マルコ13章24〜37節「世界の終わりと思える中で」

2012年11月25日

マルコの福音書13章は、しばしば世界の終わりに関する預言として理解されてきました。しかし、文脈から明らかなように、直接的なテーマはエルサレム神殿の崩壊に関することです。もちろん、これをキリストの再臨に関する教えと理解しても現代への適用は、基本的に変わりはしません。そのことを宗教改革者マルティン・ルターは、「たとい世界が明日滅びると分かったとしても、それでも私は今日、りんごの木を植えるだろう」と言いました。

歴史上、世界の終わりとも思える悲惨は何度も繰り返されてきました。たとえば宗教改革から約百年後の1618年から48年に、全ヨーロッパを巻き込む三十年戦争が起きました。最初はチェコのプロテスタント貴族がオーストリアのハプスブルグ家のカトリック勢力による弾圧に反発したことから始まった小競り合いが宗教戦争を超えて領土争いに発展したものですが、これによってドイツの人口は1800万人から700万人へと半分以下に激減したと言われます。被害のほとんどは傭兵による略奪から生じました。

しかし、ドイツの教会が誇る最も美しい讃美歌の数々はこの時期に生まれたものです。暗闇のただ中で、キリストの福音は人々に生きる力と希望をもたらしました。

そして、この13章に描かれた様々な苦難の預言もイエスの時代から40年以内に次々と実現して行きました。使徒パウロが、「人はみな、上に立つ権威に従うべきです」(ローマ13:1) と書いたときのローマ皇帝は悪名高きネロの時代でした。彼はそれ以降、どんどん残虐になり実の母を殺し、自分の家庭教師だった哲学者セネカを自殺に追いやりました。

特に、紀元64年にはローマ市の大改造のために放火を命じたとも疑われていますが、その火は七日間燃え続けローマ市の三分の二あまりを焼き尽くしました。ネロはその責任を一方的にクリスチャンに押し付け、多くの信仰者を虐殺し、ついには使徒ペテロやパウロまでも殺します。

ただその後各地の軍団に皇帝への反乱の動きが広がり、彼は68年6月に自殺に追いやられます。その後、帝国は内乱状態に陥り、一年四か月あまりのうちに三人の皇帝が立てられては殺されます。

なお、ネロ時代の末期の66年に大規模なユダヤ人の独立戦争が起きますが、将軍ウェスパシアヌスがそれを次々に弾圧することでローマ人の支持を集め、69年10月には皇帝に推挙されます。それとともに帝国は安定に向かい、彼の息子ティトスが70年9月にエルサレムを滅ぼします。

イエスは当時の政治状況を見ながら、民族は民族に敵対し、弟子たちが迫害され、エルサレムがローマ軍に包囲されることを「前もって話し」てくださいました (23節)。

イエスは遠い将来のことを抽象的に語られたというよりは、目の前のご自分の弟子たちの身を案じながら、彼らが試練に耐えられるようにと語られたものでした。

しかも、この記述は現在の日本の政治の混乱と天変地異、原発事故、国家財政の危機という現実にも重なっていいます。

福島第一原発から5㎞のところにあった福島第一バプテスト教会の佐藤彰先生は、ご自分の誕生日が3月11日であったことを含め、神は自分をこの未曽有の危機の中で生かすために、すべてのことを整えていてくださったと言っておられます。彼が最初に書いていた本自体がこのマルコの福音書を読む手引きでした。

大患難の前に天に引き上げられるというのではなく、大患難の中でいのちを輝かせるための教えがここに記されています。

1.「その苦難に続いて、太陽は暗くなり……星は天から落ち……」

マルコ13章の記事は、ヘロデ大王が大拡張工事をしたエルサレム神殿の崩壊のことから始まります。この神殿は、当時の世界で最も美しい建造物と呼ばれ、エゼキエルに預言されていた神殿の二倍の広さの敷地を有していました。

そして神殿を巡る戦いは、14節の「荒らす憎むべきもの」によって神殿が汚されることを通して激しくなります。これはダニエル書で繰り返されていることばですが (9:27、11:31、12:11)、それは神の民に一時的な苦しみの時ではあっても、それを通して神の国が完成に導かれるという希望のときでもありました。

イエスの時代から約200年前には、アレキサンダー大王が築いた大帝国の中東部分の支配者となったアンティオコス・エピファネスが神殿を汚したとき、ユダ・マカベオスに導かれたユダヤ人の軍隊が神殿のきよめに成功しました。イエスの時代の人々が期待した救い主とは、ユダヤをローマ帝国の支配から解放するそのような軍事指導者でもありました。

しかし、イエスはここで、神殿を汚すのは異教徒とは限らないということを示唆し、そのようなことが起こったら、戦う代わりに一目散に逃亡することを勧めました。

しかも「ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい」(14節) とは、エルサレムを包囲するローマ軍の本拠地が置かれるオリーブ山に逃亡し、ローマ軍に投降することを示唆しています。

その上でイエスは、「その日は、神が天地を創造された初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないような苦難の日だからです。そして、もし主がその日数を少なくしてくださらないなら、ひとりとして救われる者はないでしょう」(13:19、20) と言いながら忍耐を勧め、同時に、にせキリストや誤った教えを広げる偽預言者などに気をつけるようにと警告しています。

そして、その際に起きる天変地異に関して、「だが、その日には、その苦難に続いて、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます」(13:24、25) と描かれます。

多く人々がこの箇所を読みながら神の残酷さに恐れを抱いたり、また、ときにはこの目に見える世界はどちらにしても崩れるのだから原爆を投下したり、環境破壊が進むことに心を痛める必要がないと言う人さえいます。

残念ながら19世紀のアメリカでは、信仰者の望みは、このような地上の混乱や大患難が来る前に、天に引き上げられることであるなどと、目に見える世界に対する人間の責任を軽視する神学が生まれました。

しかし、それは旧約の預言書の描き方に対する無知から来る解釈です。神のさばきは何よりも、自分を神として神の民を苦しめる者に対して起こることと記されています。

たとえば、イザヤ13章9、10節では、バビロン帝国の滅亡の様子が、「見よ。主 (ヤハウェ) の日が来る。残酷な日だ。憤りと燃える怒りをもって、地を荒れすたらせ、罪人たちをそこから根絶やしにする。天の星、天のオリオン座は光を放たず、太陽は日の出から暗く、月も光を放たない」と描かれています。

またエゼキエル32章7節などでも、自分を神の化身と誇るエジプトの王パロに対するさばきに関してほとんど同じ表現が見られます。つまり、預言書の文脈では、「太陽が暗くなり……星は天から落ち……」というのは、物理的な現象であるというよりは、この世の栄華を誇る者に対する神のさばきの象徴的な表現と言えましょう。

そしてそのメッセージとは、神の民がこの世の悪の帝国と戦わなくても神が裁いてくださるというものです。

またイザヤ24章21-23節では、「その日、主は天では天の大軍を、地では地上の王たちを罰せられる」と、サタンとその勢力、および地上の権力者に対する神のさばきが執行されるときの様子が、「月ははずかしめを受け、日も恥を見る」と描かれながら、それと同時に、「万軍の主 (ヤハウェ) がシオンの山、エルサレムで王となる」と記されます。つまり、そのときはこの世の王国が滅亡する一方で、イスラエルの神ヤハウェが全世界の王としての栄光を現すときであるというのです。

また、ヨエル2章31、32節では、「主 (ヤハウェ) の大いなる恐るべき日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる」と恐ろしいことが描かれながら、同時に、「しかし、主 (ヤハウェ) の名を呼ぶ者はみな救われる」と記されます。パウロはそれを前提に、「ユダヤ人とギリシャ人との区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです」と断言します (ローマ10:12)。

とにかく、預言書によると、恐ろしい天変地異は、神がこの世界を新しくしてくださるという希望のときなのです。

2.「人々は、人の子が偉大な力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを見る」

そして、イエスはこのときのことを、「そのとき、人々は、人の子が偉大な力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを見るのです。そのとき、人の子は、御使いたちを送り、地の果てから天の果てまで、四方からその選びの民を集めます」(13:26、27) と描きます。これに関しても、しばしばこれがキリストの再臨と、約束の地に世界中のユダヤ人が集められるときの預言であると理解されます。

しかし、「人の子が偉大な力と栄光を帯びて雲に乗って来る」とは、明らかにダニエル7章13節からの引用です。そして主はこの数日後に、ユダヤの最高議会に立たされたとき、大祭司の質問に対しご自身が「キリスト」であることを認めたうえで、「人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見るはずです」と言われました (14:62)。そして、それを聞いた大祭司はこのことばを神への冒涜と唱え、全員一致でイエスを死刑にすることが決められました。

ここで大祭司は、イエスのことばを再臨預言と理解したからではなく、イエスは「今からのち」、ご自分こそが父なる神の右の座に着く者、神の栄光の座を共有する者であると言われたことを神への冒涜と受け止めたのです。

実際、ダニエル書では、「天の雲に乗って来られ」とは、この地への下降ではなく(「来る」は「行く」とも「現れる」とも訳される)、「年を経た方(父なる神)のもとに進み、その前に導かれた」という上昇の動きであり、その目的は、「この方に、主権と光栄と国が与えられ、諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、彼に仕えることになった」という、キリストが全世界の王となるときを指しています。もともと、「雲」はキリストを運ぶ乗り物ではなく(孫悟空ではない)、神の栄光に包まれることの象徴表現です。

そしてまた、イエスが言われた「四方からその選びの民を集めます」とは、この全世界の民がイエスに仕えるという異邦人宣教を含めたことを指しています。私たちキリスト者はすべて、自分の意志でイエスを主と告白するようになったという以前に、神によって選ばれ、聖霊によってキリストのからだである教会に集められた者です。

今、私たちの教会では新会堂の献堂式に向けてハレルヤ・コーラスの練習をしていますが、キリストが「王たちの王、主たちの主」となられたという賛美は、キリストの再臨という将来の希望を歌うものではなく、主の十字架と復活によって、キリストの支配が全世界に広がっていることを告白する、現在の霊的な現実を確認する賛美です。

その上でイエスは、「いちじくの木から、たとえを学びなさい。枝が柔らかになって、葉が出て来ると、夏の近いことがわかります。そのように、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい」(13:28、29) と言われました。

「これらのことが起こる」とは、7節の「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、ききんも起こる」ということや、9-14節に描かれたキリストに従う者が「みなの者に憎まれます」という迫害や、神殿に荒らす憎むべきものが立つようになることを指しています。

そして、「人の子が戸口まで近づいている」ということばも、新改訳の脚注にあるように「そのこと」と訳すことができます。ルカではこのことばを、「神の国は近いと知りなさい」(21:31) と記録しています。

つまり、これはキリストの再臨ということ以前に、ダニエルが預言した「人の子の栄光の現れ」という広い意味のことを指しています。たとえば、この40年後にエルサレム神殿が滅ぼされることも、それを通して、イエスご自身こそがまことの神殿であること、また、福音が全世界に広まり、人々がそれぞれ置かれている場でイエスの御名によって、父なる神を礼拝するということが実現する契機となったことです。

神殿崩壊という悲劇は、キリストが全世界で王として認められる新しい時代の始まりでもあったのです。

ルカの福音書21章20-28節では、より明確に、「エルサレムが軍隊に囲まれ……エルサレムは異邦人に踏み荒らされ……人々は……恐ろしさのあまり気を失い……」と描かれながら、「そのとき、人々は、人の子が力と輝かしい栄光を帯びて雲に乗って来る(現れる)のを見る」と記されます。

そして、「これらのことが起こり始めたなら、からだをまっすぐにし、頭を上に上げなさい。贖いが近づいたのです」と断言されます。不思議なのは、「人の子の栄光の現れ」が、人々が気を失うような恐怖の時とセットで描かれていることです。つまり、「人の子の栄光の現れ」で、この地のすべての問題が解決するわけではありません。それは「贖いが近づいた」ことのしるしに過ぎないのです。

なお、「贖い」とは、全世界が神の平和で満たされるという「新しい天と新しい地」に、私たちが復活の身体をもって入れられるという歴史のゴールのときを指しており、目に見える現実の世界では、キリストの栄光の現れと世界の混乱が同時並行して続くのです。それこそ黙示録のテーマです。

そして今、私たちに求められていることは、それらの苦難や恐怖のただ中で、「からだをまっすぐにし、頭を上に上げる」ことなのです。私たちは世の中が暗くなればなるほど、反対に、世界の完成が近づいたと信じて、勇気に満たされてこの世に遣わされることができます。

3.「これらのことが全部起こってしまうまでは、この世代は過ぎ去りません」

そして13章30、31節のイエスのことばは、「まことに、あなたがたに告げます。これらのことが全部起こってしまうまでは、この世代は過ぎ去りません。この天地は過ぎ去ります。しかし、わたしのことばは決して過ぎ去ることがありません」と訳すべきでしょう。新改訳で、「天地は滅びる」ということばは、「過ぎ去る」と同じギリシャ語が用いられているからです。

ここでは、「過ぎ去る」という言葉が三度用いられながら、「この世代」、また「この天地」が「過ぎ去る」ことと、イエスの「ことばが過ぎ去る」ことがなく永遠に残るということが対比されて記されています。

なお、「この世代」とは、闇と光が共存する時代、この世の悪が力を持っているように思える不条理が支配する時代を意味するとも考えられますが、より直接的には、イエスの十二弟子たちの「世代」を指すと解釈できます。つまり、エルサレム神殿の崩壊という悲劇は、イエスの最初の弟子たちの「世代」の間に起こるというのです。

そして、イエスの預言が次々と成就する中で、弟子たちは、この目に見える天と地が過ぎ去るというときの後の時代の実現をも確信することができました。この世界の歴史は、「初めに、神が天と地を創造された」から始まりましたが、様々な悲惨をくぐり抜けながら、「見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する」(イザヤ65:17) という時代に向かっているからです。

神のみことばが、この世界の歴史を動かしています。ですから、私たちは、この世の流れに惑わされず、いつでもどこでも、神のみことばによって、世の流れを見定める必要があるのです。

そしてイエスは同時に、この世界に苦難が来れば来るほど、誤った教えも広がるということを語っておられます。その点で、32節以降は偽預言者を見分ける最高の基準になります。

そのことをイエスは「ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。気をつけなさい。目をさまし、注意していなさい。その定めの時がいつだか、あなたがたは知らないからです」と言われました。

大きな苦難とキリストの栄光の現れのときである「その日」がいつであるかを、父なる神以外の誰も知らない、「子」であるイエスご自身も知らないというのは、驚くべきことです。

キリストすら知らないことを人間は知ることはできません。ですから、世の終わりを計算しようとすること自体が偽預言者への道であるということになります。

イエスの時代にはダニエル書が愛読されていました。その9章では神の国の完成に至る七十週のことが記されていますが、当時の律法学者の中には、七十週が満ちるのがいつであるかを計算するのが盛んで、それが自分たちの生きている世代に実現すると思う人が多くいました。そこでは終わりのしるしとして「荒らす忌むべきものが翼に現れる」(9:27) と描かれながら、そのときこそ神の圧倒的な勝利が現れると記されていました。

それで彼らは皮肉にも、ローマ軍をゲリラ活動によって挑発することで、この終わりの時を自分たちのもとに引き寄せようとしていたのです。つまり、彼らはダニエル書の誤った解釈によって、独立運動を加速させ、自滅に向かっていたのです。

それに対しイエスは、神の栄光の現れのときを待つとは、神から今ここで与えられている課題に誠実に向き合うことであるということを不思議なたとえで説明されました。

そのことが34節以降で「それはちょうど、旅に立つ人が、出がけに、しもべたちにはそれぞれ仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目をさましているように言いつけるようなものです。だから、目をさましていなさい。家の主人がいつ帰って来るか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、わからないからです。主人が不意に帰って来たとき眠っているのを見られないようにしなさい。わたしがあなたがたに話していることは、すべての人に言っているのです。目をさましていなさい」と記されます。

なお、ここでは旅に立つ人が、「しもべたちに権限を与えた。それぞれの働きに対して」と原文では記されています。主人は、しもべたちそれぞれに課題を与えながらそこに、自由裁量権を与えたのです。

彼らには自分の知恵と力を発揮して、主人から与えられた働きを遂行することが求められており、その成果が問われています。

ただ、同時にイエスはその中で特に「門番」の働きに焦点を当てます。その責任は何よりも目を覚まして門を見張ることです。私たちには常に、適度な睡眠が必要ですが、ここでは「目を覚ましているように言いつける」「だから目を覚ましていなさい」「目を覚ましていなさい」とこのことばが三度も繰り返されます。

ただし、これは課せられた職務に忠実であることが求められている意味であって、緊張状態を保ち続けること以上に、いつ主人が帰ってきても働きの報告ができる状態にしておくということが命じられていると捉えるべきでしょう。

たとえば、銀行の仕事などでは、その担当者が突然いなくなっても、別の人がその仕事を継続できるという説明責任が問われています。それと同じように、私たちはいつでも神に対して、自分の働きを報告できるように準備しておく必要があります。

なお、この「目を覚ましていなさい」ということばはキリストの再臨の時に結びつけて考えられがちですが、イエスの話の目的は、何よりも、目の前の弟子たちに向かって、エルサレム神殿の崩壊という未曽有の悲劇にどのように対処すべきかを「前もって話すことにあったということを忘れてはなりません。

ここに弟子たちに対するイエスの愛が見られます。不安が迫ってくるとき、多くの人々は浮足立ってしまい、目の前の小さな働きが疎かになってしまいがちです。

しかし、大切なのは、今ここで、主から任されている働きに忠実であることなのです。それは門番に何よりも問われていることが「目を覚ましている」ことと同じです。

ですから、「目を覚ます」という行動ばかりに目が向かうような解釈は問題でしょう。問われているのは、与えられた仕事への忠実さであることを忘れてはなりません。

イエスは、この世界で自分たちの富と権力を誇る国々が必ず滅亡するという現実を告げられました。そして、そこで私たち自身もその混乱に巻き込まれて苦しまざるを得ないということを「前もって話し」てくださいました。この世の様々な混乱は、キリストがあらかじめ語ってくださった通りのことが起きていることでもあるのです。

そこで私たちに求められていることは、「からだをまっすぐにし、頭を上に上げ」ること、また、「割り当てられた仕事」を、自由裁量権を生かしながら、責任を持って果たして行くことなのです。

神は、この世の混乱の中で、ご自分のしもべたちが光り輝いて生きることを望んでおられます。神の国はキリストの弟子を通して世界に広がって行きます。この世界の混乱の理由を尋ねる以前に、この閉塞感に満ちた世界で、どのように生きるかが問われているのです。