マラキ2章17節〜4章「主のさばきを侮る者へのさばき

2014年6月1日

バビロン捕囚からの帰還者は、最初は、感激に満たされて主の宮の再建に情熱を傾けましたが、やがて気力が萎え、再建工事は停滞しました。そのような中で預言者たちが民を励まして、神殿は完成しました。

その際、主はハガイを通して、「わたしは、すべての国々を揺り動かす。すべての国々の宝物がもたらされ、わたしはこの宮を栄光で満たす……この宮のこれから後の栄光は、先のものよりまさろう」(2:7、9) と言われました。また、神殿の礎が据えられた後の日のことを、「きょうから後、わたしは祝福しよう」(2:19) と明言されました。

また、主はゼカリヤを通して、「わたしはシオンに帰り、エルサレムのただ中に住もう。エルサレムは真実の町と呼ばれ、万軍の主 (ヤハウェ) の山は聖なる山と呼ばれよう……今は、わたしはこの民の残りの者に対して、先の日のようではない……わたしはあなたがたを救って、祝福とならせる」(8:3、11、13) と言われました。

両者に共通するのは、再建された神殿が将来、主の栄光に満たされ、エルサレムが神の都として繁栄を回復するということと同時に、神殿の再建に関わった人々に目に見える祝福がすぐに実現すると約束されていることです。

しかし、マラキの時代の人々は、紀元前516年の神殿再建から約50年ぐらいたったときの人々で、自分たちの期待が裏切られたと感じていたのだと思われます。

私たちの教会の中にも、「新会堂が完成したのはよいけれども、期待したほどには、主の栄光を味わうことができなかった……」、「新会堂建設にそれなりに協力したつもりなのに、私の生活はそれほど祝福されているとは言えない……それどころか、神を知らない友人の方が、最近、いやに羽振りが良くなっている……」などという思いが生まれるかもしれません。

しかし、主の祝福は、確かにすぐに実現した部分と、将来、人々の期待をはるかに上回って実現する部分との両面があるのです。マラキの預言は、まさに現代の私たちの教会へのメッセ―ジと言えましょう。

1.「さばきの神はどこにいるのか」

2章17節は原文では、「あなたがたは、主 (ヤハウェ) を煩わした」という厳しい表現から始まります。そして、それは、「あなたがたのことば」によってであると記されます。それに対するイスラエルの民の反応が、「しかし、あなたがたは言う」と描かれます。それは、反省する代わりに、ことばで言い返す姿勢で、それは、「どのようにして、私たちは煩わしたのか」という問いです。

それに対しここでは、まず、「あなたがたは言うことによって」と記されます。それはことばの内容以前に、彼らが「ことば」によって、主を煩わしているということを強調するためです。

そして、その内容が、「悪を行う者もみな主 (ヤハウェ) の心にかなっている。主は彼らを喜ばれる」または、「さばきの神はどこにいるのか」という二つのことで描かれています。

第一の彼らの疑問は、たとえば預言者エレミヤが、「なぜ、悪者の道は栄え、裏切りを働く者が、みな安らかなのですか。あなたは彼らを植え、彼らは根を張り、伸びて、実を結びました」(12:1、2) と嘆いたような現実が、バビロン捕囚が終わった後もなおも続いたからです。

当時も今も、一般的に、この世的な成功を収めていること自体が、主のみこころにかない、主に喜ばれているしるしだと思われていましたが、それなら、主は悪を行なう者こそが、主の喜びの対象と見られていることになります。これは、ですからこのことばは、主には正しい判断をする目が備わっていない、主が盲目であるかのように見ているというしるしになります。

第二は、「正義の神はどこにおられるのか」または、「支配者としての神はどこにおられるのか」とも訳すことができます。悪人が繁栄するのを見る者は、神がこの世界をご自身の正義の基準で支配しておられることを信じられなくなります。

それに対し、主は、「見よ。わたしは、わたしの使者を遣わす」(3:1) と言われます。「使者」とはヘブル語で「マラキ」と記されていますが、それは文脈からしてもマラキ自身のことではなく、神が新たに遣わされる「使者」であることは明らかです。

そしてその使者の働きが、「彼はわたしの前に道を整える」と記されます。それはイザヤが預言した「荒野に呼ばわる者の声」(40:3)、新約ではバプテスマのヨハネを指します( マルコ1:2-4)。

その上で、「あなたがたが尋ね求めている主 (アドナイ) が、突然、その神殿に来る」と言われます。これは先に述べたハガイやゼカリヤの預言が、突然、予期しない形で実現するという意味です。

そればかりか、「あなたがたが望んでいる契約の使者が、見よ、来ている」と、「万軍の主 (ヤハウェ) は仰せられる」と記されます。この「契約の使者」がどなたかは諸説がありますが、その方は、旧約の民が望んでいた「新しい契約」(新約)を結んでくださる方であることは確かです。

たとえばエレミヤ書においては、石の板に記された契約との対比で、主ご自身が、「わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」(31:33) と言っておられます。

ただ、ここでは、「望んでいた契約の使者」は、そのように民の心を新しくする前に、厳しいきよめの働きをするという意味で、「だれが、この方の来られる日に耐えられよう。だれが、この方の現れるとき立っていられよう。まことに、この方は、精錬する者の火、布をさらす者の灰汁のようだ」(3:2) と言われます。

「精錬する……火」とは「銀が炉の中で溶かされるように、あなたがたも町の中で溶かされる」と言われた「激しい怒りの火」が、再びユダの残りの民を襲うということを意味します (エゼキエル22:21、22)。

また「布をさらす者の灰汁」とは強いアルカリ剤で、漂白することを意味します。これも痛みを伴います。

そして、そのことが改めて、「この方は、銀を精錬し、これをきよめる者として座に着き、レビの子らをきよめ、彼らを金のように、銀のように純粋にする」(3:3) と描かれます。

そして、「レビの子ら」が「きよめ」られた結果が、「彼らは、主 (ヤハウェ) に、義のささげ物をささげる者となり、ユダとエルサレムのささげ物は、昔の日のように、ずっと前の年のように、主 (ヤハウェ) を喜ばせる」と描かれます (3:3、4)。これは、彼らのささげものが、ソロモンが神殿を奉献した時のように、主に受け入れられるということを示していると思われます。

そのときの様子がかつて、「ソロモンが祈り終えると、火が天から下ってきて、全焼のいけにえと数々のいけにえを焼き尽くした。そして、主 (ヤハウェ) の栄光がこの宮に満ちた」(Ⅱ歴代誌7:1) と描かれていました。

その上で、改めて主は、「わたしは、さばきのため、あなたがたのところに近づく。わたしは、ためらうことなく証人となり、呪術者、姦淫を行う者、偽って誓う者、不正な賃金で雇い人をしいたげ、やもめやみなしごを苦しめる者、在留異国人を押しのけて、わたしを恐れない者たちに、向かう」(3:5) と言われ、その確かさが、「万軍の主 (ヤハウエ) は仰せられる」と記されます。これこそ、2章17節の「さばきの神はどこにいるのか」ということへの答えでした。

新約の時代においても、「キリストの来臨の約束はどこにあるのか。父祖たちの眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか」という問いかけが生まれています。

それに対し、ペテロは、「主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。主は、ある人たちが遅いと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえってあなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです」と述べています (Ⅱペテロ3:4、8、9)。

主が今すぐに再臨されるなら、あなたには、またあなたの家族や友人たちには、その用意ができているでしょうか。

2.「十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て……わたしをためしてみよ」

3章6節では、まず祝福の望みが、「わたし、ヤハウェは変わることがない。あなたがたは、ヤコブの子らであることをやめることはない」(私訳)と記されます。それは主がアブラハムに、「あなたの名は祝福となる……あなたは多くの国民の父となる……あなたの子孫をおびただしくふやし……幾つかの国民とする」(創12:2、17:4、6) と約束されたことを、守り通してくださるという意味です。

パウロもイスラエルの民の選びに関して、「神の賜物と召命とは変わることがありません」(ローマ11:29) と記しています。神は滅ぼすためではなく、きよめのために懲らしめるのです。

しかし、主が約束を守ってくださると言われても、イスラエルの民は何度も主から離れました。そのことが、「あなたがたの先祖の時代から、あなたがたは、わたしのおきてを離れ、それを守らなかった」(3:7) と描かれます。

その上で、主は今、「わたしのところに帰れ」と、哀れみに胸を熱くしつつ、招いておられます。そして、それに対し、「そうすれば、わたしもあなたがたのところに帰ろう」と約束しておられます。これは、主の栄光が再建された神殿に戻ってくるという意味です。そして、そこに再び、「万軍の主 (ヤハウェ) は仰せられる」という力強い約束を込めています。

ところが、それに対し、「しかし、あなたがたは、『どのようにして、私たちは帰ろうか』と言う」と、また、愚かなことばの応答をするというのです。

そしてそれに対し、主は具体的な、主のもとに「帰る」方法を示してくださいました。

そこでまず主は、不思議にも、「人は神のものを盗むことができようか」と問いかけながら、「ところが、あなたがたはわたしのものを盗んでいる」と断言します。

そしてここでも、「しかも、あなたがたは言う」と、彼らの愚かな問い直しがあると記し、その質問が、「どのようにして、私たちはあなたのものを盗んだでしょうか」と描かれています。

それに対し、主は具体的に、「それは、十分の一と奉納物によってである」とお答えになりました。なお、「十分の一」に関しては、レビ記27章30節で「地の十分の一は、地の産物であっても、木の実であっても、みな主 (ヤハウェ) のものである。それは主の聖なるものである」と明確に記され、続けて、牛や羊の十分の一をどのように主のものとして聖別するかも記されています。

民数記18章21-24節では、民の収穫物の十分の一は会見の天幕の奉仕をするレビ人に与えられるものであると命じられていました。イスラエルの民の信仰の堕落は、レビ人に十分の一をきちんと与えなかったことで、彼らが神殿の奉仕に専念できなくなったところから始まりました。

それは現代では、しばしば、キリスト教会においても、牧師がみことばと祈りに専念できない体制を作ることで、日曜日の礼拝がおざなりになるということを通して現れます。

また、申命記14章22-29節には、収穫の十分の一を主の幕屋のある場所に携えて行って、家族と共に食べることが命じられていました。イスラエルの民はこれを第二の「十分の一」と理解していたとも言われます。現代の場合は、収入の十分の一は何も考えずにそのまま聖別して所属教会の献金としてささげ、また、第二の「十分の一」は、交わりのためや超教派の働きのために知恵を使って用いることと解釈できます。

なお、ヤコブが無一文で母の実家に向かって旅をしたとき、ベテルにおいて主ご自身が現れてくださいましたが、その際ヤコブは、「すべてあなたが賜る物の十分の一を必ずささげます」(創28:22) と約束しました。

つまり、まったく収入のない人は、収入を得た際には十分の一をささげると約束することによって、道が開かれるのです。

ところが、イスラエルの民はこれだけ明確な教えを受けながら、それを実行していませんでした。それに対して主は、「あなたがたはのろいを受けている。あなたがたは、わたしのものを盗んでいる。この民全体が盗んでいる」(3:9) と厳しく叱責されました。

これは恐ろしい表現です。「十分の一」を出し惜しむ人は、神を敵に回し、自分で自分の首を絞めることになっているというのです。

箴言11章24節には、「ばらまいても、なお富む人があり、正当な支払いを惜しんでも、かえって乏しくなる者がある」と記されています。献金を惜しむ人は、必ず、どこかで損をするか、お金を無駄にしてしまっているものです。

一方、十分の一をささげ続けたことを後悔している人の話を、聞いたことがあるでしょうか。ただ、十分の一を誠実に献げていた時は、いろんなことが好循環だったのに、それをやめたとたん、いろんなことが悪循環になり、今は、献金の余裕すらなくなったというような例はないわけではありません。

そのことを主は、なお大胆に、「十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。─ 万軍の主 (ヤハウェ) は仰せられる ─ わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ」(3:10) と言われます。

聖書の中で、主ご自身が「わたしをためしてみよ」と言われる箇所は、ここにしかありません。ですから、まだ、十分の一献金を実行しておられない方は、この神のチャレンジに答えて見るべきでしょう。

そのとき、主があなたのために天の窓を開き、あふれるばかりの祝福を与えてくださると約束をしておられるからです。なお、もちろん、この祝福とは、あなたのすべての願望がかなうという意味ではありません。主が与える祝福は、あなたを「もっと、もっと」という依存症にするようなものではなく、あなたをキリストに似た者へと変えてくださるという大きな枠の中で起こることを忘れてはなりません。

そして、11節では主が与える祝福が、「わたしはあなたがたのために、いなごをしかって、あなたがたの土地の産物を滅ぼさないようにし、畑のぶどうの木が不作とならないようにする。─万軍の主 (ヤハウェ) は仰せられる」と描かれます。これは、現代的には、主があなたの仕事をあらゆる災いから守ってくださるという意味です。

そればかりか、「すべての国民は、あなたがたをしあわせ者と言うようになる。あなたがたが喜びの地となるからだ」(3:12) と閉じられます。ただこれも、十分の一をささげたら、仕事もすべて順調に行き、病気にもならず、周りの人からいつも尊敬されるという意味ではないことは明らかです。

なぜなら、「主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである」(ヘブル12:6) と記されてもいるからです。しかし、そこには、「私たちをご自分の聖さにあずからせ……平安な義の実を結ばせる」(同10、11節) という主の大きな約束が伴っているのです。

3.「正しい人と悪者、神に仕える者と仕えない者との違いを見る」

3章13節からは再び、民のつぶやきが描かれます。その第一は原文で、「かたくなだ(ひどいものだ)、お前たちのわたしへのことばは」と、「主 (ヤハウェ) は仰せられる」というものです。これは、まるで主ご自身が、ご自分の民のことばによって傷ついているかのような表現です。

ところが彼らは例によって、「私たちはあなたに対して、何を言いましたか」と言いながら反省の色がありません。それに対し、主は、「あなたがたは言う」と彼らがつぶやいている様子を描きます (3:14)。

そこで彼らは何と、「むなしい!神に仕えることは……。何の益になろう!神の戒めを守っても、万軍の主 (ヤハウェ) の前で悲しんで歩いても……」(私訳) と言っているというのです。

詩篇73篇2節には、「しかし私にとっては、神の近くにいることがしあわせなのです」という告白がありましたが、それと反対に、彼らにとっては、主に仕えることや、主の前で悲しむことは、神の祝福を獲得するために取引のようなもになってしまっていました。

そればかりか、彼らは、「今、私たちは、高ぶる者をしあわせ者と言おう」(3:15) と言い放っています。なぜなら、「悪を行っても栄え、神を試みても罰を免れる」という現実が見えるからです。それは、2章17節のことばをより強くしたものです。

なお、「神を試みても」ということばは、先の「わたしを試してみよ」という招きと同じ動詞が用いられていますが、ここでは、主の愛を疑いながら、同時に、主を自分の期待通りに動かすような思いで、主に向かっている姿勢を指しています。

彼らは兄弟を嘲り虐げながら、「どうして神が知ろうか。いと高き方に知識があろうか」(詩篇73:11) と言いながら、しかも、「罰を免れている」というのです。そのような不条理を見続ける中で、[正直者はバカを見る……やりたい放題、言いたい放題の生き方の方が幸せだ]と憧れるような思いが湧いてくるというのです。

ところが、そのような中で、「そのとき、主 (ヤハウェ) を恐れる者たちが、互いに語り合った」と、今までと逆の展開が記されます。そして、その内容が、「主 (ヤハウェ) は耳を傾けて、これを聞かれた。主 (ヤハウェ) を恐れ、主の御名を尊ぶ者たちのために、主の前で、記憶の書がしるされた」と、記されます。

つまり、主を恐れ、主をあがめる者への祝福は、すぐに現れないことがあっても、主の「記憶の書」に必ず記録され、やがて報われるというのです。

そして、主の約束が、「彼らは、わたしのものとなる。─万軍の主 (ヤハウェ) は仰せられる─わたしが事を行う日に、わたしの宝となる。人が自分に仕える子をあわれむように、わたしは彼らをあわれむ。あなたがたは再び、正しい人と悪者、神に仕える者と仕えない者との違いを見るようになる」(3:17、18) と記されます。

そのとき、「神に仕えるのはむなしいことだ……」と、つぶやいていた者たちが恥を見ることになるというのです。

そして4章では、主のさばきが明確になる日のことが、「見よ。その日が来る。かまどのように燃えながら。その日、すべて高ぶる者、すべて悪を行う者は、わらとなる。来ようとしているその日は、彼らを焼き尽くし、根も枝も残さない。─万軍の主 (ヤハウェ) は仰せられる」と記されます。

それは、第一に、主をあなどる者たちへの厳しい刑罰の日です。しかし、それと同時に、「その日」に関して主は、「しかし、わたしの名を恐れるあなたがたには、義の太陽が上り、その翼には、いやしがある。あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のようにはね回る。あなたがたはまた、悪者どもを踏みつける。彼らは、わたしが事を行う日に、あなたがたの足の下で灰となるからだ」と、「万軍の主 (ヤハウェ) は仰せられる」(4:2、3) と「主を恐れる者への」明確な祝福の約束、神を侮る者たちとの逆転が描かれます。

そして、最後に、主の命令が、「あなたがたは、わたしのしもべモーセの律法を記憶せよ。それは、ホレブで、イスラエル全体のために、わたしが彼に命じたおきてと定めである」(4:4) と記されます。これは、モーセ五書を何度も読み、暗記し、思い巡らすことの勧めです。私たちは今月から再び創世記に立ち返って、モーセ五書を再び駆け足で味わいます。

主の命令の第一が、良い行いをすること以前に、みことばを記憶することであるというのは不思議なことです。それは、多くの人々が、主の目によいことではなく、自分の目に良いことに熱くなるからでしょう。

その上で主は、「見よ。わたしは、主 (ヤハウェ) の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ」(4:5、6) と約束されます。

イエスによると、バプテスマのヨハネこそが、この再臨のエリヤでした。またそれは、3章1節の「わたしの使者」のことでもあります。

「父の心を子に……子の心を父に」としるされているのは、主の御教えが父から子へと伝えられるからです。信仰の継承を主ご自身が可能にしてくださいます。

なお、主は、「のろいでこの地を打ち滅ぼさないため」と言われますが、預言された救い主は、この地を「のろう」代わりに、ご自身が身代わりに「のろい」を受け、私たちをこの「のろい」から救い出してくださいました。

ただ、それでもすべての人が、主のさばきの座の前に立たされます。そのとき、イエスの救いを受け入れていない者は、それぞれの行いに従って、主のさばきを受けることになります。私たちも主から預かった賜物をどれだけ生かしたかという働きが評価されます。

どちらにしても、「さばきの神はどこにいるのか」と言う者は、激しく後悔することになります。

旧約の最後のマラキ書は、エリヤの再臨の約束で閉じられ、もっとも古い新約の福音書のマルコでは、「バプテスマのヨハネ」の現れから記述が始まります。そして、そこには意外な救い主の姿が描かれています。私たちの罪を裁く代わりに、ご自分が十字架にかかって、私たちの身代わりに「のろい」をうける姿です。

ただ、それを通して、悔い改めに導かれる人もいれば、反対に、「主のさばきはどこにあるのか、どのように生きても同じではないか」と、マラキ書に記されているのと同じようにつぶやく人が出て来ます。

しかし、主のさばきを軽蔑する者は、裁きを受けます。私たちはみな、「正しい人と悪者、神に仕える者と仕えない者との違いを見る」ようになります。ここでの「正しい人」とは、何よりもイエスを救い主と告白して、イエスに従おうとする人のことです。

また、本日の箇所で、「主に帰る」ということが、十分の一献金として現されていることは興味深いことです。多くに人にとって、お金は家族の命の次に大切な物です。だからこそ、私たちの信仰は何よりもお金の使い方に現されることになるのです。主ご自身が「わたしをためしてみよ」言ってくださっているのですから、これを主の祝福を味わう契機とさせていただきましょう。

そして、実現した祝福の一つひとつを感謝し、さらに大きな祝福を主が用意しておられることを待ち望みましょう!