ガラテヤ3章1〜14節「のろいから祝福へ」

2016年10月2日

今から40年近く前、証券会社の札幌支店での営業プレッシャーの中で文字通り「喘ぎ、うめいて」いました。当時は土曜日も全休ではありません。日曜日は、どうにか礼拝に出席する中での伝統的な祈祷文を用いての、「主よ、あわれんでください!」という祈りは、私の心の底からの叫びとなっていました。 “ガラテヤ3章1〜14節「のろいから祝福へ」” の続きを読む

申命記6章〜8章「自分自身から自由にされるために」

2016年9月18日

この箇所から11年前にメッセージを取り次がせていただいた日のことですが、主の不思議なみわざを見させていただきました。その二日前、重篤の癌患者をお見舞いし、主にどのように祈るかを導かせていただいたところ、彼女はその夜、入院して以来、初めて熟睡できたと感謝され、それまで教会に来られたこともないのに、礼拝にぜひ参加されたいと言われました。 “申命記6章〜8章「自分自身から自由にされるために」” の続きを読む

ヨハネ15章1〜11節「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です」

2016年9月11日

あなたは「私なんか・・・」などと、自分で自分に限界を設けたり、自分の信仰を恥じたりして、ぶどうの枝でありながら、木からの養分を差し止めようとしてはいないでしょうか? “ヨハネ15章1〜11節「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です」” の続きを読む

申命記4章〜5章「そうして、永久にしあわせになる」

2016年9月4日

NHKの大河ドラマや朝ドラに歴史上のクリスチャンが頻繁に登場します。みんなから好かれる人格者がほとんどです。それなのに、クリスチャン人口が増えないのはどうしてかといぶかしく思えるほどです。日本での宗教の役割は、人を謙遜で柔和で忍耐心のある人格者に育てることにあると見られがちですが、そこで問題なのは、人々の目が、神ご自身ではなく、神を信じる個人に向かうことです。 “申命記4章〜5章「そうして、永久にしあわせになる」” の続きを読む

ヨハネ14章15〜31節「もうひとりの助け主」

2016年8月21日

去る月曜日、盲導犬に引かれた方が地下鉄のホームから落ちて亡くなられました。その方は今年3月に当教会の受苦日音楽礼拝に奥様と共に出席してくださった方です。奥様は私の神学校の同期です。私はそのとき、赤城山キャンプで奉仕中でした。そして、亡くなられたのが彼だと知ったのは昨日です。 “ヨハネ14章15〜31節「もうひとりの助け主」” の続きを読む

民数記33章51節〜36章「境界線 (バウンダリー) を守る生き方」

2016年8月7日

子供が他の子供と争うときに発する最初のことばは、「これは私のもの!」なのかもしれません。以前は、これは第一反抗期などと、否定的に見られてきましたが、最近は、自我形成期として積極的に捉えるようになってきています。 “民数記33章51節〜36章「境界線 (バウンダリー) を守る生き方」” の続きを読む

民数記31章〜33章「主の前で戦い、主の前で生きる」

2016年7月24日

旧約聖書にある民族絶滅の命令とも思われる記述は多くの人々にとっての最大のつまずきです。しかし、それは、約束の地に「神の国」を建てるための一時的なプロセスだということを決して忘れてはなりません。 “民数記31章〜33章「主の前で戦い、主の前で生きる」” の続きを読む

ルカ19章11〜27節「誰でも持っている者は、さらに与えられる」

2016年7月17日

現代の多くの人々は、アップルの創業者スティーブ・ジョブズ氏の独創的な発想の恩恵を受けて生きています。彼は、「ドグマ(教義)に囚われてはいけないーそれは他の人々が考えた結果に従って生きることだー他の人の意見の雑音によって、内なる声をかき消させてはならない。自分の心と直感に従う勇気を持つことが最も大切なのだ」と言いました。 “ルカ19章11〜27節「誰でも持っている者は、さらに与えられる」” の続きを読む

ルカ16章1〜15節「まことの富の管理者として生かされるために」

2016年7月10日

私は十年間証券会社に勤め、主に営業畑を歩み、退職して牧師になりました。証券会社のことをよく知っている人は、しばしば、「あんなあこぎな商売から早く足を洗って良かったね・・・」とか、「あんな恐ろしい会社をやめて良かったね・・・」などと言ってくれます。それを聞くたびに、何か複雑な気持ちになります。 “ルカ16章1〜15節「まことの富の管理者として生かされるために」” の続きを読む