神の時、合唱曲「今日も一つ」〜詩篇31篇

最近、行動範囲が狭くなっているせいか、日々の気分が天気ばかりか、その朝の睡眠によっても左右されていることを覚えます。やるべきことがたくさんあるのに、まったく気分がついて行かない時もあります。そのような中で、改めて以下の詩篇のことばが心に響きました。

あなたこそ私の神です。

私の時は御手の中にあります (詩篇31:14、15)

私たちの「とき」に関して伝道者の書3章は次のように美しく描いています。

すべてには季節があり、 (1)

天の下のすべての営みには時がある。

生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。 (2)

植えるのに時があり、植えたものを抜くのに時がある。

殺すのに時があり、癒すのに時がある。 (3)

崩すのに時があり、建てるのに時がある。

泣くのに時があり、笑うのに時がある。

嘆くのに時があり、踊るのに時がある。 (4)

石を放つのに時があり、石を集めるのに時がある。 (5)

抱擁するのに時があり、抱擁を止めるのに時がある。

求めるのに時があり、失うのに時がある。 (6)

保つのに時があり、放つのに時がある。

引き裂くのに時があり、縫い合わせるのに時がある。 (7)

黙るのに時があり、話すのに時がある。

愛するのに時があり、憎むのに時がある。 (8)

戦うのに時があり、平和になるのに時がある。

働く者は、その労苦から何の益を得るのだろう。 (9)

私は見た。神が人の子らに労させようと与えた仕事を、 (10)

神が、すべてをご自身の時に美しくしておられるのを、 (11)

また、彼らの心に永遠を与えておられるのを。

それでも、人は、神のなさるみわざを、

初めから終わりまで見極めることはできない。

私は分かった。人には、生きる中で、楽しみ、 (12)

幸せを味わうこと以上に善いことがなく、

また、すべての人は、食べたり飲んだりし、 (13)

すべての労苦の中に幸せを見出すことも神の賜物なのだと。

私は分かった。神のなさることは永遠に残り、 (14)

何も付け加えられず、取り去られないこと、

また神は、人々が神を恐れるようにと、

それらをなさったということが。

今あることは既にあった。 (15)

これからのことも既にあった。

神は追いやられたものを探し出される。

私たちの心の目は、「日の下」という目に見える世界にばかり向かいがちです。それでここでは、「天の下」という目に見えない神のご支配に向けられ、「すべてには季節があり、天の下のすべての営みには時がある」と言われます。2-8節には七つの大枠によって人生全体を包括する神の時が描かれ、それぞれに二対の対比が描かれます。これを見ると、私たちは「都合のよい時」ばかりを選ぶということができないとわかります。光が照ると影ができるように、人生には好ましい時と忌まわしい時とが、創造主からセットで与えられているのです。

神道的な神観では、災いをもたらす神々と、幸いをもたらす神々の区別がありますが、聖書の神は、「わたしのほかに神はいない。わたしは殺し、また生かす。わたしは傷つけ、またいやす。わたしの手から救い出せる者はいない」(申命記32:39) と宣言しておられます。しかも、人の目に災いと見えることも、神からの罰というより、祝福の契機とされることが多くあります。

第一の「天の下の時」では、「生まれる時と死ぬ時」「植える時と抜く時」とあるように、「始まりと終わり」の対比が描かれます (3:2)。この世界では誕生ばかりでは人が多くなりすぎます。残念ながら、同じ程度に死ぬ人がいて初めて均衡が保たれるという現実があります。

第二は、「殺す時と癒す時、崩す時と建てる時」という「破壊と建設の対比」です (3:3)。たとえば、病原菌は殺さなければ癒されません。建物はまず崩さなければ、新しく建てられません。

第三は、「泣く時と笑う時」「嘆く時と踊る時」という「悲しみと喜びの対比」です (3:4)。悲しみを抑えていると喜びまで抑えられます。感情を自分で操作しようとすることは危険です。

第四の「石を放つ」とは攻撃を始めること、「石を集める」とはその準備をすること、また「抱擁する」とは平和協定を結ぶことで、「抱擁をやめる」とは軍事作戦に移ることです (3:5)。人類の歴史は残念ながら戦争の歴史です。かつての第二次大戦の日本のように、準備不足のまま博打(ばくち)的に戦いを始め、「ここまできたら止める」というシナリオもないまま戦うことは悲惨の極みです。

第五は、「求める時と失う時」「保つ時と放つ時」という財産の所有に関することです (3:6)。この世の経済では、誰かが得をする影で、誰かが損をします。ですから、高額所得者が寄付をすることや、他の人に働きの場を開くのは、社会のバランスを保つための義務と言えましょう。

第六の「引き裂く時と縫い合わせる時」は、あきらめるべき時と努力を続けるべき時の対比、「黙ることと話すこと」とは受動と能動の対比と言えましょう (3:7)。仕事も人間関係も、いつも積極的であろうとするのは危険です。妥協ではなく、現実を受け入れる勇気が大切でしょう。

第七は「愛する時と憎む時」「戦う時と平和になる時」(3:8) です。多くの人は「憎むこと」や「戦うこと」は常に悪であるかのように誤解します。しかし、罪、サタン、神の敵を、憎み、「戦う」責任を果たさなければこの世に悪が広まるばかりです。真理を巡って戦うべき時が必ずあります。それを避けようとすると、隣人が滅びに向かうということがあります。私たちは、「愛」と「平和」を求めるからこそ、悪を憎み、安易な妥協をはかる人と戦うべき時があるのです。

自分にとって忌まわしい時も、「神の時」として見ることができます。ただ、それは自分の気持ちを偽ることとか、すべてを善意に解釈するとか、苦しむこと自体を美化することではありません。この著者は、労苦自体は空しいと繰り返しているからです。そうではなく、すべての時が、神の支配下にあるのならば、どのような苦しみの中にも、神が与えてくださった恵みを見出し、「今、ここで」、神を喜び、生きていることの喜びを発見することができるという意味です。

「働く者は、その労苦から何の益を得るのだろう」(3:9) とは、人の希望が幻想と混同されないための現実理解です。そして、「私は見た。神が人の子らに労させようと与えた仕事を」(3:10) とは、今まで述べて来た人生のむなしさを語ったものです。かつて著者は、自分の「知恵」によって「天の下に起こるすべて」の意味を探り調べようとして苦しんでしまったのですが、今は、すべての「時」が神のご支配のもとにあるという視点から、余裕をもってこの世界を「見た」のです。

今から約八百年前に、曹洞宗の開祖道元禅師は、「解脱を愛し求めれば解脱は遠ざかり、迷いを離れようとすれば、迷いは広がるばかりである。自己の立場から、あれこれと思案して、ものごとの真実を明らかにしようとするのが迷いである。ものごとの真実が自然に明らかになるのが、悟りである」と記していますが、これは人間の心の現実を的確に捉えた分析です。

それと同じようなことがここに記されています。必死に真理を掴み取ろうともがいていた時には苦しみと空しさに支配されていました。しかし、力を抜いて、神のご支配という観点からこの世界を「見た」時、急に世界が美しく見えてきました。同じ世界が、まったく異なって見えてくるということ、これこそ宗教的感動の真髄ではないでしょうか。

その真理を著者は、「私は見た……神が、すべてをご自身の時に美しくしておられるのを、また、彼らの心に永遠を与えておられるのを」(3:11) と記します。これを新改訳は、「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた」と訳しています。

このことばは、時代と地域を越え、多くの信仰者たちにとっての深い慰めとなっています。これは、地上のすべての「時」を支配しておられる神が、「ご自身の時」に、「すべて」のことを、「美しい」と言える状態へとあらかじめ備えておられるという意味です。しかも、神は私たちの「心に永遠を与えておられる」ので、今の忌まわしいとしか思えない状況さえ、神の永遠の視点から見ることができるということです。

これは、決して、醜いできごとを「美しい」と思い込むことではありません。そうではなく、今は、醜く忌まわしく悪いことにしか見えないことをも、神がすべての時を支配し、歴史を支配しておられるという観点から受け止め、やがて「美しい!」と言える状況に変えられることを「期待し」、必ずそうなることを「信じて」、今、ここで、「喜ぶ」ことができるという意味です。

キリスト者に与えられた確信とは、「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」(ローマ8:28) という告白です。しかも、「心に永遠を与えられた」者は、それを神の永遠の時の観点から確信することができるのです。それは、「私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます」(Ⅱペテロ3:13) と告白されているとおりです。

ただし、「それでも、人は、神のなさるみわざを、初めから終わりまで見極めることはできない」(3:11) とあるように、「今、この時」を、神の永遠の観点から評価する能力は人にはありません。つまり、分からないことは分からないままに放って置くことが大切なのです。

そのような中で、「私は分かった。人には、生きる中で、楽しみ、幸せを味わうこと以上に善いことがなく、また、すべての人は食べたり飲んだりし、すべての労苦の中に幸せを見出すことも神の賜物なのだと」(3:12、13) という神によって与えられた「知識」が繰り返されます。

この文脈で興味深いのは、原文では3章10、11節は、「私は見た」という動詞に支配されているひとつの文章であり、三章12、13節は、「私は分かった」という動詞に支配されているひとつの文章であるということです。つまり、「私は見た。そして、私は分かった」という心の流れが描かれています。力を抜いて、この世界を神の観点から見た結果、人の幸せは、何よりも、「今、ここで」味わうべきもの、それこそが神のご計画であるということです。

これに続いて再び、「私は分かった」と言いながら、「神のなさることは永遠に残り、何も付け加えられず、取り去られない」という真実が受け止められます。これは、人の労苦の結果が、後継者によって壊されたり、財産を残すことがわざわいにしかならないような現実との対比で記されています。ですから、私たちは自分の労苦を、「自分のため」にではなく、神から与えられた責任、「神のなさること」として取り組むことが何よりも大切であると言えましょう。

そして、それを通して私たちは、「神は、人々が神を恐れるようにと、それらをなさった」ということが「分かり」ます (3:14)。ここに私たちの幸いがあるからこそ、この書の結論は、「神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである」(12:13) と記されています。

その上で、ここで、「今あることは既にあった。これからのことも既にあった」と、今までの教えが繰り返されますが、「神は追いやられたものを探し出される」(3:15) という不思議な記述が付け加えられます。「追いやられたもの」とは、今の人間的な基準からしたら、世界から忘れ去られ、無視されていると思われるような物事です。しかし、神は確かにそれをも見ておられ、探し出され、ご自身の時に、「美しい」状態へと回復してくださいます。


以下のユーチューブ動画をご覧ください。家に閉じこもりながら合唱曲が美しく歌われています。「今日もひとつ」 で作詞は星野富弘さん、行動範囲が体の生涯によって制限されているのに、その詩画集は世界中を飛び回り人に希望を与えています。作曲は、なかにしあかね さんです。