マタイ8章1〜17節「イエスの癒しの権威は、十字架につながる」

2020年3月8日

今年の受難節は2月26日の灰の水曜日から始まっています。2月26日と言えば、84年前1936年の二・二六事件を思い出します。そこから日本は後戻りのできない絶望的な戦争モードに入って行きました。

今年の2月26日は新型コロナウィルスに対する政府の声明が発表され、二週間にわたっての大規模イベントの自粛要請がなされ、そこから急速に全国の雰囲気が変わって行きました。もちろん、私たちは自分たちがウイルスを引き受けて、知らない間に、身体の弱い人にうつしてしまうようなことがあってはなりませんから、その対策に万全を期する必要があります。しかし、活動自粛ばかりが叫ばれる中で、今、私たちができることは何なのかを忘れてはなりません。

今だからこそできることがあるはずです。それは本来の受難節の意味にしたがって毎日を過ごすことではないでしょうか。イエスが十字架に向かって行かれる歩みを黙想することです。

今日の箇所では、イエスによる三つの個人的な癒しのみわざが描かれます。そして、それがイザヤ書53章の苦難のしもべの預言の成就として描かれることは何とも不思議なことです。

1.「すると、すぐに彼のツァラアトはきよめられた」

8章1節では、5-7章まで続いた山上の説教の後のことが、「イエスが山から下りて来られると、大勢の群衆がイエスに従った」と記されます。そして、そこで「すると見よ」ということばに続いて、ギリシャ語で「レプロスが」と不気味な響きで記されます。

これは伝統的に「a leper(らい病人)」と訳されてきたことばですが、「らい病」ないし「ハンセン病」の枠にはまらない病で、レビ記13、14章にその病状とそれに対する対処が記されていますが、そのヘブル語の発音「ツァラアト」をそのまま用いて新改訳では訳されています。新しい聖書協会共同訳では「既定の病」と訳されています。

どちらにしても、これは周りの人に「汚れ」の感染の恐怖に怯えさせるような表現です。とにかく、ここではその人が「みもとに来て、イエスに向かってひれ伏した」というのです。まわり人々は、何歩も大きく引き下がりながら、そこで何が起こるかに注目したことでしょう。

そこでこの人は、「主よ、もし、望んでくださるなら、私をきよくすることがおできになります」と言いました。新改訳で「お心一つで」と美しく訳されていますが、原文では、「もし、あなたが望んでくださるなら」という控えめな表現で、そこには、「私の周りの人はこれを神のさばきと見ていますが、ひょっとして、あなたがもし、私の癒しを望んでくださるということがあるならば」というニュアンスがあると思われます。

ところがそこで驚くべきことが起きます。何と、「イエスが手を伸ばして、この人に触れた」というのです。この病に冒されている人に「触れる」ということは、当時はあり得ないことでした。レビ記13章45節では、「ツァラアトに冒された者は自分の衣服を引き裂き、髪の毛を乱し、口ひげをおおって、『汚れている。汚れている』と叫ぶ」ように命じられていました。それは「病がうつるといけないから、私に近づかないでください」という意味がありました。

この病は当時、現在のハンセン病と異なり、強い感染力を持つと見られていました。実は、イエスがこの人を癒すために、別にこの人に触れる必要はありませんでした。しかし、彼が自分の病を神のさばきの結果と思いながら、「もし、望んでくださるなら」とまで言ったことに、深いあわれみを感じられたので、敢えて、手を伸ばして触れることで、この人にご自分の気持ちを伝えられたのです。

そこでイエスは「私は望む」と言われました。これはこの人の「もし」という控えめな願望に対する明確な答えです。そのニュアンスを新改訳では「私の心だ」と日本語としてより美しく訳しています。

その上で、イエスはたった一言「きよくなれ」と言われ、「彼のツァラアトはきよめられた」と描かれています。そこには、天地創造の際に、神が「光、あれ」と仰せられ「すると光があった」ということばによる再創造のみわざが見られます。それは7章29節で「イエスが……権威ある者として教えられた」と言われた「権威」の現れです。

その上でイエスは彼に、「だれにも話さないように気をつけなさい。ただ行って自分を祭司に見せなさい。そして、人々への証しのために、モーセが命じたささげ物をしなさい」(8:4) と言われました。これはレビ記14章1-32節に丁寧に命じられているきよめの手続きを踏むようにとの命令です。

それは、「彼は汚れているので、一人で住む。宿営の外が彼の住まいとなる」(レビ13:46) という状態から、宿営の中の交わりの中に戻ってくるために必要な手続きでした。その際、患部がきよくなっていることを確認して「小鳥」のいけにえを献げても、なお七日間の経過観察が必要でした。その間、その人は宿営の中に入ってはいても、「自分の天幕の外にとどまる」必要がありました。

そして七日目に、自分の髪の毛から身体のすべての毛を剃り落としてからだに水を浴び、八日目には貧しい人であっても「代償のささげ物」としての「雄の子羊一頭」をいけにえとして献げる必要がありました。それは、宿営の外にいる間に、神と人とに仕えることができなかったことの「償い」のような意味がありました。

この七日間の経過観察を含む三千数百年前の感染症対策は、極めて合理的な意味を持っています。そして「からだに水を浴びて」、そして公に神の民に受け入れられるという手続きは、現代のバプテスマに通じる面があります。そしてその際も、その人がまだ清算し終えてない負い目が問われます。返すべきものを返してから交わりに加わるという意味です。

イエスがこの癒された人に、このレビ記に記された「ささげ物」を命じられた理由は、ご自身が律法を成就する者であるということを明らかにするという面がありますが、同時に、この人が当時の社会に何の負い目もなく受け入れられるために大切なことでした。

感染症と見られた病は、自分で「癒された」と宣言しても、それを当時の権威を認められた人が確認して、経緯か観察がなされ、そして主への「ささげ物」によって、神と人の前で、その負い目が赦され、名実ともにきよめられたと宣言される必要があったからです。イエスは何よりも、この傷ついていた人が当時の社会に安心して受け入れられる道を開かれたのです。

2.「これほどの信仰を見たことがありません」「あなたの信じたとおりになるように」

その後、「イエスがカペナウムに入られると、一人の百人隊長がみもとに来た」と、ローマ軍の将校が自分からイエスのもとに来たということが驚きをもって描かれます。

百人隊長」とは兵士たち一人ひとりを把握し、動かす軍隊の要です。普通なら「彼がイエスを呼び寄せる」はずです。確かにルカの平行記事では、彼がユダヤ人たちの長老たちを送って来たのですが、イエスを呼び寄せたわけではありません。

そこで彼は、イエスを「主よ」と呼びかけて「懇願し」ながら「私のしもべが中風のために家で寝込んでおります。ひどく苦しんでいます」と言います。ここでの「しもべ」は「若者」とも訳せますが、ルカでは「奴隷」ということばが用いられています。

とにかくこの百人隊長は、自分の奴隷のことで深く心を痛めていたのです。それに対しイエスはすぐに「私が行って、彼を直そう」と、ご自身が行くということを強調して答えます。

ところが百人隊長は、「主よ、私には資格がありません。あなた様を私の屋根の下にお入れするための」と答えます。ユダヤ人の教師は、異邦人を「汚れた者」と見て、その家に自分から入ることはなかったからですが、百人隊長はローマ帝国ではなく、イスラエルの神ヤハウェの権威の下に生きようとしています。

ただ百人隊長は同時に「たった一つのことばを言ってください」と懇願し、同時に「そうすれば、私のしもべは癒されます」と自分の確信を述べました。これは、イエスが神から遣わされた者であり、神の国において、イエスのことばはその通りに実行されるという確信です。

その実例として彼はローマ帝国での軍律のことを語ります。そこでは、百人隊長はローマ皇帝の「権威の下にある者」であることによって、彼の命令は皇帝の命令として正確に実行されるという実例を語ります。そこでは彼が「行け」といえば「行く」、「来い」と言えば「来る」、「これをしろ」と言えば「そのようにする」という命令のことばがその通りに行われると極めて具体的なことばの繰り返しで表現しています。

そこには、そうでないとローマ帝国は成り立たないということが言外に示唆されています。神から遣わされた方のことばがその通りに実行されることなくして「神の王国は成り立ちえないということを、ローマ帝国の「権威の下にある者」として告白しているのです。

その結果が「イエスはこれを聞いて驚き、ついて来た人たちに言われた。『まことに、あなたがたに言います。わたしはイスラエルのうちにだれも、これほどの信仰は見たことがない』と」と描かれます (8:10)。ここでの「信仰」とは、「願いが叶うと信じる」というような意味ではなく「神のご支配に対する信頼」を意味します。

ですからイエスは続けて「天の御国において」ということばを強調しながら、「あなたがたに言いますが、多くの人が東からも西からも来て一緒に食卓に着きます、アブラハム、イサク、ヤコブとともに、天の御国において」と述べ、同時に「御国の子らは外の暗闇に放り出されます。そこで泣いて歯ぎしりするのです」というさばきを宣告します (8:11、12)。

イエスがここで言っておられるのは、この百人隊長こそが「天の御国」または目に見えない「神の王国」の現実を良く知っているということと、そのようにユダヤ人から軽蔑されていた異邦人こそが、イスラエルの民の父たちと同じ信仰に立っていると述べたのです。

ただ同時に、肉においてアブラハムの子孫であるはずのユダヤ人が「御国の子ら」としての立場を失って、神の王国の外に追い出され、悔しさのあまり「泣いて歯ぎしりする」という結果になると言われました。

イエスは先の6章1-18節で、「あなたがたの正義に関して注意を払いなさい、人に見せるために人前で実行することのないように。そうでないと報いを受けることができません、天におられるあなたがたの父からのものを」ということばから初めて、「施し」「祈り」「断食」に関して述べられ、それぞれにおいて、「隠れたところで見ておられるあなた(一人)の父が、あなたに報いてくださいます」(4、6、18) と言われました。

そこでは、天の神がすべての隠されたことを支配しておられるという「神の王国」の現実が描かれていました。ただ同時に、そこでは同時の宗教指導者たちが、人々の模範になるという名目のもとで、目に見えない神の王国の支配を信じずに、人の目ばかりを意識しているという不信仰を責めておられました。

なお、この百人隊長の信仰と、先のツァラアトに冒された人の信仰には共通点があります。それはツァラアトの人が、イエスのご意志(望み)が実現すると信じたのと同じように、百人隊長も主のご意志(望み)が、そのまま実現すると信じていたことです。それこそイエスのもとにある「神の王国」への信頼です。

その後のことが、「それからイエスは百人隊長に言われた。『行きなさい。あなたの信じたとおりに、そのようにあなたになるように』すると、そのしもべは癒された。ちょうどそのときに」(8:13) と記されます。ここでイエスは、この百人隊長の信仰によって(?)、このしもべの癒しが起きたかのように言っておられます。

ただ忘れてはならないのは、すべての始まりはこの百人隊長の最初の願いに、イエスがまず「が行って、彼を直そう」と言われたことにあるということです。このしもべを癒したのは、あくまでも「イエスのご意志」が現れた「ことば」です。

この百人隊長の信仰とは、それが実現するための道具または手段のようなものでした。何よりも大切なのは、神のご意志は必ず実現すると信じ、それに自分の身を任せることです。

それにしても人間的には、イエスはこの百人隊長の家に「行く」と言われたのですから、来ていただき、病の部分に「手を触れ」て治していただくのが一番です。しかし何よりも大切なのは、神が「望んでくださる」ことです。

つまり、どのように癒されるかというハウツーではなく、神またイエスが何を望んでおられるのかということなのです。ただその前に、神は私たちの心の願いを聞いてくださるということを決して忘れてはなりません。神のご意志は、私たちの意志または願いと、共に働く場合が多くあるからです。

3.「彼は私たちの弱さを引き受け、私たちの病を背負った」

8章14、15節では、「それからイエスはペテロの家に入り、ご覧になった。彼の姑(しゅうとめ)が寝込んで熱を出しているのを。それで、彼女の手に触れられた。すると彼女の熱が引いた」と描かれています。

ここではイエスが「ご覧になった」「手に触れられた」「熱が引いた」という三つの動詞でイエスのいやしのみわざが記されています。イエスは、先の「ツァラアトの人に触れられた」と同じように、ペテロの姑の「手に触れられ」ました。おことば一つで癒すことができるはずなのに、肌の触れ合いを大切にしているかのようです。

それに対し、彼女もすぐに「起きて、イエスに仕えた(もてなした)」と描かれます。このペテロの家はカペナウムにありましたが、今もそこに行くと、そこにその後建てられた4、5世紀の古代の教会の遺跡をみることができます。マルコ1章29-31節では、イエスのほとんど最初の奇跡かのように描かれています。

夕方になると、人々は悪霊につかれた人を、大勢みもとに連れて来た」(16節) と描かれますが、マルコ1章の文脈では、夕日が沈んで安息日が終わり、人々が病の人を運べるようになったということです。とにかく多くの人々がペテロの家に集まって来たのです。

そこで「イエスは悪霊どもを追い出された、ことばによって。また、すべての病を持った人々を癒された」と描かれます。悪霊はことばによって追い出しましたが、病を持つ人々には、一人ひとりにご自身の手を差し伸べて癒されたのではないでしょうか。

そして8章17節では、「これは、預言者イザヤを通して語られたことが成就するためであった」と記されますが、これは1-16節のすべての癒しのみわざの意味として記されているとも解釈できます。

そしてここでは、「彼は私たちの弱さ(わずらい)を引き受け(担い)、私たちの病を背負った」という自由な訳でイザヤ53章4節のみことばが引用されます。ただし、そのヘブル語原文の3-6節は次のように訳すことができます。

彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。
人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。
まことに、彼が負ったのは私たちの病、担ったのは私たちの悲しみ。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
しかし、彼は、私たちのそむきのために刺し通され、私たちの咎(とが)のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちの平和 (シャローム)、その打ち傷が私たちのいやしとなった。
私たちみなが、羊のようにさまよい、おのおの自分勝手な道に向かって行った。
そして、主 (ヤハウェ) は、私たちみなの咎(とが)を、彼に負わせた。

当時の人々はイザヤ53章4節を引用されただけで、この前後関係を思い起こしたことでしょう。それはイエスの癒しのみわざが、ご自身が自ら苦しんで行くプロセスであって、それが私たちすべての咎を負って十字架にかかることまでつながって行くということです。

イエスがツァラアトの人に触れたとき、そこにあった「のろい」をご自分で引き受けたとも理解できます。またペテロの姑を癒されたとき、その熱病をもたらすウィルスをご自分が引き受けてくださったとも考えられます。

イエスは私たちの創造主として、私たちの弱さ、病い、悲しみ、そむき、咎のすべてを引き受け十字架に向かわれたのです。そして、私たちはこのイエスと一体となり、この方とともに古い自分が十字架にかかって死に、そして復活のイエスと一体の新しい「いのち」にある歩みを始めることができます。

私たちのうちに生きるアダムの性質すべてをイエスは引き受けられて、それを死に定め、私たちのご自身の復活のいのちを与えてくださいました。

そしてイザヤ書53章は、キリスト預言であるとともに、私たちがこの世界で生きることの意味を語っているとも言えます。漫画家「やなせたかし」が「アンパンマン」という漫画に描いたヒーローの姿にはこのイザヤ書53章があったように思われます。彼は次にように書いています。

アンパンマンは、空腹の者に自分の顔の一部を与えることで悪者と戦う力が落ちると分かっていても、目の前の人を見捨てることはしない。かつそれでありながら、たとえどんな敵が相手でも戦いも放棄しない

ほんとうの正義というものは、けっしてかっこうのいいものではないし、そしてそのためにかならず自分も深く傷つくものです」。

そして彼は「アンパンマンのマーチ」で次のように歌っています。

そうだ嬉しいんだ 生きる喜び
たとえ 胸の傷が痛んでも
何のために生まれて 何をして生きるのか
答えられないなんて そんなのはいやだ!
……
何が君の幸せ 何をして喜ぶ
分からないまま終わる
そんなのはいやだ!忘れないで夢を……

これは子ども向けの歌ですが、多くの大人たちは、「何のために生まれて 何をして 生きるのか」という問いに「答えられない」ままで、「そんなのはいやだ!」とも思わずに生きているのではないでしょうか。

イエスの癒しのみわざに神からの「権威」が現わされています。ことば一つで不治の病が癒され、離れた場所のしもべの病が癒されました。しかし、イエスの権威とは、人々を強制的に従わせるという以前に、人々の病と悲しみを引き受け、ついには人々のすべての咎を負うという、預言を成就する者としての「権威」でもありました。

イエスはイザヤ53章にご自身の使命を見ておられました。私が他の人の罪の身代わりに死んでも世界に何の変化も生み出しはしませんが、イエスは預言を成就する「権威」をお持ちの方として、「人々の弱さを引き受け、病を背負われた」のです。

そして、私たちもイエスに遣わされた者としての「権威」をもって生きるのですが、そこではイエスに倣って傷つき苦しみながら、平和を広げるのです。