ローマ人への手紙1章16〜32節「神の怒りが天から啓示されていることへの対応」

2023年11月19日

現在のガザ地区において目を覆いたくなるような悲惨な状況が続いていますが、イスラム教諸国とキリスト教が多数派の諸国では、報道のされ方がまったく違うようです。私たちはそのようなときに、どちらに、より正義があるかという評価をすぐに下そうとしますが、それはひょっとしたら自分を神の立場に置くことかもしれません。

パレスチナ難民ばかりか、イスラエルも今、危機的な状況に置かれています。私たちはまず、誰が悪者かを考える前に、そこで苦しんでいる方々とともに悲しみ、祈ることが求められています。

この世界が本来のあるべき状態から離れているという現実の背後に、私たちは「神の怒り」の「啓示」を見ることができます。そこで私たちに問われるのは、「主 (ヤハウェ) に叫び求める」ことです (士師3:15)。

そして、そこで遣わされる「救助者とは、「悲しみの人で、病を知っていた」と描かれるような(ヤハウェ) のしもべ」の姿です (イザヤ53:3)。私たちの目の前にはいつも不条理があります。しかし、そこで人の痛み悲しみに深く共感しながら、神の平和(シャローム)を広げる地道な働きこそが世界を変えて行きます。

「福音には神の義が啓示されている」と記される「神の義」は、人々の罪を負って十字架に架けられたイエス・キリストに現されていました。

力の均衡で動く国際政治の現実を冷静に見て、政治に対する意見を述べることは大切ですが、そこで求められるのは評論家のような態度ではなく、人の痛み悲しみを自分のものとする姿勢です。

1.「朽ちない神の栄光を替えてしまいました、朽ちるものに似たかたちとへと」

1章16、17節では、「私は福音を恥としません。それは神の力です、それは信じる者すべてに救いをもたらすものです、ユダヤ人をはじめギリシア人にも。それは、神の義がそこ(福音)に啓示されているからです、それ(神の義)は信仰(真実)から(に始まり)信仰(真実)に(進ませます)。それは『義人は信仰(真実)によって生きる』と書いてあるとおりです」と記されています。

それに続いて、「それは神の怒り天から啓示されているからです、あらゆる不敬虔と不義の人々に対してですが、彼らは不義によって真理を阻んでいます」と記されます (1:18)。つまり、「私は福音を恥としません」という宣言を説明する形で、「それは神の義がそこに啓示されているからです」と、「それは神の怒りが天から啓示されているからです」という二つの「啓示」が対比的に記されています。

それは、「神の怒り」が「天から啓示され」、すべての人々に明らかにされていることで、人々はどこかで「この世界は何かが狂っている」と感じながら、「福音に……啓示されて」いる「神の義」を慕い求める素地が備えられるとも言えましょう。

「神の怒り」は人々の心の中に不安感や不全感を引き起こしますが、そこには「福音」に対して心を開かせようとする神の招きを見ることができるのではないでしょうか。つまり、「神の怒り」の「啓示」の背後に、神の語りかけが見られるのです。

事実、人は自分の知恵や力の限界を感じない限り、神の救いを求めようとはしないものだからです。

19節最初の接続詞を、新改訳第二版では「なぜなら」と訳し(聖書協会共同訳も同じ)、第三版では「それゆえ」と訳し、今回の「新改訳2017年」版では、敢えてこの接続詞を言語化していません。

そこには「神の怒りが天から啓示されている」その理由の説明を次に期待するのか、それともその帰結を描くのか、また、原文の前節最後の「不義によって真理を阻んでいる」という現実を、ごく自然に説明し続けていると理解するかという三通りの解釈があります。ここは最後の新しい翻訳の仕方が一番自然だと思われます。

とにかくここでは、「神について知りうることは、彼らの間で明らかです。それは神が彼らに明らかにされたからです。それは、この方の目に見えない性質は、世界の創造のときから被造物を通して知られ、はっきり認められています、それは神の永遠の力と神性のことですが、彼らに弁解の余地はありません」(1:19、20) と記されます。

私たちは、神の存在を論理的に説明しようと試みることがありますが、ここでは単純に、創造主の存在を認めようとしないこと自体が、「不義によって真理を阻んでいる」という最大の罪であると宣告されます。

これはたとえば、昔の日本人が富士山の美しさに感動しながら、そこに木花咲耶姫命(コノハナサクヤヒメノミコト)がいると思って礼拝をするということ自体が「」であるという宣言です。

それに対してのパウロの説明は神がご自身のことを「被造物を通して知られ、はっきりと認められ」るように「明らかにされた」と宣言します。これは合理的な説明とはとうてい思えません。

しかしヘブル的な発想の中では、「愚か者は心の中で『神はいない』と言う。彼らは腐っていて 忌まわしいことを行う……すべての者が離れて行き だれもかれも無用の者となった。善を行う者はいない。だれ一人いない」(詩篇14:1、3)と一方的に宣言されます。

この世の裁判では、責任能力がないと認められたら、罪には定められません。しかし、聖書の世界では、創造主を忘れて、人間が作った神々を拝むこと自体が罪と宣言されているのです。

1章21節の始まりも「それゆえ」とか「なぜなら」と訳すことができる接続詞が使われていますが、ここでも、先の「弁解の余地がありません」の必然的な流れとして、次の説明になります。

そこでは、偶像礼拝に至るプロセスが、「彼らは神を知っていながら、その方に神としての栄光を帰しませんでした、また感謝もしませんでした。かえってその思いはむなしくなりました。

また、その鈍い心は暗くなりました。彼らは、自分たちは知者であると主張しながら愚かになりました。そして、朽ちない神の栄光を替えてしまいました、朽ちるものに似たかたちとへと、人間や、鳥、獣、這うもののような」(1:21–23) と記されています。

ここで最初の「彼らは神を知っていながら……」とは、アダム以来のすべての人間の罪を指摘したもので、これも「知らされていなかった」人には責任能力が問われないという裁判的な解釈とは異なります。

これは敢えて言うと、「宿題を忘れた」という言い訳をする人に、「忘れたこと自体に責任があり、課題を全うできなかったということ自体が、不合格の理由になります」と言われるようなことに少し似ています。

そして偶像礼拝の「愚かしさ」を、「朽ちない神の栄光を、朽ちるものに似たかたちへと「替えた」ことと描かれます。

これは、神ご自身が「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。こうして彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地の上を這うすべてのものを支配するようにしよう」(創1:26) と言われたことに対する反抗です。

神ご自身が人を「神のかたち」「神の似姿」に創造し、この地のすべてのものを支配させるという使命を与えたのに、それを忘れてすべてを逆転させたからです。

「神のかたち」とは、神を崇め、神から与えられた地を治める使命を指し示すものですが、愚かになった人間は、栄光の神を、自分が治めるべき被造物に似させてしまい、神も自分も、すべてを空しくしてしまったのです。

2.「神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました」

1章24節では、「神の怒り」の現れとして、「そこで神は引き渡されました、彼らをその心の欲望のままのうちにあっての汚れに。それは彼らが互いに自分たちのからだを辱めることです」と記されています。

「神は引き渡されました」とは、26、28節でも繰り返される鍵のことばです。

詩篇81篇11、12節では、イスラエルの民に対する神の葛藤とさばきが、「しかし、わたしの民はわたしの声を聞かず イスラエルは わたしに服従しなかった。それでわたしは 彼らを頑なな心のままに任せ 自分たちのはかりごとのままに歩ませた」と描かれています。

そこでの「頑なな心のままに任せ」とは、神の警告のことばを聴こうとしない民に、敢えて自滅への道を歩ませ、彼らに「神に背く」ことの「痛み」を体験させることで、ご自分のもとに「立ち返らせ」ようとする神の招きです。

旧約における神の怒り」の背後には、いつも神の招きがあります。

これはたとえば、様々な依存症の治療の際に言われる原則でもあります。家族やまわりの方が依存症の方にさまざまな指導をしても、彼らに「甘え」か「自己嫌悪感」を生み出すばかりなってしまいます。

それで、敢えて助けることを止めて、彼らの自滅を見守り、速やかに「このままでは自分は破滅するしかない」という心の底からの危機意識を味わうことができるような「どん底」を体験してもらう必要があるという原則です。

そしてここでは、神が引き渡された」結果として、「彼らが互いに自分たちのからだを辱めるようになった」と描かれ、その意味を「彼らは神の真理を偽りと取り替えました。そして造られた物を拝みました、そして仕えました、造り主の代わりにです、この方こそ、とこしえにほめたたえられる方です、アーメン」と説明されます (1:24、25)。

ここでは、「自分たちのからだを辱める」ことの具体的な現れよりも、その神学的な意味が示唆されています。それは、人が「神を現わす」、「神のかたち」に創造されたにも関わらず、その誇りを忘れ、自分が支配するべき対象の「造られた物を拝む」という愚かさです。

これは何よりも神を侮ることであるとともに、「神のかたち (Image of God)」に創造された自分自身を辱めていることに他なりません。

1章26、27節は、ホモ・セックスを恥ずべきことと非難するという前に、「神のかたち」に創造されたことの誇りを忘れたことの結果を人間に思い知らせるために、「神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました」と描かれています。

その背後には、創世記1章27、28節があり、そこで「神は人(アダム)をご自身のかたちに創造された。神のかたちとして彼を創造し、男(male:雄)と女(female:雌)とに彼らを創造された。神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。『生めよ。増えよ。地に満ちよ、それを従えよ。そして支配せよ、海の魚、空の鳥、地の上を這うすべての生き物を』」と記されます。

興味深いのは、「アダム(人)」が「神のかたち」として創造され、そのアダムが二つの性で一組かのように描かれていることです。これは古代世界の文化的常識と異なり、女性も「神のかたち」であるばかりか、「男と女」が動物の雄と雌がセットにされるかのように「一体(一つの肉)」として見られていることを意味します。

そして、彼らは一体であることによって、子孫を生み、増やし、地に満ちて、そこを従え、すべての生き物を支配するという働きを、男と女で行うことができます。これは単純に生物学的に、男と女の交わりを通して人間が増え、この世界を治めるという神の創造の秩序を描いたものです。

それは別に、結婚して子どもを産まないことが創造の秩序に反するとか、男性や女性の枠にはまらない人を、創造の枠からはみ出た者として見るというような差別的なニュアンスは一切ありません。単純な子孫を生み得る生物学的な創造の秩序を描いたことばです。

ですから「恥ずべき情欲」とは、子孫を生み得る性的な交わりを軽蔑するかのように、同性間で性的な情欲に燃えることを指すと思われます。

そのことがより具体的に、「すなわち、彼らのうちの女たちは自然な関係(機能)を自然に反するものに取り換えました。同じように男たちも、女との自然な関係(機能)を捨てて、男同士で情欲に燃えました。男が男に恥ずべきことを行ってしまい、その誤り(倒錯)に対する当然の(必然的な)報いを受けています」(1:26、27) と記されます。

最初の「取り換えた」とは、前節で「彼らは神の真理を偽りと取り替えました。そして、造られた物を拝みました」と記されたのと同じことばです。つまり、同性間の性的な交わりが、「神の真理を偽りと取り替えた」偶像礼拝と同じ、神の創造の秩序に反することとして非難されているのです。

しかも「自然な関係」での「関係」とは、「機能」とか「用い方」と訳すことができることばで、男性器、女性器という性的器官の自然な用い方に反する性的な交わりを指しています。

ですから、これは同性愛と同時に、自然に反する性的器官の用い方すべてに対して、「恥ずべき情欲」と呼ばれていると言えましょう。

これを厳密に適用するなら、「子の誕生」を前提としないすべての性的な交わりが、自然な機能の使い方に反する「恥ずべきこと」と非難されていると解釈することもできましょう。

どのような性的な交わりが神のみこころに反するかを論じる前に、私たちはイエスの厳しいことばを思い起こすべきです。

主は、「情欲を抱いて女を見る者はだれでも、心の中ですでに姦淫を犯したのです。もし右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨てなさい」(マタイ5:28、29) と言われました。これを文字通り実行するなら、すべての男性は「右目」を抉り出さざるを得ないことでしょう。

ある特定の性的な交わりを非難する前に、他の人を自分の欲望を達成する手段と見るという根本的な姿勢が、自己中心として非難されているのです。その意味では、すべての人間が「神の怒り」を受けるべき存在と言えましょう。

なお、27節最後の「当然の(必然的な)報いを受けています」とは、昔は、男性間のセックスでエイズが発症したというような意味で用いられたことがありましたが、それはあまりにも短絡的、差別的な解釈と言えましょう。

それよりもここはもっと自然な帰結、先の創世記の『生めよ、増えよ』という神の祝福を体験できないという現実を指していると思われます。

つい数十年前までは、世界的な人口爆発が大きなテーマで、産児制限が叫ばれていましたので、「子どもが生まれない」というのは、悲劇としては見られませんでしたが、幼児死亡率が高かった二千年前には、それが神の怒りの現れと見られたのだと思われます。

3.「神は彼らを無価値な思いに引き渡されました」

1章18節の最新訳は「価値を認める」「無価値」などという原文の言葉遣いを生かした訳で、「また、彼らは神を知ることに価値を認めなかったので、神は彼らを無価値な思いに引き渡されました。それで彼らは、してはならないことを行っているのです」と記されています。

つまり、彼らは「神を知ることに価値を認めない」ことを当然と考えているので、「神のかたち」に創造されたという特権を忘れさせるような、自分で自分を辱めるような「思い」へと、「神が引き渡された」と描かれているのです。

これは創造者とその方から与えられた尊い使命を忘れた、自分を非人間化するような「思い」へと駆り立てられることを意味します。

これはたとえば、自分が「神のかたち」に創造されているという健全な誇りを忘れた結果として、自分をこの世の市場経済で取引される「商品」と同じように見てしまう傾向とも言えましょう。

最近は、転職紹介サイトに自分を登録して、自分の商品価値を測ってもらうというようなことが流行っています。それは、今の勤務先で、会社の奴隷のように扱われないための「知恵」として大切かもしれません。確かに、もっと転職の可能性に目が開かれているなら、組織内でのパワハラに耐える必要もなくなります。

しかし一方で、自分の市場価値に目が向かいすぎると、社会が求める自分の姿ばかりに目が向かってしまい、「神のかたち」としてユニークに創造されているという原点を忘れさせることになり得ます。

とにかく、市場経済は大切な仕組みですが、これほど人間の価値を貶めるシステムもないとも言えるかもしれません。何しろ特に日本では、「神を知ること」に何の価値も認められないどころか、マイナスに働くことが多いとも言える状況があるからです。

しかし本当は、「神を知る」ことこそが、自分の真の価値を知ることにつながるのです。

1章29節~31節では21種類の表現で、「してはならないことを行う」ことの具体的な現れが記されます。

最初に四つの罪が「あらゆる不義(不正)、悪(よこしま)、貪欲、悪意に満ちている」と描かれ、さらに五つの罪が「ねたみ、殺意、争い、欺き、悪巧みにまみれている」と言われ、

また八つの罪が「陰口を言い、人を中傷し、神を憎み、人を侮り(奢り)、高ぶり、大言壮語し(自慢し)、悪事を企み、親に逆らい」と描かれます。

そして最後に四つの罪が「浅はかで、不誠実で、情け知らずで、無慈悲です」と描かれます。

原文では韻を踏んだことばの並びが見られますが、個別の罪の結びつきや配列の意味はよくわかりません。

そしてこれらをまとめるように、「彼らはこれらに対する神の定めを知りながら、それはそのような行いをする者たちが死に値するということですが、自らそれを行っているだけでなく、それを行う者たちに同意もしているのです」(1:32) と記されます。

ここでの「彼ら」とは、「神を知ることに価値を認めなかった」と言われる「すべての人々」を指しています。それは彼らが「十のことば(十戒)」を代表とする聖書の定めを知ろうともしていないことを意味します。

それにもかかわらず、パウロは彼らが「これらに対する神の定め」、「そのような行いをする者たちが死に値する」ということを知っている」はずであると、驚くほど大胆なことを記しています。

これは多くの日本人の現実を見ると分かるとも言えます。それは、私たちクリスチャンも偶像礼拝に励む方々も、また不可知論者も無神論者も、先の21のほとんどに関して、これらは「してはならないこと」であるということにおいて幸いにも一致しているからです。

そしてすべての宗教には、死後のさばきのような教えがあり、地獄に落とされるというような意味において、神の死刑判決の可能性を無意識のうちに知っています。

それは人がすべて「神のかたち」に「神に似せて創造されている」結果と言えましょう。

ドイツ最高の哲学者とも称される18世紀末のインマヌエル・カントは実践理性批判の結びの部分で「ふたつのものがある。それに思いを巡らし心を集中させればさせるほど、この心をいつも新たな脅威と畏敬の念に満たしてやまない。それは私の上の星空と、私のうちにある道徳律である」と記し、そこにおいて神を知ることができると記しました。

そこには人間の理性で神を把握し得るという理性崇拝の問題がありますが、この箇所に描かれた「神について知りうることは、彼らの間で明らかです。それは神が彼らに明らかにされたからです」(ローマ1:19) という神のみわざに対応するものと言えましょう。

ただ、カントが言っているように、宇宙の偉大さに感動する中から占星術が生まれ、道徳学から狂信または迷信が生まれるという現実があります。

ハマスの指導者もイスラムの精神が国全体を支配するという理想郷を求めて、自爆テロのようなことを起こします。残念ながら、人間の理性が作り出す道徳律には、常に偏見が入ってしまいます。

すべての人が「神のかたち」に創造されたということばは、すべての人間の存在の絶対的な価値を説くと同時に、神の世界を管理して平和を広げるという私たちの使命が結びついています。

そして、男も女も「神のかたち」に創造されたという原則から、健全な家庭が生まれます。LGBTに関しての異なった見解がどれほどあっても、すべての人が生物学的に男と女の交わりから生まれているという厳然たる事実があります。その二人の交わりが、神の祝福のうちにあるかどうかは、そこで生まれた子に決定的な影響を及ぼします。

確かに、社会的なマイノリティーの方々の法的な権利を守ることは決定的に大切ですが、それによって聖書に記された家族観、特に性的関係を神の創造の秩序から見るという視点が疎かにされるということがあってはなりません。

パウロは同性愛による性的な交わりを「罪」と呼ぶ代わりに「恥ずべきこと」と呼びました。それは男女の生殖機能に関して、創造の原点に反する用い方であり、「神のかたち」を辱める行為と判断されたからです。

ある特定の基準で人を「さばく」代わりに、人も自分もかけがえのない「神のかたち」と見るという、神が示す人の価値の視点から、すべてのことを見直すことが大切でしょう。