イエスの時代の多くの人々が期待していた救いとは、「国々よ、御民のために喜び歌え。主がご自分のしもべの血に報復し、ご自分の敵に復讐を遂げて、ご自分の民とその地のために宥めを行われる」(申命記32:43) というようなものでした。それはしばしば、神がローマ帝国に復讐し、ダビデ王国を再建するというように理解されました。 “マタイ12章15-32節「神の御霊によって、もう神の国は来ている」” の続きを読む
創世記11章27節~17章「信仰の父アブラハムを召し、育てた神」
しばしば日本では、一神教信仰が争いの原因になっているかのように紹介されることがありますが、ユダヤ教もイスラム教も私たちの信仰も、すべて一人のアブラハムから始まっています。 “創世記11章27節~17章「信仰の父アブラハムを召し、育てた神」” の続きを読む
ローマ12章1~2節「神のあわれみによって」(木下奈津子神学生)
創世記6:9〜11:26「ノアは神とともに歩んだ」
私たちは大洪水で地のすべての生き物を「消し去った」神の残酷さに恐れを抱き、不信感までも覚えるかもしれません。しかしこの物語は、ノアの子孫の視点から読むようにと記されています。日本人も韓国人もどの民族も、ノアの子孫であることに変わりはありません。そこで求められているのは、「主が命じられたとおりに」という従順と、すべての時間を支配する神の救いを待つ忍耐です。 “創世記6:9〜11:26「ノアは神とともに歩んだ」” の続きを読む
マタイ12章1〜14節「安息日……真のよろこびの回復」
「どうしても心が満たされない人たち」という題の本の中に、「苦悩の75%は自分で作り出したもので、それは避け難い25%の苦悩を取り除こうとすることから派生する」とありました。 “マタイ12章1〜14節「安息日……真のよろこびの回復」” の続きを読む
創世記4章25〜5章3節「創造主の哀しみを知る」
劣等感ということばを普及させた は、「われわれ人間すべての文化は、劣等感情に基いている……すべての目標の中に……神のようになるという努力を見いだすことができる」と言いました。事実、人はみな小さい時から「より賢く、より強く、より美しく、より早く生きる」ことができるように訓練されています。 “創世記4章25〜5章3節「創造主の哀しみを知る」” の続きを読む
マタイ11章16〜30節「人々の期待から自由に生きる」
多くの日本人は、「敬虔なクリスチャン」ということばにあるイメージを重ねます。その枠の中にはたぶん株式投資を勧める営業マンは入らないことでしょう。その後、僕は牧師への召しを受けながら、自分の中にある神経症的な不安感を受け入れられずに悩んでいました。柔和で平安な雰囲気を醸し出す牧師像にはとうていふさわしくないと思ったからです。しかし、今は、そのように人々の期待に沿うことができることの虚しさを思わされます。イエスでさえ、「大食いの大酒飲み」と呼ばれました。それは当時の人々の期待を裏切る自由な振舞いの結果でした。しかし、そこにこそ、人々の常識を覆す、真の自由があります。 “マタイ11章16〜30節「人々の期待から自由に生きる」” の続きを読む
Ⅰペテロ2章13〜25節「職場と信仰 ― ”不当な要求”を受けたとき」
創世記2章4節~3章24節「神のようになることの悲劇」
最初の1分が聞きにくくなっています
「神がいるなら、なぜ世界にこのような混乱があるのか?」という疑問を多くの人が抱いています。今回の箇所はそれに対する答えが記されます。ただ、そこには更なる疑問として、「神はなぜ禁断の木の実をエデンの園に置いたのか?」が湧いて来ることでしょう。しかし、それこそ私たちの発想が、神のようになったアダムと一体化したしるしとも言えましょう。 “創世記2章4節~3章24節「神のようになることの悲劇」” の続きを読む
マタイ11章1〜15節「新しい創造の中に生かされる恵み」
バプテスマのヨハネはヨルダン川で「悔い改めのバプテスマ」を授けていました。それはかつてモーセとヨシュアに導かれたイスラエルの民が、約束の地に入って「神の国」を建てるはずであったという原点に人々を立ち返らせるためでした。 “マタイ11章1〜15節「新しい創造の中に生かされる恵み」” の続きを読む