ヨハネ19章31〜42節「十字架から湧き出るいのちの泉」

2017年7月9日

私たちはみな人知れず傷つけられ、その傷跡から別の人を傷つける言動が生まれます。この世界を暗くしているのは、この罪の連鎖です。

しかし、イエスが十字架で、どのように血を流され、その傷跡から何が生まれたのか、を思い巡らすことを通して、そこに解決の鍵を見出すことができます。

1.世の罪を取り除く過越の小羊として血を流された方

「その日は備え日で」(19:31)あったという表現は、十字架刑の始まる直前の14節と、葬りの終わったときの42節と、ここの場面と三回も登場します。これは過越の祭りの「備え日」で、ユダヤ人たちは犠牲の子羊をほふりました。

バブテスマのヨハネはイエスを見て、「見よ。世の罪を取り除く神の小羊」(1:29)と呼びましたが、「備え日」にイエスが十字架にかかられたことは、主が「過越の子羊」としてイスラエルに新しい「出エジプト」の救い、全世界に新しい時代をもたらす犠牲となられたことを意味します。

「木につるされた死体」は、「その日のうちに埋葬しなければならない」(申命記21:23)と命じられていたので、ユダヤ人たちは「すねを折って、それを取りのける処置をピラトに願い」(19:31)ました。足が砕かれることで、全体重が手にかかり、肺を圧迫し窒息死に至ったようです。これは、息が絶えそうになっている者への残酷な一撃でした。

しかし、イエスの場合は「すでに死んでおられるのを認めたので、そのすねを折らなかった」(33節)と描かれています。これは例外であり、その意味が36節では、「彼の骨はひとつも砕かれない」という「聖書のことばが成就するためであった」と解説されています。

これは詩篇34:20からの引用ですが、その文脈では、神が聖徒の叫びに耳を傾け、守り通して下さると約束されながら、「正しい者のわざわいは多い。しかし、主(ヤハウェ)はそのすべてから救い出してくださり、彼の骨のことごとくを守られ、その一つさえ砕かれることはない」と記されていました(詩篇34:19,20私訳)。

その詩はさらに「わざわいは悪者を殺し、正しい者を憎む者は罪に定められる。(ヤハウェ)はそのしもべのたましいを贖う方、主に身を避ける者は、だれも罪に定められない」と結論付けられています。確かに、イエスは死んだのですが、それは復活という最終的な救いを待つ一過程だったからです。

またこれは同時に、「過越しのいけにえ……の骨を折ってはならない」(出エジ12:43-46)と記されていることの成就だとも考えられます。骨が折られては、イエスが過越の子羊として認められないからです。

なお、そこで、念のためなのか、主の死を確認したはずの「兵士のうちのひとりがイエスのわき腹を槍で突き刺した」(34節)と描かれます。しかし、この無神経な行為も、神の御手の中で起きており、「すると、ただちに血と水が出て来た」という不思議の引き金になりました。

「水と血」が分離しつつともに出るのは、「死」のしるしとも言われますが、ここにはそれ以上の意味がありそうです。だからこそ、「それを目撃した者があかしをしているのである。そのあかしは真実である」と、敢えて記されます(35節)。

「血」については、「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはない」(ヘブル9:22)とあるほどに決定的なことなのに、具体的描写は聖書中ここ以外にはありません。しかも、生きていない者の血は無効です。しかし、主は「血を流して殺された」のではなく、十字架で「ユダヤ人の王」としての栄光を表わし、いのちを全うされたのです。

しかも、神の小羊キリストは、この書の初めにあるように、私たちの創造主であり、その身体は尊い神殿でした。そこから流れ出た「尊い血」だからこそ、どんな罪をも聖め、私たちを「先祖たちから伝わったむなしい生き方から贖い出す」(Ⅰペテロ1:18,19)と言われる力となるのです。

2.生ける水の川の源として、突き刺されたわき腹から、血と水を出された方

しかも、イエスのわき腹が槍で突き刺されたことも、「聖書の別のところには」、「彼らは自分たちが突き刺した方を見る」(37節)とあるように、これはゼカリヤ書12章10節の成就です。

そこでは、「わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、あわれみと哀願の霊を注ぐ(私訳)。彼らは、自分たちが突き刺した者わたしを仰ぎ見、ひとり子を失って嘆くように、その者のために嘆き、初子を失って激しく泣くように……激しく泣く」と記されています。

不思議なのは、ここで、「自分たちが突き刺した者」とは、「わたし」(ヤハウェ)であると記されていることです。つまり、ユダヤ人は神ご自身を突き刺す罪を犯したというのです。そして、彼らは「霊を注」がれた結果として、自分の罪への嘆きが生まれます。

ゼカリヤ書に描かれているのは、終わりの日に、エルサレムが神の敵によって包囲され絶体絶命の危機に瀕するということでした。そのときに神は、天からの火で敵を立ちどころに滅ぼす代わりに、エルサレムの民に、自分たちこそが神に遣わされた方を突き刺している者であるという、反省を起こさせるというのです。

イエスの十字架から40年後のローマ軍によるエルサレム包囲は、武力闘争による独立を目指したユダヤ人勢力が招いたことでした。彼らは目の前の問題を力と力の対立の枠でしか考えられませんでした。ローマ帝国に反旗を翻す人も、ローマ帝国の攻撃を避けるためにイエスをスケープ・ゴートにした人も、神のご支配を見ることができていないという点では全く同じです。

つまり、目に見えない神のご支配に信頼できずに、問題を人間的に解決しようとする人々が、イエスを十字架につけたのです。

それは現代の政治でも、短絡的な問題解決を目指して、権力者を批判する人々にも、また、反対者を力で屈服させようとする、両方の勢力に見られる発想です。とにかく、イエスを救い主として歓喜して迎え入れた住民が、その五日後には、「イエスを十字架につけろ!」と、一斉に叫び出したという現実を忘れてはなりません。

そのときイエスの弟子たちも、神の支配を認めることができずに、逃げ惑うしかできませんでした。神の支配を認められない者たちすべてが、イエスを十字架にかけたのです。

最初のペンテコステの日に、ペテロはエルサレムに住むユダヤ人たちに向かって、「あなたがたは、神の定めた計画と神の予知とによって引き渡されたこの方を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました……神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけて殺したのです」(使徒2:22,23,36)と、イエスを十字架につけた張本人はユダヤ人自身であると悔い改めを迫りました。

それに対し、「人々はこれを聞いて心を刺され」、「ペテロとほかの使徒たちに」、「私たちはどうしたらよいのでしょうか」と尋ねたと記されています(同2:37)。つまり、イエスが十字架にかけられたのは自分たちの責任であるという「嘆き」が起きたということが、ゼカリヤの預言の成就であったのであり、それは、イエスのわき腹から、「血と水が出て来た」ことと切り離せない関係にあるというのです。

そしてゼカリヤ書では引き続き、その日に、「罪と汚れをきよめるひとつの泉が開かれる」(13:1)と記されます。それこそが、彼らに聖霊が注がれたということを意味します。彼らが自分たちの罪こそがイエスを十字架にかけたと認めることと、聖霊を受けることはセットになっていることです。

そしてゼカリヤ書ではこのことが引き続きエルサレムの完成の場面として、「エルサレムから湧き水が流れ出て……東の海……西の海に流れる」(14:8)とも描かれます。

エゼキエルはそれを「水が神殿から流れ出て……この川が流れ出て行く所はどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き……その両岸にはあらゆる果樹が生長し……実も絶えることがない」(47:1-12)と預言しています。

そして、イエスはこれらを指しながら、「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っている通りに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」(ヨハネ7:38)と言われました。

私たちも自分たちの回りの権力者や私たちを振り回す人々を、自分の都合で憎んでいるとき、イエスを十字架にかけた人々の仲間となっています。この世界の問題の解決は、神がご自身の御子を十字架にかけなければならないほどに、複雑に入り組んでいるということを認める必要があります。

ゼカリヤ書によると、神は目の前の神の敵を滅ぼす代わりに、ご自身の御子を十字架にかけられるままにして、エルサレムの人々に「激しく泣く」という思いを与え、ゼカリヤ12章11-14節では、「嘆き」の連鎖が神の民全体に広がって行くと預言されています。つまり、世界の癒しは、「嘆き」から始まるのです。

イエスを信じるとは、イエスが「与える水を飲む者」であると言われましたが(4:14)、その者は同時に、自分の罪がイエスを突き刺したことを認め、主のからだから流れ出た「血を飲(6:53)む者でもあり、それが心の中で泉と変えられるのです。

血も水も、いのちの象徴です。私たちはイエスから流れ出たいのちを受けて、罪の支配から贖い出され、心の奥底が生ける水の川が流れ出る泉とされるのです。それは、聖霊を受けることですが、神の霊はまず自分の罪への「嘆き」を生みます。その結果、真理を振りかざした戦いではなく、謙遜と柔和の霊に満たされた者として、世に平和をもたらすのです。

3.イエスを園の墓に葬ったヨセフとニコデモ

そして、「そのあとで、イエスの弟子ではあったがユダヤ人を恐れてそのことを隠していたアリマタヤのヨセフが、イエスのからだを取りかたづけたいとピラトに願った。それで、ピラトは許可を与えた。そこで彼は来て、イエスのからだを取り下ろした」(19:38)という不思議な展開が起きます。彼に関しては、最高議会の「有力な議員」であったとマルコの福音書15章43節に記されています。

どの福音書においてもこのヨセフの登場は、イエスの埋葬の場面が初めてです。この福音書においては、12章42,43節において、「指導者たちの中にもイエスを信じる者がたくさんいた。ただ、パリサイ人たちをはばかって、告白はしなかった。会堂から追放されないためであった。彼らは神からの栄誉よりも、人の栄誉を愛したからである」と記されていましたが、ここに登場するヨセフこそ、その代表者と言えましょう。

しかし、彼もイエスの十字架を仰ぎ見て、ゼカリヤ書に預言された「嘆く者」の一人となったのです。しかし、彼が有力な議員で、人々から尊敬を集め、このときまで自分の信仰を隠していたからこそ、総督ピラトも彼にイエスのからだの埋葬をヨセフに任せたとも言えましょう。

伝道者の書には、どれほど裕福で長生きしても、「幸いで満たされることなく、墓にも葬られなかったなら……死産の子のほうが彼よりはましだ」と記されているように、葬りは大切な儀礼と認められており、権力者の理解も得やすかったことです。ただ、どちらにしてもヨセフはこのときに自分の信仰を初めて公にしたと言えましょう。

そして、ここではもう一人が登場し、「前に、夜イエスのところに来たニコデモも、没薬とアロエを混ぜ合わせたものをおよそ三十キログラムばかり持ってやって来た」(39節)と描かれます。彼はヨセフとともに「イエスのからだを取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従って、それを香料といっしょに亜麻布で巻いた」(40節)のでした。

この大量の香料の量は、王を葬るときにふさわしいものです。これは、イエスが、人々から見捨てられたようでありながら、「ユダヤ人の王」にふさわしく葬られたことを意味します。

しかも、その墓に関しては、「イエスが十字架につけられた場所に園があって、そこには、まだだれも葬られたことのない新しい墓があった。その日はユダヤ人の備え日であったため、墓が近かったので、彼らはイエスをそこに納めた」(19:41,42)と記されます。

その墓は「十字架につけられた場所にあった園」なので、日が沈む前の備え日のうちに丁重に葬ることが可能になりました。また、マタイの福音書によると、ヨセフは「金持ち」であり、その墓は彼のもので、「岩を掘って造った……新しい墓であった」と記されています(27:57,60)。

この埋葬の時になって、目に見えない神の備えが明らかになって来ます。

本来、十字架にかけられた人は、犯罪人ばかりの共同墓地に投げ捨てられました。しかし、それでは、「空の墓」がイエスの復活を証しするという準備になりはしません。しかもこれは、「主のしもべの歌」にある、「彼の墓は悪者どもとともにされるはずだったが、葬られたときは富む者と共にされた」(イザヤ53:9私訳)という預言の成就と見ることができます。すべてに神の御手を見ることができるのです。

ヨセフもニコデモも、ユダヤ人の指導者であった(3:1、7:50)がために、仲間の目を憚って自分の信仰を公にできませんでした。しかし、イエスの王としての威厳に満ちた死を見たとき、勇気を持って行動する者と変えられたのでしょう。

彼らのその前までの行動は、弟子としては恥ずべきものではありましたが、もし以前からイエスに従っていたら、イエスの葬りを堂々と行うことはできなかったはずです。神の御前では、私たちの恥ずべき失敗でさえ益に変えられます

彼らは、いのちの泉がイエスから湧き出たことの直接的な結果として、その心に悔い改めと愛が生まれ、神のために働けたのです。

イエスの身体は神によって守られましたが、そのわき腹を突き刺したのは私たちの罪です。しかし、その傷口から、罪の赦しの血と、いのちの水が湧き出ました。人の罪による傷跡がいのちをもたらす泉へと変えられたのです。

あなたも人の罪によって傷ついて来た結果、被害者意識で一杯になっているかも知れません。しかし、そうなるとその傷は悪臭を放ちます。自分も加害者になっていることが認められないと、罪の赦しの福音も心に届かないからです。では私たちはどのようにしたら良いのでしょう。

私たちは自分の葛藤を正直にそのままイエスの御前に持って行くことができます。自分の孤独感を、人に誤解される痛みを、謂れもない非難を受けている葛藤を、そのままイエスに打ち明けることができます。実際、詩篇にはそのような祈りが満ち満ちているからです。そしてそこで人としてのイエスも同じ葛藤を味わっていたことが分かります。私たちは自分の傷を通して、イエスが受けた不当な苦しみを理解することができるのです。

自分の苦しみを、イエスと同じ「神の子」とされた者としての特権として見直し、そこで神の愛を味わえるなら、かえって、自分がいかに罪深いかが分かり、同時に、その自分のすべての罪が赦されていることの感動が生まれます。

そこから、神に仕えるように隣人に仕えるという思いが湧き出ます。傷跡は、神のみわざを体験する場となり、「いのちの泉」へと変えられるのです。

最近上映されている、「ハクソー・リッジ」という第二次大戦の沖縄戦の中で起きた歴史的な事実を基にした映画があります。デズモンド・ドスという二等兵は決して武器を取って人を殺すことはしないという信仰上の確信を持っていました。彼は良心的兵役拒否を認められることができましたが、同時に、米国は自由のために戦っており、自分もその戦いの中に身を置いて米国市民としての責任を果たしたいと強く願っていました。

彼は前線において傷ついた兵士の手当てをする衛生兵になることを志願します。しかし、当時の軍隊では、自分で配属先を指定することも、武器を取れないと主張することも許されませんでした。彼は軍隊の中で散々な虐めに遭い、ついには軍法会議にまでかけられます。すべて、彼が武器を取らずに、前線で働きたいという、当時としては矛盾したことを願ったためです。

最終的に、彼の信仰的良心が認められ、沖縄戦の最激戦地ハクソー・リッジ(日本名:前田高地)に武器を持たない衛生兵として派遣されます。彼の部隊は150mの崖を上って、日本軍と戦いますが、驚くほど多くの犠牲を出し、高地からの撤退を余儀なくされます。

ところが彼は、その高地に単身で残って、日本軍の目を潜りながら、丸腰で負傷兵の手当てをし、崖から吊り下ろします。彼は、「主よ、どうか、あと一人……」と祈りながら、負傷兵を捜し出し、銃弾を潜りながら、引きずり、丁寧に崖から吊り下ろし、ついにその数は75人にもなりました。しかもそこには二人の日本兵を含まれていました。

戦友たちの眼差しが称賛に変わり、彼は最後の攻撃の前に個人礼拝の時間が与えられ、部隊は彼の祈りが終わるまで、出撃を待つということまでしました。この攻撃は成功しますが、彼自身も最後に手榴弾で負傷しますが、彼はタンカで運ばれながら、他の怪我人を自分の代わりに載せるように強く願ったほどでした。

彼は最終的に、敵を殺した功績によってではなく、戦友の命を救った功績によって大統領から直々に勲章を受けます。しかし、彼は約十年前に亡くなる直前まで、自分が英雄視されることを拒否していたため、彼の物語は多くの人に知られないまま、ようやく最近になって、イエスを描いた映画「パッション」の監督メル・ギブソンによって映画化されました。残酷な場面が多い映画なので、推奨できない面があります。また当時の米国の風潮にも、日本人としては納得できない面があります。

ただ、デズモンドは敢えて人々から誤解され中傷されるという孤独の中に身を置きました。しかし、だからこそ、全能の神を身近に感じ、神も彼を通してご自身の栄光を現してくださいました。

皆さんの中にも、職場や身近な人間関係で、謂れのない非難を受け、孤立し、傷ついている方がいるかもしれません。しかし、それは神との生きた交わりを築く最高の機会とされるのです。

そこでこそ、イエスの十字架の苦しみを身近に感じ、同時に、イエスの救いが自分のためであったと実感できるようになります。最終的に、あなたが神と人に仕えるために味わった葛藤は、「生ける水の川」の「泉」となるのです。