詩篇139篇「神の最高傑作として生かされる」

2017年6月18日

人は今、小川のせせらぎや森の木々、青空ばかりか太陽の光さえなくても過ごせるような人工的な世界に住んでいます。「世界って、何て美しいんだろう!」という感動を最近味わったことがあるでしょうか?

世界の創造主を忘れ、人間の能力が達成したものばかりを見ていると、いつも何かに駆り立てられるような気持ちになるのかもしれません。

神が創造された世界を感謝することと、自分に対する神のみわざを感謝することには切り離せない関係があります。すべては主(ヤハウェ)から始まっているからです。

1.「主よ。あなたは私を知っておられます。」

この詩は、「ヤハウェよ」という神の御名への呼びかけから始まります。神はご自身を、「わたしは、『わたしはある。』という者である」(出エジ3:14)と紹介されました。それは、この方がすべてに先立って存在しすべてのものを生み出す方であるということを示しています。

多くの人々は、自分の必要から始まって神を求め、「私が神を認識する」いう考え方をします。しかし、「わたしはある」または「わたしはあらしめる(生み出す)」と宣言される神がおられるので、私がここに生き、また、考え、語っていると認識すること、つまり、全能の神のご支配を前提としてこの世界を見るというのが聖書の発想ではないでしょうか。

それは恐ろしくもあり、慰めでもあります。実際、「あなたは私を調べ、知っておられます」(1節)というのも、自分の醜さがすべて顕にされるという意味では、恐怖でしょう。エデンの園で、「食べてはならない」と言われた木の実を取って食べたアダムは、神から「あなたは、どこにいるのか」と問われ、「私は……恐れて、隠れました」と答えました(創世記3:9、10)。

アダムの子孫として私たちは、自分の罪、弱さ、醜さが顕にされることを恐れます。しかし、キリストが既に私たちのすべての罪を赦してくださったことが分かるとき、「神様は私を助けようとして、私の弱さを調べてくださる」という気持ちになることができるのではないでしょうか。

私たちは、自分のことを分かっているようで肝心なことが分かっていません。ところが聖書の神は、「私」以上に、私の行動やことばが分かるというのです(2-4節)。

「私の思い(意図)を……読み取り」とは、私が座るのか立つのかさえも、行動に移す前から、神は私の意図を知っておられるという意味です。同じように、神は、私がいつ、どうして活動するのか、休んでいるのかを、すべてに精通しておられ、また、私が何を話そうとするのかもご存じだというのです。

「私は、自分で自分のことが信じられないんです……」という不安に襲われるようなとき、「あなたこそ……私の……生き方すべてに通じておられます」(2,3節)と言うことができます。そこでは、自分が知られていることは「恐れ」ではなく、はかり知れない「安心感」の源とされています。

「後ろからも前からも私を囲み」(5節)という表現も、「逃げ道がない……」という恐怖ではなく、「キリストの愛が私たちを取り囲んでいる」(Ⅱコリント5:14)という視点からは、後ろに目がついていない私たちに代わって、主が背後を守ってくださるという慰めと思うことができます。

また、明日のことが心配で、元気を失うときにも、私以上に私のことを知っておられる方が、「私を囲み、御手を私の上に置いてくださいます」と信じられるなら、明日のことが分からないことが、かえって、「神様。明日は何が起こるのか楽しみです!」という喜びの源になるのではないでしょうか。

そして、「そのような知識は」(6節)は、私たちにとっては想像を超えた神秘ではありますが、それは「恐怖」というよりは、感動を呼び起こす「不思議」ではないでしょうか。

しかし、人にはしばしば、神のご支配を嫌って、神から離れて生きたいという思いが湧き起こりますが(7節)、イエスの十字架の愛を知るとき、7-12節は、私たちが自分の失敗でいかに道を踏み外し、迷路に迷い込んでも、神はどこまでも私を見守り、救い出してくださるという保証とも思えます。

「よみに床を設けたとしても」(8節)とは、使徒信条の「主は……よみに下り」という表現との関係で考えられます。キリストを知る者にとっては、真っ暗な死の世界さえ、栄光に輝く天の御国への入り口となります。

11,12節は、「私の人生は今まさに、真夜中に向かっている」と感じられるような中でも、「神にとって闇は問題ではなく、いつでも私を見守っていてくださる」という慰めとして理解することができます。

「あなたが、私の奥深い部分を造り……」(13節)は、前節の「あなたには、闇も暗くなく」を前提として記されています。「奥深い部分」は、原文で「腎臓」と記され、いけにえの動物を屠(ほふ)るとき、最後に出てくる器官で、体の最も奥深い、暗やみに包まれた部分です。

つまり、神は真っ暗な「母の胎のうちで」、その隠れた部分を造られた方なので、どんな時でも私たちの人生のすべてを理解しておられるというのです。当時は、「心」が心臓にあるように、「感情」の座は「腎臓」にあると理解されていました。それでここは、「神は、私たちが自分で制御できないような感情さえ造られた方なので、何も隠す必要はない」という趣旨として理解すべきでしょう。

人は心の内に沸き上がる気持ちを正直に受けとめ、神に訴えることができます。

2.「私は感謝します。恐ろしいほどに、私は不思議に造られました。」

「恐ろしいほどに、私は不思議に造られました」(14節)とは不思議な感動に満ちた自己認識です。人はしばしば、本来の自分を否定して、「今までの自分とは違う何かになろう」として病気になってしまうことがあります。しかし、つまずきを通して、「本当の自分になり得たとき」に、病気から回復することができるとも言われます。

そして、私たちは自分のあるがままの姿を、それまでと違った目で見られたとき、「みわざがどれほど不思議かを、このたましいはよく知っています」と心から告白することができます。

レーナ・マリヤさんというスウェーデンのゴスペル歌手は、生まれつき両腕がなく片足も半分の長さしかありません。その彼女がこの詩篇139篇の英語訳をそのまま歌にし、神に向かって、「私はあなたを賛美します。なぜなら、私は恐ろしいほどに、不思議に(すばらしく)造られたからです」とみことばを繰り返しながら、まごころから歌っています。

私はそれを聞きながら不思議な感動に包まれ、身体が震えました。人の目から見ると彼女は重度の障害者かもしれませんが、彼女は自分を「神の最高傑作」と見ているのです。

彼女のお母様は最初、「神よ。どうして……」と思ったこともあったとのことですが、やがてそのいのちが、神ご自身の作品であることを感動するようになりました。その感動をお母様はレーナ・マリヤに伝え続けました。その結果もあるのでしょうが、それ以上に、彼女には生まれながら、その障害を補う好奇心や冒険心が与えられ、育まれ、驚くほどに広い活躍の場が開かれてきました。

彼女は右足だけで、ピアノを演奏し、作曲をし、料理も裁縫も楽しみ、車も運転します。彼女の全存在がいのちの喜びを驚くほどに伝えていますが、身体の障害は、かえってその感動を伝える媒体として豊かに用いられています。

私たちは、障害や欠点と美しい賜物を区別して考えますが、それは切り離せない統合されたものとして神の作品なのです。

私たちの多くの場合、肉体よりも心の不自由さが問題になります。これは見え難いと共に、矯正が可能と思われるからこそ問題が複雑になります。

私は中学校時代の担任に「神経質すぎる」と通知表に書かれたことがあります。その後、精神科医の斉藤茂太氏が記した「神経質を喜べ」という本に深く感動しました。それは、自分の気質を変えるべきものとしてよりは、積極的に受け入れるという道を示してくれました。

昔から性格の三分類が一般的ですが、それは神から与えられた特徴として受け入れるべきものではないでしょうか。イエスの三人の重要な弟子の気質を次のように分類することも可能かもしれません。

第一は分裂気質(内面が分りにくい性格)で、使徒ヨハネにはその傾向が見られます。彼は、自分を「主の愛された弟子」と紹介しながら、自分のことをほとんど明かしません。

このような人は、人と親密になることを恐れる傾向があり、とてつもない敏感さと、鈍感さが共存しています。しかし、距離を置きながらも、人をよく観察する目があることで交わりを保つことができます。彼による他の弟子の描写は見事です。

第二は循環気質(浮き沈みのある性格)で、使徒ペテロに見られる傾向です。非常に勢いの良いことを言っていながら、失敗して深く落ち込むことがあります。

爽快と悲哀の感情の起伏が激しい性格ですが、自分の失敗などをオープンに語ることができるので、多くの友に支えてもらえます。

第三は粘着気質(こだわりの強い性格)で、使徒パウロに見られる傾向です。回心前はパリサイ人として迫害に熱心で、回心後は地の果てまで伝道し、使徒の代表ペテロまでも叱責し、牢獄に入れられても多くの手紙を残しました。

一見、沈着冷静でありながら、急に怒り出したり、人を追い込むところがあります(使徒15:36-39、マルコを巡ってバルナバと反目)。しかし、忍耐心が豊かなので、失敗をカバーできます。

それぞれ、感受性での敏感と鈍感、気分での爽快と悲愁、精神的テンポの速さと遅さという矛盾が共存し、対人関係の弱さを補う「観察」、精神的な落ち込みを補う「交わり」、感情的な失敗を補う「忍耐心」が与えられています。つまり、それぞれの気質に、神は絶妙なバランスをお与えになっているのです。

これとは別に、ユングは、心の構えが自分の外の客体に向かう外向型と、自分という主体に向かう内向型の発想の違いが、ルター対ツゥイングリ、フロイト対アドラーのような対立関係を生んだと分析しました。

使徒の中で外向の代表はアンデレでしょう。人と人とを結びつける働きをしているからです。内向の代表はトマスかもしれません。イエスの復活に関して皆の目撃証言を客観的現実と受け止める代わりに、自分自身で心の底から納得できることを求めました。「内向」は決してネクラという意味ではありません。

また、それぞれでの意識機能が合理性的機能としての思考と感情非合理的機能としての感覚と直感に区別されます。それぞれに、マタイ、ルカ、ピリポ、ナタナエルを当てることができるかもしれません。

マタイの福音書は驚くほどの論理的な構成で成り立っており、イエスの説教を秩序立てて記録しています。ルカの福音書は、私たちの感情に寄り添う表現が豊かで、読むだけで心が動かされる例話が豊富です。

ピリポは、現実感覚に優れ、男だけで五千人の群集にどれだけのパンが必要かを見分けましたが、イエスに向って父なる神を見せて欲しいなどと感覚を重視する傾向が見られます。ナタナエルは黙想の生活を大切にし、イエスとの対話ですぐにイエスがどのような方かを直感的に把握できました。

なおその中では、思考と感情が互いに排除し合い、感覚と直感が排除し合う関係が見られる可能性があるとも言われます。

これに加えて、マイヤーズ・ブリッグス性格指標検査では、上記の「心の構え」に関して、判断型と柔軟型という区別をつけます。たとえばイエスの兄弟ヤコブは「行いのない信仰は死んでいる」とはっきり語りました。一方、バルナバは、パウロとの第一回目の伝道旅行の際に途中で逃げ出したマルコを最後まで弁護し、福音記者にまで育てました。

これら二つの心の構え、四つの意識機能、また追加の二つの組み合わせから、16のパターンが区分けされます。ただし、各人の中に外向、内向などそれぞれ矛盾する傾向が共存していますから、安易に人にレッテルを貼るためにこれを用いてはなりません。

しかし、これらの違いを理解すると、人と人とがなぜ互いを理解し合えないかを優しく受け止められるようになります。キリスト教会では、これらの異なった発想を持つ人が豊かに組み合わされることで、交わりが広がるのです。

神は人を創造した際、「人が、ひとりでいるのは良くない」(創世記2:18)と言われましたが、新約時代には信者の中に聖霊を与え、互いに排除する傾向の間に交わりを創造してくださいます。

一人ひとりは不完全でも、交わりを通して完全になるように召されているのです。交わりの中に神のみわざを認めましょう。

3.「あなたの御思い(意図)は、何と貴いことでしょう」

そして、「私がひそかに造られ」(15節)た様子が、「織りあげられ」と言いかえられますが、これは「模様を作る」とも訳せます。神は、私たちの思いをはるかに越えた形で、それぞれをユニークな個性を持つ者として造ってくださっているからです。

その意味で一人ひとりがかけがいのない存在であり、人が何と言おうとも、私たちはそれぞれ、神のはかりしれないご計画のために生かされている尊い存在なのです。

聖書が語る罪の問題とは、「どなたに向かって、誰のために生きているのか?」という人生の方向性にあります。

アウグスチヌスが、神に向かって、「あなたは私たちをご自身に向けてお造りになりました。ですから、私たちの心はあなたのうちに憩うまでやすらぎを得ることができないのです」と告白したように、私たちの心が神に向けられている時、身体も心もすべての部分が生き生きとした調和を発揮できるのです。

「あなたの目は胎児の私を見られ……」(16節)とは、神ご自身が、母の胎のうちで、私を組み立て、織りあげられた時、この「」をご自身の最高傑作として喜んで見ておられる様子を描いたものです。ですから、「あなたの書にすべてが書き記されました……」とは、寿命や運命がすでに決まっているという冷たい響きではなく、「あなたの御思い(意図)は、何と貴いことでしょう!」(17節)という感動を生み出すものです。

「御思い(意図)」は、2節と同じことばですが、私が自分に対して抱く計画ではなく、神が用意してくださったご計画を意味します。しかも、それは、私がひ弱で、何の価値もなかったと見られていた時から備えられたものです。

また、「貴い」は、イザヤ書43章4節の「わたしの目にはあなたは高価で」の「高価」と同じで、神のご計画の貴重さの告白です。私がまだ姿も能力も現していない段階で、神は、私の人生に数え切れないほどの可能性を見ておられました。その御思いの「貴さ」こそが、私たちの人生を豊かにする源泉です。

神は一人ひとりをかけがえのない存在と見て、その一日一日を通して、ご自身の栄光を現そうとしてしておられます。それは「砂の数」(18節)に勝って多様なものだというのです。あなたは、「どうせ自分なんか、この程度しか期待されていなし、できもしない……」などと、神が備えてくださった可能性を自分で狭くしてはいないでしょうか。

そして、「目覚めのとき」(18節)は、終わりの日の復活を指すとも思われますが、日常生活にも適用できます。毎朝の「目覚めのとき」、「私は……あなたとともにいます」と喜びながら、「あなたは今日、私を通して何をしてくださるのですか?」と喜びの期待をもって、神に祈ることができるからです。

私たちはどんな状況のなかでも、自分を卑下したり、自己憐愍(れんびん)に陥ったりすることなく、「神よ。どんな不幸を吸っても、吐く息は感謝でありますように。すべて恵みの呼吸なのだから。……神よ。あなたが置いてくださったその場所で、咲かせてください」(著者不明、渡辺和子引用)と祈ることができます。

一方、19ー22節は、この詩篇で極めて唐突な感じを与えます。しかし、私たちは神の御思いの貴さを知れば知るほど、それを妨害しようとするサタンとそれに従う者への憎しみが湧いてきて、「神よ。あなたが悪者を滅ぼしてくださったら良いのに」(19節)と心から願わざるを得なくなるのではないでしょうか。

それは、「悪者を殺してください」という直接的な願いというより、悪者がのさばっている現実の中で、悪者がいなかったらこの世界は調和に満ちていたはずという憧れと理解できます。ですからイエスは、この世に悪が常にあるという前提のもとに、主の祈りで、「悪い者(サタン)から救ってください」と祈るように命じておらます。

最後に、「私を調べ、私の心を知ってください。私を試し、その思い煩いを知ってください」(23節)とは、1節を祈りにしたものです。それは、アダムが神から身を隠したのに対して、自分の心と思いを神に向って開こうとする姿勢です。

また、「私を試し……」は、神の御思いの貴さを疑う不信仰な「思い煩い」をも、神に試し、正していただきたいという思いです。

続けて、「悲しみへの道」(24節)が、「とこしへの道」と対比されます。私たちは、神に敵対する者への憎しみを表現した後で、自分自身が神の貴い御思いに逆らう者であることに気づかされます。そこで私たちは、自分の罪を隠そうとしたアダムとは反対に、自分の罪、醜い思いを神の前に完全にオープンにして、神に取り扱っていただけるように願うことができるのです。

あなたの創造主は、あなたの生き方すべてに親しんでおられ、そのままの姿で輝くことができるように造って下さいました。しかも、私たちは自分の罪深さに失望しても、神は失望されません。

それは、「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます」(ローマ5:8)と記されている通りです。

そして、神は御霊によって私たちを再創造してくださいます。私たちは恥じなくて良い自分の性格を恥じたり、自分の能力の不足を「罪」と混同しがちです。実際、多くの人は、人の期待に添うことができないこと自体を罪と感じがちであり、劣等感と罪意識を混同していると言われます。

しかし、聖書の語る「罪」とは、神と人、また世界に対する関係の持ち方の問題です。自分の都合に目を向ける前に、神を、人を、世界を愛することがみこころです。

私たちは、もともと、人の助けなしには生きられない弱い存在に創造されています。しかし、神と人の助けが不可欠と認めるとき、反対に、あなたを通して神がご自身の栄光を表わされ、人に生きがいを与えられることができるのではないでしょうか。

「あなたは罪の自覚が足りないから、神の赦しも分らない。もっと自分の罪深さを意識しなさい……」という勧めを聞きながら、神に向かって大胆に生きる前に、いのちの力を自分で抑圧する人がいるかもしれません。それでは、せっかく福音を信じていながら、いのちの喜びを味わう前に、生気がなく、物悲しげで疲れた心の持ち主であり続けるということが起きかねません。

健全な罪意識は、創造のみわざへの感動と感謝から生まれるものです。「私は神の最高傑作として生かされている!」と真に自覚するとき、「私はもっと、神と人とに仕える生き方をしなければならないのに……」と示されるはずです。

そのとき人は、与えられたすべての賜物を積極的に生かしながら、いのちの喜びを感じつつ、神の創造された世界と人に向って愛をもって関わって行くことができるのではないでしょうか。