LGBTに関して〜ローマ人への手紙1章16–32節から解釈

先日のメッセージ箇所で、ローマ人への手紙の二回目のメッセージの箇所でしたが、最近、日本のキリスト教世界でも話題になっているLGBTに関するところを扱うことになりました。

実は、僕の親しい友人で、極めて福音的な信仰の立場に立ちながら、LGBTの方々を受け入れることに積極的な方がいます。

一方僕は、LGBT運動の行き過ぎに警告を発した米国の福音的な指導者が出した に同意をしたいと思う立場です。

以前、一時間半近くにわたって、このことに関してZoomで対話しました。その結果、約9割がたの点で一致できることがわかり、とっても安心できました。彼はナッシュビル声明に批判的ですが、僕はその背景を自分なりに説明させていただきました。ご興味のある方には、以前、僕が福音自由の牧師研修会でお分かちしたレジュメをご紹介することができます。

僕がその中で改めて教えられたのは、LGBT擁護の方が、自分の意思で選択しようのなかった遺伝子的な性的な志向や性自認の問題を、治療によって治すことができるという主張に、驚くほどの危機意識を持っておられるということでした。彼らは、キリスト教的カウンセリングの名のもとに、心理的な暴力を受けた方の話を多数聞いて、危機意識を持っておられるようです。

僕はその反対に、自分の肉体的な性に違和感を持つ方が、肉体の改造によってその違和感を解消できるという発想がいかに危険で、別の問題を引き起こし得るかということに目を向けています。自分のアイデンティーティーに関しての自己不全感は、肉体を改造したから解決するという問題ではない場合がほとんどだと思われます。

つまり、両方の立場にいる人で、カウンセリングマインドを持つ方は、自分の性自認や性志向を、治療によって治すことの危険を意識しているのですが、それぞれ、言っている方向が違うだけの話しだと言うことです。
 
ただ同時に、聖書的な視点から、この問題をどのように見るかは、慎重に見て行く必要があります。その場合の中心テキストが、何といっても、創世記1章でありローマ人への手紙1章です。私たちはこれを、今日的な人権意識の問題から見すぎることには注意が必要です。様々な生きにくさを抱えておられる方を受け入れることは教会にとって何よりも大切なことですが、だからと言って、聖書が語る創造の秩序とか、家族の大切さを軽視するようなことになってはなりません。聖書が語る家族の大切さに関しては、福音的な教会に属する方はほとんどすべて一致していただけると思います。その友人の彼とも、その点に関しては一致できました。
 
以下は先日のメッセージの結論部分です

 すべての人が「神のかたち」に創造されたということばは、すべての人間の存在の絶対的な価値を説くと同時に、神の世界を管理して平和を広げるという私たちの使命が結びついています。
 そして、男も女も「神のかたち」に創造されたという原則から、健全な家庭が生まれます。LGBTに関しての異なった見解がどれほどあっても、すべての人が生物学的に男と女の交わりから生まれているという厳然たる事実があります。その二人の交わりが、神の祝福のうちにあるかどうかは、そこで生まれた子に決定的な影響を及ぼします。
 確かに、社会的なマイノリティーの方々の法的な権利を守ることは決定的に大切ですが、それによって聖書に記された家族観、特に性的関係を神の創造の秩序から見るという視点が疎かにされるということがあってはなりません。
 パウロは同性愛による性的な交わりを「罪」と呼ぶ代わりに「恥ずべきこと」と呼びました。それは男女の生殖機能に関して、創造の原点に反する用い方であり、「神のかたち」を辱める行為と判断されたからです。
 ある特定の基準で人を「さばく」代わりに、人も自分もかけがえのない「神のかたち」と見るという、神が示す人の価値の視点から、すべてのことを見直すことが大切でしょう。

なお次の箇所では以下のように記されています。これはLGBTに関して互いに譲らずに非難し合うような議論をするすべての人に適用できることばです

ですから、すべて他人をさばく者よ、あなたに弁解の余地はありません。あなたは他人をさばくことで、自分自身にさばきを下しています。さばくあなたが同じことを行っているからです。
ローマ2:1

このことの意味は、恐縮ながら、小生の をご覧いただければお判りいただけると思います。また音声メッセージをポットキャストでお聞きいただくこともできます。ちょっと説教途中で、順番を間違えて混乱した部分があり、自分としては不満足でしたが、わかりやすい部分もあるかとは思います。