詩篇44篇22〜26節「圧倒的な勝利者としての確信への道」

2011年10月9日

福島原子力発電所の事故以来、放射能漏れの影響は留まるところを知らないかのようです。みなが心を合わせて祈っているのに、神は沈黙を続けておられます。しかし、ふと、「主よ。なぜ眠っておられるのですか」という祈りを思い起こし、逆説的な慰めを受けました。それは、未曾有の悲惨の中で、神の沈黙に戸惑いながら、なお、神に信頼し続けた多くの信仰の先輩を思い起こしたからです。

レヴィナスというユダヤ人の哲学者は、第二次大戦中に多くの同胞が虐殺された悲劇を振り返りながら、「ヒトラーの民族絶滅計画―それは千五百年にわたって福音が宣布されたはずのヨーロッパに生まれた・・・」と西欧のキリスト教の無力さを批判しながらも、同時に、「ヒトラー経験は多くのユダヤ人にとって、個人としてのキリスト教徒たちとの友愛のふれあいの経験でもあった。それらのキリスト教徒たちは、ユダヤ人に対してその真心を示し、ユダヤ人のためにすべてを危険にさらしてくれたのである」と記しています。つまり、「キリスト教文化は何と無力なことか・・・」としか思えないような悲惨な現実があったとしても、それを、個人としての交わりの中に身をおいて見るときに福音の力を感じることができるというのです。身近な人の苦しみを見ながら、いっしょに心が痛むという能力は、神からの最大の贈り物ではないでしょうか。実際、多くの信仰者は、神が眠っておられるかのような悲惨の中で、イエス・キリストが自分とともに苦しみを味わっておられるという神秘を体験してきました。

福音をヨーロッパに最初に伝えた使徒パウロは恐ろしい迫害を受けました。彼は死ぬ一歩手前までの鞭打ちの刑を受けたことが五度もあり、「一昼夜、海上を漂ったことも」、「労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました」(Ⅱコリント11:24-27)。

パウロはそのような苦しみを振り返りながら、ローマ書8章35,36節で次のように記しています。

「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。『あなたのために、私たちは一日中、 死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。』と書いてあるとおりです。」

このみことばは、詩篇44編22節の引用です。そこでは、以下のように記されています。

「だが、あなたのために、私たちは一日中、殺されています。私たちは、ほふられる羊とみなされています」

私は、昔、遠藤周作の「沈黙」という小説に驚愕しました。そこには江戸時代初期、巧妙な迫害に耐えられなくなって自分の信仰を否認した宣教師の姿が描かれています。彼らは神の沈黙に耐えられなくなって、信仰を捨てました。しかし、そのような神の沈黙に抗議する祈りが、先の祈りの直後に、「起きてください。主よ。なぜ眠っておられるのですか。目をさましてください。いつまでも拒まないでください」(詩篇44:23)と記されています。

多くの人々は、パウロのような偉大な信仰者は、苦しみのただ中でも、「ハレルヤ!」と神を賛美し続けていたと思うでしょうが、実際は、「起きてください。主よ・・・いつまでも拒まないでください」と、泣きながら神に訴えていたのではないでしょうか。なぜなら、パウロが先に引用した詩篇のことばと、この不思議な祈りは同じ詩篇の中にセットで記されているからです。

しかし、そこには不思議な展開が見られます。パウロは先のローマ書では、自分の身を嘆いているようで、その直後に、「しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべての中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです」と告白しているからです(ローマ8:37)。これは、将来の勝利の約束ではなく、苦しみのただ中で、「すでに圧倒的な勝利者とされています!」という確信です。それは、「今、ここで」、私たちのために死んでよみがえってくださったキリストを身近に感じることができているからです。

それにしても私たちは、「沈黙」のような小説を読むと、恐怖に捉えられ、イエスに従うことを躊躇します。しかし、遠藤周作はポルトガルのイエズス会司祭クリストファン・フェレイラをモデルにしながら、信仰を捨てた後のことには「沈黙」しています。彼は沢野忠庵と改名させられ、日本人妻があてがわれて子供をもうけ、キリシタンの取り締まりに協力させられて、自分の信仰が偽りであったという書物「顕偽録」を記すことになります。彼はその後、良心の呵責に耐え切れなくなって再度信仰を告白して殉教したとも言われますが、命がけで福音を伝えに来た宣教師が、信仰者に棄教を勧める立場に変えられたという事実は残っています。遠藤が言っている、他の人を助けるために自分の信仰を捨てたというのは、美化しすぎとも思えます。

沈黙のような悲惨な例は、幸いこの時代の日本では、誰も想定する必要はありませんが、一歩譲ると、百歩譲らされる、一度退くと、一生逃げ回ることになるという現実も多々あることを忘れてはなりません。私たちはいのちをかけてでも守るべきものがあるのです。そして、そのように不退転の覚悟を持ちたいと願う人に向かって、パウロは、「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう」(ローマ8:31)と励ましています。

「天地万物の創造主、万軍の主(ヤハウェ)が、私たちの味方として、傍らにいてくださる」というのは何という恵みでしょう。ですから、私たちは、いかなる脅しにもひるむ必要がありません。私たちが、十字架にかけられたイエスを主と告白すること自体が、神の御霊の働きであり、「神が私の味方」となってくださったしるしなのですから。

もちろん私は、「自分が江戸時代に生きていたら喜んで殉教したことでしょう・・・」などとは、口が裂けても言えませんし、言ってはなりません。なぜなら、使徒ペテロは、「たとい全部の者がつまずいても、私はつまずきません」(マルコ14:29)などと豪語することによって、結果的に、神の助けを拒絶し、イエスを三度も否認したからです。

私は昔、信仰の内容を誤解していました。イエスを救い主と告白するというその自分の信仰によって救われるのだと思っていました。すると、自分のような生ぬるい信仰で、「救われるのだろうか?」と不安になってきました。しかし、聖書には、信仰を与えてくださったのは創造主ご自身であり、信仰を全うさせてくださるのも創造主ご自身であると書いてあるということがわかりました。ですから、私たちに求められているのは何よりも、「主よ。私は恐くてたまりません。私はいざとなったら何をしでかすかわかりません。どうか助けてください」と祈ることなのです。そして、私たちの持つべき信仰告白とは、「信じます!」と、とっさに叫びながらも、その直後に、「不信仰な私をお助けください・・・」と静かに付け加えるべきものなのではないでしょうか(マルコ9:24)。

ところで、「イエスを信じると、自分の大切なものを失うばかりか、いのちさえ失うことになる・・・信じたって、失うばかりだよ・・・」というのは、サタンの惑わしです。私たちの父なる神は、たとえあなたが何かを失うことがあったとしても、それはごく一時的なことで、「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が・・・御子といっしょにすべてのものを恵んでくださる」(ローマ8:32)と保障してくださっています。

もちろん、私たちは何かを、また愛する人を「失う」ことを恐れます。しかし、信仰者は不思議に、大切なものを失うような中で、神に生かされている実感を味わうことができているという事実があります。また、イエスに従うことで、いわれのない非難を受けることもありますが、「神に選ばれた人を・・神が義と認めてくださる」(ローマ8:33)という慰めを受けることができます。なぜなら私たちの主ご自身が、「侮辱され・・つばきをかけられ・・訴えられ・・罪に定められ」(イザヤ50:6-9)たからです。その弟子が非難されるのは当然でしょう。

それにしても、私たちは自分自身でもその罪深さを納得せざるを得ないことがあります。人から非難されるに価することを確かにしてしまっていると自己嫌悪に陥ることがあります。しかし、そこにサタンの働きもあるということを決して忘れてはなりません。サタンは、「私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを神の前で訴えている者」(黙示12:10、ゼカリヤ3:1参照)と描かれているからです。そのようなとき、私たちはこのみことばから、「神に選ばれた人を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか・・・キリスト・イエスがとりなしていてくださるのです」(ローマ8:33,34)と言って、サタンを退けることができます。

しかもたとい、私たちが人から「罪に定められ」ても、それは十字架のイエスと同じ状態になることです。それこそ、「神に選ばれた」というしるしかもしれません。神にある苦しみは特権です。実際、私たちはそこで、「死んで下さった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが・・とりなしていてくださる」(ローマ8:34)という慰めを受けることができるからです。私たちは、十字架を通してこそ、復活を見ることができます。

それにしても、もし私の場合は、「患難、苦しみ、迫害、飢え、裸、危険、剣」(ローマ8:35)などと七つあげられているような、ありとあらゆる困難にあったとしたら、自分でイエスを捨ててしまうかもしれないと思います。しかし、パウロは、そのような中で、詩篇44篇の祈りを引用します。それが、「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた」(36節)という、主に向かっての嘆きの祈りです。

繰り返しますが、信仰とは、自分で自分の心を励ますことではなく、自分の様々な気持ちを、正直に神に訴えることです。イエスご自身の祈りの生活に関しても、「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことができる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そして、その敬虔のゆえに聞き入れられました」(ヘブル5:7)と描かれています。もし神を遠く感じたとしても、同じように神を遠く感じた体験をお持ちのイエスご自身が私たちの内側で祈りを導いてくださっているということがわかるとき、まさに苦しみのただ中で、「圧倒的な勝利者」となっていることを体験できるのです。不安や悲しみや怒りは、私たちのたましいを窒息させる方向に働きます。そのようなときこそ神に祈ることができればよいのですが、実際には多くの場合、祈る気力すらわかなくなるのが現実です。人によっては、呼吸が浅くなり、過呼吸に陥ることさえあります。そこで何よりも大切なのは、息を吐くことです。それさえはできたら、自然に必要な酸素は体内に入ってきます。

日本では、しばしば、「男は人前で泣いてはいけない・・・」などと言われ、強い人間は否定的な感情を抑えることができるべきだと訓練されます。しかし、強がっている人が、ふとしたきっかけで重いうつ状態になったり、ときには自分の命を絶つことさえあります。それに比して、詩篇には、「女々しい」ともいえるような祈りが満ちています。それは、神が私たちの内側に押さえ込まれている否定的な感情を受け止めてくださるというしるしです。私たちは詩篇のことばに合わせて、息を十分に吐き出すことができるのです。

この詩篇44篇の著者は、最初に、先祖の時代には神が圧倒的な救いのみわざを示してくださったことを思い起こしながらも、今は、神ご自身が自分たちを苦しめていると訴えています。彼はそのことを、「あなたは私たちを拒み、卑しめました・・・私たちを食用の羊のようにし、国々の中に私たちを散らされました。あなたはご自分の民を安値で売り、その代価で何の得もなさいませんでした」(9-12節)と、神の不当な仕打ちを責めるかのように表現します。その上で、先の「起きてください・・・」という祈りが記され、最後は、「立ち上がって私たちをお助けください。あなたの恵みのために私たちを贖い出してください」という必死の嘆願として閉じられます。

子供は、激しく泣きじゃくった後に、見違えるほどの笑顔を見せることがありますが、私たちも神のみ前でそのような子供になることが許されています。世界の歴史を変えたと言われる大伝道者パウロも、神に自分の気持ちを赤裸々に訴えながら、同時に、「私たちは圧倒的な勝利者となっている」と告白したのではないでしょうか。

私はこの祈りに深く慰められました。あらゆる迫害に耐え続けたあのパウロも、こう祈ったと確信できたからです。そればかりか、イエスご自身が「わが神、わが神・・・」と、沈黙する神に訴えられました。ですから、神の沈黙に直面することは、キリスト者の常であるとさえ言えるのです。

ところで、イエスの叫びは詩篇22篇の祈りそのものですが、それが引用されているマタイによる福音書には不思議な展開が見られます。イエスの名は、聖書で「インマヌエル」(「神は私たちとともにおられる」という意味)とも呼ばれます。しかし、「わが神、わが神・・・」という十字架上のことばは、そのお名前とは真逆の、「神は、ともにおられない」という趣旨の叫び声をあげたことを意味します。何という矛盾でしょうか・・・。

ただ、詩篇22篇では、「神に見捨てられた」と感じることと、「神は私とともにおられる」と告白することが矛盾することなく一連の流れで描かれています。イエスは、「どうして私を見捨てたのですか!」と恨みがましく叫んだわけではありません。この中心的な意味は、神から見捨てられたと感じざるを得ない状況の中で、なお、「私の神、私の神よ」と、そのお方を私自身の神であると告白し、「どうか見捨てないでください!」とあきらめずに祈り続けたということにあります。

なお、イエスの十字架の描写では、肉体的な痛みより、「虫けら」のように扱われ、軽蔑の的となり、自分が身代わりになった罪人たちからとんでもない皮肉と罵声を浴びせられたという孤独の痛みが何よりも強調されています。そしてそれこそ、この詩篇にあらかじめ描かれていた苦しみでした。多くの人にとっての最大の悩みは、人間関係から生まれます。人は自分の名誉のために命さえかけることがあります。ですから、人からあざけられ、見捨てられたと感じることは、死の苦しみそのものと言えましょう。

ところで聖書によると、イエス・キリストはこの全宇宙を父なる神とともに創造された方で、マリヤの胎を通して人となられた神の御子でした。クリスマスは本来、太陽の創造主が赤ちゃんとなった記念日です。それは、私たちと同じ弱い心と身体となって、この肉の身体に結びつくすべての弱さを、また罪を、担うためでした。何と、私たちの創造主は、詩篇22篇に記された人間の叫びをご自分の叫びとするために、敢えて人となってくださったのです。

その上で、この詩篇には不思議な転換点があります。それは21節の終わりの、「あなたは答えてくださいます」という宣言です。実は、神のみわざは、しばしば「もうだめだ!」と思った瞬間、圧倒的に迫って来るものです。信仰は理屈を超えています。

それまで3回も繰り返された、神が「遠く離れておられる」と感じられる現実は、24節にある告白、「まことに、主は悩む者の悩みをさげすむことなく、いとうことなく、御顔を隠されもしなかった。むしろ、彼が助けを呼び求めたとき、聞いてくださった」という真理を腹の底から確信するために不可欠な前提であったのです。

たとえば、私の母は、出産間もなく嬰児の私を籠に入れて水田のあぜに置き、田植をしなければなりませんでした。そんな時、私は水田の中に落ち、鼻の頭だけを出し、叫ぶこともできず死にそうになりました。ふと母は心配になり水田から上がって来ました。私を見つけるなり、叫びながら、呼吸が止まりかけ冷たくなった私を必死で抱き暖めました。幸い、私は息を吹き返しました。私が瀕死の時、母は「遠く離れて」いましたが、この出来事は、不思議に私の心の中では、母が、そして後には、神が、いつも「私とともにいる」という感動に結びついています。イエスの十字架と復活の関係も、そのように、父なる神と御子なるイエスとの永遠の愛の交わりの観点から見ることができます。イエスは、十字架上で「わたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれた三日目に、死人の中からよみがえられました。そして、イエスの復活こそ、この叫びへの父なる神からの「答え」になっています。

つまり、イエスが、全世界の罪を負い、神からのろわれた者となりながら、なおも、「私の神」と叫び続けた、その「祈りが答えられた」結果として、今、私たちもイエスの父なる神を、「私の神」と告白できるようになったというのです。これこそ福音の核心です。イエスは、既に私たちの前を歩んでいてくださいました。私たちが味わう苦しみや葛藤で、イエスが体験されなかったものはありません。ですから私たちは、いつでも、イエスに習って「私の神」と叫びながら、その後、「あなたは答えてくださいます」と告白することができます。

「もうだめだ!」というピンチに陥ることは、神の圧倒的な御業を体験するチャンスなのです。

世の多くの人は、自分のためにすら苦しむことができずに、人を振り回して生きています。しかし、御霊を受けた私たちは、「あなたのために・・死に定められている・・」(ローマ8:36節)とあるように、神と人のために苦しむ力が与えられたのです。これこそ、キリストにある、アダムから決別した生き方です。そこにこそ、この世界の平和の鍵があります。私たちは、苦しみから救われたというよりは、救われた者として苦しみにあずかることができるのです。ヨセフは、不思議にも、神に愛された者として奴隷に売られてしまいました。しかし、そのような状態になった後で、神は、奴隷としての彼の働きを豊かに祝福されました。また、ヨセフは、神に愛された者として無実の罪で牢獄に入れられました。しかし、神は、その不当な牢獄生活の中での彼の働きを祝福されました。彼は、恨みにとらえられずに、神に愛された者としての生き方を全うしました。彼は、敗北しているようで、勝利者でした。

私たちは、苦しみのただ中で、「私たちを愛してくださった方によって、圧倒的な勝利者とされている(in all these things we are more than conquerors through Him who loved us)」(37節NIV)と告白できます。

これは、新共同訳では、「私たちは、私たちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています」と訳されているように、これは「今は敗北しているけど、そのうち勝てる・・・」というような未来への願望ではなく、すでにクリスチャンにおきている霊的な現実を指しています。

なぜなら、「死も、いのちも・・・どんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできない」(38,39節)ということが明らかだからです。

詩篇の祈りは、霊感された祈りです。その著者はダビデをはじめとする歴史上の人物ですが、その背後には真の著者としての父なる神と御子イエスキリストがおられます。イエスは、それをご自分自ら体験するために人となってくださったのです。詩篇のすべての祈りは、イエス様の祈りです。ですから、この詩篇の祈りを祈りながら、そこに自分の気持ちとの一体感を味わっているとき、私たちはイエス様との一体感を味わっているのです。イエスご自身があなたとともに祈っていてくださるのです。それゆえ、そこには復活のイエス様との一体感も生まれ、そこから圧倒的な勝利者としての確信が生まれるのです。神は私たちの嘆きを優しく受け止めてくださいます。そして神の愛は、私たちが他の人の痛みを優しく受け止めるという行動の中に現されます。

今から百数十年前、ハンセン氏病の患者がハワイのモロカイ島という孤島に隔離されていました。ダミアン神父が単身でその島に乗り込んで以来、多くのカトリックのシスターたちが、そこで献身的な看病ようになりました。そして、その島を訪ねた米国の文豪スティーブンソンは次のような詩を書きました。

「ライの惨(いた)ましさを一目見れば、愚かな人々は神の存在を否定しよう。

しかし、これを看護するシスターの姿を見れば、愚かな人さえ、沈黙のうちに神を拝むであろう」

今、日本は第二次大戦後最大の試練の中に置かれています。しかし、その様な中で自分の命を危険に曝しながら、放射能漏れと戦っておられる方が、また、被災地において、献身的に人の痛みに寄り添っておられる方がいます。すべての人は、神のかたちに創造されました。だからこそ、私たちは互いに愛し合うことができます。逆説的になりますが、「神よ、どうして・・・」と共に嘆き合っているところに、神の愛が全うされているということがあります。神の愛は、今、東日本大震災という舞台の上で、生きた人を通して現されようとしているのではないでしょうか。ある人がユダヤ人のラビに、「アウシュビッツを経験した後で、なぜあなたは神を信じることができるのですか」と聞いたところ、ラビは長い沈黙の後、聞き取れないほど小さな声で、「アウシュビッツを経験した後で、なぜあなたは神を信じないでいられるのですか」と反対に聞いたとのことです。どちらにしても、この世には常に、痛みや悲しみが尽きることはありませんが、それを神はともに担ってくださるからです。私たちの人生に必要な知恵は、人生を襲う嵐を避けることよりも、嵐の中でも、落ち着いて、なすべき責任を果たすという勇気ではないでしょうか。それこそ信仰です。