イザヤ56章〜66章「新しい天と新しい地での礼拝を目指して」

2011年3月13日

日本の歴史上、最大級の地震が起きて、多くの方が苦しんでおられます。そして、世界中の多くの私たちの兄弟姉妹が、この日本のために祈っていてくださいます。フィリピンやシンガポールや香港、アメリカの兄弟姉妹から安否のお問い合わせと、何かできることはないかとの支援のお申し出を受けています。

私たちキリスト者は、不思議にも、問題が大きければ大きいほど、多くの犠牲を払ってでも、ともに集まり、ともにお祈りししようとします。実際、多くの方々が、自分は何をして差し上げることができるだろうかと、もどかしく思っているかもしれません。しかし、このような中で私たちキリスト者にできる最高の奉仕は祈りではないでしょうか。

私たちはこのような悲惨と不安の中でも、主を礼拝するために教会に集まってきます。そこには多くの時間と財の犠牲が伴います。この世の多くの人々は、これを途方もない無駄と考えています。実際、毎週礼拝に集っている人がわざわいに会ったり、また、問題行動を起こしたりすると、「礼拝に行くことが何の益にもなっていないのでは・・・」と多くの人々は言います。

しかし、礼拝は、幸福になるための手段ではありません。礼拝は手段ではなく、目的なのです。それは世界の完成とは、礼拝の完成だからです。もちろん、毎週、礼拝のために時間を聖別することを実践している方々の生活はいろんな意味で、安定していることは確かでしょう。しかし、それは副産物に過ぎません。私たちの幸せは、主との交わりのただ中にあるからです。主を礼拝すること自体が幸せなのです。

イエスはエルサレム神殿の中で商売をしている人たちを力づくで追い出され、「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれるからだ」と言われましたが、それはイザヤ56章7節のみことばでした。イザヤ56章の初めには、当時のユダヤ人から人間として見られていなかった宦官や外国人が、エルサレム神殿でユダヤ人とともに礼拝にあずかるということが預言されていました。これは当時としては奇想天外なことでした。

今、私たち異邦人が神の民として受け入れられているのは、このイザヤの預言のおかげと言えましょう。56章1節から7節の朗読。

イエスは、「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから」と言われましたが、その背後に57章15-21節のみことばがあったと思われます。聖書が言う「悪者」とは、「自分には神など必要がない」と思いながら、肩で風を切って歩くような人を指します。しかも、皮肉にも、しばしば、この世で尊敬されるような人が、神の前では「悪者」である場合があります。

そして、悪者の特徴とは、主の前に静まることができないということです。私自身もかつては、静まることが苦手でしたが、このみことばに出会い、方向転換をすることができました。

イザヤが活躍した時期は、エルサレムを中心としたユダ王国が繁栄を誇った直後の時代です。経済的な豊かさを背景に、礼拝儀式にお金をかけることができました。しかし、一方で、北からアッシリヤ帝国の脅威が迫り、政治も混乱し、国全体が閉塞感に満ちていました。まさに、現代の日本のような状況です。

そのような中で、多くの人々は自分の都合や利益ばかりを優先するような自己中心的な礼拝に熱心でした。断食をすることやいけにえをささげることが神との取引のような様相を呈していました。その傍らで、国力はどんどん失われ、国の衰弱は特に、貧しい人々をますます貧しくするように作用しました。

それに対して、主は、隣人へのあわれみの心が伴わない礼拝は、かえって神の怒りを買っているだけだと言いました。それは安息日の守り方にも現れていました。後にイエスの時代には、安息日に出歩くことをやめるようにというイザヤの預言が、窮屈な規則を作り出してしまいましたが、本来の趣旨は、神への愛と隣人愛は切り離せない関係にあるということです。

しかも、神への礼拝を口実に貧しい人々が虐げられるような状況では、神ご自身が助けの御手を差し延べることができなくなります。58章6節-59章3節の朗読をお聞きください。

多くの人々は、人間の側の悔い改めや信仰が神の祝福を生み出す原動力であると考えますが、人間が自分で悔い改められるぐらいなら、救い主がこの地に送られる必要はありませんでした。救いは徹底的に、神の主導権によるものです。59章16節から60章2節をお聞きください。

その上で60章18-21節には、主の救いが完成する様子が描かれています。黙示録の終わりに描かれる「新しいエルサレム」または「新しい天と新しい地」の情景は、このみことばをもとに記されています。しかも、興味深いのは、神が太陽や月を変えてくださるとき、人間の心も変えてくださると約束されていることです。

61章1-3節は、イエスがナザレの会堂での礼拝のときに読み上げたみことばです。イエスはこの前半部分を朗読された後、「きょう、聖書のこのみことばが、あなたが聞いたとおりに実現しました」(ルカ4:21)と言われました。

イエスの様々な不思議なみわざは、基本的にこのイザヤの預言を成就させるという意味があったのです。イエスご自身がこのみことばを朗読している場面を思い浮かべながらお聞きください。

63章7節から17節では、主の恵み(ヘセド)による出エジプトの際の救いのみわざが振り返られます。ここには主の御霊の働きが美しく描かれています。そして、イスラエルの悲惨は、主の聖なる御霊を痛ませた結果であると描かれます。

そして、興味深いことに、イスラエルの民の不信仰は神ご自身に責任があるかのような訴えがなされた上で、主に「どうかお帰りください」という祈りで閉じられています。

64章8節は、主を私たちの陶器師として描きながら、主がご自身のみこころを変えてくださるようにと祈っています。パウロは65章1,2節を引用しながら、救いはすべて神の一方的な選びによるということを語っています。

65章11節からは「主を捨てる者」に対するさばきと主を慕い求める者たちへの救いが描かれます。

特に65章17節以降は、「新しい天と新しい地」の姿が感動的に描かれています。これこそ世界の歴史のゴールです。聖書の歴史は、「初めに、神が天と地を創造した」から始まって、「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する」ということばで完成を迎えるのです。

イザヤ65章17-25節こそ、私たちの希望です。漠然と天国について思い巡らす代わりに、これらのみことばを思い巡らすことこそ、神のみこころです。

66章12-14節には神の救いが母のイメージで描かれています。そして、66章18節から24節は、世界中の人々が新しいエルサレムに主を礼拝するために集まってくる様子が描かれています。世界のゴールは主への礼拝が完成するときです。

ただし、そこでは同時に、主を礼拝することを拒絶する民へのさばきも警告されています。この書には主の一方的なあわれみによる救いと、主の救いを拒絶する者へのさばきが並行して記されています。

この会堂での礼拝が始まった二十年余り前と現在の間には、驚くべき変化が見られます。それは何よりも、インターネットの普及により、情報もお金も、一瞬のうちに世界を駆け巡るようになったことに現れています。ウィンドウス95が発売されたとき、それを、感動をもって迎えたものでした。しかし、今や、それは化石扱いです。今回の地震の深刻さを、少なくとも私は最初わかっていませんでした。私は時間に終われるように三千年前のことばと格闘していました。この深刻さを知らせてくれたのは香港福音自由教会からいただいたメールのお見舞いでした。日本での互いの安否を問い合うメールはその直後でした。

この礼拝メッセージを地球の裏側で聞いておられる方もいます。今から二十年後には、この教会の礼拝の様子を映像で見られるようになっていることは間違いないことでしょう。

しかし、それはあくまでも、どうしても礼拝に来られない人にとっての補助的な手段に過ぎません。イザヤの語るとおり、礼拝は、ありとあらゆるところから、様々な交通手段を用いて集まってくる場なのです。

私たちのこの会堂における礼拝が、新しいエルサレムでの礼拝を期待させるような感動に満ちた時間となるように、これからも互いに協力をし合いましょう。礼拝は人生を豊かにするための手段ではなく、人生の目的です。

そしてそこには、互いを思いやるという目に見える隣人愛が伴っている必要があります。自分の霊的満足だけを求めるような礼拝を、主は退けられます。主のみこころにかなった礼拝をこれからも求めさせていただきましょう。