縁を切る優しさ〜詩篇77篇

昨日、ある方と鎌倉の紫陽花(あじさい)が今、とっても美しいという話をしていたら、さだまさしの紫陽花にちなんだ歌を紹介されました。

「縁切寺」という曲ですが、歌詞がとっても切ないながらも、振られた男性の優しさがにじみ出ていて、とっても感動しました。歌詞は以下のとおり

今日鎌倉へ行って来ました
二人で初めて歩いた町へ
今日のあの町は人影少なく
想い出に浸るには十分過ぎて
源氏山から北鎌倉へ
あの日と同じ道程で
たどりついたのは 縁切寺

ちょうどこの寺の山門前で
きみは突然に泣き出して
お願いここだけは 止してあなたとの
糸がもし切れたなら 生きてゆけない
あの日誰かに 頼んで撮った
一枚きりの一緒の写真
納めに来ました 縁切寺

君は今頃 幸せでしょうか
一度だけ町で 見かけたけれど
紫陽花までは まだ間があるから
こっそりと君の名を 呼ばせてください
人の縁とは 不思議なもので
そんな君から 別れの言葉
あれから三年 縁切寺

さだまさし自身が歌っているユーチューブが以下にありました

この縁切寺とは、「駆け込み寺」とも呼ばれ、夫の横暴に泣く女性救済のために今から800年近くも前に開かれた東慶寺のことです。

最後の「あれから三年 縁切寺」とは、縁切寺に駆け込んだ女性は三年の後の束縛から縁切り法によって解放されることができたからです。

聖書でも離婚は禁じられているようでも、申命記24章1–4節の離縁状の規定は、イエスの時代のパリサイ人は、夫が妻を離縁する権利と解釈しましたが、もともとの文脈は、女性が横暴な夫の支配から解放されるための規定でした。

神は、こじれた関係から社会的弱者を解放する道も備えていてくださいました。

そして、私たちと神様との関係でも、一時的に関係が切れてしまったと思える瞬間があります。

それは以下の詩篇77篇7–12節に歌われています

「主 (アドナイ) は、いつまでも拒まれるのだろうか。
もう決して、目をかけてくださらないのだろうか。
主の慈愛(永遠の愛)は、永久に絶たれたのだろうか。
約束は、代々に至るまで、廃れたのだろうか。
神は、恵みを施すことを忘れたのだろうか。
もしや、怒って、あわれみを閉じてしまわれたのだろうか。」

そして、私は言った。「私が苦しんでいるのはこれだ。
いと高き方の右の手のわざが変わるからだ。」

私は、主 (ヤハ) のみわざを思い起こそう。
昔からの、あなたの不思議なみわざを思い起こそう。
私は、あなたのなさったすべてのことを思い浮かべ、
あなたの恐ろしいさばきのみわざに、思いを巡らそう。

ここでは、神から見捨てられたと思える体験が、神のみわざを思い起す契機とされています。それは、人と人との関係も、紫陽花のようなうつろいやすさを通して、関係が堅くされるという面があります。

信仰においては多くの場合、神を遠く感じる体験は、親密な神との交わりを体験する入り口となります。

そんなことを考えていたら、昔、聞いたカーペンターズの Two Sides という曲を思い出しました

だいたい以下のような内容です

すべての状況には二つの面があるのよ
すべての創造には二つの面があるの
私たちの光の中に闇があり
私たちの正しさの中に誤りがある
あなたが一緒に暮らしていると思っている私には、あなたが知らない全く別の側面があるのよ
神様は私が何度も頑張ったことを知っておられる
ある人にとって正しいことが、ある人にとっては間違い
私の別の側面が、逃げることを急かすの
さようなら……
……

上記は、別れの曲ですが、私たちの創造主は、二つの側面を知っておられます。一時的に神を遠く感じることは、私たちのうちにある二つの面を、神様が受け入れてくださっていることを知るチャンスかなと思います。

私たちの人生のそれぞれの局面での二つの面を優しく受け止める必要を覚えさせられました