のろいから祝福へ

立川チャペル便り「ぶどうぱん」2015年秋号より

幼児教室では子供たちが、「福音の汽車に乗っている、天国行きに。ポッポ!……切符はいらない。主の救いがある」と喜んで歌っています。ところが、ときに、未信者のお母様が、この歌を、「復員の汽車」と理解することがあるようです。それは、第二次大戦直後に、多くの方々が、地獄のような戦地から、家族の待つ故郷へと向かうために乗った、切符の要らない、無料の「復員列車」を思い起こさせるものです。

しかし、「主の救い」は、この「復員列車」のたとえの方が、分かりやすいかもしれません。そこでの「天国」とは、死後の世界ではなく、愛する家族が待つ、現実の祝福の世界です。残念ながら、多くの方々は、マタイの福音書が描く「天の御国」を、死後の「天国」と誤解し、「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから」というイエスの約束を、死後の天国の希望と誤解しています。しかし、それは、「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください」と祈る者に、今、ここで実現されている現実の「救い」です。

それは、目の前から困難がなくなるということではなく、「自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っている」というここにある祝福です。たとえば、戦前に、満州で必死に畑を耕していた方は、その土地を奪われ、労苦が無駄になりました。しかし、命からがらでも、「復員列車」に乗ることのできた方は、故郷に帰り、生活を建て直すことができました。

そこにあった喜びは、これからは、誰にも、家を奪われるという心配もなく、家族といっしょに働き、いっしょに生活を楽しめるという生きた希望でした。

「旧約聖書が描いている「救い」は、まさにそのような現実です。イスラエルの民は、モーセとヨシュアの時代に、奴隷状態から解放され、約束の地へと導かれました。そこで彼らは、「それを守ると、幸せになる」という神の御教えに逆らって、別の神々を拝むようなことさえしてしまいました。その結果が、バビロン捕囚という「のろい」でした。そこでは、どんなに誠実に働いても、いざとなったら、異教徒たちに財産を没収されるという恐怖でした。それは、七十年では終わらずに、ローマ帝国の支配のもとでの苦しみにまでつながっていました。

イエスが、旧約聖書で預言された「救い主」であるとは、イスラエルをこの「のろい」から解放するということを意味しました。そして、イエスに従った者たちは、様々な困難があったにせよ、ローマ帝国の中で増え広がり、ついにはローマ皇帝までが、イエスを救い主とあがめるようになったのです。一方、イエスを信じなかった多くのユダヤ人たちは、ローマ帝国に逆らい続け、土地と家とを奪われ、流浪の民となりました。

ガラテヤ人への手紙3章13、14節には、「キリストは、私たちのためにのろわれた者となって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました……それはアプラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです」と記されています。

イエスを救い主と信じる者は、すでに、「のろい」から「祝福」へと移されています。そして、約束の御霊を受けたことによって、すでに揺るぎない神の民とされています。そこにある祝福とは、「労苦が無駄にならない」という働くことの喜びです。

ただ、残念ながら、キリストの支配を信じないこの世には、「のろい」が残されたままです。それは、神に逆らって、エデンの園から追い出されたアダムの子孫に受け継がれている「のろい」です。それは弱肉強食の残酷な世界です。そして何と、祝福を保証された私たちは、今、その世界に、キリストの大使として遣わされています。そこで、私たちは、キリストに習って、不条理な十字架をさえ背負うように召されています。ただ、それは先の見えない苦しみではなくて、この世界を神の支配のもとに導くための創造的な苦しみです。

しかも、キリストはやがて、目に見えるかたちで現れて、この世界を「新しい天と新しい地」へと、一瞬のうちに造り変えてくださいます。そのとき、この地における私たちの労苦が、主にあって無駄でなかったことが、心から納得できるようになります。

とにかく、「天の御国」は、イエスを救い主として信じる者たちのうちに、「すでに」始まっている現実です。しかし同時に、この世界は、アダムの罪のゆえの「のろい」の支配下に「まだ」置かれています。「天の御国」は「すでに」始まっていますが、「まだ」完成してはいません。この「すでに」と「まだ」の葛藤を理解しなければ、「天の御国」の神秘は分かりません。それこそ、この目ではなかなか確信できない霊的な真理です。

それを私たちは聖書のみことばを味わうことを通して、腹の底に落として行く必要があります。私たちが、キリストにあって、天の御国の民とされ、「のろい」から「祝福」に「すでに移されている」ことを繰り返し覚えたいものです。