詩篇46篇、エレミヤ29章10〜14節「わたしはあなたがたの繁栄を回復する」

2021年7月11日 @ 東京センターチャーチ 

「困難(試練)の中で教えられること—3.11から10年、コロナ禍の中で」というテーマで考えさせられていることがあります。

多くの信仰者は、このようなわざわいの中に神からのメッセージを汲み取ろうとします。それは人間の傲慢さに対する創造主からの最後の審判の前触れとしての罰であるとか、人間が神のあわれみなしには一瞬たりとも生きていられないことを教えるための神の招きであるとか、今、人々が不安を味わっているときこそ福音宣教のチャンスであるとか、これらすべては間違っていないと思います。

しかし、目の前で途方に暮れている人に対し、そのような神学的な解釈を語ることにどれだけの意味があるのだろうかとも思います。厳しい現実を前に、今ここで自分にできることは何なのかを覚え、それに応じるという現実の行動ではないでしょうか。

十年前の3.11のとき、多くの同労者が被災地支援に向かっているのを見て、「僕も現地で人の助けになりたい」とつぶやいていると、妻がすぐに「あなたが行っても足手まといになるだけよ……」と言われ、現地で支援活動に携わっている友人を応援することに専念しました。

このコロナ禍の中では、自分の中に驚くほど敏感な傷つきやすい部分があるという気づきが与えられました。実は、生き馬の目を抜く証券業界で10年間働いたという自負心が、その傷つきやすさを認めることを邪魔してきましたが、その気づきが与えられたことで、今、新しい夢を持てるようになってきています。

今、それぞれがこの不自由と忍耐を強いられる中で、何らかの挫折感のようなものを味わうことでしょう。しかし、それこそ私たちが自分に新たな気づきが与えられ、前進できる契機になるような気がします。

1.「それゆえ、われらは恐れない」

詩篇46篇は東日本大震災に向けて記されていると言えるかもしれません。まさにあのとき、2、3節に描かれるように、「地が変わり、山々が海に沈むほど揺らぐ……水がどよめき、あわだち、その勢いに、山々が ふるえ動く」という事態になりました。

火山活動で生まれた日本列島の危うさが描写されているような気さえします。もともと、日本の神話の古事記においては、伊邪那岐命と伊邪那美命の結婚によって日本列島が誕生したことになっていますが、伊邪那美は最後に、火の神を産んで死に、黄泉の国に降ったと描かれます。つまり、日本の神話では、火山活動には日本列島を生んだ女神さえ殺す力があるのです。

日本に定期的に大地震や火山噴火、大津波が起きるのは避けがたいことです。私たちが持つべき疑問は、「なぜ、東日本大震災が起きたのか?」ではなく、「こんな危ない島国に、どうして多くの人々が安心して住んでいられるのか?」ということかも知れません。

そこに創造主のみわざが現わされています。いつ沈んでも不思議ではない日本列島に今の状態が保たれていること自体が、神の恵みです。

最初に、「神はわれらの避け所、また力」(1節) と歌われますが、あなたにとっての神とは、どのような方でしょう?

聖書は、「はじめに神が天と地を創造された」という神ご自身の自己紹介から始まります。創造主を忘れ、被造物により頼むことから、悲劇が始まります。これはお金に困った時、父親に頼むことを恐れ、手元にあるサラ金業者の電話番号をダイヤルするようなものです。

ですから、神こそが「苦しむとき、すぐそこにある助け」であると描かれます。そしてその後の「それゆえ」(2節) も大切です。危機に直面すると身体が本能的に反応しますが、自分で恐れを鎮めようとする代わりに、神に目を向けることが大切です。

その結果として、「われらは恐れない」と告白することができるのです。「たとい、地が変わり、山々が海に沈むほど揺らぐとも……山々が ふるえ動くとも」(2、3節) とは、足元が崩れ去ることの象徴的表現です。これは起こり得る最大の悲劇を想定すると分かります。それでも「恐れない」と告白できるのは、私たちを支えるのがこの地ではなく、天地万物の創造主であられるからです。

4節の初めの「川が」とは、「あっ。川だ!」という驚きです。エルサレムは山の上にある町で、川もなく、攻撃されると水が生命線になります。しかし終わりの日には、神殿から水が湧き出て、四方の地をエデンの園のように潤すと預言されているように (エゼキエル47章)、「避け所」である神は、この水を直接お与え下さると約束されているのです。

しかも、神が、町の真中におられる時、その都は揺らぐことがありません。しかも、「神は 夜明け前に これを助けられる」とありますが、このことは二度も起きました。

ヨシャパテ王の時、「彼らが喜びと賛美の声をあげ始めると、主 (ヤハウェ) は伏兵を設けて」、敵の連合軍を攻め、その結果、彼らは「彼らは互いに戦って滅ぼし合った」と描かれます (Ⅱ歴代20:22、23)。

その約150年後のヒゼキヤ王の時、アッシリア帝国がエルサレムを包囲しますが、王が「祈り、天に叫び求めた」ところ、「 (ヤハウェ) は御使いを遣わして、アッシリアの王の陣営を……全滅させた」(Ⅱ歴代32:20、21) と描かれています。これは、夜のうちに、まさに「夜明け前に これを助けられ」たのでした (Ⅱ列王19:35参照)。

これらを踏まえ、「諸国の民は どよめき 国々は揺らぐ、神の発する御声は、その地を溶かす」(6節) と神の救いが描かれます。そのような世の不安定さは、「山々が海に沈むほど揺らぐ」(2節) という状態の中でも、「神が、ま中に居まし、都は揺るがない(5節) という御国の安定さに対比されます。

万軍の主 (ヤハウェ) は、われらとともにおられる」(7節) は、この詩篇のテーマで11節にも繰り返されます。「 (ヤハウェ) 」という御名は、「わたしは 『わたしはある』 という者である」(出エジプト3:14) という神の自己紹介に由来し、すべての現象の背後に神がおられることを意味します。「万軍の」は「無敵」を意味します。

2.「静まれ(新改訳:やめよ)。そして、知れ。『わたしこそ神……』」

来て、主 (ヤハウェ) のみわざを見よ」(8節) は、上記のような勝利の跡を見ることの勧めです。それは「主は地上に驚異を置かれた」という恐れ驚くべきことですが、「地の果てまで、戦いをやめさせ 弓を折り、槍を砕き、戦車を焼かれ」(9節) るために必要な手段でした。それこそ、神の民にとっての勝利の喜びでした。

10節新改訳の「やめよ」は名訳です。本来「そのままにしておく」の意味で、以前の新共同訳は「力を捨てよ」と意訳していました。英語では「Be still(静まれ)」という訳が一般的です。

水中で、もがけば沈み、力を抜くと浮き上がります。私もあるとき自己弁護に一生懸命になりながら、ふと「神の支えは、沈むに任せると体験できる!」と示されました。その後、「そして、知れ」と命じられます。文語訳は「汝等しづまりて我の神たるをしれ」と訳されていました。

その上で「知る」べき内容が、「わたしこそ神。国々の上におり、地のはるか上に在ると述べられます。新改訳では「国々の間であがめられ、地の上であがめられる」と訳されますが、「あがめる」とは「高い」の派生語で、ここでは、神が万物の創造主として、今もすべての政治、地の出来事の上におられ、すべてを支配しておられるという意味があります。

イエスは、「雀の一羽でさえ、あなたがたの父の許しなしに地に落ちることはありません……」(マタイ10:29) と言われました。

ところで、その後、神が真中におられるはずのエルサレムは滅ぼされ、神の住まいとされる神殿も廃墟とされることになりました。それは、ユダの民が周辺の諸国の偶像礼拝の習慣に毒され、神を求めなくなった結果です。

その理由は、神の栄光が、都と神殿を去ったことにありました (エゼキエル10:18)。彼らはそれに気づかず、「神の都は揺るがない」と言い張り、圧倒的なバビロン軍を前に人間的な戦争準備に励み、また南のエジプトに助けを求めたりしながら、神の御前に静まる時間を惜しんでしまいました。

日本でも中国、ロシア、中東全域にわたる大帝国を築き上げた元帝国のフビライ・ハンによる1274年、1281年の二度に渡る攻撃を、鎌倉幕府の執権北条時宗の政権下で退けました。

一回目の元軍襲来の際、時宗はたったの22歳、二回目は29歳です。その際、神風が吹いて14万人もの大軍を海に沈めたと言われますが、事実は神風以前に、その際の日本人の自主的な協力の姿勢が勝敗の鍵だったと言われます。そこに真心からの危機感の一致があったのです。

しかし後にそれが神風神話として残り、太平洋戦争のときにも神国日本は負けることがないという誤った信念で、日本国民を思考停止に追いやりました。

一人ひとりが主の御名を呼び求め、主に信頼するところに、神のみわざは現わされます。今、私たちのからだは既に、「神から受けた聖霊の宮」(Ⅰコリント6:19) とされていますが、「御霊を消してはいけません」(Ⅰテサロニケ5:19) とあるように、それを空虚な宮にしてはなりません。

人は、基本的に自分の肉の思いに囚われ、誤った衝動に駆立てられますから、繰り返し主の前に静まり、この世界のすべてを支配しておられる主のみわざに思いを向ける必要があります。そこから冷静な識別力と判断力が生まれます。この世界を暗くしているのは、働きの悪い人や生産能力の低い人ではなく、誤った方向に情熱を傾けている人々です。

ですから、古代教会のある指導者は、「忙しさとは、怠慢である」と言い切りました。このコロナ禍の中、いろんな不自由が生まれます。しかし、唯一、コロナ禍の及ばない領域があります。それは、主の御前に静まるということではないでしょうか。緊急事態宣言は、神から与えられた祈りの機会です。

3.「あなたがたの繁栄を回復する」

新型コロナウィルスの蔓延は明らかに「わざわい」ですが、それを主は「平安(平和、シャローム)を与える計画」、「将来と希望を与えるもの」へと変えてくださいます (エレミヤ29:11)。

多くの人々はこの悲惨の中で、「神はいない」と思うかもしれませんが、私たちはこの状況の中で、主の御支配を「捜し求め」ます (同29:13)。

そのとき主 (ヤハウェ) は、「わたしはあなたがたに見出される」と言われます。

そしてさらに、「わたしはあなたがたを元どおりにする」または「あなたがたの繁栄を回復する」と大胆に保証してくださいます (同29:14)。

つまり、私たちはコロナ悲惨をとおして、主の御支配を再発見し、繁栄を回復することができるのです。

それを私たちはイスラエルの歴史から学ぶことができます。ダビデが建てた王国は、紀元前586年にバビロン帝国によって滅ぼされ、エルサレムにいたユダヤ人はバビロンに強制移住させられました。

しかし、預言者エレミヤは、当時のユダヤ人に向けて70年後の回復を語り告げます。そして、紀元前536年にバビロン帝国がペルシャ帝国によって滅ぼされ、ユダヤ人のエルサレム帰還が許されます。

エズラ記1章1節では、「エレミヤによって告げられた主 (ヤハウェ) のことばが成就するために、(ヤハウェ) ペルシャの王キュロスの霊を奮い立たせたと記され、エルサレム神殿の再建が異教徒の王によって命じられます。

そして、エルサレム神殿は破壊された70年後に再建されることになります。まさにエレミヤ29章10節に記された「バビロンに七十年の満ちるころ」という預言が、奇想天外な形で、文字通り成就したのです。

それにしても、どのようにしてバビロン捕囚がユダヤ人にとっての「平安(平和、シャローム)を与える計画」となったのでしょう。ダビデの後継者たちはたびたび、まことの神から離れ、偶像礼拝に走り、そのため主のことばが忘れられているときがありました。

たとえば、神殿が崩壊する36年前に、律法の書が神殿内で発見され、ヨシヤ王のもとで皆がそろって悔い改めたということがありました。そのとき発見されたのは申命記28章などに代表される神の呪いが書いてある部分だったと思われます。驚きなのは、そのような大切な書が人々から忘れられていることがあったということです。

リベラルな学者は、聖書がバビロン捕囚後に記されたと言いますが、保守的な学者はモーセ五書を歴史的な事実と認めます。ただそれでも、保守的な学者も、旧約聖書が現在の形にまとめられたのはバビロン捕囚以降であると言う点では一致できます。

つまり、ユダヤ人にとってのバビロン捕囚とは、彼らの聖書信仰を確立させる機会として用いられたのです。この捕囚の悲劇がなければ、世界中、いつでもどこでも聖書が開かれ、その朗読を聞くという礼拝は生まれませんでした。

現在のような形に旧約聖書が整えられたという意味で、バビロン捕囚は、ユダヤ人にとって平安 (シャローム) を与える計画になったと言えるのです。それが第一の平安の計画の意味です。

ただし、ユダヤ人はバビロン帝国の支配から解放はされましたが、さらにペルシャ帝国の支配下に置かれ、その後は、アレクサンドロス大王が建てたギリシャ帝国の支配に、さらにローマ帝国の支配下に置かれました。つまり、捕囚は七十年で終わってはいないのです。

事実、捕囚期にバビロンやペルシャ帝国の高官として仕えたダニエルは、エレミヤ書から「エルサレムの荒廃の期間が満ちるまでの年数が七十年であることを」知って、真剣に神に祈りましたが、天使ガブリエルから「七十週」あるいは「七の七十倍」の時が、さらに必要であると告げられます (ダニエル:2、24)。

これに関しては様々な解釈がありますが、それでもイエス・キリストこそが捕囚状態からの真の解放者であると見ることにおいては一致できます。

実は、神の民の物語はバビロン捕囚を通して変わったのです。ダビデ王国までは、異教徒に対する勝利が描かれますが、捕囚後は、全能の神が異教徒の王を用いて神の民を守るという形になります。

ですからクリスチャンはローマ帝国の下で権力者と戦うことなく、互いに愛し合う信仰共同体を広げ続けました。すると300年たって、ローマ皇帝自らがキリストの前にひざまずきました。

私たちは今、この地の権力者もキリストの支配のもとにあると信じ、このコロナ禍の分断の中でも、国境を超えた神の民としての交わりを築き続けています。異教徒の支配者の上にキリストの支配を信じられることこそ、第二の平安の計画の意味です。

また、バビロン捕囚を通して、礼拝の形も変わりました。捕囚前までは、エルサレム神殿の至聖所にある「契約の箱」に、犠牲のいけにえの血を持って入ることによって、神の赦しを受け、神との契約関係を更新し続けることができました。

しかし神殿崩壊以来「契約の箱」は行方不明のままで、再建された神殿では、レビ記通りの礼拝ができなくなったのです。

しかも、エステル記にも記されているように神殿再建後も、多くのユダヤ人はエルサレムに戻ることができず、世界中に散らされていました。そのため彼らの礼拝は、各地での会堂(シナゴーグ)で守られるようになります。そこでは、レビ記を朗読することが、いけにえを献げることの代わりとされました。

そのような中でイエスは、「まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です」(ヨハネ4:23) と、新しい礼拝を提示してくださいました。

そればかりか、イエスはご自身の十字架と復活によって神殿を完成し (ヨハネ2:20–22)、「契約の箱」の前でのいけにえを不要にしてくださいました。つまり、バビロン捕囚から変わってきた礼拝の形を、完成したのがイエスなのです。

そして今、イエスの御名による礼拝が、いつでもどこでも可能になっており、このコロナ禍の中では、インターネットを通してさえ「御霊と真理によって父を礼拝する」ことが可能になりました。

もちろん、それは、実際に集まる礼拝を補助するものでしかありませんが、神の民が礼拝の交わりにつながっていることは確かです。それを可能にした捕囚後の礼拝の改革こそ、第三の「平安の計画」であると言えましょう。

ですから、エレミヤが述べた「将来と希望」の中には、エルサレム神殿の再建から、イエス・キリストの現れ、さらにキリストの再臨の際に全世界が「神の平和 (シャローム)」に満たされることまでの、すべての神の救いのみわざが含まれると考えることができます。

そして、バビロン捕囚がユダヤ人を真の悔い改めに導いて、聖書信仰を確立させる契機になったように、私たちもコロナのような「わざわい」を通して謙遜にされ、聖書信仰を回復し、国境を越えて歴史の真の支配者である主 (ヤハウェ) に信頼する者へと成長させられるのです。

今、身体的にともに集まることができなくなっていることから、インターネットを通しての様々な新しい結びつきが生まれてきています。主にあって、危機(ピンチ)はチャンスに変えられることができます。

今、すべてのクリスチャンはアブラハムの子孫とされています。神はアブラハムの子孫を全世界の「祝福の基(もとい)」とすると約束されました (創世記12:2共同訳)。この世界が暗ければ暗いほど、私たちは「まことの光」であるキリストの光を輝かせることができます。

この新型コロナ蔓延の悲劇は、世界中の人々が、創造主の前にへりくだり、主に信頼してこの世界に神の平和 (シャローム) を広げて行く契機とされるべき「神の計画」であると見るべきでしょう。

多くの人の心が、感染を恐れて委縮し、内向き志向になっていますが、私たちは「わざわいではなく平安(平和、シャローム)を与える神の計画」を分かち合うことができます。

その際の目標は、「元どおり」の状態の回復ではなく、神がともにおられるという感動に満ちた「繁栄 (シャローム)」の実現です。福音宣教のゴールは「平安(平和、シャローム)」の完成にあるということを忘れてはなりません。

マルティン・ルターは改革に着手して十年後、精神的にも肉体的にも瀕死の状態になりました。熱狂主義者が聖霊の御名で秩序を否定し、カトリック勢力は猛烈な反撃に転じ、聖書教師は育たず、ペストの流行で長女が病死し、トルコ帝国が東から攻め、彼自身もサタンの誘惑に圧倒され神経衰弱に陥りました。

その時、詩篇46篇に慰められ、讃美歌「神はわれらが堅き砦」を記しました。これは宗教改革の進軍歌とも呼ばれますが、実際は、祈りの歌です。

1番の歌詞の後半は、「古き悪魔 知恵を尽くし 責め来たれば 地の誰もが かなうこと得じ」とサタン勢力の圧倒的強さが歌われます。

2番では「いかで頼むべき わが弱き力 われらに代わりて 戦う方あり」と告白されます。この方は私たちと共に戦う方ではなく、私たちに代わって戦ってくださる方です。その方こそ「万軍の主なるイエス・キリスト」で、「勝利を私たちに与えてくださる方」です。

そして3番では、悪魔の攻撃の恐怖と、神がともにいてくださる平安が歌われながら、最後に、主のみことばがサタンに打ち勝つようすが描かれます。

4番目は、たとい主のことばがむなしく響くように見えても、主はご聖霊によってみこころを成し遂げてくださると告白されますが、それに続いて、衝撃的にも「命も……妻も子も奪うに任せよ。神の国はなおわれらにあり」と歌われます。

それは、サタンは、脅しで人々を動かしたとしても、「からだを殺しても、たましいを殺せない者」に過ぎないからです (マタイ10:28)。

なお、ルターはその後20年生かされ、福音的な教会の基礎を築きました。最愛の家族を守る人間的な努力さえも「やめよ」と歌った者たちを神は守り通してくださったのです。

人と戦う者は、人の奴隷になります。それこそサタン惑わしです。神の敵を神の前に立たせましょう。すると彼らに勝ち目はなくなります。