雄牛二頭、雄羊一頭、一歳の傷のない雄の子羊七頭」を、それぞれ「全焼のいけにえ」として(28:11)、「常供のいけにえ」に追加されました(28:15)。そして、これらに添えて、規定量の「油を混ぜた小麦粉」、また「注ぎのささげ物」としてのぶどう酒が命じられましたが、それらも全て焼き尽くすもので、供えた後に祭司が食べることができるような供物ではありません(28:13)。

そして、主の例祭の「過越の祭り」の七日間毎日と、「七週の祭り(ペンテコステ)」の一日にも同量のささげ物と(28:16-31)、そのたびに「罪(きよめ)のためのいけにえ」として「雄やぎ」一頭が命じられました。

「第七の月の第一日」(29:1-6)は、後の新年の祭りで、ラッパが吹き鳴らされる日でした。そこでは若い雄牛一頭、雄羊一頭、子羊七頭、雄やぎ一頭が、毎月の新月の祭りのいけにえに追加されました。

「第七の月の十日」(29:7-11)はレビ記16章の「贖罪の日」ですが、この日のいけにえも先の追加分と同量でした。

ただし、罪のための雄やぎは、レビ記で指定されていた一頭への追加でした(29:11)。

そして、「第七の月の十五日」のことが記されます。その日は、それぞれの祭り同様に「聖なる会合を開かなければならない(礼拝への出席命令)。どんな労役の仕事もしてはならない(職業としての仕事の停止命令)」(29:12)と繰り返されます。

これらの日は年間七日間あり、レビ記23章に描かれていました。

その日から始まる七日間の祭りは、「仮庵の祭り」と呼ばれ、祭りの第一日目は、何と十三頭もの「若い雄牛」と、それまでの二倍の、雄羊二頭、子羊十四頭が命じられました。雄牛の量は一日毎に減らされ、七日目には七頭になりますが、雄羊と子羊は同数のまま七日間続きます。

そして八日目のきよめの集会になって、「贖罪の日」のいけにえと同数になります。

そしてこれらを合計するとこの八日間で、雄牛71頭、雄羊15頭、子羊105頭、やぎ8頭になりますが、これらは常供のささげものに加えてのもので、やぎ以外は全て全焼のいけにえです。これは現代の人には、野蛮な無駄?と見られそうな命令です。

仮庵の祭りには、収穫感謝の意味がありました。いけにえの量の多さは、神ご自身が余りあるほどの収穫を約束しておられることのしるしであり、同時に神の一方的なあわれみがなければ自分たちが生きることができないことを、全身全霊で覚えさせるためでした。

聖書の原則は、「主を愛する者は豊かに祝福され、主にそむく者はのろいを招く」とまとめることができます(申命記30:15-20)。そして、「愛」は、しばしば私たちの日常生活でも、人間的な目から見た無駄で表現されはしないでしょうか。

それはたとえば、妻に、数日で枯れる満開のバラを贈ることを、「無駄」と感じる夫は、その心が問われるようなものです。

主ご自身が、罪人の真ん中に住むことを可能にするために示された手続きを人間的な合理性で判断することこそ不敬虔の極みです。

パウロも神の一方的な恵みを強調した上で、「主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです・・神は喜んで与える人を愛してくださいます」(Ⅱコリント8:9,9:7)と、貧しくなるほどの大胆な献金を勧めています。

しばしば、その点を通過して始めて、主の祝福が豊かに広がるからです。あり余る物の中から献げることなら、この世の富む者も別の形でいくらでも行なっています

3.「あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ」

29章39節には、先に述べた「ささげ物」は、会衆全体としての義務であると述べるとともに、一人ひとりの自主的な「ささげ物」のことが記されます。

レビ記に記されている「いけにえ」の多くのものは、個々人によるささげ物です。ここでは特に「誓願」に伴うものに目が向けられます。その他、イスラエルの民は「和解のいけにえ」を初めとして、感謝の気持ちを現すささげ物が教えられていました。

私たちの場合はイエスの十字架によって義務のささげ物はなくなりましたが、自主的な「ささげ物」は何よりも大切です。

30章には「主への誓願」と「物断ち」のことが記されます。これはたとえば、「主が私を助けてくださるなら、・・・を献げます」とか、「飲食を一時控えます」という約束です。不思議にもここでは、女性の主体的な誓願や物断ちが中心的となっています。

当時の社会では、女性の人格権が認められていませんでしたが、主は女性の口から出た約束の言葉をも取り消すことができないことと受け止め、父や夫にはそれを聞いた当日だけに有効な例外的な拒否権を認めたのでした。これは、男性が戦いに出て家を留守にする必要があるという理由もあるのでしょうが、女性の主体的な献身が描かれているのは画期的です。

ところで28,29章の大量のいけにえが約束の地で献げられていたかは疑問です。その例として、旧約最後のマラキ書3章10節には、「十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。──万軍の主(ヤハウェ)は仰せられる──わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ」(3:10)と記されています。

聖書中、主ご自身が「わたしをためしてみよ」と言われるのは、ここだけです。ですから、まだ、十分の一献金を実行しておられない方は、この神のチャレンジに答えて見るべきでしょう。

ここでは、主が「天の窓を開き、あふれるばかりの祝福」を与えると約束され、続く11節では、「わたしはあなたがたのために、いなごをしかって、あなたがたの土地の産物を滅ぼさないようにし、畑のぶどうの木が不作とならないようにする」と描かれます。

これは、現代的には、主があなたの仕事をあらゆる災いから守ってくださるという意味です。そればかりか、「すべての国民は、あなたがたをしあわせ者と言うようになる。あなたがたが喜びの地となるからだ」(3:12)と閉じられます。

ただし現実は、十分の一をささげたら、仕事もすべて順調、病気にもならず、人々から尊敬されるとは限りません。なぜなら、「主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである」(ヘブル12:6)とも記されてもいるからです。

しかし、そこには、「私たちをご自分の聖さにあずからせ・・・平安な義の実を結ばせる」(同10,11節)という主の大きな約束が伴っているのです。

箴言11章24節には、「ばらまいても、なお富む人があり、正当な支払いを惜しんでも、かえって乏しくなる者がある」と記されています。献金を惜しむ人は、必ず、どこかで損をするか、お金を無駄にしてしまっているものです。

一方、献金を後悔している人の話を、聞いたことがあるでしょうか。ただ、十分の一を誠実に献げていた時は、いろんなことが好循環だったのに、それをやめたとたん、いろんなことが悪循環になり、今は、献金の余裕すらなくなったというような例はないわけではありません。

パウロは、キリストの救いのみわざの結論として、「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です」(ローマ12:1)と語ります。

それは、キリストの生き方に習うことの勧めで、民数記での大量の献げ物にもまさって途方もない命令です。

しかし、「そんなの無理・・」と最初から諦める者には、イスラエルの民と同じような、敗北から敗北という人生しか待っていません。しかし、主は私たちの内にキリストの御霊を授け、不可能を可能にしてくださいました。それは、逆説的に、「私には無理です。でも、主よ、助けてください!」と祈ることから始まります。

大胆に主にお献げし、祝福を受け、さらにお献げするという好循環を体験させていただきましょう。