マルコ2章1〜12節「罪を赦す権威を持つ方」

2011年3月20日

この一週間余りに日本で起こったことは誰も予想のできなかった大惨事でした。想定外の大津波で何と多くの人々の命と財産、生活の場が失われ、将来の夢が奪われたことでしょう。そして、関東の地においても、観測史上最大の地震が、世界で最も安全と評価されていた原子力発電所を破壊し、電力不足を起こし、交通機能を麻痺させました。

そこでは、まず、JR東日本の対応が、次には、東京電力の対応が非難されました。しかし、JRは、その路線にひとつでも停電の可能性があれば電車を止めざるを得ません。東京電力は、送電基地は管理していますが、それは行政区画や電車路線とは関係ありませんから、人々の期待に沿った説明ができません。そして何よりも、東京電力は原発を冷やすために自衛隊を動かすことも米軍の協力を仰ぐ権威もありません。

ようやく一週間が経過して、内閣総理大臣の権威のもとに様々な協力関係ができるようになってきています。いつも、マスコミは首相を馬鹿にし続けていましたが、その権威がなければ日本の行政も民間も協力を築くことが難しいのです。

この悲惨を契機に、人を押さえ込む「権力」ではなく、人を動かし協力させることができる「権威」について目を開く必要がありましょう。今日のテーマは、「罪を赦す権威」です。

多くの宗教の基本は、この「罪の赦し」を教理の根幹に据えていますが、聖書は、この点に関しては、極めて一貫性があります。その「権威」は天地万物の創造主に帰されます。そして、十字架にかかってくださったイエスこと、この権威を授けられていた方でした。

1.「この人たちに、イエスはみことばを話しておられた」

重い皮膚の病(ツァラアト)に侵され、社会から隔離されて生きていた人が、イエスに手を触れていただき、癒されたとき、彼はイエスの意に反し、劇的ないやしのみわざを言い広めました。その結果、イエスは表立って町の中に入ることさえできなくなり、町はずれの寂しいところに身を潜めておられましたが、人々はあらゆるところからイエスのもとにやってきます。

そのような中で、「数日たって、イエスがカペナウムにまた来られ」(2:1)ますが、そのとき、「家におられることが知れ渡った」というのです。この家とは、ペテロの家なのか、イエスご自身の家なのか、見解が分かれるところですが、どちらにしても、ただ「家」と書いてあるところからみると、カペナウムにおけるイエスの常駐場所であったことは確かです。

その上で、「それで多くの人が集まったため、戸口のところまですきまもないほどになった」という混雑の様子が描かれます。つまり、普通の方法では、外の人はもうだれもイエスに近づくことができないという意味です。

そのような中で、「この人たちに、イエスはみことばを話しておられた」(2:2)とありますが、イエスはここで、悪霊追い出しをはじめとするいやしのみわざよりも、「神の国(支配)」が彼らの目の前に来ているということを語っていました。イエスが聖書のどの箇所を中心に語っておられたかは、非常に興味深いことですが、福音書全体から推察すると、イザヤ書40章―66章の箇所が圧倒的に多かったことは確かでしょう。

その中でも、私自身が旧約から見るイエスの救いに関して大きく目が開かれたのは特に以下の二つの箇所です(私訳)。

「なんと美しいことよ。山々の上にあって福音を伝える者の足は・・・。
その足は、平和を聴かせ、幸いな福音を伝え、
『あなたの神が王となる』とシオンに告げる救いを聴かせる。
あなたの見張り人たちの声。声を張り上げ、共に喜び歌っている。
彼らは、主(ヤハウェ)がシオンに帰られるのを、まのあたりに見るからだ」(52:7、8)。

そして、このイザヤの預言がイスラエルの民の心に響くようになったのは、彼らが国を失った後のことでした。彼らは目に見える出来事がすべて期待はずれになってゆくような中で、次のようなみことばを理解しました。

主(ヤハウェ)を求めよ・・・悪者はおのれの道を捨てよ・・・。
主(ヤハウェ)に帰れ。そうすれば、あわれんでくださる。
私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。
「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、
あなたがたの道は、わたしの道と異なるからだ。
─主(ヤハウェ)の御告げ─
天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、
わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。
雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、
それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与える。
そのように、わたしの口から出ることばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。
必ず、わたしの望む事を成し遂げ、言い送った事を成功させる。
まことに、あなたがたは喜びをもって出て行き、平和のうちに導かれて行く。
山と丘は、あなたがたの前で歓喜の声をあげ、野の木々もみな、手を打ち鳴らす。
いばらの代わりにもみの木が生え、おどろの代わりにミルトスが生える。
これは主(ヤハウェ)の記念となり、絶えることのない永遠のしるしとなる」(55:6-13)。

イザヤは、神の救いのご計画は人間のあらゆる思いを超えた形で進んでゆくことを力強く語りました。そして、主がご自分の民のもとに帰ってきてくださったことはイエスにおいて明らかになりました。それが以下の不思議ないやしのみわざによって明らかになっています。

2.「イエスは彼らの信仰を見て・・・」

「そのとき、ひとりの中風の人が四人の人にかつがれて、みもとに連れて来られた。群衆のためにイエスに近づくことができなかったので、その人々はイエスのおられるあたりの屋根をはがし、穴をあけて、中風の人を寝かせたままその床をつり降ろした」(2:3、4)とありますが、多くの人はこの四人がイエスの住まいを破壊したかのような誤解をします。

しかし、当時の家には、玄関からの入り口と、屋上からの入り口の両方があったと言われます。実際、たとえばペテロが百人体長のコルネリオを訪ねる前に、使いの者たちがヨッパの町の近くに来たころ、「ペテロは祈りをするために屋上に上った。昼の十二時ごろであった」と記されます。

そして、彼らがペテロの泊まっている家の戸口に立っているとき、ペテロは、「その人たちのところに降りて行って・・・」と記されています。これは、屋上にいたペテロが屋上の入り口から家の中に入って、彼らを迎えたというのが最も自然な解釈だと思われます。

しかし、このときのイエスの家には、人が一杯になっていましたから、当然、屋上は閉じられ、屋上の入り口の階段ははずしてあったことでしょう。中風の人を床に乗せたまま運んできた人は、イエスに近づくことをあきらめることなく、屋上に上って、その屋上の入り口を開いて、彼を床に乗せたまま吊り下ろそうとしました。

なお、「屋根をはがし」ということばは、「屋根を開いて」とも訳すことができます。「穴をあけて」というのも必ずしも破壊行為で穴を開けたという意味ではないと思われます。ルカの平行箇所では、「屋根の瓦をはがし」(5:19)と訳されていますが、これはかなりの意訳で、厳密には、「タイルを通して(through the tiles)と記されています。

またマタイの平行箇所では、簡単に、「人々が中風の人を床に寝かせたままで、みもとに運んできた」(9:2)と描かれています。

とにかく、イエスが話している最中に、屋根を破壊する音が聞こえ、様々なものが落下し、そのような中で、この中風の人が下ろされてきたというイメージを持ってしまっては興ざめです。そんなことをしたら、集まっている人々は彼らの乱暴さを責めて騒ぎ出し、イエスがこの中風の人に権威をもって語りかけることもできなくなったことでしょう。

たぶん、そのときのイメージは、イエスが話に夢中になり、また人々が静かにイエスのお話に耳を傾けていたときに、突然、静かに、上から一人の人が床に寝かされたまま下ろされてきたという感じなのでしょう。

すべては静かに起こったのではないでしょうか。彼らはイエスのお住まいを尊重する思いも持ちながら、同時に、必死に、この中風の人をイエスのみもとに運ぼうとしたという彼らの熱い思いがそこにいる人々にも伝わったはずです。

そこで不思議なことがおきます。「イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、『子よ。あなたの罪は赦されました』と言われた」(2:5)のです。イエスは「彼らの信仰を見た」と描かれますが、主はこの中風の人を運んできた四人の人がご自分のメッセージの妨害をしたとか、秩序を壊し、皆に迷惑をかけたと思う代わりに、彼らの熱く真剣な思いを評価してくださったのです。

昔からこれは、人は、その友人の信仰のとりなしの祈りによって救いを受けることができるということのテキストとして用いられてきました。実際、この四人の人がイエスを信頼していなければ、屋根に上って、そこから中風の人を吊り下ろすということ行動にはいたりませんでした。

私たちも、自分がイエスの恵みを知ることができるようになった背後に、どれだけ多くの人々の祈りが積まれていたかを知ると驚きます。

そればかりか、「彼らの信仰」の中に、この中風の人の信仰も含まれていたことでしょう。なぜなら、この四人の友人は、彼の意思に反して運ぶことはできなかったはずだからです。

人には、「この人だったら喜んで助けてあげたい・・・」という雰囲気を出す人と、「こんな不平ばかりを言っている人のそばには近寄りたくない・・・」という感じを与える人との二通りがありますが、この人は前者のタイプでした。

ですからイエスは、「中風の人」に向かって、まず、「子よ」とやさしく語りかけられたのです。私たちもそのように助けてもらいやすい信仰を持っているなら幸いです。

3.「あなたの罪は赦された」

ただし、厳密に言うと、イエスは彼らの信仰の熱心さに動かされた結果として、「あなたの罪は赦された」と言ったわけではありません。「罪の赦し」は、人間の悔い改めの真剣さによって獲得されるものではなく、神の一方的な恵みだからです。実際、悔い改めても赦してもらえなかった例が聖書には数多く出てきます。

しかも、これは別に、この中風の人が特別に罪深く、その罪が原因で中風になったので、「罪の赦し」を必要としていたという意味ではありません。基本的に、すべての病は、人類の父祖アダムが神に逆らってエデンの園から追い出されたことに始まります。

また、イスラエルの民は、神に逆らったことによって、神の怒りを受け、様々なわざわいに会いました。しかし、だからと言って、ある人が特別なわざわいに会っているのは、その人が特別に罪深かったからというのはあまりにも短絡的です。

残念ながら、東京都知事が、今回の東日本全体を襲った悲惨を指して、「天罰が下った」などと言ったとのことですが、それはきわめて短絡的な発言です。

しばしば、人は自分が大きなわざわいに会ったとき、自分の罪深さに対して特別な神のさばきが下ったと思いがちです。その意味でこの人は、三重の意味で苦しんでいたことでしょう。

その第一は、病から生まれる苦しみです。第二は、病は天罰だという人々の冷たい視線です。そして、第三は、神の怒りを受けて病になってしまったという絶望感です。この病が神のさばきであるなら、人間にはなんとも変えようがないからです。

しかし、イエスの「あなたの罪は赦されました」という宣言は、これらすべてを逆転させる「希望」のことばです。彼はこれによって、病の中でも、神が自分に微笑みかけているという眼差しを感じることができるようになるのです。

原子力発電所から五kmに福島第一バプテスト教会があります。この教会は辺鄙なところにありながら二百人あまりの会員が集まり、日本全国から注目されていた教会です。

その主任牧師の佐藤彰先生は小生の神学校の先輩ですが、ご自分の教会が、地震、津波、放射能漏れによる強制退去と三重の災害を受けて、教会の民が出エジプトのイスラエルの民のように漂流状態になっている様子を教会のホームページに更新しておられます。

「もう一度、あの教会堂に戻ることができるのだろうか・・・」という絶望的な状況の中で、その日その日に、主の恵みを体験し共に泣き、共に喜んでいる姿が描かれています。

彼らは、今、日本的な感覚では、「何の因果でこんなことになったのか・・・」とつぶやきたくなるような中でも、決して、それを「何か自分たちの特定の罪が、特別の神の怒りを買ったのか・・・」などと悲観することなく、苦しみのただ中で、主がともにいてくださることを体験しておられます。

私たちイエスの弟子は、様々な悲惨の中で、イエスご自身がともに苦しんでくださることを知ることができます。この世は、問題の原因をなくすことで、問題を解決しようとします。それがしばしば、悪者探しに向かってゆきます。しかし、キリストにある者は、どのような苦しみのただ中でも、「希望」を持つことができます。

小説家、村上龍がニューヨークタイムス誌に寄稿した文章が多くの感動を呼んでいます。その終わりで彼は次のように書いています。

「私が10年前に書いた小説には、中学生が国会でスピーチする場面がある。『この国には何でもある。本当にいろいろなものがあります。だが、希望だけがない』と。

今は逆のことが起きている。避難所では食料、水、薬品不足が深刻化している。東京も物や電力が不足している。生活そのものが脅かされており、政府や電力会社は対応が遅れている。

だが、全てを失った日本が得たものは、希望だ。大地震と津波は、私たちの仲間と資源を根こそぎ奪っていった。だが、富に心を奪われていた我々のなかに、希望の種を植え付けた。」

私たちの信仰の核心こそ「希望」です。神の御子は全ての人間の罪を背負うために人となり、十字架にかかって死にましたが、神はこの方を三日目に死人の中からよみがえらせました。

それは、苦しみには必ず出口があることを示します。その根拠を与えるのが「罪の赦し」です。イザヤ43章25節で、主は、

「わたし、わたしがそれだ。あなたのそむきを拭い去る者。

それはわたし自身のためだ。

もうあなたの罪を思い出さない」   と語っておられます。

ここには、罪を赦すことは、神にしかできないということと、罪の赦しの理由は人間の側の悔い改めの真実さという以前に、神ご自身の栄光のためという、人間にははかり知ることのできない神のご計画とご意思に基づくということが記されています。

多くの人は、「罪の赦し」を、人間の側の信仰の結果と考えますが、すべては神のあわれみに基づくものです。信仰とは、その神のあわれみに対する私たちの側の応答に過ぎません。

4.「神おひとりのほか、だれが罪を赦すことができよう」

「ところが、その場に律法学者が数人すわっていて、心の中で理屈を言った」(2:6)とありますが、これはいわゆる屁理屈のようなことを指しているのではなく、「心の中で思いを巡らしていた」と訳すことができます(新共同訳:「心の中であれこれと考えた」)。

そして、彼らが心の中で、「この人は、なぜ、あんなことを言うのか。神をけがしているのだ。神おひとりのほか、だれが罪を赦すことができよう」(2:7)と思い巡らしていたことは当然でした。

それは先のイザヤ書の当然の結論であり、彼らが真剣に神の栄光を願っているなら、そこにいる人々の信仰を正すためにも、イエスのことばを真正面から否定するべきでした。それこそ律法学者の責任でした。

しかし、彼らはイエスの評判があまりにも良すぎるため、人々の手前、それを口に出さずに、心の中で思いをめぐらしただけで終わったのです。

彼らは神の前に熱心に見えても、実は、信仰熱心に見てもらいたいという誘惑に負けていたのです。

イエスは彼らの偽善を見抜いていました、そのことが、「彼らが心の中でこのように理屈を言っているのを、イエスはすぐにご自分の霊で見抜いた」(2:8)と記されます。

そしてイエスは、「なぜ、あなたがたは心の中でそんな理屈を言っているのか」と彼らの心の声に、真正面から明確に問いかけます。

ただ、イエスはご自分が人の罪を赦す権威を父なる神から与えられているというご自分の神としての性質を正面から弁明する代わりに、不思議な質問をします。それが、

「中風の人に、『あなたの罪は赦された』と言うのと、

『起きて、寝床をたたんで歩け』と言うのと、どちらがやさしいか」(2:9)という問いかけです。

人間的に考えるなら、「あなたの罪は赦された」という方が簡単ですが、それは律法学者がいうように、罪を赦すという神の権威を人間のものとするという冒涜になります。ですから、このことばは、神の視点からすると、「ちりから出て・・ちりに帰る」(伝道者3:20)に過ぎない肉なる人間が決して言ってはならないことです。

それに比べて、「起きて、寝床をたたんで歩け」というのは人間的には不可能を言っていることですが、預言者エリヤやエリシャが行った様々な不思議なわざの数々からしたら、真の預言者であればできても不思議はない奇跡のひとつに過ぎません。

つまり、人間的には「あなたの罪は赦された」という方がやさしいのですが、神の視点からしたら、「起きて、寝床をたたんで歩け」というほうがずっとやさしいのです。

そして、イエスはこの中風の人の足を瞬時に癒すことで、ご自分がエリヤやエリシャに劣ることのない特別な権威を神から授けられているということを証しできます。

その上でイエスは、「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために」(2:10)と言いながら、「中風の人に」向かって、「あなたに言う。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい」(2:11)と言われます。

これは随分、乱暴なことばです。「起きなさい」というだけでも大変なのに、「寝床をたたみなさい」「歩きなさい」と立て続けに三つの命令を述べているからです。普通だったら、「そんな無理なことを・・・」というつぶやきが帰ってきても不思議ではありません。

しかも、イエスはこの前の記事では、わざわざツァラアトに冒された人の身体に「さわって」、その上でことばを発せられたのに、ここでは単に、ことばを発せられただけでした。それは、ここではイエスのことばの「権威」が問題にされているからです。

そして、このイエスの命令は、この人に考慮も躊躇の余地も与えない絶対的なことばでした。これは、神が「光があれ」と仰せられると、「すると光があった」という天地創造の神のみことばの「権威」を思い起こさせる出来事です。

そして、実際に、イエスのことばは奇跡を生みました。そのことが、「すると彼は起き上がり、すぐに床を取り上げて、みなの見ている前を出て行った」(2:12)と記されています。

ここでは、この中風の人の信仰に関しては何も描かれていません。これも普通なら、「彼はイエスのことばに信頼して・・・」とか記しても不思議ではありませんが、イエスのことばに自動的に身体が反応したかのように、「すると彼は起き上がった」ばかりか、マルコが好んで使う「すぐに」ということばが付け加わり、「すぐに床を取り上げ・・・出て行った」と描かれます。

これは、イエスの三つの命令が、そのとおりにすぐに現実の行動を生み出したということを示しています。

そして、このことの結果が、「それでみなの者がすっかり驚いて、『こういうことは、かつて見たことがない』と言って神をあがめた」(2:12)と描かれています。

「こういうことは、かって見たことがない」という表現は、イエスがただことばを発するだけで、そのことばの権威が、病をたちどころに癒したという不思議です。

昔から様々な奇跡的ないやしの話がありますが、多くの場合はそこに魔術的な手続きが伴っています。しかし、イエスの場合はこの人の身体にふれることもなく、また何かの不思議な薬を使うこともなく、ことばひとつで彼を癒されました。

それはすべて、「あなたの罪は赦された」というイエスのことばが、単なる気休めではなく、神から与えられた権威による基づく絶対的なものであることを示すためでした。

ルカではその前に、この中風だった人も、「神をあがめながら自分の家に帰って行った」と描かれています。とにかく、このイエスが住まいとしていた家に集まっていた人々は、みな一様に、このイエスのみわざに「心から驚嘆し」ながら、イエスをたたえる代わりに、「神をあがめたというのです。

その様子をマタイは、「群集はそれを見て恐ろしくなり、こんな権威を人にお与えになった神をあがめた」(9:8)と描いていますが、人々は、神がこのような「権威を与えた」ということを見ていたのです。

それは、イエスが先に、この中風の人の癒しの目的を、「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを・・知らせるため」と、「権威」について何よりも語っておられたからです。

つまり、イエスがことばひとつで病の人を癒すことができたという「権威」を見せることによって、彼らは、神がイエスに、特別な権威を授けておられるということを見たということなのです。

イエスは、罪を赦す権威をお持ちの方なのに、ご自分で人間すべての罪をその身に負って十字架にかかってくださいました。それは、罪の赦しが簡単なことではなく、どれだけ大きな犠牲が伴うかを私たちに示すためです。

しかも、イエスは、ご自分を十字架にかけたユダヤ人指導者のために、「父よ、彼らをお赦しください」と祈られました。罪を赦す権威をお持ちの方が、ご自分の権威を否定する者のために祈ってくださったのです。

この現在の悲惨のただ中で、すべてを支配しておられるはずの神の権威に疑問を持つ方が多くおられることでしょう。しかし、神の御子イエスは、悲惨にあっておられる方々とともにいてくださいます。そして、そこに不思議な愛を生み出してくださいます。残念ながら、人間は、苦しみに会わない限り、恵みを理解できないというところがあります。電気のありがたさや水やガスのありがたさは、それを失って初めて見えてくるものです。

ただし、電気はなくても人は生きられます。しかし、神の赦しと、互いの赦し合いがなければ、誰も真の意味で生きることはできません。

神の御子イエスが与えてくださった「罪の赦し」こそ、すべての「希望」の源です。私たちは、罪を赦された者として互いを赦しあい、愛し合うことができます。悲惨の中でも、「愛」が生まれさえしたら、日本は変わります。