詩篇143篇「主 (ヤハウェ) よ 私を生かしてください!」

2019年5月19日 

この詩篇は伝統的に七つの悔い改めの詩篇 (6,32,38,51,102,130,143篇) の最後と呼ばれ、作者もダビデであると見られています。しかし、この詩のどこにもダビデの罪の悔い改めの姿が描かれていません。ひょっとすると、多くの信仰者は詩篇を読むときに、すでに一つの枠を持ってしまっているからこそ、これを悔い改めの詩篇と分類したのかもしれません。

当教会でもよく知られている伝道者の奥様は最近の雑誌(舟の右側5月号)のインタビュー記事の中で、「私はもともと謝れないタイプで、主人はすぐに謝って来るんですね。私が怒っている様子だと、とにかく謝ってくるというか、そういう歪んだコミュニケーションだったように思います。お互いに、何がどう気に入らないのかということに向き合わず、すぐに蓋をしてしまうというか、私も謝ってくれたんだからそれでいいやと済ませてしまう、そんな感じでしたね」と証ししておられます。

これは、多くの私たちの神との関係、身近な人との関係で起きていることではないでしょうか。

「カミさんの怒りを宥めるために、ひたすら謝る」という態度と同じように、天地万物の創造主の前で、「罪人の私をあわれんでください!」と、口先で言ってみるということがあるとしたら、そこに真の祈りがあるのでしょうか。この詩篇では、自分の過ちを振り返る代わりに、自分の気持ちをただ正直に訴えています。

先週の東村山教会の献堂式のような「喜びの集い」では、ひたすら謙遜になることを勧めましたが、日本のクリスチャンは、過度に謙遜になりすぎて、自分の正直な気持ちを神に訴えることができなくなることがあるかもしれません。もっと図々しく自分の気持ちを表現することで、心が解放されることもあることでしょう。

うつむきながら生きる代わりに、「 (ヤハウェ) よ 私を生かしてください!」と大胆に祈って生きましょう。

1.「あなたの真実によって私に答えてください あなたの義によって」

最初の三行詩では、「聞いてください」「耳を傾けてください」「私に答えてください」と、ダビデは畳みかけるように訴えながら、「 (ヤハウェ) よ 聞いてください 私の祈りを。 耳を傾けてください 私の願いに。 あなたの真実によって私に答えてください あなたの義によって」と記しています。

それは神が沈黙しておられるような中で、正直に自分の気持ちを訴えたもので、「私は自分の罪を認めますから、私の祈りを聞いてください」と、神と取引するような祈りではありません。子供のようにただ訴えているだけです。

しかも、三番目の祈りでは、原文の順番では「あなたの真実によって私に答えてください」と言った後で、「あなたの義によって」と付け加えられ、それに続けて、二行詩で、「さばきにかけないでください あなたのしもべを。 あなたの前で 生ける者は誰一人 義(正しい)とは言えないからです」(2節) と記されています。

ダビデは自分個人の罪を認めているというよりは、生きている者は、誰も、神の前では自分の「(正しさ)」を主張できないという現実を前提とした上で、彼自身のではなく、神の義によって、彼の祈りに答えてくださるようにと祈っているのです。

しかも、それと同じ理由で、「さばきにかけないでください あなたのしもべを」と、図々しく願っています。教会の歴史の中では、「最後の審判」が大きなテーマになっていましたが、ダビデはそれを含めた神のさばきを自分に適用しないようにと訴えているのです。それは自分が神の「しもべ」であるからという理由です。それもまた、子供のような図々しい訴えとも言えましょう。

しかも、ここでは、ダビデが助けを求める理由が、自分の (正しさ) に基づかないどころか、「神の真実」と「神の義」こそが、神が自分の願いに耳を傾けるべき理由であると説明されています。

しばしば、「義なる神は、どんな小さな罪をも見逃すことなく、ご自身の義の基準によって、公平に厳しく裁かざるを得ない」と説明され、「しかし、イエス様があなたの罪を身代わりに引き受け、十字架にかかってくださったので、あなたの罪が赦されたのです」と言われることがあります。

しかし、それでは、父なる神は厳しく、イエス様は優しい方という、御父と御子のご性質の矛盾が生まれます。それどころかここでは、自分のでも、また御子イエスのでもなく、「神の義」こそが、自分の祈りが聞かれるべき理由であると述べられています。

そして、それは「神の真実」と、基本的に同じような意味であると述べられています。それは、神がアブラハムを選び、またダビデを選び、それぞれとその子孫を祝福すると約束してくださったことを思い起こしながら、神がその約束を真実に守り通し、またご自身の(正しさ)によってそれを保証されたことを指します。

私の中には、神に主張できる(正しさ)などはありません。私が言えるのは、ただ、自分がイエス様にすがり、神の「しもべ」になると告白して、洗礼を受けたということぐらいです。しかも私たちの決心は揺らぎ、自分に信仰があるかないかもわからなくなることがあります。

私たちはただ、神がこの私を守り通してくださると言われた約束に信頼することしかありません。使徒パウロは人生の最後の手紙でテモテに向かって、「私たちが真実でなくても、キリストは常に真実である。ご自分を否むことができないからである」と記しています (Ⅱテモテ2:13)。

神の真実」「神の義」とは、「さばき」というより、神の約束にかかわることばなのです。

2.「衰え果てています 私の霊は私のうちで。 私の中で 怯(おび)えています この心は」

3節も三行詩の形で、自分が神に必死に祈る理由が、「それは敵が……私を……長らく死んでいる者かのように」扱うと記されます。

ダビデの場合は、王になる前は、サウルから徹底的にいのちを付け狙われ、王権が安定したと思った矢先、子供たちが互いに殺し合い、遂には、ダビデ自身が息子アブサロムの謀反によってエルサレムから追い出されます。前者は、自分が信頼した王からの謂れのない攻撃であり、後者の場合は、自分にとってかけがえのない息子からの裏切りです。

もっとも味方になってくれるはずの人が、自分の「敵」となり、「たましいを追い詰め いのちを地に打ちつけ」るという激しい攻撃をしかけてきました。

そればかりか、自分のことを「長らく死んでいる者かのように」見なして、自分を「闇にとどめる」というのです。これは、ダビデが詩篇22篇18節で、「彼らはわたしの衣服を分け合い 私の衣をくじ引きにします」と嘆いたことと同じです。

イエスはダビデの子として、それを文字通り体験されました。それは、「生きているのに、死人と同じに見られる」という孤独感です。ですから私たちは、「人を人とも思わない」ような嘲りを受け、自分が死人であるかのように無視される孤独感の中で、神の御子イエスとの一体感を味わうことができます。

私も以前、それほどではないにしても、孤独感を味わう中で、そのような感動を覚えたことがあります。そのときに味わった「イエスは私の喜び:Jesu meine Freude」は、私の生涯の歌となりました。

最近知り合った方は、近しい人々との関係の中で、家族が深く傷つけられるようなことがあり、もう働きを続けられないと思うようになったとき、詩篇の祈りが改めて心に迫ってきました。

それまでは、身近な人を「」と呼ぶこと自体が、信仰者としてあってはならないことと思っていましたが、詩篇の中に、身近な人を「」と呼んで、自分が彼らから深く傷つけられ、苦しめられていることを生々しく訴え、神の公平なさばきが下されることを祈る様子が、赤裸々に描かれているのを見て、それに倣って祈り始めました。

すると自分の屈折した、鬱積した気持ちが神に受け入れられていると感じられました。そうすると、不思議に、「もう二度と会いたくない!」と思った相手に出会ったとき、かえって落ち着いて話しかけることができたとのことです。

それは、神がご自身のときに、すべてを納得できる状態に変えてくださると信頼できたからです。

なお、ダビデは自分の心がまだ思い乱れているときの状態を4節では二行詩の形で、「それで 衰え果てています 私の霊は私のうちで。 私の中で 怯(おび)えています この心は」と表現しています。

ここでは「私の霊」の状態を「衰え果てています」と素直に描いています。これは「祈る気にもなれない!」という状態が「私のうち」にあることを認めた表現です。

しかも、「私の中で 怯えています」「私の心は」と自分の「」の状態をさらに正直に描いています。「怯えた心」を認めるというのも大きな転換点になります。

そのような中で5節では三行詩の形で、三つの黙想の類語が用いられながら、「私は思い起こしています 昔の日々を。 思い巡らしています あなたのすべてのみわざを。 御手のわざを黙想しています」と描かれます。

それは、自分の今の沈んだ心の状態を認めながらも、神ご自身が自分の人生のうちになしてくださった「昔の日々」からの「すべてのみわざ」を、神の「御手のわざ」として「思い起こし」「思い巡らし」「黙想」することです。

その結果が6節では二行詩の形で、「私は両手を広げます あなたに向かって。 このたましいは 渇いた(乾いた)地のようです あなたを慕って」と、自由に大胆に、まさに「喉が渇いた」「地のように」、神を「慕い求める」という状態になりました。

それは、自分の罪深い姿を思い起こし、頭を下げて、うつむいて祈る姿とは正反対に、「両手を広げ」、神を見上げて、大胆に祈る姿です。

最初に紹介した伝道者の奥様は、自分の歩みを振り返って、「私は平気だ!」と強がって生きてきた部分があると認められるようになりました。

その心の状態を彼女は、「私は自分の堅い枠組みがあって、そこに神様を押し込めちゃうというか、主人に対しても私の枠の中に押し込めて、私がわかる範囲でやってほしいという部分があったのですが、神学校での学びの中で、神様の枠組みに自分を沿わせて行かなければならないことを教わりました。

油絵のキャンパスで言うなら、木の枠が神様の計画で、私はそこに張られる布。木の枠に合うように引き延ばされていく。伸ばす作業は痛いのですが、それが実は楽なんだということを学びました。本当に楽になりました。助けが必要なときに「助けて!」と言える心ですね」と語っておられます。

もともと小さな気配りができる方だったと思いますが、神に砕かれ、自分の強がりを認め、傷つきまた癒していただくというプロセスを経て、神にも人にも、さらに自由に心を開けるようになったのでしょう。神に砕かれる過程では「私の霊が衰え果てる」とか、「私の心は怯(おび)えています」と言わざるを得ないところがあったかもしれませんが、そこから、「私は両手を広げます……あなたを慕って」という自由が生まれたのではないでしょうか。彼女の前では、安心して心を開くことができたという人が増えています。

3.「あなたの御名のゆえに 主 (ヤハウェ) よ 私を生かしてください」

ダビデは、神に向かって「両手を広げ」自分の「たましい」の「渇き」を大胆に訴えるようになってはいるのですが、まだ神の「答え」を聞くことはできていません。

それで7節では再び3行詩の形で自分の切羽詰まった気持ちを、「早く答えてください 主 (ヤハウェ) よ 私の霊は滅びます。 隠さないでください 御顔を私から。 そうでないと 私が穴に下る者と等しくなってしまいます」と訴えています。

それは、神の「答え」を聞き、神のあわれみの御顔の現われを感じられないと自分も神に背を向けて、滅びに向かう悪しき者と同じような状態に落ちてしまうという訴えです。それが、「私の霊は滅びます……穴に下る者と等しくなってしまいます」ということばの意味です。

これは神に厳しい請求をするかのような祈りですが、それは自分の信仰の揺るぎやすさを自覚していることの証しでもあります。

私自身も自分の不信仰に悩む中で、「心の(霊において)貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです」(マタイ5:3) という主の慰めのことばを味わいました。それは自分の霊性の貧しさの自覚から、御霊の働きが始まるという逆説です。

ところが8節からはそれまでのトーンが変わるような落ち着いた祈りになります。それは幼児が親に向かって泣き叫ぶことができたあとに訪れる平安 (シャローム) です。

まず二行詩の形で「あなたの慈愛(ヘセド)を朝 お聞かせください あなたに信頼していますから。 行くべき道をお知らせください このたましいはあなたを仰いでいますから」と告白されます。

慈愛」とは「恵み」とも訳されるヘブル語のヘセドで、「主がご自身の契約を守り通されるという真実の愛」を意味します。それを朝ごとに聞くことで、神への「信頼」がより確かなものとされるという信仰の告白です。

同時に、自分の「行くべき道」を主ご自身から知らされることで、いつでもどこでも自分の「たましい」がますます、主を仰ぎ見るようになるという期待の表明と言えましょう。そこには、神への信頼と礼拝が、神の導きによって好循環で成長するという希望が見られます。

さらに9節では「敵から救い出してください あなたのうちに私は身を隠します」と敵から救い出され、神の御腕の中に安らぐことを表明します。

また、それに続いてすぐに10節では、より積極的に「みこころを行うことを教えてください あなたこそ 私の神ですから」と告白されます。そこでは、神に向かって「あなた」と呼びかけながら、その方を「私の神」と個人的に告白し、その方の「みこころ(ご意思)を」自分の意志としようという、決心が伴った信頼の表明があります。

ただ同時に、自分の霊性の弱さを自覚しながら、「あなたの慈しみの(善い)霊が平らな地に私を導いてくださいますように」という、神の善意に満ちた霊が自分を平穏な歩みへと導いてくださるという期待が表現されます。

つまり、神のもとに逃れる願いは、天国への逃避ではなく、神が備えた「平らな地」で、神の霊によって神の意志を生きるという思い展開されるのです。

そして11節では、「あなたの御名のゆえに 主 (ヤハウェ) よ 私を生かしてください」と祈られますが、主の御名ヤハウェには、「わたしは、ある(生きる)」といういのちの源としての意味があります。アダム(人間)は、土地(アダマ―)から造られながら、主の「いのちの息」を受けて「生きるもの」となりました (創世記2:7)。

つまり、困難のただ中で「私の霊は滅びます」と死を身近に感じながら、自分を生かすことができるのは、主 (ヤハウェ) ご自身のみであるという信頼が表明されているのです。主の御名から生きる力が生まれるのです。

そして、さらに「あなたの義によって このたましいを苦しみから引き出してください」と祈られます。ここでの「」も、1節にあったように主 (ヤハウェ) の「真実」とほとんど同じ意味で、主がご自身の約束を守り通してくださるという「正しさ)を意味します。実は、それこそが、主が自分の「たましいを苦しみから引き出して」くださる理由なのです。

宗教改革は、「神の義」を、神の厳しいさばきとして理解し、それに怯えて生きていたマルティン・ルターが、「福音は……救いをもたらす神の力です。福音には神の義が啓示されていて、信仰に始まり、信仰に進ませる……『義人は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです」(ローマ1:16,17) というみことばによって人生を変えられたことから始まっています。

それは、「神の義」の理解が、罪人を厳しくさばいて地獄に落とす審判者の正義から、罪人に信仰を生み出して、「生きる者」とさせる神の真実へと、神学的理解が根本から変えられたことを意味します。

残念ながら、今もなされる説明で、「十字架は、罪人をさばく『神の義』と罪人をあわれむ『神の愛』が交差するところ」と言われます。しかし、それは宗教改革の経緯を全く理解していない説明とさえ言えましょう。

しかも、そこでは「神の愛」も誤解されがちです。真の愛には、罪人を根本から造り変えようとする燃える「厳しさ」も含まれているからです。

さらに12節では、「あなたの慈愛(ヘセド)によって 敵を滅ぼしてください」と祈られますが、「慈愛(ヘセド:恵み)とは8節でも述べたように、神がご自身の契約を守る真実さを意味しますから、先の「神の義」や「神の真実」と非常に意味が近いことばです。

この契約の愛が、神ご自身がダビデの敵を滅ぼす理由になるのは、アブラハムへの最初の約束において、主が彼に「わたしは、あなたを祝福する者を祝福しあなたを呪う者をのろう」(創世記12:3) と言われたからです。

つまり、神は、ダビデがどれほどの罪人であっても、ダビデの側について、ダビデのいのちを狙う者に、ご自身で復讐をしてくださるのです。ダビデはそれを信じていたので、サウルを何度も殺す機会がありながら、自分で復讐をせずに、神に任せたのです。

さらに最後に、「消し去ってください 私のたましいに敵対するすべての者を。なぜなら 私は あなたのしもべなのですから」と祈られます。

それはイエスが、「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(5:43) と言われたことと矛盾しているように見えます。しかし、詩篇の祈りは、私たちの感情を取り扱うものです。

そして、しばしば、自分の怒りの感情を神にストレートに表現できた結果として、敵に対するあわれみの気持ちが湧いてくるという心の動きが生まれます。反対に、敵に対する恨みの気持ちを心の奥底に押し込むと、それがあなたのたましいを窒息させ、それがさらに「恨み」の感情を増幅させるという悪循環が生まれます。

しかも、イエスが「敵を愛し」と言われたことばは、敵を感情的に好きになることではなく、「敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたなら飲ませよ」(ローマ12:20) ともあるように、敵の苦難を見て、「いい気味だ!」などと思って、「見過ごしにせず」(出エジ23:5)、敢えて助けの手を差し伸べることを意味します。

それこそが、敵の「頭上に燃える炭火を積んで」、敵を慌てさせることになると記されています。

最後に、ダビデは、「私は」ということばを強調しながら、「あなたのしもべなのですから」と言います。これは2節の繰り返しですが、「神のしもべ」とは、こき使われる対象というよりも、神にとっての大切な財産であるという意味合いがあり、神が私たちの味方になってくださるという意味につながり、そこに健全な誇りが生まれます。

それは私たちの告白でもあります。パウロも神の救いのみわざを描いたクライマックスで、「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう…だれが、神に選ばれた者たちを訴えるのですか。神が義と認めてくださるのです」(ローマ8:31,33) と高らかに歌っています。

ここでは (ヤハウェ) の御名が三回登場し、「 (ヤハウェ) よ 聞いてください 私の祈りを」(1節)、「早く答えてください 主 (ヤハウェ) よ 私の霊は滅びます」(7節)、「あなたの御名のゆえに 主 (ヤハウェ) よ 私を生かしてください」(11節) と、ダビデは必死に訴えています。

しかしそこには、「私は両手を広げます あなたに向かって」(6節)、「みこころを行うことを教えてください……あなたの慈しみの(善い)霊が平らな地に私を導いてくださいますように……御名のゆえに (ヤハウェ) よ 私を生かしてください」(10,11節) と、この地で積極的に神から与えられた使命を「生きる」という祈りが生まれています。

ダビデほど大胆に、自由に、神から与えられた「いのち」を燃焼させ、後世の人々に、主にあって「生きる」ことの自由を証ししている人はいません。彼が犯した罪すら、人々に神のあわれみを証しすることにつながっています。その秘訣こそ、この詩篇です。主の「御名」「」「慈愛 (ヘセド)」を覚え、大胆に「 (ヤハウェ) よ 私を生かしてください!」と祈ってみましょう。


 
 詩篇143編  ダビデの賛歌 (高橋私訳)

 主(ヤハウェ)よ 聞いてください 私の祈りを。 (1)
  耳を傾けてください 私の願いに。
   あなたの真実によって私に答えてください あなたの義によって。
 さばきにかけないでください あなたのしもべを。 (2)
  あなたの前で 生ける者は誰一人 義(正しい)とは言えないからです。 

 それは 敵が私のたましいを追い詰め (3)
  私のいのちを地に打ちつけ
   私を闇にとどめるからです 長らく死んでいる者かのように。
 それで 衰(おとろ)え果てています 私の霊は私のうちで (4)
  私の中で 怯(おび)えています この心は。

 私は思い起こしています 昔の日々を。 (5)
  思い巡らしています あなたのすべてのみわざを。
   御手のわざを黙想しています。
 私は両手を広げます あなたに向かって。 (6)
  このたましいは 渇いた地のようです あなたを慕って。  セラ

 早く答えてください 主(ヤハウェ)よ 私の霊は滅びます。 (7)
  隠さないでください 御顔を私から。
   そうでないと 私が穴に下る者と等しくなってしまいます。
 あなたの慈愛(ヘセド)を朝 お聞かせください あなたに信頼していますから。 (8)
  行くべき道をお知らせください このたましいはあなたを仰いでいますから。

 敵から救い出してください あなたのうちに私は身を隠します。 (9)
  みこころを行うことを教えてください あなたこそ 私の神ですから。 (10)
   あなたの慈しみの霊が平らな地に私を導いてくださいますように。

 あなたの御名のゆえに 主(ヤハウェ)よ 私を生かしてください。 (11)
  あなたの義によって このたましいを苦しみから引き出してください
   あなたの慈愛(ヘセド)によって 敵を滅ぼしてください。 (12)
 消し去ってください 私のたましいに敵対するすべての者を。
  なぜなら 私は あなたのしもべなのですから。