詩篇19篇「天は神の栄光を語る」

2014年元旦

この詩篇の美しさは比類ないものです。何かの説明を加えること自体が、かえって聖霊の語りかけを減じるようにさえ思われます。ここには言葉にならない神の語りかけと、人のことばを用いた神のかたりかけの二つが記され、私たちの「こころ」を創造主に向けさせてくれます。

宇宙は沈黙が支配する世界と思われがちです。すべてが自然の法則の通りに動き、そこに創造主の入る余地はないようにさえ思えることがあります。しかし、考えてみたら、宇宙で声が聞こえないのは、音を伝える空気という媒体が無いからに過ぎません。

詩篇19篇の最初は、「もろもの天は神の栄光を語っている。大空は御手のわざを告げている」と言う表現から始まります。天は語り、大空は告げているというのです。これこそ、創造主を信じるということです。聞こえないところに創造主の声を聴き、見えない所に神のご支配が現されていることを「見る」のです。

「昼は昼へと話を取り次ぎ、夜は夜へ知識を伝える」とは、夜になって今までの世界が暗やみに消えたように見えても、翌日には同じ状態が再び継続して見られるということに、驚異の念を覚えている表現です。それは、夜空の星に関しても同じことが言えます。

私たちの世界では、車が急に動かなくなったり、愛する人が突然いなくなったり、リストラにあったり、会社が倒産したり、などということがあり、明日への不安を抱かざるを得ないことが多くあります。ところが、神の御手のわざは、変わることなく存在し続けています。この継続性こそが、何よりの驚異ではないでしょうか。

たとえば、私はエルサレムでイエスの十字架の道を歩んだとき、そこにある石畳や町並みに二千年前の姿を思い浮かべることはまったくできませんでした。しかし、イエスが歩んだかもしれない海辺で、地中海に沈む夕日を見ながら、主もまったく同じ風景を見ていたのだろうかと思い不思議な感動に包まれました。多くの人はそれを単なる自然現象と見るでしょうが、私たちの日常生活で、何の力も加えずに動き続けるものがどこにあるでしょう。

ところが、聖書によると、昼と夜の繰り返しは、自然ではなく、神の命令が今日から明日へと語り継がれているしるしです。このことを預言者エレミヤは、「主(ヤハウェ)はこう仰せられる。もしあなたがたが、昼と結んだわたしの契約と、夜と結んだわたしの契約とを破ることができ、昼と夜とが定まった時に来ないようにすることができるなら、わたしのしもべダビデと結んだわたしの契約も破られる」(エレミヤ書33章20,21節)と書き記しました。

つまり、昼と夜の繰り返しや季節の規則的な移り変わりは、神が、ご自身の契約を真実に守り通しておられることのしるしだというのです。そのことを人が、「それは地球の自転によって起こっているだけでしょう・・・」と説明したとしても、その規則性自体が驚異ではないでしょうか。つまり、それは「自ら回転して」というより、創造主によって丁度良いスピードで「回転させられている」ということなのです。

かつて、いわゆる天動説を主張した人も、地動説を主張した人も、互いに矛盾しているようであっても、すべてが神の御手にあって起こっているという点では一致していました。現代の人々は、その原点に立ち返る必要があるのではないでしょうか。

その上で、「話もなく、ことばもなく、その声も聞かれないのに、その響きは全地を覆い、そのことばは世界の果てに及ぶ」というのは、何と不思議な表現でしょう。創造主の栄光を語る声、大空に見える主のみわざを告げる声は、人間の耳には聞こえませんが、その響きは全地を満たし、主の創造のみわざを喜び伝えることばは世界の果てに及んでいるというのです。

信仰とは、その声が聞こえるようになることです。決して幻聴の勧めではありません。空気がなくても伝わる声、創造のみわざを喜ぶ声が全地に満ちているというのです。

それにしても、当時の人々は、太陽が天の果てから昇ってきて、天の果てに沈み、夜の間、太陽はどこかに休んでいるように考えました。そればかりか、エジプトではこの太陽を、神としてあがめていました。ところが、その同じ時代に、この詩篇作者は、「太陽のため・・幕屋を」世界の果てに用意された方がいると表現したのです。

しかも、この詩篇作者は、「神が」ということばを敢えて隠し、また「太陽」ということばも一度しか用いずに、その走る姿を、花嫁を迎えに行く花婿にたとえて、そこに喜びの歌を思い浮かべさせます。当時の結婚式では、花婿が一生で一番華やかな格好をして喜び勇んで花嫁の家に迎えに行きました。

太陽もそのように喜び勇んで天を駆け巡っているというのです。  また、「その熱をこうむらないものはない」と、太陽の熱が、何にもさえぎられることなく、全世界に及んでいるという圧倒的な力に目が向けられています。

夜空も太陽も無言のままですが、それらすべてが私たちに何らかの驚異の念を起こさせます。そして、この詩篇作者も、敢えて「神が・・」という主語を省いて、ことばを超えた神秘を味わうようにと招いているのではないでしょうか。

世界は、ことばや理屈が多すぎるのかもしれません。何の説明もつけずに、この世界の驚異を味わうときが必要ではないでしょうか。自分が世界を把握しようとするのではなく、これらの被造物を通して、神が発しておられることばにならないことばを味わって見るべきでしょう。

ただ、日本人の場合、それを味わおうとしても別の価値観に縛られていて、神のことばにならないことばを聞くことの邪魔をしているかもしれません。たとえば、自然ということばがあります。

親鸞はこのことを、「自然(じねん)というは、自はおのずからという、行者のはからいにあらず、然とはしからしむということなり、行者のはからいにあらず」と言っています。つまり、自然とは人間の働きを超えた宇宙全体の法則の世界、因果的、必然的世界を指しています。そして、仏教の悟りとは、たとえば、次のようなことを指しています。

しかし、聖書は、すべては自然ではなく、神の御わざであると語っています。天ではすでに天使の賛美があると告げています。冷たい因果律の現実から世界を見るのではなく、この目に見える世界を通して、神はご自身の創造主としての栄光を知らせようとしているのだと考えるのです。

最初に出てくる「神」ということばも混乱を与える可能性があります。これはヘブル語では神々とも訳される言葉で、必ずしも創造主を示唆しているとは言われません。しかし、日本語の神には聖書が記された世界におけるような超越的、人格的な存在ということ以上に、人々に畏敬の念、畏怖の念を起こさせるすべての存在を指し、それぞれの血縁や地縁ごとに異なった神々が祭られるのは極めて自然なことでした。ですから、天皇を神と呼ぶことは日本語の神の基準からすると極めて自然なことでした。

敢えて言うと、日本語の聖書が、英語のGodを神と言う言葉で訳したことが、明治以降の日本人にとんでもない混乱をもたらしたと言えましょう。少なくとも韓国では聖書の神の事は「ハナニム(最初の方)」と呼び、超越者、支配者という意味があります。韓国で聖書の教えが普及する一方で、日本では日本古来の信仰との混同が起きたのは、この訳語の問題も大きいのかもしれません。

ですから、この神ということばを創造主と読み替えるべきだという新しい聖書翻訳の話もあります。ただそれは、言語学的に問題がありますので、お勧めできない所がありますが、その気持ちも分からないではありません。

最近、何を見、また何を聞いて来られたでしょうか?人間の知恵と力が作った巨大な建物、また、他の人の成功や失敗、またあなたへの賞賛や中傷ばかりに心を向けていると、そこではあなたの存在価値が、「どんぐりのせいくらべ」のようなむなしい比較の中で計られていることに気づくことでしょう。私たちは、人の働き以前に、創造主の御手のわざを、ただ静かに味わうときが必要なのではないでしょうか。

私は、自分の歩みを振り返りながら、「何であんな些細なことに心を苛立たせていたのだろう」と思うことがあります。しかし、問題の渦中にいたとき、それが命を賭けるに値する大問題かのように思え、まわりの人を振り回し、愛の交わりを壊してしまったことがあったのかも知れないと思います。それは、この「こころ」の視野があまりにも狭くなっていたからです。そんなときは、人里離れたところに行って、創造主のみわざを見ながら、この詩篇の朗読するのが良いのではないでしょうか。あなたの心も、全宇宙を造られた創造主の最高傑作です。

ドイツの哲学者インマヌエル・カントは、「ふたつのものがある。それに思いを巡らし心を集中させればさせるほど、この心をいつも新たな驚異と畏敬の念に満たしてやまない。それは私の上の星空と、私のうちにある道徳律である」と言いました。しかし、私たちが夜空を見上げることは何と少なく、また自分のこころの内を見て失望することは何と多いことでしょう。そんな方のため、この詩は記されているのかもしれません。

それにしても、人の「こころ」は不思議なものです。自分を含め、現代の教会は、神の最高傑作ともいえる人間の「こころ」をあまりにも自虐的に見すぎるような気がしました。「こころ」は、確かに、とんでもない罪深い傾向に流れるものでもあります。しかし、その罪を自覚することができるということ自体が、何とも不思議ではないでしょうか。しかも、美しいものに感動し、何とも言えないやさしいことを考えたりもします。「こころ」は、驚くほど繊細で、傷つき易く、同時に、とてつもない強さをも秘めています。その不思議を感じながら、その「こころ」がみことばによって生かされ、方向付けられることの驚異を改めて覚えさせられます。

それにしても、人は、世界の驚異を感じるところから偶像礼拝に走る傾向があります。日本でも、人々は、山や太陽や月や星に向って祈りをささげ続けてきました。それで神は、ご自身のことを、聖書を通して知らせてくださったのです。7-9節では、「主のみことば」が、六種類の表現で、「主(ヤハウェ)の・・」と描かれています。

第一は、「主(ヤハウェ)のみおしえ」です。これは原文で「トーラー」と記され、新約はそれを「律法」と訳していますが、多くの場合は聖書の始まりのモーセ五書を指すものでした。そこには神ご自身の自己紹介と恩知らずな人間への関わりの歴史が記されています。そして、その中心は、天地万物の創造主がこの私を「恋い慕ってくださった」(申命記7:7)ということで、その語りかけには人のたましいを生き返らせる力があります。

第二は「主(ヤハウェ)のあかし」ですが、それは「あかしの幕屋、あかしの箱、あかしの板」を連想させ、神ご自身が民に直接語りかけた「十のことば」を意味すると思われます。それはどんな無知な人も理解できる神のみこころの中心で、まさに、無知な者を賢くする力があります。

第三は、「主(ヤハウェ)のさとし」で、これは具体的な「指示」を意味します。私たちが物事の本質が見えずに迷っているとき、主のみことば発想の転換を示し、私たちの心に感動を呼び起こすことができます。

第四は、「主(ヤハウェ)の仰せ」で、これは軍隊の「命令」などにも用いられることばです。世の王は、しばしば自分の身を守るために家臣を危険に追いやります。しかし、主の命令には私利私欲の汚れから自由な「きよらかさ」があり、私たちの目を明るくすることができます。

第五は、「主(ヤハウェ)への恐れ」で、私たちの生きる道を指しています。「主(ヤハウェ)を恐れることは知恵の初め」(箴言1:7)と言われるように、それこそ永遠のいのちの原点です。

第六は「主(ヤハウェ)のさばき」です。人間の歴史の中で「さばき」は、しばしば、権力者に甘く、社会的弱者に厳しいもので賄賂によって曲げられました。しかし、主は、ご自身がやもめやみなしごの味方であると、繰り返し語っておられます。自分の弱さを覚える者にとって、「主のさばき」こそは「救い」だったのです。

「金にまさり・・慕わしく、蜜よりも・・甘い」(10節)とは、これら六つの表現すべてにかかります。聖書こそ、私たちにとっての最高の宝、こころの最高の栄養、活力なのです。

そして、作者は、自分を「あなたのしもべ(奴隷)」(11節)と呼びつつ、奴隷が主人のことばに絶対服従することとの比較を描きます。人間の主人は、自分の益のために奴隷を用いますが、私たちの創造主は、これによって私たちを「教え」、ご自身との豊かな交わりを築かせ、そこに大きな報いを約束しておられます。

私は神学校で学び始め、涙ながらの感動的な証を聞いたとき、かえって「僕のような生ぬるい信仰者はここにいるべきではない・・」と悩みました。そのときその神学校の創立者がやさしく、「あなたはみことばに感動したことがありますか?」と聞いてくださいました。私は、「もちろんです。それで僕はここに来たのですが・・」と答えました。先生は、「それで十分ではないですか」と言ってくださいました。

私のこころはどんなに暗く、みじめでも、主(ヤハウェ)のみことばは、そこに愛の火を灯すことができます。私たちは、「信仰」を人間的な意志の力かのようにとらえ、主のみことばにある創造の力を過少評価してはいないでしょうか。

「だれが数々のあやまちに気づくことができるでしょう」(12節)とは、「無意識のうち」に犯してしまう神と人とに対する罪とを指していると思われます。人は基本的に、他人の過ちには敏感なのに、自分の「あやまち」に関しては驚くほど鈍感になり、「私は結構良い人間だ・・」と思い込みながら、人を振り回し、傷つけたりしています。作者は、そのような「数々のあやまち」を思いながら、「その隠されているものから 私をきよめてください」と祈ります。

そして、続けて、「このしもべの高慢を抑え 支配させないでください」と祈ります。サタンは、「いと高き方のようになろう」(イザヤ14:3)と願って天から落ちた神の御使いのなれの果てです。また最初の人アダムは、「あなたがたは神のようになる」(創世記3:5)という誘惑に負けて、食べてはならないという言われた木の実を取って食べました。ですから、「すべての罪の始めは高慢である」と言われることはまさに真実でしょう。

それにしても、「より強く、より美しく、より賢く、より豊かに・・」と願うこと自体は決して悪いことではありません。「糸の切れた凧」のようにならないように、しっかりと創造主につかまえていていただくかぎりは、そのような向上心こそ、神と人とのために豊かに用いていただくための成長の鍵となります。

ただ、そこにある落とし穴は、「何のために」という人生の目的を忘れることにあります。向上心が、人を見下し、神を忘れるような方向に向わないように、「高慢を抑え 支配させないでください」と祈る必要があるのではないでしょうか。

そして、私たちがこの根源的な「高慢」の罪から守られるなら、「それで私は完全にされ」るというのです。つまり、自分が、生まれながら、神が創造された世界に包まれ、生かされている存在であることを意識し、また、神のみことばなしには、生きる意味も目的も理解できず、与えられたいのちを真の意味で輝かせることができないことがほんとうに分かるなら、そのときこそ、神が願われる「完全」に達したことになるというのではないでしょうか。

また、そのとき同時に、「私は」、先の無意識の「あやまち」ばかりか、「大きなそむき」という意図的な罪からも「きよめられ」ると述べられます。「そむき」とは、「しもべ」としての生き方を捨てることを意味するからです。私たちは、何としばしば意図的に神に逆らい、また人を傷つけてしまうことでしょう。

実は、心の奥底には、神のみこころにかなったものを望みたくはない自分がるのです。それゆえ、作者は、私たちの心が変えられる根本は、何よりも「高慢」の問題であると断言します。つまり、これさえ神によって取り扱われるなら、人生は変えられるというのです。

そして最後に、「この口のことばと心の思いとが 御前に喜ばれますように」と祈られます。作者ダビデは、別の詩篇で、「神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれ、うちひしがれた心」(詩篇51:7私訳)と述べています。何か大きな働きを成し遂げることよりも、高慢を砕かれた「こころ」こそが、神の御前で喜ばれるものなのです。

私たちには、思い通りにならなかった人間関係や様々な苦しみの中で、「どうして・・」と思うことも多くあることでしょう。しかし、それらがなければ、この私は自分の罪も神の恵みも知ることができなかったように思います。

最後に作者は、「主(ヤハウェ)」という御名を七度目に呼びながら、その方こそが、「私」がより頼むべき「岩」、人生の基盤、また、「私」をこの罪と不条理に満ちた世界から救い出してくださる「贖い主」であると告白します。

ところでイザヤ30章15節には、「神である主(主なるヤハウエ)、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。

『立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて信頼すれば、あなたがたは力を得る』

主は、地上の権力者ではなく、彼らの主、イスラエルを選んでおられる聖なる方に「立ち返る」ことを命じます。それは、回心を迫る招きであり、放蕩息子の帰還を待つ父親の気持ちに通じます。

「静まる」とは、「休む、憩う」(28:12)とも訳せることばで、全能の神の御翼の陰に安らぐことの勧めであり、放蕩息子が父親の抱擁に身を委ねる姿でもあります。そして、そうすることによって、彼らの神が、彼らを救ってくださるというのです。

続けて、「落ち着いて」とは、まわりの状況に振り回されずに気持ちを鎮めることであり、「信頼する」とは、信仰というより望みをかけるという意味です。そうすると、「あなたがたは力を得」て、地上のどんな横暴な者にも立ち向かえるというのです。ところが、イスラエルの民はそれを望まず、絶望的な状況から逃亡することばかりを考えていました。

律法の書に、主に信頼する者に対して、「あなたがたの五人は百人を追いかけ、あなたがたの百人は万人を追いかけ、あなたがたの敵はあなたがたの前に剣によって倒れる」(レビ26:8)と約束されている一方で、主のさばきは「ひとりが千人を追い、ふたりが万人を敗走させる」(申命32:30)と記されていました。

なお、「立ち返って静かに・・・」とは、決して現実逃避ではありません。ヒゼキヤ王は、アッシリアの使者から受け取った脅迫状を、「_主_の前に広げ」(イザヤ37:14)、全能の主に信頼する祈りをささげました。その時、主はイザヤを通して希望を語ってくださったばかりか、寝ている間に、「_主_の使いが出て行って、アッシリアの陣営で、十八万五千人を打ち殺し」(同37:36)、主をそしったアッシリア王はその子供に暗殺されたのでした。

私たちも同じようにして、主にある勝利を体験させていただくことができます。世の人々の間でも、しばしば、忙しく動き回るよりも、じっくり腰を落ち着け確信に満ちた行動で道が開かれるという原則が尊重されますが、私たちの場合は、それ以上に、すべてを支配される神が、私たちのために働いてくださることを期待できるのです。

ヨーゼフ・ハイドンによるオラトリオ「天地創造」の第一部の終わりの合唱ではこの詩篇の1,2節が高らかに歌われていますが(「讃美歌」74番、「聖歌」116番参照)、古来、多くの人々がこの詩に慰めれ、この詩を歌にしてきました。自意識過剰になる自分を分析するまえに、ただこの詩を、空を見上げつつ、歩きながら、また野に臥せりながら唱えてみてはいかがでしょう。

また、同時に、自分のこころにかつて響いてきたみことばを、ひとつでも、二つでも、ただ心の中で繰り返し、味わってみてはいかがでしょう。神は御手のわざと御口のことばによって、あなたに今も語り続けておられます。