Ⅱサムエル7章〜10章「神の真実とダビデの真実」

2018年2月4日

悪いと分かっていることに手を出してしまうことを、「つい、魔が差してしまって・・」と言われます。これを英語にすると、tempted by an evil spirit(悪霊に誘惑されて)と訳されるようですが、日本語の微妙なニュアンスを現わしているとは言えません。「どうして、あの真面目な人が・・・」と言われるほど理由がわからないときに用いられる表現です。

実は、過ちは誰でも犯すものとも言えます。それ以上に、聖書で問われているのは、過ちを犯したときの対応の仕方に、その人の根本的な問題が現れるということです。

 

今回の悪人の代表者はダビデですが、この罪に身を任せた理由は説明されていません。それよりも、罪を隠蔽しようとした卑劣さの方が明らかに問われています。

彼は後に詩篇19篇で「このしもべの高慢を抑え、支配させないでください。それで私は完全にされ、重い罪からきよめられます」(私訳)と祈っています。それは彼の反省から生まれているのだと思われます。

10章までのダビデは誰よりも謙遜でしたが、そのような人でも様々な成功を味わい、権力を握ると、驚くほど高慢になってしまったのでしょう。

 

しかも、ここでのダビデの罪には、アダムの罪の繰り返しを見ることができます、これは私たちの誰もが犯し得る罪であり、全人類の罪のパターンの根本を見ることができるとも言えるかもしれません。

 

1.ダビデが犯した罪―天使になろうとして悪魔になるー

ダビデはヨルダン川東のアンモン人との平和を望みながら、戦争になりました。ただその結果、主がアブラハムに約束されたユーフラテス川に至る広大な土地がダビデに服従しました(10:19)

その際、「アンモン人はアラム人が逃げるのを見ると、アビシャイ(ヨアブの弟)の前から逃げて町に入った」(10:14)と記されていますが、この「町」とはアンモンの首都ラバです。ラバは、昔は「アンモンのラバト」と呼ばれ、現在はアンマンと呼ばれ、ヨルダン王国の首都となっています。

11章の戦いは、城壁都市ラバに籠ったアンモン人を屈服させる掃討作戦です。それにしても、1節では、王たちが出陣する時期・・・ダビデはエルサレムにとどまっていた」という対比が強調されています。「出陣する時期」に、「とどまっていた」というのです。

ダビデはヨアブとイスラエル全軍を戦いに出しながら、自分はエルサレムにとどまり、昼寝を貪るような生活をしていました。彼にとってすべてが順風満帆と思え、心の中から「恐れ」が消えていました。

 

不思議にダビデに何の心の葛藤もなかったかのように、「ある夕暮れ時、ダビデが床から起き上がり、王宮の屋上を歩いていると、一人の女が、からだを洗っているのが屋上から見えた。その女は非常に美しかった」(11:2)と描かれます。

王宮は城壁で囲まれた町の一番高い部分にあり、屋上からは町全体を見下ろすことができました。ダビデはこの女が家来の妻であることを承知の上で、「使いの者を送って、その女を召し入れた」(11:3)と簡単に記されます。

彼をこの姦淫の罪に駆り立てた唯一の動機は、彼女の「美しさ」にあったようです。しかも、彼女が水浴びは、「月のものの汚れから身を聖別していた」(11:4)とあるように、女性の通常の「七日間」の「月のさわりの状態」からのきよめの儀式でした(レビ15:19-24)。彼女には王の命令に逆らう余地はありません。

ダビデも王としての権力を使うことの緊張感を失っていたかのようです。彼はこれがどのような結果を生むかを何も考えなかったかのようですが、この時期に彼女が妊娠することになるのは当然の帰結とも言えましょう。彼女の名はバテ・シェバで、その夫は異邦人である「ヒッタイト人ウリヤ」でした。彼はヨアブにしたがってアンモン人掃討作戦に出征していました。

 

彼女の妊娠の知らせを聞いたダビデは慌てて偽装工作を思いつきます。なぜなら、彼は、神を恐れ、家来を大切にするということで信頼されていたからです。それでウリヤを前線から呼び寄せました。それはウリヤを妻のもとに帰らせて夜をともに過ごさせ、生まれた子が彼の子であるかのように見せるためでした。

ところが彼は、「王宮の門のあたりで、自分の主人の家来たちと一緒に眠り、自分の家に帰らなかった」というのです(11:9)。ダビデはそのようすを聞いて、ウリヤに「なぜ、自分の家に帰らなかったのか」と尋ねます(11:10)

それに対しウリヤは、「主人ヨアブも」、その「家来」である戦友たちも、「戦場で野営」しているという中で、自分だけが「家に帰り、食べたり飲んだりして、妻と寝るということができるでしょうか」と答えます(11:11)

そこには戦友の痛みへの共感があったことは当然ですが、戦いの最中は、「女たちから遠ざかる」という律法に従うためでもありました(Ⅰサムエル21:5、申命記23:5)。

しかもその際、彼は「神の箱も、イスラエルも、ユダも仮庵に住み」(11:11)という表現を使います。まるでこの外国人の方が、神の箱と国の行く末を案じているかのようで、安逸を貪っていたダビデとの対比が際立って描かれます。

 

ダビデはそれでも諦めずに、ウリヤを食事に招いて酔わせますが、彼は妻のもとに行こうとしませんでした。それでダビデはヨアブへの手紙をしたためウリヤに持たせます。

そこには「ウリヤを激戦の真正面に出し、彼を残してあなたがたは退き、彼が打たれて死ぬようにせよ」(11:15)と記されていました。ウリヤは、国のことを思い、妻と一夜を過したい思いを抑えて、王の書状を自分の主君ヨアブに命がけで届けましたが、そこには自分を死に至らしめる卑劣な策略が記されていました。何という裏切り行為でしょう。

ヨアブも、ダビデに恭順を示したアブネルを欺いて殺したような人間ですから、王の命令をひそかに実行することに躊躇しませんでした。ヨアブは「戦いの一部始終をダビデに報告」するにあたって、王との想定問答まで指示し、「あなたの家来、ヒッタイト人ウリヤも死にました」ということばが自然に出てくるように伝言を託します(11:18-21)

この使者は王に向かって、「城壁の上から射手たちが・・・矢を射かけ、王の家来たちが死にあなたの家来、ヒッタイト人ウリヤも死にました」と伝えます(11:24)。使者は、ウリヤの死ばかりか、「王の家来たち」の「死」をも敢えて強調しています。ウリヤを死に至らしめるために、城壁に近づきすぎるという戦略を、ヨアブが取らざるを得なくなったことへの皮肉が込められています。

 

それを聞いたダビデはヨアブに、「このことに心を痛めるな」(11:25)と伝えますが、まるでダビデが自分に言い聞かせているかのようです。

その後、ウリヤの妻は「自分の主人のために痛み悲しんだ」のですが、「喪が明けると、ダビデは・・・彼女を自分の家に迎え入れ」ます(11:2627)。これは、家来の未亡人にあわれみを施す王のような態度です。そして「彼女は彼の妻となり、彼のために息子を産んだ」(11:27)と記されます。つまりダビデは約一年近くの間、家来を大切にする敬虔な王であるかのように振舞っていたのです。

しかし、裏では、ヨアブよりもはるかに非道なことを行なっていました。ヨアブは復讐心からから行動しましたが、ダビデは自分の評判を守るだけのために、何の恨みもない人の、その誠実さをまるで逆手に利用するかのようにして殺してしまったのです。これほどの偽善、卑怯さがあるでしょうか。

 

17世紀のフランスの天才パスカルは、「人間は、天使でもけだものでもない。そして不幸なことには、天使のまねをしようと思うと、けだものになってしまう(パスカル・パンセ359)と言いました。確かにこれは明らかな悪人よりも、善良に見える人の方が、恐ろしい罪を犯し得ることの実例ともいえましょう。

歴史上、ダビデほどに神を恐れ、人に誠実を尽くし続けた王はいません。しかし、そこに落とし穴があったのです。

 

2. 主はダビデを立ち返らせるために預言者ナタンを遣わされた。

11章は、「ダビデが行ったことは主のみこころを損なった」ということばで終わります。そして、主(ヤハウェ)は一年近くもの間、ダビデが自分の罪を告白してくるのを待っておられ、その上で、預言者「ナタンをダビデのところに遣わされ」ます(12:1)主ご自身が交わりの回復を計られたのです。

自分を神のようにしたアダム以来、人の何よりの問題とは、自分の罪を認められなくなったということです。よく「あなたが謝罪したら赦してあげるのに・・」と迫る人がいますが、それは人の心を分っていない人かもしれません。

 

ナタンは神からの知恵によって、他の人のことを相談するような雰囲気でたとえを話します(12:1-4)。ある貧しい人が、唯一の財産として一匹の雌の子羊を持っており、娘のように大切に育てていました。

ところが、「一人の旅人が、富んでいる人のところにやって来」たとき、「彼は・・旅人のために、自分の羊や牛の群れから取って調理するのを惜しみ、貧しい人の雌の子羊を奪い取り」、調理して客をもてなしたというのです(12:4)

富んでいる人は、自分の体面を保つだけのために貧しい人の宝物を力ずくで取り上げたのです。

それを聞いたダビデは、「主(ヤハウェ)は生きておられる。そんなことをした男は死に値する(12:5)と怒りを燃やします。それを聞いてナタンは、「あなたがその男です」と断言しました(12:7)

 

その際、主は、ダビデにどれだけ多くのものを与えたかを思い起こさせながらも、「それでも少ないというのなら、わたしはあなたにもっと多くのものを増し加えたであろう」(12:8)とまで言います。主は、不思議に、ダビデの心の中にある欲望ではなく、「主(ヤハウェ)のことばをさげすみ、わたしの目に悪を行なった」(12:9)こと自体を問題にします。

そしてその罪を、「あなたはヒッタイト人ウリヤを剣で殺し、彼の妻を奪って自分の妻とした」と指摘します(12:9)。ここで何よりも非難されているのは、多くの人のような欲望に負けたことではなく、自分の評判を守るためにウリヤを死に至らしめ、家来の妻を憐れむふりをしたという、権力者の横暴と偽善です。

権力は人を酔わせます。しかも、一度手にすると離せなくなります。だからこそダビデは評判を気にしたのでしょう。

彼が情欲に負けたという出発点よりも、ウリヤに対する横暴が問題なのです。その根本が、「主を恐れる」代わりに、「主をさげんすだ」(12:10)こととして描かれています。

 

ダビデの罪は、殺人、姦淫、盗み、偽証、むさぼりと、十戒の後半のすべてに反しますが、その根本には、「人を人とも思わない」という傲慢さがありました。彼にとってのウリヤの命、その巻き沿いをくった家来たちの命は、あまりにも軽いものでした。

イエスは、模範的な生き方を誇ったパリサイ人たちに同じ問題を見て、「偽善者」と非難しました。そして主は十戒の後半をまとめて、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」と言われました(マタイ22:39、レビ19:18)。それは、隣人の存在を自分自身ように大切に思うということです。

あなたもときに、「あの人のせいで、自分の評判に傷がつきそうだ。あの人がいなかったら自分は安心していられるのに・・・」と思って、心の中で人を殺しているようなことがないでしょうか。

 

ダビデはこのとき、「主(ヤハウェ)は王である」(詩篇96:10)という自分の王権の原点を忘れ、地上の他の横暴な王と同じ存在に成り下がっていました。

これに対して、真の王である主は、「今や剣は、いつまでもあなたの家から離れない・・・わたしはあなたの家の中から、あなたの上にわざわいを引き起こす。あなたの妻たちを・・目の前で奪い取り・・隣人に与える」(12:1011)というさばきを宣告されます。これは、子供たちが殺し合い、息子アブサロムがダビデに謀反を起こすという一連の悲劇を予告したものです。

 

たしかにダビデが、「私は主(ヤハウェ)の前に罪ある者です」(12:13)と告白したとき、ナタンはすぐに、「主(ヤハウェ)も、あなたの罪を取り去ってくださった」(12:13)と宣言しました。それは、主がダビデを赦すために彼の罪を指摘していたという経緯があったからです。

ただ続いて、「あなたは死なない。しかし、あなたはこのことによって、主(ヤハウェ)の敵に大いに侮りの心を起こさせたので、あなたに生まれる息子は必ず死ぬ(12:13,14)と、「死なない」と「必ず死ぬ」という表現をセットに、生まれて間もない子がダビデの身代わりになると宣告されます。

なお、ここで多くの訳は、筆記者が恐れ多い表現を避けるために「主の敵」ということばを挿入したと理解し、ダビデの罪を、「主(ヤハウェ)をひどく侮辱した」ことと記します。

 

そして、主(ヤハウェ)はその子を打たれ、病気にします。しかし、「ダビデは、その子のために神に願い求め…断食をして引きこもり、一晩中、地に伏し(12:16)続けます。そして「七日目にその子は死んだ」と記されます(12:18)。彼はそれを聞くと、「地から起き上がり、身体を洗って身に油を塗り、衣を替えて主(ヤハウェ)の家に入り、礼拝をした」というのです(12:20)。

その後、ダビデが食事を取ると、家来たちが不思議に思いますが、ダビデは、「もしかすると主(ヤハウェ)が私をあわれんでくださり、あの子が生きるかもしれない、と思った」(12:22)と答えます。

ここにダビデの祈りの姿勢を見ることができます。彼は、主のさばきを聞きながらも、主がみこころを変えてくださる可能性があると期待し、徹底的に主にすがり続けました。

 

その後、「ダビデは妻バテ・シェバを慰め・・・彼女が男の子を産み、彼はその子をソロモンと名づけた」(12:24)と記されます。不思議にも、「(ヤハウェ)は彼を愛されたので・・・その名をエディデヤ(主に愛された者)と名づけさせた」(12:25)と記されています。

主はダビデの深い悲しみを見て、この関係から生まれた次の子を、豊かに祝福されたからです。つまり、ダビデの七日間の断食の祈りは無駄ではなかったのです。

主は、不倫から始まった関係を正式な結婚として認めたばかりか、それを救い主の系図に入れました。それは主が、どんな忌まわしい罪さえ、恵みのきっかけに変えることができることを意味します。

 

3.ダビデの罪の結果が息子たちの姦淫と殺人に現れる。

ところがこの間に、戦いの方は予想通りに勝利を収めようとしていました。そのとき将軍ヨアブは、最終的な勝利の栄誉を自分が受け取ってしまってはまずいと、ダビデに最終的な詰めを委ねます。

この点では、ダビデの支配権は順調に強化されており、彼の罪の結果はどこにも現れていないかのようです。

 

しかし、一方で、「神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります」(ガラテヤ6:7)という現実もあります。そして、家庭の罪は、家庭に問題を起こします。

彼の長男アムノンは、腹違いの妹のタマルを恋い焦がれます。その理由は、彼女が「美しい」とともに「処女であって・・何かをするということはとてもできないと思われたから」と記されます(13:1,2)。そのために彼は「苦しんで、病気になるほどであった」というのです。ここに、恋の心理が巧みに描写されています。

 

その後アムノンは、悪い友人の勧めにしたがって、仮病を使って父ダビデを呼び寄せ、自分の看護のためにタマルを自分のもとに遣わすように願います。

アムノンはタマルをだまして寝室に呼び寄せ、タマルに迫ります。彼女は「イスラエルではこんなことはしません」と拒絶します(13:12)。それはレビ記189節で明確に禁じられている関係でした。

しかし、アムノンは「力づくで、彼女を辱め」(13:14)ました。

 

アムノンはダビデに似ています。ダビデがバテ・シェバの美しさに惹かれたように、タマルの美しさに惹かれ、主の御教えを軽んじて、強引に自分のものにします。ダビデはウリヤをだまして死に至らしめましたが、アムノンは父ダビデを騙して、家庭を壊し、タマルを社会的に殺します。

アムノンはどうしてダビデを騙せたのかと不思議ですが、ダビデが神を軽んじたように、アムノンは父を軽んじたのです。

 

そればかりか、目的を果たしたアムノンは、「激しい憎しみにかられて、彼女を嫌った。その憎しみは、彼が抱いた恋よりも大きかった」(13:15)というのです。それは先の罪よりもなおひどく彼女を傷つけました。

処女を奪った者は、その責任を一生取り続けるのが神のみこころだからです(出エジ22:16)。父の姦淫の罪を長男は真似ましたが、父とは違い犯した相手の責任を取ろうとはしませんでした。

その結果が、「タマルは頭に灰をかぶり、身に着けていたあや織の長服を引き裂き、手を頭において、泣き叫びながら歩いて行った」(13:19)と描かれます。当時の社会においては、彼女はもう死んだ者とされてしまいました。

ダビデはウリヤを死に至らしめ、アムノンは自分の欲望のためにタマルの一生を抹殺したのです。

 

その後、タマルの実の兄アブサロムがアムノンに復讐を果たします。父の姦淫と殺人の罪を、ふたりの息子がそれぞれ受け継ぎ、さらに罪深い方法で実行してしまいました。それは主がダビデに、「わたしはあなたの家の中から、あなたの上にわざわいを引き起こす」(12:11)と言われた通りでした。これはダビデが蒔いた種です。

私たちは「罪の赦し」を、過去を消し去り、忘れ去ることだと誤解してはいないでしょうか。ダビデの罪は確かに赦されましたが、その罪の結果は、子供たちに現れ、ダビデはやがては自分がエルサレムから一時的に逃げ出さざるを得ないというところまで追いやられるのです。

 

ある人は、つくづく「確かに私は、自分の罪が赦されたことの恵みを誰よりも深く味わっているかもしれないけれど、誰にも決して、自分と同じような歩みをして欲しいとは思わない。自分が蒔いた種刈り取ることは、本当に大変だから・・・」と言っておられました。

ただし、それでも、罪の赦しは圧倒的な恵みです。それは罪の結果を刈り取る過程で、神がいつもともにいて、ひとつひとつのことを益に変えてくださるからです。神が自分に向って微笑んでおられると感じられることは、明日に向って歩む何よりの力となります。

様々な人生の試練を、神とともに乗り越えられることと、一人で立ち向かわざるを得ないのとでは天地の差があります。インマヌエル(神は私たちとともにおられる)の偉大さを改めて覚えましょう!

 

ダビデの罪は、誰よりも卑劣で、その後の家族の悲惨も目を覆いたくなるような恐ろしいものでした。しかし、ダビデは、それらすべてを後のために公表し、それを歌にまでしたというのは驚くべきことです。

 

詩篇51篇の標題には、この罪のことが明記されていますが、そこでは、「ご覧ください。私は咎ある者として生まれ 罪ある者として 母は私を身ごもりました」(5)という告白があります。

彼は自分の罪を弁明しているようでありながら、自分はアダムの子孫として、「自分を神とする」という根本的な罪のゆえに、一つの過ちから、忠実な家臣を殺すことにまで至ったと認めているのです。

だからこそ、自分を変えることができるのは、聖霊の働きに他ならないという意味で、10-12節で、「揺るがない霊」「聖なる御霊」「仕えることを喜ぶ(自由の)霊」のみわざへの期待が歌われます。これこそ旧約における最大の聖霊預言の一つです。

そして、その結果を、「私は背く者たちに あなたの道を教えます。罪人たちは あなたのもとに帰るでしょう」(13)と歌っています。ダビデの罪は卑劣極まりないものです。しかし、それがこのような歌として記されることによって、どんな悪人でも神のもとに立ち返るという道が開かれているのです。

 

ダビデの罪の赦しは、主が「わたしは彼の王国の王座をとこしえまでも堅く立てる」(Ⅱサムエル7:13)と約束されたことに基づきます。そしてダビデの子であるイエスが、私たちすべての罪を負って十字架にかかり、このままの私たちを神の子供としてくださいました。

ダビデの罪が、逆説的に私たちにとっての慰めと希望を生み、ダビデの子の十字架のみわざが、私たちを罪の支配から解放してくださったのです。