民数記11章〜14章「誰を恐れて生きるのか」

2016年3月13日

人は心の底で、「もっと良い生活があるはずでは・・・」という期待を持ちます。それは、「神はまた、人の心に永遠を与えられた」(伝道者3:11)とあるように、人の心には、失われたエデンの園への憧れがあるからです。それは、エジプトから出たイスラエルの民にとっての「約束の地」への憧れと同じです。

しかし、イスラエルの民は、約束の地を目の前にして、恐れに圧倒され、しり込みしました。その思いが私たちにもあるのではないでしょうか。

たとえば、「神様に信頼しても、落胆させられるかも知れない」という「恐れ」があって、「神に信頼して、大胆にチャレンジする」という心の動きにブレーキをかけてはいないでしょうか。

また、自分の差し当たりの居場所を守ることばかりを考え、人の抵抗や拒絶を恐れて、言うべきことを言えなくなってしまい、結果的に、自分の居場所を失うというようなことがないでしょうか。

恐れに圧倒されるような人生に、「いのちの喜び」は生まれません。三千数百年前のイスラエルと神との関係は、今の自分と神との関係を表しているようです。

イエスは、「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます」(マタイ7:7)と言われました。目に見える現実に意気消沈する代わりに、神に大胆に期待し、道を開いていただきましょう。

1.「主の怒りが・・燃え上がり、主は非常に激しい疫病で民を打った」

イスラエルの民はシナイ山を出て荒野に入って間もなく、「ひどく不平を鳴らして主(ヤハウェ)につぶやき」(11:1)ました。これは、彼らが、かつて金の子牛を作って拝み、神の怒りを受けて断ち滅ぼされそうになりながら、モーセの執り成しによって罪を赦され、今度はそれに感動した民が、次から次と主に奉納物を持って来て、神の幕屋が出来上がったという感動の時から、それほど時間は経っていません。

そこでは、「主(ヤハウェ)の栄光が幕屋に満ちた」と描かれていましたが、それから間もなくとも言えます。幕屋が建てられたのはイスラエルの民がエジプトを出て第二年目の第一の月で、そのとき民数記7章にあったように、彼らは祭壇奉献のために驚くべき量のささげものを主に進んでささげました。

またこれは、彼らが荒野での最初の過越の祭りを祝い、また民の要望により、死体で身を汚した人のための一月後れの過越の祭りを祝ってからも間もない時のことです。

そこでは、「主(ヤハウェ)の契約の箱は三日の道のりの間、彼らの先頭に立って進み、彼らの休息の場所を捜した」(10:33)という神のあわれみが描かれていました。

彼らの気分の変わりやすさは、まさに幼児と同じです。お母さんに向かって満面の笑みを浮かべて喜んでいた幼児が、ちょっと嫌なことがあると、驚くほどの勢いで、泣きながら不満を訴えます。大人になるとは、目の前に期待外れのできごとがあっても、待つことができるようになることのはずですが、このときの彼らはまるで子供のままです。

しかし、考えてみたら、同じように目の前の出来事に揺れる心が私たちのうちにもあるのではないでしょうか。ただ、正直に感情を表すことを恥じているだけかもしれません。

そのとき、「主(ヤハウェ)はこれを聞いて怒りを燃やし、主(ヤハウェ)の火が彼らに向かって燃え上がり」と記されます。ここで、原文の「怒り」は、「鼻」と同じ語源で、ここには、主が鼻を赤くして怒りの炎を発するような情景が描かれています。ただし、このとき、「主の火」は「宿営の端をなめ尽くした」だけで留まります。

それで民がモーセに向かってわめきますが、「モーセが主(ヤハウェ)に祈ると、その火は消えた」(11:2)というのです。現在も、「神の怒りが天から啓示されている」(ローマ1:18)という現実がありますが、同時に、「神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ」てくださいました(Ⅱコリント5:18)。

ですから今、十字架の蔭に隠れる者に「神の怒り」は届かないばかりか、神はその者に微笑んでおられるということができます。

なおイスラエルの民はかつて、海がふたつに分けられてエジプト軍の追っ手から自由になり、またエリムのオアシスで一息ついて、シンの荒野に出てすぐのとき、それは彼らがエジプトを旅立ってちょうど一か月が経ったばかりのときですが、モーセとアロンに食べ物がないとつぶやきました。

そのときからずっと、毎日、天からマナが降るようになりました。そればかりか夕方にはうずらが飛んできて宿営をおおったと記されていました。民は最初、その天からのマナに感動していました。

ところが、それから一年たって間もなくのこのとき、「ああ、肉が食べたい。エジプトで、ただで魚を食べていたことを思い出す。きゅうりも、すいか、にら、たまねぎ、にんにくも。だが今や、私たちののどは干からびてしまった。何もなくて、このマナを見るだけだ」(11:4,5)と、「大声で泣いた」というのです。

ただそこで、マナは煮たり焼いたりと多様な調理法が可能で、「その味は、おいしいクリームの味のようであった」(11:8)と敢えて描かれます。それは本来、すぐに食べ飽きてしまうような惨めな食べ物ではありませんでした。もちろん、彼らが望んだような食料の多様性は期待できませんでしたが、荒野の旅という現実の中では、「驚くべき恵み」と言えるものでした。

それに対しまた、「主(ヤハウェ)の怒りは激しく燃え上がり」(11:10)ました。ただここで主は、火を降らす代わりに、まずモーセの訴えに耳を傾けます。

モーセは、「なぜ、あなたはしもべを苦しめられるのでしょう・・私だけでは、この民全体を負うことはできません。私には重すぎます・・どうか私を殺してください」(11:11-15)とまで訴えました。ただし、その訴えは事実に基づくものではありません。神はモーセに、「うばが乳飲み子を抱きかかえるように、彼らをあなたの胸に抱き、わたしが彼らの先祖たちに誓った地に連れて行け」(11:12)などとは言ってはおられないからです。

それに対し、主はモーセの認識を改めさせる代わりに、モーセが「良く知っている民の長老」の中から「七十人」を選ばせ、「あなたの上にある霊をいくらか取って彼らの上に置こう。それで彼らも民の重荷をあなたとともに負い、あなたはただひとりで負うことがないようになろう」と言ってくださいました(11:16、17)。

これは、出エジプト記18章で描かれた「千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長」(21節)とは異なる役割です。彼らはモーセに置かれらと同じ霊の一部を預けられ、モーセの精神的な負担を軽くする霊的な支援者でした。

現在の教会においても、牧師の心の痛みや葛藤を理解するような「神の霊」を授けられている人が必要です。人のたましいの世話に深く関わってきた人には、このモーセの気持ちが理解できるともに、不思議な慰めを味わうことでしょう。

同時に主は、一ヶ月分の肉を与えると約束されました。その際、モーセはそれが不可能かのように疑問を述べますが、主は「(ヤハウェ)の手は短いのだろうか。わたしのことばが実現するかどうかは、今わかる」(11:23)と答えられました。これは私たちにとっても希望のみことばです。

そして、「主(ヤハウェ)のほうから風が吹き、海の向こうからうずらを運んできて、宿営の上に落とし」(11:31)、その量は最も少なく集めた者でも10ホメル(2,300ℓ)にもなりました。ただ、彼らが食べようとするやいなや「主(ヤハウェ)の怒りが民に向かって燃え上がり、主(ヤハウェ)は非常に激しい疫病で民を打った」(11:33)というのです。それでそこは「欲望の墓」を意味する「キブロテ・ハタアワ」と呼ばれました。それは民の欲望への厳しいさばきでした。

不思議にも、神は、彼らの欲望を一時的に満たした上で、さばかれました。神は、あらゆる願望をかなえることができる方ですが、それがさばきの始まりである場合があります。このことは詩篇78:26-31、106:13-15でも繰り返し覚えられます。

私たちの現実でも、家庭や職場での願望がかなった直後から悲劇が始まるという例を見ることがあります。私たちは自分の願望から救われなければなりません。祈りは、自分の願いを訴える以前に、主の願いが私たち自身の願いへと変えられるプロセスであるべきでしょう。

原文では、長老に注がれた主の「霊」も、うずらを運んだ主からの「風」も、同じ「ルーァハ」です。すべての自然現象を支配される神は、私たちの心をも変えてくださいます。

それは、「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです」(ピリピ2:13)とあるとおりです。

2.「なぜ、あなたがたは、わたしのしもべモーセを恐れずに非難するのか」

モーセの姉のミリヤムはアロンとともにやってきて、彼の異邦人の妻のことで非難します。これはモーセの二番目の妻であった可能性があり、その結婚に関して、たしかに彼に非があったのかもしれません。ただ、彼らの真の意図はモーセに与えられた特権への「ねたみ」にあり、その疑問が、「主(ヤハウェ)はただモーセとだけ話されたのでしょうか。私たちとも話されたのではないでしょうか」という表現でした(12:1,2)。

ただ、「モーセという人は。地上のだれにもまさって非常に謙遜であった」(12:3)ので、彼は自分の立場を弁明しませんでした。

それで主は、アロンとミリヤムを呼び寄せ、モーセが預言者以上の存在であることを「彼とは、わたしは口と口とで語り、明らかに語って、なぞで話すことはしない。彼はまた、主(ヤハウェ)の姿を仰ぎ見ている」と説くとともに、「なぜ、あなたがたはわたしのしもべモーセを恐れずに非難するのか」と叱責しました(12:8)。

そして、「主(ヤハウェ)の怒りが彼らに向かって燃え上がり」、「雲が天幕の上から離れ去ると、見よ、ミリヤムはツァラアトになり、雪のようになっていた」のでした(12:9,10)。

今も、しばしば指導者への不満が、指導者の配偶者への不満とセットになっている場合があります。しかし、主は、指導者を批判する人々の心の底にある動機の方にこそ目を向けられます。

ミリヤムへのさばきに恐れたアロンは、モーセを「わが主よ・・・」と敢えて呼びながら、「私たちの愚かさのために犯した罪を、どうか負わせないでください」(私訳)と、あわれみを乞います。その際、彼女の症状が、「その肉が半ば腐って母の胎から出て来る死人のよう」と描かれますが、これはハンセン病に似ています(12:11)。それで以前は「らい病」と訳されたのかもしれません。

それに応じるように、モーセも主に叫んで、「神よ。どうか、彼女をいやしてください」と叫びました(12:13)。しかし、主は七日間ミリヤムを宿営の外に締め出すことを命じました。それはツァラアトが癒された後の規定の隔離期間ですから、彼女の病は、モーセの祈りによって即座に癒されたことを意味します。

その際、「彼女の父が、彼女につばきをする」とは、辱めることを意味しますが、その効果が七日間続くというのは根拠が分かりません。とにかく、民もミリヤムの復帰を七日間待ち続けました。彼らは神が立てた権威に逆らうことの恐ろしさを実感しました。

モーセは、神のみこころを直接受ける者であり、イエス以外の誰も彼に勝りはしません。アロンは祭司の代表、ミリヤムは預言者の代表として特別でしたが、現在のキリスト者もすべて祭司であり預言者です。

しかし、神がモーセの執り成しを受け入れたように、現在のキリスト者のためにも牧者を立てておられます。その働きをモーセと並べて権威づけることは許されませんが、みことばを解き明かし、執り成す働きの基本は同じです。

それでヘブル人への手紙では、「あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい。この人々は神に弁明する者であって、あなたがたのたましいのために見張りをしているのです」(13:17)と記されます。

ただし牧師が、みことばの範囲を超えたことを語るなら、服従する必要がないのは当然です。ただ、牧師はひとり一人のために神に祈り、「たましいの見張り」をしているという働きを尊重するなら、当然ながら、自分が礼拝を守っている教会の牧師のことばを注意深く聴くべきでしょう。

3.「その地の人々を恐れてはならない・・主が私たちとともにおられるのだ」

主は、カナンの地を探らせるために各部族の代表を遣わしました(13:2)。その名は1章とはまったく違います。彼らは次世代のリーダーとして立てられていた器かもしれません。

ここで特に注目されるのは、エフライム族の代表ホセアがヨシュアと名づけられ(13:16)、モーセの後継者とされようとしていることです。

彼らは、その地の民の勢力と土地の豊かさを調べるため、レボ(入り口)ハマテというヘルモン山の北にまで行き、四十日間カナン全土を偵察し、ふたりが棒で担がなければならないほどに大きなぶどうひとふさを運んできました。彼らは「そこはまことに乳と蜜が流れています」(13:27)と、土地の豊かさを報告しました。

ただ同時に、「その地に住む民は力強く、その町は城壁を持ち、非常に大きく、そのうえ、私たちはそこでアナクの子孫を見ました」(13:28)と言います。「アナク」はヘブル語で「首」という意味があり、背の高さで有名でした。彼らはアナク人を、ノアのときの洪水で滅んだはずのネフィリムの子孫と思いました。彼らは「昔の勇士であり、名のある者たち」で、地に暴虐をもたらした張本人でした(創世記6:4,13)。

なおその際、彼らは、その地に他の民族、アマレク人、へテ人、エブス人、エモリ人、カナン人が住んでいると報告はしますが、その悪い面ばかりを強調します。

そして、約束の地について、「私たちが行き巡って探った地は、その住民を食い尽くす地だ」と述べます。それは、その土地の豊かさと当時にその地形のゆえに多くの異なった民族が住み、互いに殺し合っている現実を指したものでしょう。

しかし、それは民族的なまとまりのない征服しやすい土地とも言えるのですが、そのように解釈する代わりに、「私たちがそこで見た民は、みな背の高い者たちだ」とアナク人にばかり目を向けさせ、彼らはそれに比較して「自分がいなごのように見えたし、彼らもそう見えたことだろう」と、推測を交えた誇張をしました(13:33)。

それを聞いた「全会衆は大声をあげて叫び、民はその夜、泣き明かし」、「なぜ主(ヤハウェ)は、私たちをこの地に導いて来て、剣で倒そうとされるのか。私たちの妻子はさらわれてしまうのに」と、悲観的な想像を巡らしたばかりか、「さあ、私たちは、ひとりのかしらを立ててエジプトに帰ろう」とまで言い出します(14:1-4)。

それに対しヨシュアとユダ族代表のカレブは、「私たちが巡り歩いて探った地は、すばらしく良い地だった」と事実を冷静に述べながら、「私たちが主(ヤハウェ)のみこころにかなえば、私たちをあの地に導き入れ、それを私たちにくださる・・ただ主(ヤハウェ)に背いてはならない。その地の人々を恐れてはならない・・彼らの守りは・・取り去られている・・(ヤハウェ)が私たちとともにおられるのだ」(14:8,9)と必死に説得しました。

先の10章9節で、主は、「戦いに出る場合は、ラッパを短く吹き鳴らす。あなたがたが・・主(ヤハウェ)に覚えられ・・・敵から救われるためである」と言っておられました。勝利は約束されていたのです。

しかし、「全会衆は、彼らを石で打ち殺そうと言い出す」(14:10)しまつでした。それで、「(ヤハウェ)の栄光が会見の天幕からすべてのイスラエル人に現れ」ます。

そして、モーセに向かって、「この民はいつまでわたしを侮るのか。わたしがこの民の間で行ったすべてのしるしにもかかわらず、いつまでわたしを信じないのか」と、その不信仰を怒ります(14:10,11)。

主はエジプト軍の追っ手を海に沈め、マナを天から降らせ、水を岩から湧き上らせてくださいました。主の栄光の雲こそ、全能の主の臨在のしるしでした。

彼らの不信仰は、私たちの想像を超えています。救いようのないほどに「愚か」に思えます。ですから主はモーセに向かって、「わたしは彼らを疫病で打って滅ぼしてしまい、あなたを彼らよりも大いなる強い国民にしよう」(14:11,12)と仰せられました。

ところが、モーセは必死に神を説得するかのように訴えます。それは、「あなたが昼は雲の柱、夜は火の柱のうちにあって、彼らの前を進んでおられるのを」、「異邦の民」が「聞いている」ので、主がイスラエルの民を殺すなら、彼らは「主(ヤハウェ)はこの民を・・誓った地に導きいれることができなかった」と主(ヤハウェ)の無力さをあざ笑うだろうというのです(14:14,16)。

そればかりか、そうすれば、主ご自身の「主(ヤハウェ)は怒るのにおそく、恵み豊かである・・」との約束を裏切ることになるとさえ訴えました(14:18)。ここでモーセがまるで親友に語るように、率直に自分の意見を述べています。

主(ヤハウェ)はそれを受け止め、「わたしはあなたのことばどおりに赦そう」と言ってくださいました(14:20)。ただ同時に主は、「このように十度もわたしを試みて、わたしの声に聞き従わなかった者たちは、みな、わたしが彼らの先祖たちに誓った地を見ることがない」(14:22,23)とも言われました。

そして、カレブとヨシュア以外の二十歳以上の男子が荒野で死に絶えるまで荒野をさ迷わせ、カナンを偵察した四十日を四十年に数え直して彼らを荒野に留めるというさばきを下しました(29,34節)。

そしてその目に見える現れとして、偵察に行った他の十人はたちどころに、「主(ヤハウェ)の前に、疫病で死んだ」(14:37)のでした。

民はこのさばきを聞いて、悔い改めましたが、今度は無謀にも、主の命令に逆らって、山地の峰のほうに登ってゆきました。しかし、「主(ヤハウェ)の契約の箱とモーセとは、宿営の中から動かなかった」(14:44)ので、彼らは徹底的に敗北し、荒野からカナンに北上する最短路は永遠に閉ざされました。

彼らは、目に見える敵の勢力に恐れをなして、神のみわざを忘れました。私たちも臆病のゆえに主に従うことができないで、大きな回り道をすることはがないでしょうか。

私たちの御国への旅路の途中には「悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすものを捜し求めながら、歩き回っています」(Ⅰペテロ5:8)。しかし、その獰猛なライオンたちは、長く強い鎖で繋がれているのです。

神は、「わたしの義人は信仰によって生きる。もし恐れ退くなら、わたしの心は彼を喜ばない」と言っておられます。それに応じて、「私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です」と告白するのです(ヘブル10:38,39)。

イエスは私たちに平穏な生活を約束してくださったと思いたいところですが、実際には、「あなたがたは、世にあっては患難があります」と断言してくださいました。ただし、同時に、「しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです」(ヨハネ16:33)とも言われました。

不思議にも、主の決定的な勝利は、十字架の死を通して初めて与えられたものでした。ですから、目の前の十字架を見て恐れ退く者は、栄光の勝利をともに味わうことができません。私たちのうちに生きておられる主は、死に勝利された方です。

しかも、恐れるべき方を恐れる中でこそ、恐れなくてよいものの実態が見えてくるものです。「恐れ」は、大切な感覚ですが、そのために「進むべき道」の決断がゆがめられることはあってはありません。

たとえば、詩篇55篇には、ダビデが恐怖に圧倒されている様子が描かれていますが、彼は恐れに圧倒されて退却することはありませんでした。

彼は恐れの感情を主の前で正直に認めることによって、主からの力を受け、敵に勝利することができました。「勇気とは、祈られた恐れ」(Mut ist Angst,die gebetet hat)だからです。