Ⅰペテロ2章9節「王である祭司として生かされる」

2014年6月22日

「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、
聖なる国民、神の所有とされた民です。
それは、あなたがたを、やみの中から、
ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方の
すばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです」

このみことばは、今年度の指標聖句として与えられたものです。プロテスタント教会が宗教改革の伝統として大切にしている原則のひとつに「万人祭司」という教えがありますが、それはここから生まれました。

ドイツで宗教改革が始まった時、カトリック教会は地域教会の司祭を通して、絶大な影響力を発揮していましたが、多くの司祭は、聖書を説き明かすよりも、様々な秘跡を用いて人々を道徳教化しようとしていました。そこには明らかな迷信も伴っていました。

しかし、聖書の教えに目覚めた人々は、聖書を説き明かすことができない司祭を退け、真の聖書教師を求めるようになりました。ルターは、そこで牧師を選ぶ権威は、ペテロの後継者などではなく、一般の信徒の集まりである地域教会にあるということをこのみことばから論証しました。ひとりひとりの信仰者は司祭を通してではなく、直接に神に結びついているというのです。

その伝統の中でも私たち自由教会に属する群れでは、何よりも、ひとりひとりの良心の自由が強調されます。私たちの教会は自立したキリスト者の集まりです。たしかに、牧師の存在と影響力は強いことによって教会のまとまりが保たれるという面もありますが、牧師の権威は、あくまでもみことばの解釈に関するものです。ひとりひとりが神のみことばを味わい、神のみことばを読むことが期待されています。

1.「しかし、あなたがたは・・・」

「しかし、あなたがたは」とは、この手紙の受け取り手ですが、彼らは現在のトルコの各地に散らばっていたクリスチャンの交わりであり(1:1)、その中心は異邦人でした。新約と旧約の違いは何よりも、アブラハムの子孫であるユダヤ人に向けて語られていたはずの聖書の教えが、異邦人にも向けられ、彼らがキリストへの信仰のみによって神の民とされたということです。

私たちもその意味で、アブラハムの子孫とされたのです。それは当時のユダヤ人にとっては奇想天外なことでした。しかも、当時のクリスチャンは社会のマイノリティーで、人々から異端視され、迫害を恐れていました。

そして、ここでしかし」という接続詞が入っているのは、2章6-8節に記されているように、尊い礎石」であるイエス・キリストを「つまずきの石、妨げの岩」として拒絶している人との対比を明らかにするためでした。

しかし今、この手紙の読者は、「あなたがたはすでに、主がいつくしみ深い方であることを味わっているのです」(2:3)という恵みを既に味わっていました。

詩篇34篇8節には、「味わい、見つめよ。主(ヤハウェ)のすばらしさを」と記されていました。

そしてここでは、その主こそ十字架にかけられたイエスであることを、「主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です」(2:4)と記されていました。

つまり、「あなたがたは、しかし」ということばに、神の民とされた者は、イエスも自分たちも、この世とは全く異なった視点から見るように召されているということを指し示しているのです。

私たちはその点で、しばしば、あまりにも自分をこの世の価値基準から見すぎてはいないでしょうか。ただし、それはこの世の基準をまったく無視して良いという意味ではありません。自分の国のことをどんなに悪く言っている人でも、サッカーのワールドカップになれば、自国を応援したくなるものですし、また、自分の生まれ故郷の選手の活躍を見れば嬉しくなるものです。またこの世の学歴などが気になることも避けられません。

大切なのは、この世の基準を無視することではなく、どれだけそれを超えた尺度を持ち、それによって人や自分の価値を認めることができるかということです。

そのために何よりも必要なことは、私たちの主イエスによる救いのみわざを心の底から味わうことです。イエスは人間的に見るなら、神の国の福音をことばと行いによって証しながら、身近な弟子たちにも理解されず、当時の権力者から憎まれ、十字架にかけられて殺されたひ弱な理想主義者にすぎないとも言えます。しかし、イスラエルの神ヤハウェが、このイエスを死者の中からよみがえらせ、世界に対してご自分の唯一の子であること、世界の王であることを証しされました。

復活を抜きにイエスが救い主であることを語ることはできませんし、同じように、イエスの復活の抜きにして、私たちは自分に与えられた救いを語ることはできません。そのことが1章3-5節に次のように記されています。

「神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。

これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現されるように用意されている救いをいただくのです」

現在の私たちの目には、この約束されている救いの豊かさは、なかなか見えないものかもしれませんが、それは確かに「天にたくわえられて」おり、また、私たちは「神の御力によって守られて」いるのです。

そして、イエスの復活こそ、これらすべてのことの保障です。私たちはいつでも、神の視点から自分を見る必要があります。

2.「あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる」

そして、何よりもこのみことばの背景には、イスラエルの民にシナイ山で与えられた約束があります(出エジ19:4-6)。それこそ、彼らが神の民として選ばれたことの目的でした。

そこには、「あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたを鷲の翼に載せ、わたしのもとに連れて来たことを見た。今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエル人にあなたの語るべきことばである」と記されていました。

つまり、イスラエルの民に「十のことば」を中心とする律法が与えられたのは、それによって彼らをこの地上における神の偉大な救いのみわざの見本にするためであり、彼らを「祭司の王国」にし、また、この地のいかなる国民とも異なった「聖なる国民」とすることで、神がご自身の愛とあわれみをしめし、全世界の人々をご自身のもとに招くためだったというのです。

たとえば、拙著「お金と信仰」にも書きましたが、レビ記には神の民に対する定期的な休みの命令や社会的な弱者の保護規定ばかりか、七年に一度の借金の免除と奴隷解放(申命15章)、また五十年に一度のヨベルの年(レビ25章)では、土地の分配を原初の状態に戻して、貧富の格差をなくすという制度がありました。

残念ながら、それはイスラエルに王政が導入されることによって不可能になりました。個人の経済的な活動の自由を尊重しながら、定期的にそこから生まれる貧富の格差をなくすということができていたなら、イスラエルは世界の羨望の的となったことでしょう。そして彼らは自国の繁栄と平和を通して、自分たちの神の偉大さを証しできたことでしょう。

そして、現代の私たち異邦人キリスト者の共同体にはその使命が受け継がれているというのです。ですから1章22節では、「あなたがたは、真理に従うことによって、たましいを清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、互いに心から熱く愛し合いなさい」と命じられています。

私たちはたしかに一人一人がキリストに似た者に変えられることによって、神の愛を証しすることができます。ただ、そのように個人の変化を強調することによってあまりにも自意識過剰や独善主義に陥る可能性があります。単純なことですが、どんなに美しいことを言っていても、自分の家族に尊敬をもって接することができていない人は、そのことばを信じることができません。

神の愛は、信仰者の共同体という交わりの中に現されるということを忘れてはなりません。初代教会の成長の鍵は、何よりも彼らが互いを尊敬しあい、愛し合っていたことにありました。周りの人々はその愛の交わりに引き寄せられるようにして信仰に導かれたのです(使徒5:12-14)。

愛の交わりこそ、何よりの伝道の媒体になることを忘れてはなりません。私たちはそれを目に見える小さな交わりを通して体験し、証しするのです。数千人の人々が一度に礼拝に集まるような教会が世界には数多くありますが、その基本は常に、小さな家族的な交わりが重なったものです。

あなたは、この教会の中で、互いの様子を分かち合い、祈り合う関係を持っているでしょうか。それを求めて祈りましょう。

3.「野の獣がわたしをあがめる。ジャッカルや、だちょうさえも・・・わたしの民、選んだ者に飲ませるから」

ところが、イスラエルの民は、「祭司の王国、聖なる国民となる」という崇高な使命を果たすことに失敗したばかりか、自分たちを救ってくださった神を忘れ、偶像の神々を求め、神の怒りを買って国を失ってしまいました。

ところがそのような中で、神はイスラエルの残りの民に預言者イザヤを通して驚くべき希望の約束をしてくださいました。そのことがイザヤ43章3,4、18-21節では次のように記されています(私訳)。

「わたしは、主(ヤハウェ)、あなたの神、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主であるから、エジプトをあなたの身代金とし、クシュとセバをあなたの代わりとする。わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしは、あなたを愛している。だから、人をあなたの代わりにし、民をあなたのいのちの代わりにする・・・・

先の事を思い出すな。昔の事を思い巡らすな。見よ、わたしは新しい事をわたしは行う。今、もうそれが芽生えている。それをあなたがたは知らないのか。確かに、荒野に道を、荒地に川をわたしは設ける。野の獣がわたしをあがめる。ジャッカルや、だちょうさえも・・・。

荒野に水を、荒地に川をわたしが与え、わたしの民、選んだ者に飲ませるからだ。この民は、わたしのために造った。彼らはわたしの栄誉を宣べ伝えよう」

多くの人々は、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしは、あなたを愛している」という主の語りかけに慰めを見いだしています。しかし、それは不思議にも、自分たちの神に背いて、神の怒りを買い、自業自得で国を失った失敗者に対する語りかけでした。そして、イエスはこのイザヤの預言を成就する救い主として現れてくださったのです。

なお、イザヤ書で興味深いのは、神の圧倒的な救いの御業のゆえに、ジャッカルやだちょうという、のろわれた動物の代名詞でさえも、イスラエルの神ヤハウェをあがめるようになるということです。

ですから、ペテロのことばを、あなたはイエス・キリストの宣伝をするために、福音のセールスマンとして選ばれたというようなプレッシャーとして理解する必要はありません。イザヤによると、忌み嫌われた野の獣でさえ、神をあがめたくなるほどなのですから、まして神のかたち」に創造された人間は、イエスの救いのみわざを味わうと、それを語らずにはいられなくなるという意味なのです。

そして今、この預言は、イエスを救い主として告白するすべての人々に成就しています。私たちひとりひとりが、ユニークな神の救いのみわざを体験しています。

Blessed assurance・・・This is my story, this is my song という賛美がありますが、あなたは自分になされた神のみわざを語り、歌っているでしょうか。それができていない人は、遠慮なく牧師室にお越しください。それをともに発見するのが私の生きがいですから。

4.「あなたがたは、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり」

なお、「あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざ」と記されていますが、この背景にはイザヤ9章2節の「やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った」というみことばがあると思われます。

これはクリスマスによく読まれるものですが、イスラエルは自分たちの神を裏切り、自業自得でやみの中に住む者となりました。そして、それ以前に、私たちもすべてアダムの子孫として、エデンの園の外という「やみの中」に置かれていました。しかし、「ご自分の驚くべき光」という神の御子のご支配の中に招き入れられました。

私たちは、何よりも、「やみから光へ」「のろいから祝福へ」「絶望から希望へと」、置かれる立場を移していただけたのです。それは私たちが自分の知恵や力や、また自分の信仰の力によって獲得したものではなく、一方的な神のあわれみによって与えられたものです。

また、ペテロはそれに続けて、「あなたがたは、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者です」(10節)と語っていまが、その背後にはホセア書2章22,23節の記述があります。

そこでは預言者ホセアの妻でありながら浮気ばかりをしたゴメルから生まれた三人の子ののろわれた名前を主が祝福の名に逆転させてくださるという約束が記されています。

主は「イズレエル」という残虐の血に満ちた名を豊かな実りの地へと変え、『愛されない者』という意味のロ・ルマハという名を神の愛の対象とし、『わたしの民でない者』という意味のロ・アミを『あなたはわたしの民』と言う逆の名前に変え、その子も神に向かって『あなたは私の神』と呼ぶように変えられるというのです。

ゴメルの三人の子供の名には神の燃える怒りの思いが込められていました。しかし、その背後には、イスラエルの神がご自分に立ち返って来るのを待つ忍耐に満ちた神の愛が隠されていました。

三人の子供の名が祝福の名に変えられるということは、私たちひとりひとりが先祖伝来の悪習から自由にされ、新しくされることの象徴と言えましょう。

私たちは誰も、親を選ぶことはできません。浮気女ゴメルの子どもたちは、生まれながらのろわれた名が付けられました。私たちの場合も、ときに自分たちの親が愚かな偶像礼拝ばかりを続け、私たち子供の世代に「のろい」を受け継がせていたかもしれません。

しかし、神はご自身の一方的なあわれみによって、私たちひとりひとりを「神の民」とし、「あわれみを受けた者」へと変えてくださったのです。

あなたは自分の家系に流れていた「のろい」の連鎖が、祝福の連鎖へと変えられたことを、具体的に自覚しているでしょうか。先祖から引き継いでいる負の遺産に気づき、それを主の御前に差し出し、福音の力によって解放されるというプロセスが必要ではないでしょうか。

5.「王である祭司・・・神の所有とされた民」

なお、ここにはイスラエルの民との連続性が明確でないみことばが、「王である祭司」です。本来、イスラエルにおいては政治的な指導者である王と、宗教的な権威者である大祭司とは、役割の分担がありましたが、イエス・キリストこそは、王であるとともに大祭司として現れた救い主です。

私たちは信仰においてこのイエスと一体とされています。それは使徒パウロが、「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」(ガラテヤ2:20)と語った通りです。

そして、「王である祭司」とは、私たち一人一人が小さなキリストとされたという意味であり、また、私たちと神との間には、何の仲介者も必要がないという意味です。

私たちは一人ひとりが、神に直接に訴えることができます。あなたは具体的な家族や友人、仕事の仲間のために祭司としての役割を果たしているでしょうか。執り成しの祈りこそ、最大の祭司の勤めです。

マルティン・ルターは、「キリスト者の自由」という文書によって、宗教改革の精神を広めましたが、その冒頭において興味深いテーゼ(命題)を示しています。そこには次のように記されています。

キリスト者はすべての者の上に立つ自由な主人であって、
だれにも従属していない。
キリスト者はすべての者に奉仕するしもべであって、
だれにも従属している」

この前半は、私たちが王である祭司であるというペテロの宣言によって明らかです。それと同時に、後半の宣言はこのペテロの手紙の2章13-16節を意識して記したものと言えましょう。そこには次のように記されています。

「人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい。それが主権者である王であっても、また、悪を行う者を罰し、善を行う者をほめるように王から遣わされた総督であっても、そうしなさい。

というのは、善を行って、愚かな人々の無知の口を封じることは、神のみこころだからです。あなたがたは自由人として行動しなさい。その自由を、悪の口実に用いないで、神の奴隷として用いなさい」

あなたは王であるとともに、奴隷なのです。

なお、キリストの歩みが、「ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました」(2:23)と描かれるのは、主が真の自由人として行動していたしるしです。

私たちが人からバカと言われると、バカと言い返したくなるのは、バカと言うことばが、自分の心に刺さってしまうからです。その際、私たちはそのような品のないことばに左右される奴隷のような状態になっています。

それは、自分を神に選ばれた者、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民として見ることができていない証拠かもしれません。

私たちは、神に恋い慕われ、「選ばれた種族」です。私たちは「王である祭司」として、万物の創造主との祈りのホットラインを持っており、この世のすべての人のために執り成しの祈りをささげる特権を与えられています。

また「聖なる国民」とは、私たちがこのままで神の聖なる領域に招き入れられた聖徒とされているからです。私たちはキリストの十字架の血潮によって罪が赦された聖なると見られています。

それは、ペテロが1章18,19節で、「ご承知のように、あなたがたが父祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです」と記している通りです。

また、私たちは同時に、「神の所有とされた民」、つまり、「神の宝物」とされています。私たちは神ご自身の「目のひとみのようにかけがえのない存在と見られています。

そのことをペテロは先に、神は私たちに、「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました」(1:3)と約束してくださいました。

私たちはキリストと結びつけられたことによって、キリストが所有しているすべてのものを受け継ぐようになっているということを忘れてはなりません。

私たちは結婚において、互いの財産が共有され、不幸も幸福も共有されます。その関係が、キリストと私たちの間にも神秘的に実現しているということを、ルターは次のように語っています。

「キリストの所有したもうものは信仰あるたましいの所有となり、たましいの所有するものがキリストのものとなる。そこで、キリストの持っておられたすべての善きものと祝福とはたましいに所属することになり、同様にたましいに属していたすべての不徳と罪過とはキリストに託される・・・・

そこで罪はキリストのうちに呑まれ、溺らせられざるを得なくなるが、それはキリストの破り難い義があらゆる罪に対してあまりにも強いからである」

私たちはそれぞれ「神の国」の民とされています。そしてこの教会は「神の国の大使館」です。あなたがどこかの国の文化に関心があるとしたら、その国の大使館を訪ねるのが一番です。

ですから私たちもこの教会に外部の人々を招き、神の国の音楽、神の国の料理、神の国のライフスタイル、神の国の子育てを紹介する必要があります。そして何よりも、より多くの人々に神の国の教えである聖書の物語を紹介する必要があります。

あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民」と複数形で描かれているように、私たちは共同体として神の救いのみわざのすばらしさを証しするのです。

一人一人は弱く、また貧しくても、互いの賜物を生かし合うことができるなら、私たちは途方もない大きなことができます。より大きな主のビジョンを求めて祈りましょう。