「嘆くこと、喜ぶこと」〜詩篇86篇

先日、ある説教者メッセージ動画を見ていたら、このコロナに対する対応で私たち信仰者に期待される反応が二つある、それは「嘆くことと、喜ぶこと」であるという話があって今更ながらですが、妙に納得しました。

嘆くことと言えば、当然、感染症で苦しんでいる方や、そのために働いている方、またこの外出自粛で経済的困難に陥っている方々です。

その人たちの痛みへの共感がなければ、愛の行動は生まれ得ません。一方、「いつも、主にあって喜びなさい……主は近いのです」(ピリピ4:4、5) となるように、私たちの罪のため死んで、死の力に対する勝利をしてくださったキリストにある喜びは、いつでもどこでもできることのはずです。

しかし、それができなくなることがあります。それはこのような現在の環境下で、私たちの感覚自体が鈍くなり、ときには麻痺してしまうからです。その感覚の活性化のためには、何よりも詩篇を朗読し思い巡らすことが役に立ちます。嘆きを表現することから、実は、反対に、喜びが生まれるという逆説があります。

詩篇86篇はまさに、嘆きと喜びが同居するすばらしい詩です。

この詩は第三巻 (73-89篇) で唯一のダビデの作品です。この最初の原文は、「傾けてください。ヤハウェよ、あなたの耳を」という訴えから始まります。そして自分の状況を、「私は苦しみ 貧しいのです」と直接的に表現します。

この部分は多くの英語訳では、I am poor and needy(私は貧しく乏しいのです)と訳しています。さらに2節の原文の語順も「お守りください、私のたましいを」となっていますが、続くことばは、「私は敬虔な者です」とか、「私は誠実な者です」と訳すことができます。これは15節で「恵み」と訳されているヘブル語のヘセド(変わらない愛)と同じ語源のことばです。著者は、自分の「誠実さ」が報われていない現実を訴えています。

それは14節にあるように、「高ぶる者ども」「横暴な者の群れ」が、自分の「いのち」を奪おうと迫ってきている現実があるからです。それで改めて著者は、神を「あなた」と呼びながら「あなたは私の神」と告白し、さらに「私はあなたに信頼します」(2節) と自分の意思を明確にします。

このように自分の貧しさ、乏しさを、正面から受け止め、また神に敵対するものたちに囲まれながら、ダビデは自分の嘆きを主にストレートにぶつけています。ダビデの詩篇のすばらしさは、その感情表現の豊かさにあります。

多くの人が、主を身近に感じることができないのは、自分の絶望感や嘆きを、主にストレートに表現することを知らないからです。詩篇を口に出して朗読するだけでも、私たちの心は解放され、自由になって行きます。

9節では、主こそが世界のすべての国々の創造主であり、すべての国々が主の「御前に来て伏し拝み……御名をあがめます」と告白されます。これは黙示録15章4節で引用される偶像礼拝の強要に屈しなかった人々の賛美になります。これこそ主がアブラハムを召し「地のすべての部族は、あなたによって祝福される」(創世記12:3) と約束されたことの成就であり、歴史のゴールです。

そして著者は、「主よ、あなたの道を私に教えてください……私の心を一つにしてください」と祈ります (11節)。それはこの地の様々な誘惑や人間的な知恵に惑わされずに、自分の心がまっすぐに神に向かうようにとの願いです。その結果が「心を尽くしてあなたに感謝」するという賛美につながるのです (12節)。

15節の主への告白は、モーセが不従順なイスラエルの民を導く不安の中で、主に「あなたの栄光を私に見せてください」と大胆に願った際に、主がご自身を現わしてくださったことばです (出エジプト33:18、34:6)。その核心は、主が「あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く 恵みとまことに富」んでおられるということです。

そして、ヨハネによる福音書が神の御子イエスのことを、「ことばが人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た……この方は恵みとまことに満ちておられた」(1:14) と描いたのは、これを引用したものです。

ときに人は、旧約での「神の怒り」の激しさにおののくことがありますが、全体を通して読むと神がどれだけイスラエルの罪に忍耐しておられたかが分かります。そして、世界中の国々はその物語を通して、主を礼拝するように導かれるはずでしたが、ついに神はご自身の御子を通してご自身を現わされました。

私たちは「恵みとまこと」に満ちていおられるキリストのゆえに、すべての状況の中で喜ぶことができます。なぜなら、キリストはハレルヤコーラスで歌われるように、今すでに「王の王、主の主」として、世界を治めておられ、この世界は、シャローム(平和)の完成に向かっているからです。

「いつも主にあって喜びなさい……主は近いからです」というときの「主は近い」とはそのような、すでにあるキリストの支配と、これから完成に向かう主のご支配のゆえです。そして、その平和の完成の前味を、主は、すでにいろんなところに現わしていてくださいます。それはあなたが互いに祈り合える交わりがあることから始まっています。

16、17節では「御顔を私に向け……あなたのしもべに御力を与え あなたのはしための子をお救いください。私に いつくしみのしるしを行ってください」と祈られます。これこそ、最初に自分の貧しさ、乏しさを告白したことに対する祈りの応答です。

特に「はしための子」という表現は珍しいもので、著者の徹底的な謙遜を現わします。自分の将来は、神から与えられる「御力」と「いつくしみのしるし」にかかっているとの告白です。そこに自分の能力や知恵ではなく、神に徹底的に拠り頼む姿勢が見られます。

祈り

主よ、私は貧しく乏しいものです。あなたの助けなしには、与えられた生涯を真の意味において、生きることはできません。いつでも、あなたの恵みとまことに信頼する生き方をさせてください。