ホセア4章1節〜6章3節「主を知ることを切に追い求めよう」

2012年11月18日

私は昔、浄土真宗に興味を持ったことがあります。その開祖親鸞は、自分の心の醜さや弱さに正面から向き合った結果、自分の修行の力によって悟りを開くことは無理であるということに気づき、ただ御仏のあわれみにすがるしかないという結論に達しました。その際、どんな罪人をも救ってくださる方が、阿弥陀仏として紹介されます。しかし、その方は歴史上の人物としては記録されてはいませんし、どのような方であるかもほとんど分かりません。浄土真宗では阿弥陀仏の実在性よりも、私たちのうちに救いを求める心が芽生えていること自体が大切なのだと説かれます。

そしてこのように日本の宗教では多くの場合、私たちを救ってくださる方がどのような方であるかよりも、人間の心に芽生えた信心の方に焦点が与えられます。そこから「いわしの頭も信心から」などという発想が生まれます。何をまたどなたを信じるかの大切さが脇に追いやられることから、日本的な混合宗教が生まれてきます。

そして、かつて混合宗教を作って自滅した国が北王国イスラエルです。そのような民に対して神は、何よりも、「主を知ること」こそが、信仰にとって何よりも大切なのだと強調します。主はときに、圧倒的な恵みによって、また反対に、圧倒的な苦しみを通して、ご自身がどのようなお方であるかを私たちに示してくださいます。

1.「彼らはわたしの民の罪を食いものにし、彼らの咎に望みをかけている」

4章は原文では「聞け、主(ヤハウェ)のことばを。イスラエルの子らよ」ということばから始まり、「主(ヤハウェ)はこの地に住む者と言い争われる」と言われながら、イスラエルの地における問題が、「この地には真実(エメット)がなく、誠実(ヘセド)がなく、神を知ることもないからだ」と描かれます。

「真実」、「誠実」、「神を知ること」は、神のかたちに創造された者に何よりも求められている生き方です。そして、これら三つの要素こそがこのホセア書のテーマであり、特に、「主を知る」ということばは、6章3節でも繰り返され本日の箇所の核心です。

当時の北王国イスラエルの問題は、ヤロブアム一世がソロモンの息子レハブアムからこの国を独立させたとき、自分の支配下の人々が南王国ユダの首都エルサレムの神殿に礼拝に行く必要をなくすために、金の子牛を二つ作り、北ノダンと南のベテルに勝手な礼拝の場を作ったことに始まります。

そして特にベテルではレビの子孫ではない者を祭司に任命し、彼らにベテルの祭壇でいけにえをささげる勝手な礼拝の形を作らせました。そのため北王国イスラエルではその最初の段階から、神のみこころに真っ向から反する、カナンの宗教と混合したような礼拝の形が発展して行きました。

彼らは神の望む礼拝ではなく、自分が満足できる礼拝の形を発展させて行きました。そのような中で、イスラエルの民は神のみこころをますます見失って行ったのです。

そして、「真実」、「誠実」、「神を知ること」との反対の現実がこの地に見られることが、「ただ、のろいと、欺きと、人殺しと、盗みと、姦通がはびこり、流血に流血が続いている。それゆえ、この地は喪に服し、ここに住む者はみな、野の獣、空の鳥とともに打ちしおれ、海の魚さえも絶え果てる」(4:2、3)と描かれます。

そして、4節の初めは上記の悲惨な現実を前提として、主ご自身が、「誰にもとがめさせてはならない。誰にも責めさせてはならない」と言っておられるという意味に訳すことができます。

そして、主はその上で、「しかし祭司よ。わたしはあなたをなじる」と言われます。イスラエルの民の中で、自分たちの道徳的退廃に心を痛め、それを正そうとする人々が出てきたことでしょうが、神は、その退廃の根本的原因は祭司にあるということを指摘します。

そして主は祭司たちに向かって、「あなたは昼つまずき、預言者もまた、あなたとともに夜つまずく」(4:5)と言っておられますが、これは彼らが預言者と共に自分たちがどこに向かっているかをまったく知ってはいないという現実を指しています。

そして主は、「わたしはあなたの母を滅ぼす」と言われますが、これは神がイスラエル民族を滅ぼすという意味です。そしてその理由が、「わたしの民は知識がないので滅ぼされる」(4:6)と記されます。

祭司の堕落によって、イスラエルの人々が神を知ることができなくなりました。彼らは「知識がない」ために、神の怒りを買うようなことを平気で行いました。無知は言い訳になりません。それは特に祭司に当てはまります。神は彼らに向かって「あなたが知識を退けたので、わたしはあなたを退けて、わたしの祭司としない。あなたは神のおしえを忘れたので、わたしもまた、あなたの子らを忘れよう」と言われます。

忘れることが罪であるというのは、たとえば、第二次大戦の悲劇や原爆の悲惨さを忘れること自体が罪であると考えれば誰でもわかることでしょう。

そして、7節では「彼らはふえるにしたがって、ますます、わたしに罪を犯した」と記されますが、これは北王国イスラエルがヤロブアム二世のもとで全盛期を迎え、宗教活動が盛んになったことの結果を指します。そのような中で祭司の数もどんどん増えて行って、神の怒りを買うような礼拝の形をどんどん発展させてゆきました。

それに対し神は、「わたしは彼らの栄光を恥に変える」と、彼らの繁栄をたちどころに滅ぼすことを警告します。

そのような中で8節の「彼らはわたしの民の罪を食いものにし、彼らの咎に望みをかけている」という表現は、当時の祭司たちの問題を赤裸々に表しています。人々は罪を犯したときに、罪を償うためのいけにえをささげますが、祭司たちは人々がより大きな罪を犯して、より大きないけにえをささげてくれることを密かに望んでいたというのです。それは、「罪過のためのいけにえ」の肉は祭司のものとなりますから、彼らは豊かになります。

祭司たちは人々の「咎」によってより裕福になることができました。「だから、民も祭司も同じようになる」(4:9)とは、祭司たちは民の堕落から利益を得るので、祭司も民もいっしょになって堕落することを指します。それに対して主は、「わたしはその行いに報い、そのわざの仕返しをする」と、彼らの堕落に対してさばきを下すと言われます。

「彼らは食べても、満たされず、姦淫しても、ふえることはない」(4:10)とは、彼らが「もっと、もっと・・」という依存症の症状になっていることを意味します。「主(ヤハウェ)を捨てて、姦淫を続け」ては誰も満足を得られません。

そして、依存症の典型がアルコール依存症なので、「ぶどう酒と新しいぶどう酒は思慮を失わせる」(4:11)と記されます。

12,13節ではその混合礼拝の様子が、「わたしの民は木に伺いを立て、その杖は彼らに事を告げる。これは、姦淫の霊が彼らを迷わせ、彼らが自分たちの神を見捨てて姦淫をしたからだ。彼らは山々の頂でいけにえをささげ、丘の上、また、樫の木、ポプラ、テレビンの木の下で香をたく。その木陰がここちよいからだ」と記されます。

日本でも本来まったく違った教えのはずの仏教と神道が同居している礼拝施設が数多くあります。本来、仏教は人生の空しさを説き、様々な欲望から自由になる道を教えるはずです。一方、神道は、人生の暗い部分に囚われず、人間の内側に隠された生命力や願望を徹底的に肯定します。

どちらも真理の一面をついているようですが、これを調和させようとすると、それをできる自分の価値観を肥大化させることになり、そのときの状況によりただ、「ここちよい」状態を求めることになりかねません。

しかし、それでは、信仰によって自分の囚われから自由になるという飛躍の力が失われます。異なった信仰の良いとこ取りをする者は、信仰のいのちを失ってしまうのです。

それは、当時のイスラエルでも起きました。聖書の教えとカナンの礼拝形式が混合された結果、創造主との交わりから生まれるいのちの喜びが失われ、人間の堕落をますます助長するような宗教が生まれました。

2.「わたしはエフライムを知っていた・・・彼らは主(ヤハウェ)を知らない」

「わたしは、あなたがたの娘が姦淫をしても罰しない。また、あなたがたの嫁が姦通をしても罰しない」(4:14)というのは皮肉に満ちた表現です。親が子供に罰を与えるのは、子供がより大きな苦しみを味わうことがないようにと、子供を矯正するためです。

しばしば、会社生活の中で、「叱ってもらえなくなったら、あなたはもう終わりだよ・・・」と言われることがあります。それと同じことが神と人との関係にも言えます。神はこのときイスラエルを見放すことに決めたというのです。そして、その結果が、「悟りのない民は踏みつけられる」と記されます。

「ギルガルに行ってはならない。ベテ・アベンに上ってはならない」とは、それらの町にバアル礼拝の神殿があったからですが、「ベテ・アベン」とは、ベテル(ベト・エル「神の家」)を「悪の家」と読み替えたのだと思われます。そして、そこで「主(ヤハウェ)は生きておられる」と言って誓ってはならない」とは、バアル礼拝と主(ヤハウェ)の礼拝をまじりあわせることがないようにという勧めです。

そして、16節の後半は新共同訳のように「どうして主は、彼らを小羊のように広い野で養われるだろうか」と神のさばきの意味に訳した方が文脈に合っています。

17節以降では、神がイスラエルを堕落するままに放置されたことがまず、「エフライムは偶像に、くみしている。そのなすにまかせよ」と記されます。エフライムとはヨセフの長子、北王国イスラエルの中心部族ですが、「彼らは飲酒にふけり、淫行を重ね、彼らのみだらなふるまいで恥を愛した」(4:18)というのです。

また、19節では「風はその翼で彼らを吹き飛ばす」とありますが、「風」と「霊」とは同じヘブル語ですからこれは、12節の「姦淫の霊」を指しており、それによって彼らが自分を失って行く様子が、「自分たちの祭壇のために恥を見る」と描かれます。

5章の初めでは「祭司たち」、「イスラエルの家」、「王の家」それぞれに対し、繰り返し、神のさばきの警告に耳を傾けるようにと勧められています。「あなたがたはミツパでわなとなり、タボルの上に張られた網となった」とは、かつてイスラエルが勝利を収めた記念の町において彼らが敗北と途端の苦しみを味わうことが告げられます。

そして3、4節で、主は、「わたしはエフライムを知っていた。イスラエルはわたしに隠されていなかった。しかし、エフライムよ、今、あなたは姦淫をし、イスラエルは身を汚してしまった。彼らは自分のわざを捨てて神に帰ろうとしない。姦淫の霊が彼らのうちにあって、彼らは主(ヤハウェ)を知らないからだ」と嘆いておられます。

ここでは「知る」ということばが鍵です。それは単なる情報的な知識ではなく、主体的にその対象を深く愛し、そこに自分を賭けてゆくという意味があります。

神はエフライムを選び、彼に期待し、彼を通してご自身の栄光を周辺の国々に知らせようとしておられました。ところが、エフライムの側では主なる神を知ろうともしないというのです。ここでは、彼らが偶像礼拝にうつつを抜かし、それにおぼれ、「神に帰ろうとしない」理由が、「姦淫の霊が彼らのうちにあって・・主を知らない」と記されています。彼らが主の愛を知ろうとしていたなら、彼らは主のもとに帰ってくることができたはずです。

これは、放蕩息子が父の愛を知ろうとせずに、自由を求めて遠い国に行き、生活が行き詰まって初めて父の愛に気づくことに似ています。

しばしば、子供は親の愛を疑います。親がその子供の弱さを知り、その子の将来を心配して様々なアドバイスをすればするほど、子供は反対に、自分は親から嫌われ、信頼されてない、愛されていないと勝手に思い込んでしまうということがあります。

神とエフライムの関係も同じような悪循環に陥りました。そのとき神は、エフライムにやりたいようにやらせ、自滅するのを見守ることしかできないと思われたのです。

5節では、「イスラエルの高慢はその顔に現れている」と記されますが、これは彼らが自分たちに注がれてきた神の愛を忘れ、自分の力で豊かになったかのように思っているからです。そしてその結果が「イスラエルとエフライムは、おのれの不義につまずき、ユダもまた彼らとともにつまずく」と記されます。

自分の知恵や力に頼っている者はどこかで大きくつまずいてしまうものです。その上で不思議にも、「彼らは羊の群れ、牛の群れを連れて行き、主(ヤハウェ)を尋ね求めるが、見つけることはない。主は彼らを離れ去ったのだ」(5:6)と記されます。イスラエルの民が羊や牛のいけにえを携え、主を尋ね求めても、主がご自身を隠してしまわれるからです。

ヘブル3章6節では、「『きょう』と言われている間に、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしなさい」と記されます。福音が心に響くうちにそれを感謝して受け止めないと、その後に悲惨が待っています。

「彼らは主(ヤハウェ)を裏切り、他国の男の子を生んだ。今や、新月が彼らとその地所を食い尽くす」(5:7)とはゴメルが姦淫によってロ・アミ「わたしの民ではない」(1:9)という名の男子を生んだことを思い起こさせます。

彼らは偶像礼拝の子孫を増やしますが、彼らは豊穣の神バアルを礼拝することで皮肉にもますます困窮して行きます。

3.「さあ、主(ヤハウェ)に立ち返ろう」

5章8節からは北王国イスラエルがアッシリヤ帝国によって滅ぼされてゆくプロセスが描かれます。ここに記された町ベテ・アベンはベテルの事ですから、エルサレムの北西の町ギブアから北に向かってラマ、ベテルと続くベニヤミン族の町が敵の来襲を知らせる角笛を吹き鳴らしながら、北のエフライムはパニックに陥るというのです。

11、12節では、「エフライムはしいたげられ、さばかれて打ち砕かれる。彼はあえてむなしいものを慕って行ったからだ。わたしは、エフライムには、しみのように、ユダの家には、腐れのようになる」と記されますが、これは偶像礼拝にうつつを抜かした民にとって、神はしみや腐れのように、内側から彼らを滅ぼしてしまう敵となるという皮肉です。

そしてその上で、「エフライムがおのれの病を見、ユダがおのれのはれものを見たとき、エフライムはアッシリヤに行き、(ユダは)大王に人を遣わした」と描かれます。

並行法の原則からすると大王の前にユダという主語を入れて解釈すべきかと思われます。ユダの王アハズはアッシリヤの大王との同盟を画策したからです。その結果は、「しかし、彼はあなたがたをいやすことができず、あなたがたのはれものを直せない」と記されます。

続けて主は、「わたしは、エフライムには、獅子のように、ユダの家には、若い獅子のようになるからだ。このわたしが引き裂いて去る。わたしがかすめ去るが、だれも助け出す者はいない」と言われます(5:14)。これは、エフライムやユダが真に恐れるべきはアッシリア帝国である前に神ご自身であるということです。

そして、15節では、「彼らが自分の罪を認め、わたしの顔を慕い求めるまで、わたしはわたしの所に戻っていようと記されますが、これは神がしばらくの間、民の真ん中に住むことを止め、彼らから離れて、天の高い所から彼らが自滅するのを見下ろしているという意味です。

そして、「彼らは苦しみながら、わたしを捜し求めよう」とは、彼らがとことん苦しんで初めて、カナンの神々がもう頼るに値しないということに気づき、神を捜し求めるようになるという意味です。

6章では、イスラエルの民が神に立ち返る様子が、「さあ、主(ヤハウェ)に立ち返ろう。主は私たちを引き裂いたが、また、いやし、私たちを打ったが、また、包んでくださるからだ」と描かれます。これは5章14,15節の主のさばきとは逆転した神の救いが与えられる様子を記したものです。

そして、「主は二日の後、私たちを生き返らせ、三日目に私たちを立ち上がらせる」とありますが、これは多くの英語訳では、「After two days he will revive us; on the third day he will raise us up, that we may live before him.」と訳されます。

二番目の文章は、「彼は三日目に私たちを復活させる」とも訳すことができることばです。これは聖書で最も古い復活の記事であると言われ、これがイザヤやダニエルの記述に影響を与えているとも言われます。

パウロが、「キリストは・・・聖書の示すとおりに、三日目によみがえられた」(Ⅰコリント15:4)と言ったとき、このホセアのことばを思い起こしていたという解釈もできます。

最後に、「私たちは、御前に生きるのだ。私たちは、知ろう。主(ヤハウェ)を知ることを切に追い求めよう。主は暁の光のように、確かに現れ、大雨のように、私たちのところに来、後の雨のように、地を潤される」と、イスラエルの民が、主を知ることを熱心に求めるようになる様子が描かれます。

ただ、ここには15節で期待された「自分の罪を認め」た様子が描かれていないので、彼らの回心は一時的なものに過ぎなかったとも言われます。

それにしても、本日の箇所では、「神を知ることもない」民が、「私たちは、知ろう。主(ヤハウェ)を知ることを切に追い求めよう」と告白するようになるという変化を遂げることが強調されているという点で、主が彼らを懲らしめたことの成果が見られます。主は無意味にご自身の民を苦しめはしません。

またここで主の現れが「雨」として描かれるのは、それこそ彼らが豊穣と嵐の神バアルに求めていたことだからです。イスラエルの民は自分たちの苦しみを通して、彼らの救い主は、バアルではなくて主(ヤハウェ)ご自身であることを認めるようになるというのです。

私たちは様々な出来事を、神の存在を抜きにした原因結果の関係で考える癖がついています。しかし、信仰の世界の中では、人間の最大の罪とは、「神を忘れること」にあります。

そのことが、詩篇14篇では、「愚か者は心の中で『神はいない』と言っている。彼らは腐っており、忌まわしい事を行なっている・・・彼らはみな、離れて行き、誰もかれも腐り果てている」と記されています。

神を求めようとしないことこそが最大の罪であり、私たちの様々な腐敗した行動は神を忘れたことの結果なのです。目に見える行動以前に、心の方向が問われています。

この世界で一番迷惑な人間は誤ったことに熱心になる人です、かつて日本を破滅に追いやった人は、みんな熱心な人でした。本当に大切なのは、熱心に奉仕に励むこと以前に、落ち着いて神の救いのご計画に思いを馳せることです。それは古代教会の砂漠の修道指導者が、「忙しさとは霊的な怠慢である」と言った通りです。

そして、「主を知る」とは、「主を愛する」ことでもあります。たとえば、あなたの身近な人は、親切の押し売りよりも、自分の話を理解し、必要に寄り添ってくれることを望んでいます。

しかも、ホセア書にキリストの復活を示唆する記事があるのは驚くべきことです。私たちの人生はこの目に見える世界だけで終わるものではありません。神は私たちの心の内側に永遠への思いを与えてくださいました(伝道者3:11)。ですから、私たちは主の救いのご計画を創世記から黙示録までの全体を通して理解する必要があります。それは決して難しいことではありません。その鍵がホセア書に記されています。

神はご自身の民を、何度も裏切られながらも愛し続けてくださった。そして、神は何よりも私たちがますます深く神を知ることを、また、繰り返し神のもとに帰って来ることを望んでおられます。