イザヤ43章14節〜44章22「見よ。新しいことをわたしは行う」

2023年6月4日 

私たちの喜びは、この礼拝のただなかにあります。今、この場が、目に見えない神の恵みに包まれています。そのように考えることは、現実逃避ではありません。事実、全能の神が働いている中で、あらゆるわざわいが起きてしまうからです。

ここで今、私たちは神の臨在を心から喜ぶことができます。ですから、人生を襲う様々な困難は、神の臨在の現実を失わせるものではありません。人生には、「死の影の谷を歩む」(詩篇23:4) と思えるときがやって来ますが、厳しい現実は神への信頼を揺るがすことはできません。

なぜなら、苦しんでいるそのただ中に、神は私たちとともにおられ、道を開いてくださるからです。そして、その暗闇の中で響いてくる主のみことばが、「見よ。新しいことをわたしは行う」という主の語りかけです。

1.「先のことを思い出すな。昔のことを思い巡らすな」

創造主は自業自得で国を失った民に、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(43:4) と言われました。

イスラエルはバビロン帝国とエジプトの間に挟まれ、人の目には吹けば飛ぶような小国に過ぎませんでしたが、神はこの民を「主 (ヤハウェ) の証人」として「かけがえのない」存在、また当時の最も豊かな文化国家エジプトよりもはるかに「重たい」存在であると断言しておられました。

その上で主は、不思議な救いのご計画を分かち合ってくださいます。「主 (ヤハウェ) はこう言われる」(43:14) という表現は、43章16節、44章2節、6節でも用いられますが、そのたびに、その方が、どのような方かが描かれます。

この14節ではまず、「その方は、あなたがたを贖うイスラエルの聖なる方」と表現されます。主は、イスラエルをエジプトばかりかバビロンの奴隷状態からも解放してくださる方、また、この世界を超越した「聖なる方」と呼ばれます。

そして、その救いのみわざが、「あなたがたのために、バビロンに使いを送り、彼らをすべて逃亡者(亡命者)として下らせる。カルデヤ人をその歓喜の船から」と描かれます。

この書が読まれたとき、イスラエルは国を失った捕囚の民、バビロンの情けでかろうじて生かされている「亡命者(逃亡者)」の立場になっていましたが、その立場が逆転するというのです。カルデヤ人とはバビロンの中心的な民族で、彼らは「歓喜の船」に乗っているような気持ちでいましたが、そこから追い出されるような悲惨な状態に追いやられるというのです。

そしてそう言える根拠を、「わたしは、主 (ヤハウェ) 、あなたがたの聖なる者、イスラエルの創造者、あなたがたの王である」(43:15) と述べておられます。

これらの箇所で、イスラエルという名前を、自分と置き換え、バビロンやカルデヤ人ということばを、あなたを虐げ迫害している人々に当てはめると、この箇所の意味が、よりパーソナルに響くことでしょう。

そして再び「主 (ヤハウェ) はこう言われる」(43:16) と宣言され、主がかつてエジプトの軍勢を紅海におびき出し絶滅させたことが、「その方は、海の中に道を、強い流れの中に通り道を設け、戦車と馬、強力な軍勢を連れ出された。彼らはみな倒れて起き上がれず、燈心のように消えた」(43:17) と描かれます。

その上で主は、逆説的に、「先のことを思い起こすな (do not remember)。昔のことを思い巡らすな (nor consider)」(43:18) と言われます。

神はイスラエルの民に、出エジプトを始めとする過去の偉大な救いのみわざを繰り返し思い起こすように命じておられましたから、これは意外です。それは、彼らが過去の成功に奢り高ぶって国を滅ぼそうとしていたからです。

たとえば、エルサレムがアッシリアに包囲されたときに、神が包囲軍を混乱させ、奇跡的に撤退させてくださいましたが、彼らは同じことがまた起きると期待して、神のさばきという現実を見ようとしなくなっていました。これは、日本の神風神話と同じです。

しばしば、過去の成功談は偶像化されて、人を失敗に導きます。「失敗は成功のもと」と言われる以上に「成功は失敗のもと」になることを覚える必要があります。

神の救いのみわざは、毎回、ユニークなもので、パターンが違うということを覚えなければなりません。それどころか、神がこれからもたらしてくださる救いは、それまでの成功も苦しみも色あせて見えるほどに奇想天外な偉大なものだというのです。

そのことを主 (ヤハウェ) は、「見よ。新しいことをわたしは行う。今、もうそれが芽生えている。それをあなたがたは知らないのか」(43:19) と言われました。

過去の体験に基づく期待から心が自由にされるとき、日々の生活の中に常に、何か新しいことの芽生えを見つけることができます。このとき彼らはバビロンの向こうに、強大なペルシア帝国の出現の前触れを見ることができましたが、南の大国エジプトの政治情勢にばかりに目を向けていました。

なお、出エジプトの際は海が真っ二つに分かれましたが、このとき彼らはバビロンに捕囚とされており、彼らの帰還を妨げたのは、起伏の激しい、水のない荒野でした。

それを前提に、主 (ヤハウェ) は、「確かに、荒野に道を、荒地に川をわたしは設ける。野の獣がわたしをあがめる。ジャッカルや、だちょうさえも。 荒野に水を、荒地に川をわたしが与え、わたしの民、選んだ者に飲ませるからだ」(43:19、20) と、荒野や荒地の中に、約束の地への帰還の道を開くことを保障してくださいました。

「ジャッカル」は山犬とも訳されますが、少数の群れをなして歩き回り、他の動物が食べ残したものをあさって食べる臆病な動物でした。

「ダチョウ」は、自分で産んだ卵を置き去りにし、そのひなは別の孵化しない卵を餌として育つという無慈悲で貪欲な動物の代名詞でした。両者とも廃墟を住処としていました。

つまり、そんなのろわれた動物さえも神の救いにあずかるというのですから、神に選ばれた民であるイスラエルが救いにあずかるのはなおさらのことであるというのです。

そしてそのことが、「この民は、わたしのために造った。彼らはわたしの栄誉を宣べ伝えよう」(43:21) と描かれています。

2.「イスラエルよ。あなたはわたしのことで疲れ果てた」

43章22節では、驚くべきことに、「しかしヤコブよ。あなたが呼んだのはわたしではなかった」と、彼らが別の神々に救いを求めたことが非難されます。彼らは、周りの国々の神々をも並行して礼拝することで、近隣諸国との融和を目指していたのです。

これはあらゆる神々のご機嫌を取ることで争いを避けようとする日本人の発想と同じです。しかし、それは、ふたりの女性を同時に愛そうとする愚かな男と同じです。最初は刺激的なのですが、どちらからも不満を述べられ、それがどんどん重荷となってきます。

その様子が、皮肉をこめて、「イスラエルよ。あなたはわたしのことで疲れ果てた」と描かれます。これは、「あなたはわたしを疎んじた」と意訳されることもありますが、同じ言葉を用いて主は、「穀物のささげ物のことで、あなたにわたしは苦労をさせてはいない。乳香のことで、あなたを疲れさせて(煩わせて)もいない……かえって、あなたの罪で、わたしに苦労をさせ、あなたの咎で、わたしを疲れさせ(煩わせ)だけだ」(43:23、24) と彼らを非難しているからです。

イスラエルに主への礼拝が重荷となったのは、主からの要求が厳しかったからではありません。別の神々に向かって「全焼のいけにえの羊」をささげ、その神々の心を満足させようとしていたために、主への礼拝がなおざりになってしまっただけなのです。

イエスも、「あなたがたは神と富とに仕えることはできません」と警告しながら、「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます」と断言してくださいました (マタイ6:24、33)。

たとえば、日曜日は、主を礼拝するためにあると心で完全に決め、また、収入の一定額は必ず献金すると決めてしまうと、意外に、礼拝することも献金することも、ほんとうに自然に、楽に行うことができます。

しかし、優先順位が定まっていないと、「この時間に、これができていたら……」とか、「このお金で、あれが買えたのに……」などと心が分かれて、すべてが重荷になってしまいます。そして、主から、「……よ。あなたはわたしのことで疲れ果てた」などというご指摘を受けることになります。

しかし、「そう聞いてはいるけど……」というのが人間の現実です。悪循環に陥っているときに正論を言われても、ますます、それがまた、「疲れ」になってしまいます。

それに対して、主はご自身が一方的に、彼らを新しくするということが、「わたし、わたしがそれだ、あなたのそむきをわたし自身のために拭い去る者。もうあなたの罪を思い出さ (remember) ない」(43:25) という圧倒的な恵みとして宣言されます。

神は決して正論を立て続けに述べて私たちを自己嫌悪に陥れ、生きる気力を失わせるような方ではありません。神の民を滅ぼしてしまうことは、神にとって取り返しのつかない損失となります。

だからこそ主は、「わたし自身のために」と強調しておられます。私たちの側に、聞く耳があるとか、謙遜にされているとかいう理由があるのではありません。神は、救いに値しないものに格別な恵みを施してくださるのです。

しかしそれは私たちの誇りを傷つけるものです。私たちは自分の側に救いを受ける正当な理由、「正義」があると主張したくなります。

それに対し主 (ヤハウェ) は、「わたしに思い出させよ。ともにさばきに向き合おう。あなたが宣べてみよ。自分を正義とするために」(43:26) と問いかけます。

その上で、本来正当な原因結果の理屈から言えば、エルサレム神殿が滅びたままにされるのが当然であるということを、「あなたの最初の先祖は罪を犯し、あなたの仲介者たちは、わたしにそむいた。それで、わたしは聖所のつかさたちを汚し、ヤコブを聖絶に、イスラエルが罵られるままにまかせた」(43:27、28) と言われます。

一方で主 (ヤハウェ) ご自身の主導で私たちを内側から変えてくださるという約束が、慰めに満ちた語りかけとともに、「今、聞け、わたしのしもべヤコブ、わたしの選んだイスラエルよ。主 (ヤハウェ) はこう言われる。―あなたを造り、母の胎内にいる時から形造ってあなたを助ける方はー

『恐れるな。わたしのしもべヤコブ、わたしの選んだエシュルンよ。潤いのない地に水をわたしは注ぎ、かわいた地に豊かな流れを起こす。わたしの霊をあなたの子孫に、わたしの祝福をあなたの末裔に注ぐ』」(44:1–3) と告げられます。

「エシュルン」はイスラエルの民の愛称 (申命記32:15)「正しい者」という意味で、不道徳に満ちたカナンの中にあって、主の正しさを証しするために選ばれたという思いが込められています。

しかも、ここでは、神が、「わたしの霊をあなたの子孫に……注ぐ」と、聖霊降臨の約束までが記されます。私たちの心は、「潤いのない地」で干からびることがありますが、神の霊を受けた者は、「彼らは青草の間に芽生える。それは流れのほとりの柳の木のようだ」(44:4) というみずみずしい状態が保たれるというのです (43:19参照)。

私たちは親の世代から受け継いでいる様々な生き難さを抱え、自分で自分を変えようと頑張ってみては、失望することの繰り返しです。

しかし、主ご自身が、私たち一人ひとりを、母の胎内で形造ってくださいました。主 (ヤハウェ) は、あなたの弱さ、罪深さをすべてご存知ですから、神のさばきを恐れる必要がありません。

この「ヤコブ」とう名の代わりにあなたの名を、「エシュルン」という呼び名の代わりにあなたの愛称を入れてこれを読み、主の祝福が一方的にあなたに注がれる様子をイメージしてみましょう。

さらに「潤いのない……乾いた地」(44:3) のような心にいのちが「芽生え」、神の民としての感動に満たされることが、「ある者は『私は主 (ヤハウェ) のもの』と言い、ある者はヤコブの名で自分を呼ぶ。ある者は手に『主 (ヤハウェ) のもの』と記してイスラエルの名を名乗る」(44:5) と描かれます。

私たちも自分を「主 (ヤハウェ) のもの」と認め、神の御子キリストの呼び名で、自分をクリスチャンと呼ぶことができるようになっています。

3.「わたしは、初めである。わたしは、終わりである。わたしのほかに神はない。」

そして今、求められる最も大切な行いは、 (ヤハウェ) に対する自分のイメージを変えることです。私たちの主がどのような方かを聖書から理解し、主の御名を呼び、主にすがることです。

あなたに不可能と思えることを、主 (ヤハウェ) は可能にしてくださいます。それは何より、歴史の中でイザヤの預言は一つひとつ成就しているということから明らかになります。そのことを覚えながら、以下のみことばを味わってみましょう。

「主 (ヤハウェ) はこう言われる。—— イスラエルの王、これを贖う万軍の主 (ヤハウェ) は ——『わたしは 初めである。わたしは 終わりである。わたしのほかに神はない。

だれが、わたしのように宣言し、告げることができたか。これをわたしの前で並べたててみよ。わたしが永遠の民を起こしたときからのことを。彼らに未来のこと、来たるべきことを告げさせてみよ。

おののくな、恐れるな。もう古くからあなたに聞かせ、告げてきたではないか。あなたがたは、わたしの証人。わたしのほかに神があるか。ほかに岩はない。わたしは知らない』」(44:6–8)

当時の世界の人々の目には、イスラエルの民は今にも滅びそうな弱小民族に過ぎませんが、不思議にも彼らこそが「永遠の民」また「わたしの証人」と呼ばれているのです。

これは、現在の私たち一人ひとりに適用できる語りかけでもあります。だからこそ、私たちは「おののく」ことも「恐れる」ことも必要ありません (44:8)。未来を支配する神が、あなたを守り通してくださいます。

その上で主 (ヤハウェ) は、同じ神と呼ばれる別の神々を作り、それを拝むことの愚かさを、現実に即し、皮肉を込めて、生き生きと表現しています。それはほとんど解説不要の描写です (以下44:9–20私訳)。

「偶像を造る者はみな茫漠としている(空しい)。彼らの慕うものは何の役にも立たない。それら自身が証人だ。見ることも、知ることもできない。ただ恥を見るだけだ。 だれが神を造り、偶像を鋳たのか。何の役にも立たないものを。

見よ。その仲間たちはみな恥を見る。細工した者が人間にすぎないからだ。 彼らはみな集まり、立つがよい。彼らはおののいて、ともに恥を見る。 鉄で細工する者は切削具を用い、炭火と金槌で働き、これを形造り、力ある腕で働く。腹がすくと力がなくなり、水を飲まないと疲れる。

木で細工する者は、測りなわで測り、朱で輪郭をとり、かんなで削り、コンパスで線を引き、人の形に、人間(アダム)の美しい姿に造って、神殿に安置する」(9–13節)。

この描写は、「神は人 (アダム) をご自身のかたち (image) として創造された」(創1:27) という表現との対比が思い浮かべられます。本来、神を現わすことができるはずの人 (アダム) が、その尊厳を覚えて生きる代わりに、その形を安置する愚かさです。

「自分のために杉の木を切り、また、柏や樫の木を選んで、林の木の中で自分のために守る。月桂樹を植えると、大雨が育てる。それは人間のたきぎになり、人はそのいくらかを取って暖まり、さらに、これを燃やしてパンを焼く。

また、これで神を造って拝み、偶像に仕立て、これにひれ伏す。半分を火に燃やし、この半分で肉を食べる。あぶり肉をあぶって満腹し、また、暖まって言う。『ああ、暖まった。炎が見えた』と。

その残りで神を造り、自分の偶像とし、それにひれ伏して拝み、それに祈って言う。『私を救ってください。あなたは私の神だから』と」(14–16節)。

当時のペルシアにはゾロアスター教という「火を神として拝む」習慣があったようですが、自分で火を起こして喜び、たきぎにした残りの木を用いて偶像を作って、拝むというのは滑稽に思えますが、少なくとも自分の気持ちを高めることはできます。

「彼らは知りもせず、見分けもしない。その目はふさがって見ることもできず、その心もふさがって悟ることもできない。心を振り返ることもなく、知識も英知もないので、こう言うこともない。

『私は、その半分を火に燃やし、その炭火でパンを焼き、肉をあぶって食べた。その残りで忌みきらうべき物を造り、木の産物の前にひれ伏すのだろうか』と。

灰を飼う者の心は欺かれ、惑わされ、自分のたましいを救うことはできず、言いもしない。『この右手に偽りがないだろうか』と」(18–20節)。

ここでは知ることも見ることもできない偶像を拝む者自身の「目」と「心」の両方が「ふさがって」、反省能力を失ってしまう皮肉が描かれています。私たちはみな、「神のかたち」として創造されていますから、創造主を礼拝して生きるときにこそ、自分に与えられた能力を発揮することができます。それは個性を生かす道でもあります。

主 (ヤハウェ) は最後に、「これらを覚えよ (remember)。ヤコブ。 イスラエルよ。あなたは、わたしのしもべ。 あなたをわたしが造り上げた。あなたは、わたしのためのしもべ。

イスラエルよ。あなたは忘れられることがない。あなたのそむきを雲のように、罪をかすみのように拭い去った。

わたしに帰れ。あなたをわたしが贖ったからだ」(44:21、22) と語りかけます。

あなたは、主から「忘れられることがないのです。私たちの側から主を忘れることがあっても、主は、私たちを「恩知らず」とさばく代わりに、「わたしに帰れ」と優しく語りかけてくださいます。

私たちの信仰は、自分から始まったものではなく、すべて、主 (ヤハウェ) のめぐみのみわざなのですから。 決して私たちが、自分で自分を罪の奴隷状態から「贖った」のではありません。すべてはイエスの一方的な愛によって、十字架のみわざによって成し遂げられたことでした。

米国のワーシップリーダーのドン・モーエンは、ある夜、妻の母から電話を受けました。妻の妹とその夫が、恐ろしい交通事故に会い、九歳になる長男ジェレミーが命を失い、他の三人の子も重症を負ったとのことでした。彼は無力感に圧倒され、心に浮かぶどんなみことばも慰めにならないと思えました。

そのとき、彼らのために祈る中で、神は一つの歌をお与えくださり、彼はそれを書き留めました。「神は道を造られる。道が何もないように思えるところにも。神は、私たちが見えない方法で働かれる」

それこそ、彼が妹夫婦に語りたかったことでした。神は、どのような絶望的な状況の中にも、新しい希望を生み出すことができる方です。

この歌詞は、イザヤ43:18–21を元にしています。あなたにも、「神は私をお忘れになった!」と思えるようなときが来るかも知れません。

しかし、神は私たちを決してお忘れにはなりません。それは、「あなたは、わたしのしもべ……あなたは忘れられることがない」(44:21) と言われているとおりです。

神はあなたを見捨てず、あなたを離れはしません。人生が順調なときには、「これは私が成し遂げた……」という気持ちになりがちなものです。

しかし、「もう道がない……」と思えるときこそ、主が道を開いてくださるという恵みが見られるチャンスなのです。 あなたが絶望を味わうところから、神のみわざが見られます。

God will make a way, where there seems to be no way
神は、道を造ってくださる。道が何もないと見えるようなところにも。
He works in ways we cannot see, He will make a way for me
神は、私たちが見えない方法で働かれ 私のために道を作ってくださる。

He will be my guide, hold me closely to His side
神は、私の導き手であり、私をご自身のふところに抱いて、
With love and strength for each new day
愛と力を 日々新しく与えてくださり、
He will make a way, He will make a way
神は道を造ってくださる。神は道を造ってくださる。

By the roadway in the wilderness He will lead me
神が荒野の道に私を導かれることがあっても、
Rivers in the desert will I see
私は砂漠の中に川を見ることができる。
Heaven and earth will fade, but His word will still remain
やがて、この天と地は滅び失せる。しかし、神のみことばは永遠に残る。
And He will do something new today
神は、今日も、何か新しいみわざをなしてくださる。