創世記1章1節〜2章3節「神の神殿としての世界の創造」

2014年6月15日

今回、自動車産業のメッカのデトロイト郊外の地で、現地に住む日本の駐在員の家族の伝道に熱心な教会を訪ねました。そこのカルチャークラスには、何と、300人もの日本人が出入りしています。その目玉は、survival English class(生き残りのための英会話)で、米国での生活に最低限必要な英語を教えるものです。

今から20年ほど前、この地は、反日的な雰囲気に満たされていましたが、その中である悲しい事件が起こりました。それを通して、この教会の人々は、多くの日本人駐在員の家族が、現地で想像を絶する孤独と恐怖の中に置かれていることを知り、どのように日本人の方々を教会にお招きできるかということを考えるようになり、このプロジェクトを始めました。

この教会に出入りしている日本人は、教会が、自分たちの都合ではなく、ただ単に、神の愛を目に見える形で現したいと願っているということが分かり、安心感を覚えています。

私たちのこの世界には、いつも生き残りをかけた戦いが満ちています。そして、聖書こそが、サバイバルのためにもっとも大切な宝物であることを覚える必要があります。

「初めに、神が天と地を創造した……」以降の聖書の最初の記事は、多くの人々の人生観を変え続けてきました。それに対応するように、聖書には世界のゴールが、黙示録21章1節において、「私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない……」と記されます。それはイザヤ書65章17節で預言されていたことを基にして記されています。

そこでは、主ご自身が、「見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。先の事は思い出されず、心に上ることもない。だからわたしの創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ」と語っておられます。

そこには弱肉強食や争いがすべて過ぎ去った、神の平和が支配する世界です。私たちはこの世界がどのように始まり、どこに向かっているのかを理解するときに本当の意味で「いのち」を燃焼させることができます。

たとえば、創世記一章の解釈でも、十人の学者が集まると十通りの解釈が生まれると言われます。そんな中で、私はとっても嬉しいことを体験しました。今から8年年近く前に、モーセ五書をまとめた本を出版させていただきましたが、この本は、創造科学の主催者の牧師からも、またそれに批判的なこの世の科学との調和を重んじる方々からも、ほぼ完全に同意できると評価をいただくことができたからです。

またこの世界の終わりへのプロセスでも、特に千年王国の解釈を巡って驚くほど多様な解釈がありますが、この世界のゴールが、神の平和が支配する「新しい天と新しい地」にあることは、すべての福音的な信仰者が一致できます。

私たちは、この世界がどなたによって始められ、どなたによって完成に導かれるかにおいて、完全に一致することができます。この世界の始まりと完成の両方に目をきちんと向ける時に、私たちは様々な恐れや不安から自由にされ、愛に満ちた神の救いのご計画に目を向け、世界の荒波に向かって行く勇気を持つことができます。

1.「初めに、神が天と地を創造した……」

「初めに、神が天と地を創造した。」(1:1) での、「神 (エロヒーム)」とは、すべての神々を呼ぶときに使われる普通名詞です。当時の世界では、創造主という概念が忘れられていたので、「神々」を表わすのと同じことばで創造主ご自身を紹介せざるを得なかったのでしょう。それは簡単に言うと、世には様々な神々がいるが、この方は、他の神々のように、生まれ出た神ではなく、時間空間すべての創造主であるということです。

聖書は、唯一の神によって世界が創造されたということを記した最古の書物です。これがなければ創造主という概念さえ、人の心には思い浮かべようがありませんでした。その目的は、創造主を忘れた人々に、この世界が「神」の最高傑作であることを知らせ、創造主を礼拝することができるように招くことです。

なお、「天と地」とはセットで全世界という意味です。古来、人間は自然の力を恐れて生きており、そこから偶像礼拝が起こりましたが、私たちはこの全世界を創造された神だけを恐れて生きれば良いということをこの記事から覚えることができます。

「地は茫漠として何もなかった」(1:2) とは、最初の世界の状態の記述です。ユダヤ人の間で広く用いられている英語訳 (Jewish Publication society :Tanaka Translation) では、1-3節が一つの文章で、「When God began to create heaven and earth – the earth being unformed and void, with darkness over the surface of the deep and a wind from God sweeping over the water – God said, “Let there be light” and there was light」(神が天と地を創造し始められた時、地は形なく空しく、闇が大水の上にあり、神の息が水の上を動いていたのだが、神が『光があれ』と仰せられると、光があった)」と記されています。

つまり、厳密に言うと、ことばの上では、「無からの創造」という概念は表現されていません。ここでは、最初の「地」は、私たちが知っているような地ではなかったということを経験的な普通のことばで述べているだけです。

たとえば、数学で、ゼロの概念の発見がいかに画期的なことだったかと言われることがありますが、それならば、当時の人々に、「無からの創造」という概念を説明することはできなかったことでしょう。それよりも、「生命が存在できないと思えるような茫漠とした地に、植物が生え、鳥が飛び……」という変化を知らせるほうが、神の創造のみわざの偉大さを明確に紹介することになったと思われます。

聖書は実際に起こったことを記述してはいますが、そこで用いられている言語は、三千年前の人々が理解できるものという限界があったことを忘れてはなりません。現代の自然科学との調和を考える以前に、大切なのは、神がこの記事を通して何を語ろうとしておられるのかという大枠を理解することです。

しかも、神による創造のみわざは何よりも、光の創造から始まっていることが強調されています。そのため、その原初の状態が、「やみが大水の上にあり……」(1:2) と描かれています。

しかし同時に、その直後に、「神の霊が水の上を動いていた」と説明されています。つまり、目に見える現実は、何の生き物も存在しない、不毛な「やみ」に包まれた世界なのですが、その上を、いのちのみなもとである「神の霊」が動いていたというのです。その意味で、ここには、「これから偉大なことが始まる」という希望が満ちているのです。

その上で、「神は仰せられた」と、おことばひとつで、「光」が創造されます。これこそが最初の創造のみわざです。その後も、「神は仰せられた」ということばで、新しい日が始まり、そのたびに「そのようになった」と記されます。

当時の王のことばには、人を、有無を言わせずに動かす力がありましたが、同じように神のことばは、必ず目的を達成するのです。

そして、神は、その「光を見て良しとされた。神は光とやみとを区別された。神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた」と記されます。なお、ここで「光」は何かの物質のようなものではなく、「やみ」の支配の中に「昼」という時間をもたらすものとして描かれています。

John Walton は、最近、創世記一章に描かれた「創造」は、物質ではなく、この世界の機能 (Function) の創造を描いていると主張し、世界の始まりに関しての解釈に革新をもたらしました。

彼によると、第一日目の神の創造は、昼と夜の繰り返しという「時間」が創造されたということと定義されます。聖書が描く時間がこのときから始まったということは、科学的な意味での地球の始まりに解釈の余地を残すことになります。

使徒パウロは、後に「『光が、やみの中から輝き出よ。』と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせて下さった」(Ⅱコリント4:6) と言いました。ですから、私たちはこの世界にある「やみ」の現実を、恐れる必要はありません。

黙示録22章では「新しい天と新しい地」の世界のことが、「もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない」(5節) と描かれています。つまり、私たちが置かれている時代は、やみに満ちた世界から光に満ちた世界の途上にあるのです。

ところで、二日目に、神は、「大空」を「水と水との間に」造られたとありますが、この日だけは、「神はそれを見て良しとされた」ということばがありません。これは、生き物が住めない世界が、住める世界へと整えられる通過点だからだと思われます。

なお、当時の人々は、この地に雨が降るのは、大空の上に水が貯められているためと考えており、聖書の世界では雨の不足が飢饉に結びつきました。ですから、第二日目は、気象の機能の創造と理解することができます。

そして神は、三日目に、かわいた地を創造し、そこに植物を生じさせました。この日には「神はそれを見て良しとされた」と二回繰り返されますが、それはこの日、地を覆っていた水が「海」に集められ、「茫漠として何もなかった地」が、植物が豊かに育つ地へと変えられるという二段階のみわざがなされたからです。

そして、第三日目は、すべての地の生き物に食物を与える機能の創造と理解することができます。とにかく、この最初の三日間では、「区別」「名づける」ということばが繰り返され、「茫漠として」いる世界に、形が造られ、いのちを育む環境が整えられたと描かれます。

不思議にも、太陽の創造に関する記述は第四日目です。しかも、「大きいほうの光る物」と表現され、名前がありません。エジプトでは、太陽が神としてあがめられていたので、ここでは、第一日目に創造された光地に注ぐ媒体に過ぎない物として敢えて表現されます。

しかも、ここではあえて「創造」の代わりに「造る (do『する』)」という動詞が用いれ、「光る物」の創造の目的を「しるしのため、季節のため、日とため、年のため」と描かれています (14節)。つまり、強調点は、太陽という偉大な天体の創造というよりは、「種蒔きと刈り入れ」(8:22) という季節、人の営みのリズムが整えられたことに焦点があるのです。

第五日目の創造は、海の魚と空の鳥ですが、これは二日目の大空と水の区別に対応します。第六日目は、地の生き物の創造ですが、これも第三日目に地が造られ、植物が芽生えたことに対応します。

興味深いのは、「海の巨獣」や「すべての鳥」に関しては「創造」ということばが用いられる一方、家畜や野の獣という陸地の生き物に関しては、「地が、種類に従って、生き物を生ぜよ」(24節) と命じられていることです。

また25節の動詞も「創造」ではなく、「造る (do)」で、これらの箇所では、地から生まれ、地に依存して生きるということに強調点があります。

つまり、最初の三日間で形が造られ、そして、後の三日間で「何もなかった」(2節)という世界に、天体といのちが満たされているのです。しかも「種類にしたがって」という表現が繰り返され、神ご自身が、何よりも多様性を創造されたと強調されます。

そして、「新しい天と新しい地」は、「もはや海もない」世界です (黙示21:1)。世界の最初は、海ばかりでしたが、神はそこに空と陸とを区別されました。危険が満ちた不毛の世界が、豊かな植物を育てる大地と青い大空に満ちた世界へと変えられました。現在の私たちの世界は、予知できない危険と、神にある安心が共存する世界です。

ですから、この世界に、「茫漠として何もない」と思える状態や、「やみ」に支配されていると思えるときがあったとしても、それを私たちは、新しい恵みの世界が生み出される前触れと見ることができます。この世界に何が起ころうとも、それはやみから光へ、危険から安全へという変化の一プロセスに過ぎません。

しかも、ここでは、その日ごとに、「夕があり朝があった」と記されます。聖書の民にとっての一日の始まりは、日没にありましたが、それぞれの日の創造のわざに、やみから光へというリズムが見られるのです。

そして、私たち今も、神のことばによって創造された世界に、希望をもって目覚めさせていただくというリズムを感じ取ることができます。「やみから光へ」、「茫漠からいのちへ」という希望に満ちたリズムを神は支配しておられるのです。

それゆえに、私たちは、明日のことを思い煩う必要がありません。今日なすべきことを力いっぱいやって、後は、お祈りして寝るだけですが、神にあっての一日は、この夜の休みから始まっているというのです。

2.神がご自身の喜びを分かち合うために造られた人間

人間の創造は、第六日目の中で、野の獣や家畜の後ですが、その時まで、六回にわたって、「神はそれを見て良しとされた」と繰り返されます。そして、その直後に、「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて」(1:26) と仰せられました。

神は、独り言で世界を創造し、自画自賛しているのではなく、「われわれ」と、ご自身が交わりのうちに生きておられることを明らかにされました。それは、父、御子、御霊の三位一体の交わりです。

そして、神は、ご自身の愛の交わりを広げるため、人を創造されました。つまり、神は、ご自身の喜びを分かち合う対象として人を創造されたのです。当時流布していたバビロニア創世記では、人間は、神々が楽しく暮らせるために、下界に奴隷として造られたと記されていました。

しかも、当時の世界では、「王」だけが「神のかたち」と呼ばれましたが、すべての人間が、かけがえのない存在として、神を「表す者」として創造されたというのです。なお、「神のかたち」が、人と動物を区別するような、言語能力、記憶力、想像力、技術力などという「能力」を意味するなら、サタンこそ最もすばらしい「神のかたち」になってしまいます。

しかし、ここでは何よりも、「神のかたち」に創造されたということが、「地を従えよ……支配せよ」(28節) という命令の前提として記されています。私たちは神のかたちに創造されたからこそ、この世界を治めるというクリエイティブな働きができるのです。

ただし、神のかたちに創造された者としての「誇り」は、同時に争いの原因になります。理想が高い分だけ、目障りな人の数が多くなるようなジレンマがあります。つまり、神のかたちに創造された人間は、その最初から、この世界を美しく保つことができるすばらしい存在であると共に、この地に争いを生み出す可能性を持った危険な存在なのです。

それにも関わらず、第六日目の創造の記事の終りには、「神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。」と記されています。人は、過ちを犯す可能性を抱えた、ある意味で不完全な存在でしたが、それにも関わらず、それは、「非常に良かった」と呼ばれる世界でした。

それは、第一に、人は「神のかたち」に造られたからこそ、神との対話ができるからです。28節の二番目の文章では、「神は彼らに仰せられた」と記されていますが、それまではすべて、「神は仰せられた」という独白形式なのに、この箇所だけは、人との対話形式になっています。つまり、神のみことば聞き、神に祈るという生き方の中でこそ、私たちはこの地を平和に治めることができるのです。

第二に、人は、「神のかたち」に創造されたからこそ、互いに愛し合うことができます。27節の二番目の文章では、「神のかたちとして創造し」ということばが、「男と女とに創造し」と言い変えられます。つまり神は、人を愛の交わりのうちに生きさせて、「生めよ。ふえよ」と命じて、地に増え広がることを喜んでおられます。つまり、人は互いに愛し合うことによって世界を治めるように創造されているのです。

人は不完全なままで完全なのです。神は人を、最初から、人の助けなしには生きて行けないひ弱な存在に創造されました。ほとんどの動物は、孤独に耐えかねて気が狂うなどということはないでしょうが、人は、こころもからだも驚くほどひ弱に創造されています。しかし、互いに愛し合うことができるので、生きることができるのです。

私たちは神のみことばを聞き、神に向かって祈ることができるということにおいて、百獣の王であるライオンにまさる強さを持っているのです。それと同時に、神のあわれみなしには生きて行けないひ弱な存在であることを知るからこそ、人に優しくなることができます。その創造の秩序がわかったとき、私は自分の欠点すら喜ぶことができるようになりました。

とにかく、この第六日目で強調されていることは、神はこの地からあらゆる生き物を生じさせ、この地から生える食物だけですべての生き物のいのちが育まれ、弱肉強食もなかったということです。

そして、人間は、神のかたちとして、この世界に神の愛を目に見える形で現し、この世界を平和のうちに治めるための神の代理として創造されたということです。

3.創造のクライマックスとしての安息日

神の創造のみわざのクライマックスは、六日目の人間の創造ではなく、明らかに2章1-3節の第七日目です。「第七日」ということばだけは三回繰り返され、「なさっていたわざ」「なさっていたすべてのわざ」「なさっていたすべての創造のわざ」と同じことばを繰り返し、拡大させています。

しかも、1章1節から2章3節までは「神」ということばが七の五倍の35回記されますが、2章1節から3節に記されているヘブル語の単語数も35です。

第七日目を創造の記事から外すことは、頂上を見ない登山のようなものです。神は、それぞれの日ごとにご自身のみわざを振り返り満足されたのですが、第七日目は、神ご自身が「祝福された」最も豊かな日であり、他の六日間とは分離された「聖なる」日です。それは創造のみわざの結果全体を喜び楽しむ日です。

John Walton はその日を、神が世界の王として就任された祝福の日と呼んでいます。

ところで、第七日目を安息日とするのはこの記事に由来しますが、「休まれた」(シャバット、2、3節) の本来の意味は、「安息」より「停止する」です。出エジプト記での安息日律法の説明では「六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない……しかし、七日目は……あなたはどんな仕事をもしてはならない」(20:9、10) と、「あなたにとっての仕事」から手を引くことが強調されています。

その理由として、「主が……休まれたからである」(20:11) と、この箇所が引用された不思議な説明が加えられています。なお、この際の動詞は、シャバットではなくヌーアハという平穏の状態を指す言葉です。

神が「天と地」を創造したというのは、神がご自身の神殿を創造されたという意味に理解することができます。全宇宙は神の王座、地は神の足台でもあるからです (イザヤ66:1)。

そして七日目は、創造のみわざを停止して、ご自分の創造された「神殿」の中に入られたことを意味します。ダビデは神殿の建設を計画するに当たって「主よ、立ち上がってください。あなたの安息の場所(メヌーアハ)に、お入りください」(詩篇132:8) と述べています。ただ、それは、神がそこに昼寝をするために入るという意味ではなく、アメリカの大統領がホワイトハウスに入るような意味です。

それは、神がこの世界のコントロール・ルームに入られるという意味に理解できます。事実イエスは、38年間も臥せっていた人を安息日に癒されたことを宗教指導者が非難した時、「わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですから、わたしも働いているのです」(ヨハネ5:17) と言われました。

私たちはこの日に、日々の生産活動から離れることによって、神が今も生きて働いておられることを覚え、感謝をささげます。そのときに、すべてのことは、私たちの労働以前に、神によって守られているということがわかるのです。

しばしば、「自分がいなければ……」と言う人によって仕事が混乱します。私はドイツの金融界で働いていました。ドイツでは、夏休みを四週間取ることが義務づけられています。休みを取らない人間は、何か代理の人に見られては困るような仕事の仕方をしているのではないかと疑いをかけられます。

休みは、ひとりひとりの働きが、神の秩序に従って、チームワークによってなされていることを覚える良い機会です。あなたが休んで困るような状態の仕事の仕方こそ反省すべきでしょう。

そして、安息日に積極的になすべきことこそ、何よりも神との対話という「祈り」であり、また礼拝です。それは神の創造のみわざと、私たちの人生に対する導きへの感謝のときであり、山の頂上での喜びのときです。

また、これは、「聖なる会合の日」(レビ23:3) と呼ばれるように、公同の教会で礼拝をする日です。なお、ヘブル書の著者は、「安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです」(4:9) という不思議な表現を用いています。

つまり、現在の安息日も、新しい天と新たしい地での完成の途上にあるのです。現在の礼拝は、天で完成する礼拝の前味です。そのような祝福のときとするのが、礼拝奉仕者に課せられた聖なる責任です。

詩篇92篇は「安息日のための歌」との表題がついています。そこでは、「あなたの御手のわざを、喜び歌います」(4節) ということが中心になっています。「まぬけ者や愚か者」は、主のみわざの大きさやその御計らいの深さを分かりませんが (5、6節)、神のかたちに造られた人間の価値は、生産能力ではなく、神のみわざを感謝し、それを喜び楽しむことにあるのです。そして、新しい天と新しい地は、そのような喜びの歌に満ちた世界です。

この世界は、神の住まい、神殿として創造されました。ですから、私たちは、この世界にどんな悲惨や混乱があっても、この世界の創造主なる神のもとで安らぐことができます。そしてすべての人間は、「神のかたち」として、この世界を治めるために創造されました。

しかも今、神のかたちとしての生き方を忘れた人間のために、神の御子ご自身が人となって、その生き方を指し示してくださいました。この世界は完成に向かっています。私たちの交わりの中に、痛みが生まれたとしても、それは外科手術のようなものです。昔は、現代のような麻酔なしにすべての手術が行われました。しかし、それでも人は、手術を受けられること自体をいのちへの道として受け入れたのです。

あなたの罪のためにキリストは十字架にかかり、あなたを義とし、生かすためにキリストはよみがえってくださいました。今、あなたのうちにはキリストが生きておられます。あなたはキリストに生かされているものとしてこの地で地の塩、世の光として労働します。

そして、キリストの教会を立て上げるためにひとりひとりをここに集めてくださいました。この世界は、神の平和が支配する、「正義の住む新しい天と新しい地」に変えられる途上にあります。

私たちがキリストに顔と顔とを合わせてであうとき、あのときの苦労が報われた……と心から喜ぶことができるでしょう。

完成の約束された働きに加わらせていただけるほど大きな特権はありません。神は、この世界を新しい天と新しい地へと作り変える途上で、あなたを召してくださいました。