マルコ11章19〜33節「神殿を離れた信仰の始まり」

2012年8月5日

イエスはエルサレム神殿を指して、「すべての民の祈りの家」と呼ばれましたが、それと同時に、神殿の崩壊を告げました。そして、それから40年もたたない紀元70年に、地上のエルサレム神殿は廃墟とされ、今に至っています。そして、「すべての民の祈りの家」としての教会が全世界に広がっています。

しかし、今もイスラエルによるエルサレムの完全支配を旧約の預言の成就と考える多くの信仰者がいます。前米国大統領のブッシュ氏も、新たな大統領候補のロムニー氏も同じ立場に立っていると思われます。ブッシュ氏はキリスト教原理主義の影響を受け、ロムニー氏はモルモン教の背景を持っています。

私が書いた、「今、ここに生きる預言書」は、そのような民族対立を煽るような預言書の解釈を正し、神の平和を、今、ここで、地の塩、世の光として広げることこそ、神のみこころであることを示すための書です。

本日の箇所で、イエスは当時の人々の信仰生活を目に見えるエルサレム神殿から引き離そうとしておられます。そして今、私たちはいつでもどこでも、イエスの御名によって、イエスの父なる神に真実な祈りをささげることができます。それがどれほど大きな恵みであるか、その意味をともに考えましょう。

1.「神を信じなさい」

イエスは十字架にかけられる前の日曜日にエルサレムへの勝利の入城を果たしました。人々はイエスを、ローマ帝国の圧政から解放してくださるはずの救い主として、喜びを持って迎えました。そして翌日、イエスは再びエルサレム神殿に入り、そこから商売人を追い出すという実力行使を行いました。

それに先立ちイエスは、見せかけだけに葉を繁らせているいちじくの木に向かって、「今後、いつまでも、だれもお前の実を食べることのないように」と、のろいとも言えることばをかけました (11:4)。それはイスラエルの民の見せかけの信仰を非難し、神がエルサレム神殿にさばきを下すことを警告する意味がありました。

その後、イエスと弟子たちは、夕方になると、過ぎ越しの祭りのために混雑しているエルサレムを出て、ベタニアに帰りました。

そして、翌日、彼らが、「朝早く、通りがかりに見ると、いちじくの木が根まで枯れていた」(11:20) というのです。それを見たペテロはイエスのことばを思い出して、「先生。ご覧なさい。あなたののろわれたいちじくの木が枯れました」(11:21) と言いました。

それにイエスは答えて、「神を信じなさい」と、不思議なほどに当然のことを敢えて言われました。これはほとんどすべての英語訳では、「Have faith in God」と訳しています。イエスの弟子たちは、既に、全財産を捨ててイエスに従うほどの信仰を持っていましたが、その彼らに、さらに真実な神への信仰を求めたのです。

それは、当時の宗教指導者のような見せかけの信仰ではなく、神の真実に応答した、真実な信仰を持つようにという勧めです。

私たちも確かに、信仰の質が問われることがあります。ただ、習慣的に信じているという人、また、何か悪いことが起きないようにと信じている人、より道徳的な生き方ができるための指針として信じているという人など、様々な信仰の状態があることでしょう。

しかし、聖書の神を信じるとは、何よりも、「神にとって不可能なことは一つもありません」(ルカ1:37) ということばを信じることです。イエスの母マリヤは、御使いガブリエルがそのように言ったときに、「あなたのおことばどおりこの身になりますように」(“Let it be to me according to your word” ESV, NKJ訳) と応答しました。つまり、マリヤは、自分の身を神に明け渡すことによって、救い主の母となることができたのです。

私たちは自分の願望に縛られてしまいがちですが、神のみこころを自分の意志として行くというのが信仰の基本です。

ただし、それは自分の心から湧き上がる様々な願望を否定するという意味ではありません。神にはどんなことでも可能であることを信じて、自分の気持ちを神に訴え続けることから、おのずと、神のみこころが明らかになるものです。

絶対に避けなければならないことは、神に期待しなくなることです。私たちは、どんな些細なことでも、どんなに大きなことでも、大胆に神に向かって祈ることが許されています。神にとって、大きすぎる問題はありません。

ですからイエスはここでも、「まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります」(11:23) と驚くべきことを言われました。これは、よく、「山をも動かす信仰」と、比喩的に解釈されます。確かに、たったひとことで全宇宙を創造された神に、山を動かすことなど、何の難しいこともありません。

しかし、ここでは、「心の中で疑わず、ただ、自分の言った通りになると信じるなら」とあり、私たちの信心の力が、不可能を可能にする要因であるかのように誤解されがちです。

実際、たとえば、高校時代の友人のお母様は熱心な「成長の家」の信者で、受験勉強の時に「合格!」と書いた紙を念じ続けることを勧めていました。確かにそのような信念の力には一定の効果があります。彼は念願の大学に合格し、不信心な僕は、初年度、念願の大学に合格することはできませんでした。

しかし、ここではすべてに先立ち、聖書の「神を信じなさい」または、「神への信仰を持ちなさい」と言われていることを忘れてはなりません。

不可能を可能にするのは、私たちの信仰以前に、創造主である神ご自身のわざなのです。そして、私たちの「信仰」とは、その全能の神へと結びつく接点のようなものです。しかも、その「信仰」自体も私たちの中から生まれる何らかの功績のようなものではなく、神ご自身からの賜物です。

なお、ここで「疑う」と訳されている言葉は、「心がふたつに分かれる」という意味が込められています。それは、聖霊に導かれた心と私たちの肉的な思いのふたつを行き来するような不安定な状態です。

使徒ヤコブはそれを、「疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。そういうのは、二心のある人で、その歩む道のすべてに安定を欠いた人です」(ヤコブ1:6-8) と描いています。

私たちの心はいつも揺れ動いていますから、これは極めて厳しい言葉のように思えます。しかし、ここに福音の恵みの基本があります。神に祈りを聞いていただくための前提にあるのは、何らかの功徳を積むことでも、神殿でいけにえをささげることも、多額の献金を納める必要もありません。ただ、自分の心を神に明け渡せばよいのです。神は、あなたの内側にある不信仰や疑いさえも受け止め、それをまっすぐに変えることができる方です。

2.「そうすれば、天におられるあなたがたの父も……罪を赦してくださいます」

ただし、山に向かって、「動いて、海に入れ」と命じる必要がどこにあるのでしょう。そのような神のみこころはあるのでしょうか。

イエスはこのときゼカリヤ14章4節以降の預言を思い浮かべておられたと思われます。そこには、「その日、主の足は、エルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つ。オリーブ山は、その真ん中で二つに裂け、東西に延びる非常に大きな谷ができる。山の半分は北に移り、他の半分は南に移る……その日には、エルサレムから湧き水が流れ出て、その半分は東の海に、他の半分は西の海に流れ、夏にも冬にも、それは流れる。主 (ヤハウェ) は地のすべての王となられる」(ゼカリヤ14:4、8) と描かれています。

山が動くことによって、エルサレム神殿から湧き出た水が東の死海に向かって流れ込むことが可能になります。それによって、エゼキエル47章8-12節に記されたエルサレム神殿から川が東の死海に向かって流れ込み、その川の両岸には、あらゆる種類の果樹が成長するという壮大な預言が成就します。

また、黙示録22章に「都の大通り……の川の両岸には、いのちの木があって十二種の実がなり……」という預言も成就します。つまり、山が移ることは、天の神殿が完成するときなのです。

その文脈で、「だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります」(11:24) とも言われます。これも、もちろん、「億万長者になれると信じたら、その通りになれる」などという可能性志向の話ではなく、神のみこころに沿った願いのことを指しています。

たとえば、現在の米国の黒人の地位向上に決定的な影響力を発揮したマルティン・ルーサー・キング牧師は、黒人と白人の和解が成立するということを信じ、非暴力でそれが実現できると訴えました。それからたった45年後に米国に黒人の大統領が誕生しました。

マザー・テレサはたったひとりでカルカッタのスラムに入り込み、その行動が世界中の人々の心を動かしました。彼らに共通するのは、神のみこころを真剣に求め、人間的な計算や可能性にとらわれることなく、大胆に神に信頼し続けたということです。

そして、イザヤを初めとする預言者が神から示されたビジョンの核心とは、神の平和(シャローム)が全地に広がるという世界でした。そのような祈りを真剣にささげる者は、それを地上においても実現させることができます。

多くの人々は、自分の可能性をあまりにも小さく見すぎています。神はあなたをご自身の平和の実現のために用いることがおできになるのです。

その上で、イエスは、「また立って祈っているとき、だれかに対して恨み事があったら、赦してやりなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの罪を赦してくださいます」(11:25) と言いましたが、これは当時の神殿でのいけにえを不必要にするような画期的な教えです。なぜなら、神殿でのいけにえの最大の目的は、「罪の赦し」にあったからです。

しかし、当時のユダヤ人たちは互いの憎しみを正当化し、人をのろうようなことをしながら、一方で、神に高価ないけにえをささげ、神の好意を勝ち取ろうとしていたからです。

それに対して、イエスは、神からの罪の赦しを得たいと思うなら、真心の伴わないいけにえをささげることよりも、隣人との和解を目指すべきだと言われました。神との和解と隣人との和解は、切り離せない関係にあるからです。

イエスの時代の人々は、何か願い事をするときに、エルサレム神殿において高価ないけにえをささげながら、具体的な願いを神に訴えていました。

しかし、イエスはここで、「心の中で疑わず……信じるなら、そのとおりになります」、また、「祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります」、また、「立って祈っているとき……赦してやりなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も……赦してくださいます」と、三度に渡って、祈りが父なる神に届く前提を、「そうすれば」と繰り返しておられます。

これは、ソロモンが神殿を完成した後の祈りと対照的です。そこでは繰り返し、「宮の方向に向かって祈るなら」と記されていました。

そして、ダニエルも異教の地で、日に三度、エルサレム神殿の方向に向かって祈っていたと記されています (6:10)。現代のイスラム教徒もメッカに向かって日に三度祈ります。

しかし、キリスト教会はどこも、エルサレムに向かって祈ることを教えはしません。それは、イエスがこの箇所において、祈りの際の姿勢や、祈りの方向、祈りに伴うささげものなどをすべて飛び超えて、神の真実に応答するという私たちの心の真実を何よりも強調したからです。

簡単に言うと、祈りにおいて何よりも問われているのは、あなたの心の状態だということなのです。

3.「何の権威によってこれらのことをするのか」

その後、イエスと弟子たちはエルサレムに到着し、宮の中を歩いておられました (11:27)。そこで、「祭司長、律法学者、長老たちが、イエスのところにやって来」て、「何の権威によって、これらのことをしておられるのですか。だれが、あなたにこれらのことをする権威を授けたのですか」と尋ねました (11:28)。

祭司長は神殿の管理を神から委ねられているはずの立場ですから、イエスが神殿から商売人を追い出したり、民衆を教えたりしていることは、神が立てた権威を侵害していると考えられました。それも当然のことと言えましょう。たとえば、この教会の礼拝の最中に、見知らぬ人が入ってきて、突然、講壇から何かを教えようとするようなことがあるなら、私にはその人を排除する権威が与えられています。そのような目に見える権威を否定しては、礼拝も成り立たなくなります。

ところが、彼らは民衆がイエスに信頼を寄せている様子を見て、真正面からイエスを排除しようとする代わりに、罠をしかける質問を投げかけました。イエスが「父なる神から……」と言うなら、目に見える神殿の指導者の権威を否定する偽預言者として告発できると思いました。

一方、「神の民である民衆が自分に権威を与えてくれた……」などと答えるなら、イエスをローマ帝国の支配を覆そうとする革命指導者として訴えることができました。

しかし、イエスはすでにご自分の権威を明確に示しておられました。マルコ2章でイエスは、四人の友人によって、屋根の上から吊り下げられた中風の人に向かって、「子よ。あなたの罪は赦されました」と言われました。それを聞いた律法学者たちは、「神おひとりのほか、誰が罪を赦すことができよう」と心の中で言っていました (2:7)。

それを見抜いたイエスは、「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることをあなたがたに知らせるため」と言いながら、その中風の人を癒されました (2:10)。つまり、イエスはそのとき、ご自分をエルサレム神殿にまさる方として示しておられたのです。

また、イエスは安息日を巡っての論争の中でも、「人の子は安息日にも主です」(2:28) と、ご自身こそが律法の解釈の権威を持っておられるということを明らかにしておられました。

実は、イエスがその働きの初めに、ヨハネからバプテスマをお受けになられた時、御霊が鳩のように天から下り、天から神の声が、「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」と聞こえましたが、それこそイエスがイスラエルの王、エルサレム神殿の支配者であるという任職を受けたときでした。

そして、イエスがイスラエルの王として即位されたのが、十字架におかかりになったときでした。この神秘を、イエスは説明することもできましたが、彼らにはそれを聞く準備もできていませんでしたし、それは神の時でもありませんでした。

それでイエスは彼らの質問に、真っ向から答える代わりに、反対に、「一言尋ねますから、それに答えなさい。そうすれば、わたしも、何の権威によってこれらのことをしているかを、話しましょう」と言いました (11:29)。私たちも人から質問を投げかけられたとき、それに馬鹿正直に答える代わりに、質問者の意図を探る必要があります。

イエスの場合は、彼らの悪意を瞬時に見抜いていましたから、彼らが罠にかけようとした同じジレンマを引き起こさせるような質問をして、「ヨハネのバプテスマは、天から来たのですか、人から出たのですか。答えなさい」と尋ねました (11:30)。

これは決して意地悪な質問ではありません。ヨハネのバプテスマの時から、王としてのイエスの働きが始まっていたのですから、その意味を理解することは何よりも大切なことでした。

しかも、ヨハネのバプテスマもエルサレム神殿でのいけにえを素通りして、罪の赦しを与えようとする意味が込められていました。

それに対し、彼らは、「もし、天から、と言えば、それならなぜ、彼を信じなかったかと言うだろう。だからといって、人から、と言ってよいだろうか」と言いながら、互いに論じ合ったというのです (11:31)。

彼らの正直な気持ちとしては、ヨハネのバプテスマは神殿の権威を否定し、民衆を惑わすものであると言いたかったはずです。しかし、彼らは別のことを気にしていました。

そのことが、「彼らは群衆を恐れていたのである。というのは、人々がみな、ヨハネは確かに預言者だと思っていたからである」と描かれています (11:32)。

ヨハネは当時、ヘロデ・アンテパスの不道徳な結婚を非難して首をはねられた殉教者として人々の尊敬を集めていましたから、当時の宗教指導者たちは、正直な意見を述べることは、民衆の怒りを買うだけであることを知っていました。

彼らは、人に向かっては命がけで信仰を全うするように勧めていながら、自分の事に関しては、人の目ばかりを意識する臆病者に過ぎませんでした。

それで、彼らはイエスの質問に正直に答える代わりに、「わかりません」と答えたというのです (11:33)。これによって人の顔色を見て自分の言動を決めようとする彼らの偽善性が暴き出されました。

そこでイエスは彼らに、「わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに話すまい」と言われました (11:33)。それは、彼らが真実を知ろうとしているのではなく、自己保全しか考えていないということが明確になったからです。

人は自分の惨めさに直面することがなければ救い主を求めることはできません。イエスは彼らの偽善を真っ向から指摘して追い詰める代わりに、彼らがそれを自分で気づくように導いてくださったのです。

私たちもイエスのみことばを聴くことによって、自分の罪を自覚させられるかもしれません。しかし、一見、冷たく感じられるイエスのことばの背後には、常に、私たちをご自身のもとへ招こうとされる熱い思いが込められています。

イエスは、ご自身こそがエルサレム神殿にまさる存在であるということを、様々なことを通して明らかにしてこられました。イエスは目に見える神殿が、跡形もなく崩されることを知っておられました。

しかし、神殿の崩壊は、クリスチャンが全世界に散らされ、それぞれ置かれた場を、神のご臨在の場と受け止め、置かれた場において心から神に仕えるという信仰生活の新しいあり方を開くことになりました(渡辺和子著『置かれた所で咲きなさい』)。

私たちは、神殿に集っていけにえを献げなくても、ただ、イエスの御名によって、自分の祈りが神に届くことを確信することができます。神殿の真の主である方ご自身が、十字架と復活によって、神殿を完成してくださったのです。

イエスの時代のユダヤ人たちは、イスラエル王国の復興と共に、エルサレム神殿に神の栄光が戻ってくることを心から願っていました。

しかし、神の栄光の現れであるイエスがエルサレムに柔和な王として入城し、神殿をきよめたとき、当時の宗教指導者はそれを喜ぶどころか、イエスを十字架にかけようと団結して行きました。

イエスは、たとえば、「右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい」(マタイ5:39) と言うことによって、当時のユダヤ人たちの武力蜂起を押しとどめようとされました。武力に訴える中に、既に、神のご支配に対する不信仰があります。

イエスを十字架にかけるということで目の前の問題を解決しようとした人々は、より大きな問題であるローマ帝国の支配に屈服せざるを得なくなりました。神殿の栄光を夢見た人々は神殿が廃墟となる姿を見ざるを得なくなりました。

「神の国」の完成は、武力によってではなく、キリストの生き方に習うことによって実現します。それは神の平和が全地を支配する状態を指します。私たちが「新しい天と新しい地」を待ち望むとは、神の平和が全地を支配することを待ち望むという意味です。目に見える戦争を正当化する様々な信仰の誤解があります。

その中で、私たちは神のみこころと自分の願いが一致すること、また、隣人との和解が広がることを待ち望んで日々の生活を過ごすように召されています。

イエスはイスラエルの王としてのご自身の権威を、人々の病を癒し、悪霊の支配から解放し、虐げられている人に心の自由を与えるということで示されました。イエスの権威は、何よりも神の愛として示されたのです。

昨年のアラブの春以降、イスラム原理主義者が政治的な勢力を持つようになっています。一方、米国ではキリスト教原理主義とモルモン教が手を携えようとしています。私たちは改めて、イエスがどのように旧約の預言を成就して行かれたかという原点に立ち返るべきでしょう。

人間にはすばらしい能力が与えられていますが、それが争いを加速するばかりか、原爆や原発事故を生み出しているという現実があることを忘れてはなりません。