ハバクク1章1節〜2章5節「神の真実に応答する者は生きる」

2013年12月29日

新約聖書の教えの核心に、「義人は信仰によって生きる」というみことばがありますが。それはハバクク書2章4節からの引用で、新約では教理の核心と呼ばれる三つの箇所で引用されます。

第一は、ローマ人への手紙1章17節で、「神の義(真実)」が私たちに信仰を生み出し、「信仰に進ませる」という文脈で引用されます。

第二は、ガラテヤ3章11節で、「律法の行い」によって「生きる」ことができるという教えとの対比を示すために引用されます。

第三はヘブル10章38節で、試練の中で「恐れ退く」こととの対比で、「忍耐」を教えるために引用されます。

この教えは「信仰義認」というプロテスタント信仰の根幹と呼ばれますが、多くの誤解も生んできました。たとえば、「神を信じればどんなに悪いことをしても、その行いが問われることがない」という、不道徳を許容する教えとして誤解されることもありました。

また反対に、神の救いは人間の側の信仰の結果として与えられると誤解され、「こんな弱い信仰で、救われるのだろうか」などという疑念を生み出すことがありました。

新約聖書が記される前の初代教会の人々は、旧約の文脈を前提に福音を理解しましたが、現代は旧約の文脈を無視してこのことばが独り歩きしてしまいます。それを正す意味でも、本日の箇所は、まさに私たちを信仰の核心へと導くものと言えましょう。

1.「いつまで、聞いてくださらないのですか……なぜ……ながめておられるのですか」

この書の最初はナホム書と同じく「宣告」ということばから始まります。これは本来、「重荷」という意味があります。それはエルサレムを中心としたユダ王国や横暴なバビロン帝国の上に重くののしかかるもので、そのさばきのことばが実現するという意味が込められます。

続けて原文では、「それは、預言者ハバククが見たもの」と記されます。多くの預言書では最初から著者が「預言者」とは描かれませんが、ここでは初めに「預言者」として紹介されます。

この書は、ダビデが築いた王国がバビロン帝国によって滅ぼされる少し前に記されたと思われます。当時のエルサレムの政治は混乱を極めていました。この少し前、ユダ王国は、敬虔な王の代表者ヨシヤのもとで真の神に立ち返り、一時的な繁栄を謳歌しますが、紀元前609年には、エジプト、アッシリヤ連合軍とバビロニアとの戦いに巻き込まれ、カナンを北上してきたエジプト王ネコに戦いを挑んで戦死します。

その後のエルサレムの政権は、南のエジプトと北のバビロニアを両天秤にかけるような不誠実な政策を続けます。目に見えない神よりも目に見える人間の顔色を伺い、強い者には卑屈になり、弱い者には傲慢にふるまうような政治が行なわれていました。

ただ同時に、神を信じる者にとっても、神のご計画が見えなくなり、混乱を極めました。偶像礼拝を強要したアッシリヤ帝国をバビロン帝国が滅ぼしてくれたことは良かったのですが、バビロン帝国もアッシリヤに勝るほどに横暴な国でした。

そのような中で預言者エレミヤなどは、神がそのバビロン帝国を用いて神の民イスラエルを懲らしめ、謙遜にすると語り続けていました。イスラエルの神ヤハウェが、異教の乱暴な国を用いて、ご自身の都エルサレムを滅ぼそうとしておられるなどということを、誰が信じることができましょう。

現代の日本でも、多くの信仰者は、現在の政権が日本を破滅に導くのではないかと危惧していますが、このときは、何と、神ご自身がご自分の民を滅ぼそうとしておられたというのです。

当時のエルサレムでは、バビロン帝国につくか、エジプトにつくかで国論が揺れていましたが、神のみこころはそれをはるかに超えるものでした。私たちも現在、将来の不透明感が増す中で、「これこそ国を滅ぼす政策だ!」などと、必死に反対を唱えたい誘惑に駆られますが、神は別の視点を求めておられるのかもしれません。右でも左でもなく、今ここで、私たちがどのような思いで生きるかが問われています。

2節は「いつまでなのですか。主 (ヤハウェ) よ」というハバクク自身の叫びから始まり、「私が助けを求めて叫んでいますのに、あなたは聞いてくださらない……『暴虐』と……叫んでいますのに、あなたは救ってくださらない」と、主の沈黙を非難するように訴えています。

彼はエルサレムの中に支配者たちの「暴虐」を見て、必死に神の助けを求めて叫んでいるのですが、いつまでたっても聞いてくださらない、救ってもくださらないと思え、絶望的な気持ちになっています。

ただ彼は、それでも諦めることなく主に訴え続けます。それこそが感動的です。残念ながら、多くの人々は、ほんの少し祈っただけで、「神は何も私の訴えを聞いてくださらない……」と諦めることがあるからです。

ハバククは神の沈黙に耐えながらも、「なぜ、あなたは」と積極的に神に疑問をぶつけながら、「私に、わざわいを見させ、労苦をながめておられるのですか」と訴えています (3節)。神ご自身がわざわいを放置し、「労苦」をただ上から「ながめて」いるだけだというのです。

その上で、「暴行と暴虐は私の前にあり、闘争があり、争いが起こっています」と訴えます。ここでは先にあった「暴虐」の同義語が、「暴行」「闘争」「争い」と描かれています。

そして、ハバククは引き続き、「それゆえ、律法は眠り、さばきはいつまでも行われません」(4節) と訴えます。「暴虐」が放置されている結果、「律法」と呼ばれる神の御教えが「眠り(麻痺し)」、機能しなくなってしまいました。ここで「さばき」と訳されることばは、神の正義に従った政治を指し、それが「いつまでも(まったく)、行われない(出てこない)」と嘆いているのです。これは神の正義がまったく見えなくなっている現実を嘆いたことばです。

また、それに続く文章は、「悪者が正しい人を取り囲んでいます。それゆえ、さばきが曲げて行われています」と訳した方が良いと思われます。残念ながら、新改訳ではこの節での二番目の「それゆえ」が訳されていませんが、ここでは「正しい人」が悪者に取り囲まれて見えなくなっているので、その必然的な結果として、本来あるはずの神の正義の基準に従った政治(さばき)が曲げて行われる(出てくる)というのです。

そこでは、「正しい人」、つまり、神の前に誠実に生きようとする人々のことばが、真の神を忘れた人々(悪者)の陰に完全に隠されてしまって、誤った政治や裁判がなされてしまっているというのです。神の国の中心であるはずのエルサレムにおいても、「正直者がバカを見る」ような現実があるため、神の御教えを無視する不法がますますはびこるようになっていました。

「いつまで、主 (ヤハウエ) よ、あなたは聞いてくださらないのですか……」「なぜ、あなたは私に、わざわいを見させ、労苦をながめておられるのですか……」という祈りは、不条理な苦しみにあったヨブの訴えに通じます。私たちは主に問いかける前に、しばしば自分で答えを出そうとしてはいないでしょうか。そこから真の祈りは生まれません。

2.「見よ。わたしはカルデヤ人を起こす……彼らは、自分の力を自分の神とする者」

そのような疑問に対し、神からの答えが5-11節に記されます。

まず主は、「異邦の民を見、目を留めよ。驚き、驚け。わたしは一つの事をあなたがたの時代にする」と言われます。主はご自身の計画を知らせる前に、現実の世界の動きを、あるがままに「見よ」、また「目を留めよ」と命じ、その上で「驚き、驚け」と、常識をひっくり返すことが起きることを示唆しつつ、それを起こすのは主ご自身であると強調します。

つまり、ハバククの祈りは神に届いていたのですが、神の答えはあまりに意外なので、「それが告げられても、あなたがたは信じまい」と言われます。

そして主は、突然、「見よ。わたしはカルデヤ人を起こす」と言われます。これはバビロニアの中心部族で、紀元前626年にナボボラッサル王がアッシリヤ帝国からの独立運動を起こしたことに始まります。彼らは紀元前18世紀のハムラビ以来、アッシリヤ王国とメソポタミアの覇権を争い続けてきました。

そしてこのときナボボラッサルは、アッシリヤからの独立を勝ちとるとともに、その後、北のメディア王国との連合で、紀元前612年にはアッシリヤ帝国の首都ニネベを滅ぼし、紀元前609年にはカルケミッシュの戦いでアッシリヤとエジプトの連合軍を打ち破り、その後、アッシリヤという名は歴史に二度と出て来なくなります。

そのたった50年余り前にアッシリヤはエジプト王国をも滅ぼし、世界最初の世界帝国となっていたのですから、この変遷は誰に目にも、信じがたい動きでした。

そして、このカルデヤ人の国の事が、「強暴で激しい国民だ」 (6節) と描かれます。神がご自身のさばきを実現するために立てた国は、まるで暴力団のような集団だったというのです。

そして、「これは、自分のものでない住まいを占領しようと、地を広く行き巡る。これは、ひどく恐ろしい。自分自身でさばきを行い、威厳を現す」(6、7節)とあるように、自分自身を神の立場において他国を次々と支配します。

そしてその軍隊の様子が、「その馬は、ひょうよりも速く、日暮れの狼よりも敏しょうだ。その軍馬は、はね回る。その騎兵は遠くからやって来て、鷲のように獲物を食おうと飛びかかる」(8節) と描かれます。「ひょう」は速い動物の、「日暮れの狼」は敏捷な動物の代名詞でした。また軍馬と騎兵が襲い掛かってくる様子が、まるで「鷲」のような素早さと獰猛さがあるというのです。

そして彼らの行動が、「彼らは来て、みな暴虐をふるう」 (9節) と描かれますが、これは、エルサレムの指導者の「暴虐」をさばくために、神ははるかに上回る「暴虐」を行なう民を起こすということを意味します。

また続けて、「彼らの顔を東風のように向け、彼らは砂のようにとりこを集める」と記されますが、「東風」とは干ばつをもたらす砂漠から吹き付ける風です。バビロン帝国はアッシリヤ帝国に習い、自分の支配地の住民を捕囚として捉えて他国に移住させ民族のアイデンティティーを失わせました。彼らの後にはぺんぺん草も生えません。

続けてバビロン帝国の傲慢さが、「彼らは王たちをあざけり、君主たちをあざ笑う。彼らはすべての要塞をあざ笑い、土を積み上げて、それを攻め取る」(10節) と描かれます。彼らは他国を攻め取ることに何の躊躇も感じないというのです。

しかし同時に、彼らの危うさが、「それから、風のように移って来て、過ぎて行く。自分の力を自分の神とする者は罰せられる」と描かれます。厳密には、最後の言葉は「罪と定められる」と記されており、神のさばきが婉曲的に示唆されているに過ぎません。神のさばきが見えないからこそハバククは嘆いているのですから。

なお、ここではバビロン帝国の特徴が「自分の力を自分の神とする」(11節) と描かれています。この「力 (コーアハ)」は、しばしば人間的な能力を指します。詩篇62篇10節には「暴力に信頼するな。略奪をむなしく誇るな。強さ(力、ハイル)が結果を生んでも、それに心を留めるな。神は、一度告げられた。二度、私はそれを聞いた。力 (オーズ) は神のもの。主 (ヤハウェ) よ。慈愛(ヘセド)もあなたのもの」と歌われています。

ここでの「力 (オーズ)」は神的な力を意味することばで、それは人間の目には、しばしば隠されています (3:4)。それに対し、バビロン帝国が誇る「力」は、サムソンが自分の腕力を誇ったようなものと同じ性質のもので、神の前には無に等しいものに過ぎません。

3.「なぜ、裏切り者をながめておられるのですか……なぜ黙っておられるのですか」

それに対しハバククは、12節でさらに主に向かって訴えて行きます。まず彼は、「主 (ヤハウェ) よ。あなたは昔から、私の神、私の聖なる方ではありませんか」と主をたたえますが、ここでは「あなたは」ということばが特別に強調されています。

そして、そして続く、「私たちは死ぬことはありません」とは、「カルデヤ人の手によって私たちが滅びることはないはずでは……」(1:17参照) という期待を込めた意味で用いられています。

そして引き続き、カルデヤ人を「彼」と呼びながら、「主 (ヤハウェ) よ。あなたはさばきのために、彼を立て、岩よ、あなたは叱責のために、彼を据えられました」と述べます。ここでも「さばき」とは神の正しい支配を実現することを指します。

そこには、神はご自身の計画を進めるためにカルデヤ人を立て、あくまでもイスラエルの民を滅ぼすためではなく、「叱責する」ためにカルデヤ人を据えられたはずではないですか、あなたの計画は「岩」のように揺るがないのですから、という意味が込められているのだと思われます。

ハバククは、カルデヤ人はあくまでも神の道具に過ぎないと認めています。

ところが彼は続けて、「あなたの目はあまりきよくて、悪を見ず、労苦に目を留める(ながめる)ことができないのでしょう」と述べますが、ここには皮肉が込められています。それは、3節で神が私に「わざわいを見させ、労苦をながめておられる」と述べたのと同じ言葉を用いながら、主は真の意味では「悪を見てはいない」、「労苦をながめてはいない」と訴えているからです。

神はまさに、この世の悪にも私たちの労苦にも、正面から向き合おうとしてはくれないと訴えているのです。そしてその原因が、「あなたの目はあまりにもきよい」ためと皮肉を言っています。

続けてここでも、「なぜ」ということばを強調しながら、「なぜ、裏切り者をながめておられるのですか」(13節) と訴えます。これは3節の「なぜ」と同じように、神の傍観者的な態度を責める意味が込められています。

しかも4節にあった「悪者が正しい人を取り囲み」と記されているのと同じ「悪者」「正しい人」ということばを用いながら、「悪者が自分より正しい者を飲み込む」のを、主は「黙って」、「ながめている」だけだと非難するように訴えています。

神は、ご自身の町エルサレムにおいて「悪者が正しい人を取り囲」んでいる現実に心を痛めていたはずですが、それをさばくために、悪さの程度においてはるかに激しいカルデヤ人を用いるということが、ハバククには到底納得がゆかないというのです。

それは、まるで広域暴力団の助けを得て、目先の不正を正そうとするようなものです。

14節は、神がご自身のかたちに創造されたはずの人間を、「海の魚」や「這う虫」のように軽く扱っているという意味を込めて、「あなたは人を海の魚のように、治める者のないはう虫のようにされます」と神に訴えています。

そしてカルデヤ人を「彼」と呼びつつ、その横暴さを、「彼は、このすべての者を釣り針で釣り上げ、これを網で引きずり上げ、引き網で集める。こうして、彼は喜び楽しむ。それゆえ、彼はその網にいけにえをささげ、その引き網に香をたく。これらによって、彼の分け前が豊かになり、その食物も豊富になるからだ」(15、16節) と描きます。

バビロン帝国は、諸国の民を攻撃することを、魚を採るように楽しんでいました。そして、自分たちに豊かさをもたらす「網」や「引き網」を偶像として大切に扱い、それにむかって「香をたく」ようなことをしていました。

それに対しハバククは、「それゆえ、彼はいつもその網を使い続け、容赦なく、諸国の民を殺すのだろうか」(17節) と、神が沈黙している中で、バビロン帝国がますます横暴を働き、諸国の民を殺し続けるのだろうかと、問いかけます。

それは、神が沈黙しておられることで悲惨が世界中に広がると、神に抗議している姿です。

4.幻を板の上に書いて確認せよ……正しい人はその信仰によって生きる

2章の初めでは、突然、「私は、見張り所に立ち、とりでにしかと立って見張り、主が私に何を語り、私の訴えに何と答えるかを見よう」と記されます。彼は、「見張所」や「とりで」にしっかりと立ちながら、「見張り」、また「見る」というのです。

これは主の答えを期待し、そのタイミングは主の主権に属することを認め、ひたすら待ち続けるという意志の表明です。

そして、その内容は、新改訳の脚注にあるように、「何を主が私に語り、何を私が返すのか、私の訴えに関して」と訳すことができます。ハバククは、あくまでも、主との対話を待ち望み続けているのです。

そして、ここで、「主 (ヤハウェ) は私に答えて言われた」(2節) という大きな転換点が記されます。そして、その答えの内容が、「幻を板の上に書いて確認せよ。これを読む者が急使として走るために」と記されます。

「幻」は多くの英語訳で Vision と訳されます。これはこの書の最初で、「ハバククが預言した(見た)」というのと同じ語源のことばで、「啓示」とも訳されます。ここでは、ハバククが主から見せられたこの書の啓示全体を指していると思われます。

それを「書き記して確認する」というのは、法手続きの二つの二段階を意味し、誤解のないように明確にすることを意味します。

それはこの使信に出会ったものが、それを伝えるために「走る」ことができるためだというのです。

そして3節の最初は、「なぜなら、この啓示はまだ定めの時を待っているのだから」と訳すことができます。つまり、これは先に「書き記して確認せよ」と命じられた内容が、実現まではまだ間があるので、誤解のないように明確に書き記しておく必要があるというのです。

しかも、その内容は、「終わりについて告げる」ものと記されますが、これは世の終わりという以前に、「主 (ヤハウェ) の日」と基本的に同じく、「地は、主 (ヤハウェ) の栄光を知ることで満たされる」(2:14) と言われる、バビロン帝国に対する神のさばきが現されるときを指しています。

とにかく、この「幻」(啓示)は、「まやかし」ではなく、その実現を、ひたすら待ち続けるべきものです。人間の目には、「いつになったら実現するのか……」と思えたとしても、神の視点からは、「それは必ず来る、遅れることはない」という内容なのです。

4節では最初に突然、「見よ。彼の心はうぬぼれていて、まっすぐでない」と記されます。これは1章4、13節に記された「悪者」、真の神を忘れた者、または「自分の力を自分の神とする者」のことを指していると思われます。彼らの心の特徴は、「うぬぼれ」にあり、真の神を「まっすぐに」見上げるということがないことに現されています。

一方、その反対に、「しかし、正しい人はその信仰によって生きる」と描かれます。「信仰」の原語は、「エムナー」で、アーメンと同じ語源に由来することば「真実」と訳した方が良いかもしれません。

興味深いことに七十人訳(ギリシャ語)では、「わたし(神)の真実によって」と記されています。ですから、これは「信仰の力によって」とか「行いではなく信仰によって」などという意味では全くありません。

これは、目に見える現実や、すぐ先に待っている現実が、人間の目には、神の不在、神の無力さを示すようにしか思えないような中で、イスラエルの神ヤハウェが確かに、全地の支配者であり、正しく世界を治めて(さばいて)おられるという、神の真実に信頼して歩む者こそが「正しい人」であり、神に喜ばれる人であるというのです。

信仰の父アブラハムは、世継ぎが生まれない時に、主 (ヤハウェ) から「あなたの子孫は星のように増え広がる」というビジョンを示されて、そのことばを「アーメン」と受け止めました。それに対し、「主はそれを彼の義と認められた」(創世記15:6) と記されています。

つまり、私たちの信仰とは、神がご自身の真実をみことばを通して示してくださったときに、それを真実に受け止めるという心の応答なのです。

しかも、ここでは先の「私たちは死ぬことはありません」(1:12) を言い換えるように、「正しい人は……生きる」と断言されます。

当時のエルサレムの支配者たちは、目先の政治判断の是非ばかりを論じて、神の真実なご支配を忘れていました。私たちも目先の政策論争に心を奪われて、今ここにある神のご支配、いまここで求められている誠実さを忘れるようなことがあってはなりません。

たとえば、しばしば現政権の政策に反対する人が、指導者を悪魔的な人間であるかのように罵倒している姿を見ることがありますが、それは神の真実に応答した生き方とは決して言えません。

人間的には実現が遅いと思われる神からのビジョン、ときには「まやかし」とさえ言われるような神からのビジョンが必ず実現するということを信頼し、ここで誠実を尽くす者こそが、真の意味で「生きる」ことができるのです。

そして、5節では「心がうぬぼれている」人の状態が、「実にぶどう酒は欺くものだ。高ぶる者は定まりがない。彼はよみのようにのどを広げ、死のように、足ることを知らない。彼はすべての国々を自分のもとに集め、すべての国々の民を自分のもとにかき集める」と描かれます。

これは「正しい人」と対極にある生き方です。当時のウガリト神話にはモトという死の神が描かれていますが、彼は「足ることを知らない」貪欲な神です。そして、エルサレムの支配者も、カルデヤ人も、そのような死の神に操られた生き方をしているというのです。

なお、最初の「ぶどう酒は欺くものだ」というのは唐突な感じがしますが、「足ることを知らない」生き方の基本はアルコール依存症に似ています。

私たちが生まれながら罪人であるというのは、私たちが生まれながら何らなの依存症患者であると言い換えることができます。「アル中!」などと人をバカにしている人は、実は同じ病を抱えている可能性があります。

主が現代の私たちに示してくださっている「幻(ヴィジョン)」とは、神の平和(シャローム)に満ちた世界の実現です。神のひとり子は、その実現のために私たちと同じひ弱な人間になってくださいました。

イエスの生き方は、「自分の力を自分の神とする」カルデヤ人の生き方と何と対照的でしょう。サタンはイエスを十字架にかけたとき、自分たちの勝利を大喜びしたことでしょう。しかし、それこそがサタンの大敗北の始まりでした。

この世の権力者や身近な人々が私たちを苦しめる時、それは彼らがまさに墓穴を掘っているときです。神の目は節穴ではありません。神は私たちの労苦に確かに目を留めておられます。

主の真実に応答する者は必ず「生きる」のですから。