イザヤ43章14節〜44章22節「見よ。新しい事をわたしは行う」

2010年6月6日

私たちの喜びは、この礼拝のただなかにあります。今、この場が、目に見えない神の恵みに包まれています。

そのように考えることは、現実逃避ではありません。全能の神が働いておられても、人生には厳しい時があるということには変わりがないからです。ここで今、私たちは神の臨在を心から喜ぶことができます。しかも、人生を襲う様々な困難は、神の臨在の現実を失わせるものではありません。人生には、死の影の谷を歩むとき、黒い雲に覆われていると思えるときが必ずやって来ます。しかし、厳しい現実は、私たちの神への信頼を揺るがすことはできません。なぜなら、苦しんでいるそのただ中に、神は私たちとともにおられ、道を開いてくださるからです。そして、その暗闇の中で響いてくる主のみことばが、「見よ。新しい事をわたしは行う」という主の語りかけです。

1.「先の事を思い出すな。昔の事を思い巡らすな」

主は自業自得で国を失い、自己嫌悪に苛まれ、絶望している民に向かって、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(43:4)と言われました。イスラエルは、バビロン帝国とエジプトの間に挟まれ、人の目には、吹けば飛ぶような小国に過ぎませんでしたが、神はこの民を「主(ヤハウェ)の証人」として「かけがえのない」存在、また当時の最も豊かな文化国家エジプトよりもはるかに「重たい」存在であると断言しておられました。

その上で主は、不思議な救いのご計画を分かち合ってくださいます。「主(ヤハウェ)は、こう仰せられる」という表現は、43章16節、44章2節、6節でも用いられますが、そのたびに、その方が、どのような方かが描かれます。

この14節では、まず、「その方は、あなたがたを贖われたイスラエルの聖なる方」と表現されます。主は、イスラエルをエジプトの奴隷状態から解放してくださった方、また、この世を超越したという意味で、「聖なる方」と呼ばれます。そして、その救いのみわざが、「あなたがたのために、バビロンに使いを送り、彼らをすべて亡命者として下らせる。カルデヤ人をその歓喜の船から」と描かれます。この書が読まれたとき、イスラエルは国を失った捕囚の民、バビロンの情けでかろうじて生かされている亡命者の立場になっていましたが、その立場が逆転するというのです。カルデヤ人とはバビロンの中心的な民族で、彼らは「歓喜の船」に乗っているような気持ちでいましたが、そこから追い出されるような悲惨な状態に追いやられるというのです。そして、その根拠を、主は、「わたしは、主(ヤハウェ)、あなたがたの聖なる者、イスラエルの創造者、あなたがたの王である」(43:15)と述べておられます。

これらの箇所で、イスラエルやヤコブという名前を、自分と置き換え、バビロンやカルデヤ人ということばを、あなたを虐げ迫害している人々に当てはめると、この箇所の意味が、よりパーソナルに響くことでしょう。

そして、再び、「主(ヤハウェ)は、こう仰せられる」(43:16)と宣言されながら、主がかつてエジプトの軍勢を紅海におびき出し、絶滅させたことが、「その方は、海の中に道を、強い流れの中に通り道を設け、戦車と馬、強力な軍勢を連れ出された。彼らはみな倒れて起き上がれず、燈心のように消えた」(43:17)と描かれます。

その上で、主は、逆説的な意味で「先の事を思い出すな。昔の事を思い巡らすな」(43:18)と言われます。神はイスラエルの民に、繰り返し、出エジプトの事を始めとする過去の偉大な救いのみわざを思い起こすように命じておられましたから、この命令はまったく意外なものです。「柳の下に二匹目のどじょうを探す」というような笑い話だったら良いのですが、彼らは過去の成功に奢り高ぶって国を滅ぼそうとしていました。たとえば、エルサレムがアッシリヤに包囲されたときに、神が包囲軍を混乱させ、奇跡的に撤退させてくださいましたが、彼らは同じことがまた起きると期待して、神のさばきという現実を見ようとしなくなっていました。これは、日本の神風神話と同じです。

しばしば、過去の成功談は偶像化されて、人を失敗に導きます。「失敗は成功のもと」と言われる以上に、「成功は失敗のもと」になることをいつも注意深く現実を見る必要があります。私たちは、常に、神の救いのみわざは、毎回、ユニークなもので、パターンが違うということを覚えなければなりません。それどころか、神がこれからもたらしてくださる救いは、それまでの成功も苦しみも色あせて見えるほどに奇想天外な偉大なものだというのです。

そのことを、主は、「見よ。新しい事をわたしは行う。今、もうそれが芽生えている。それをあなたがたは知らないのか」(43:19)と言われました。私たちは、過去の体験に基づく自分の期待から心が自由にされるとき、日々の生活の中に、常に、何か、新しいことの芽生えを見つけることができます。そして、このとき彼らはバビロンの向こうに、強大なペルシャ帝国の出現の前触れを見ることができました。しかし、彼らは南の大国エジプトの政治情勢にばかり目が向かっていました。イスラエルの民は、エジプトから解放されるときは、海が真っ二つに分かれましたが、このとき彼らはバビロンに捕囚とされており、彼らの帰還を妨げたのは、起伏の激しい、水のない荒野でした。

それを前提に、主は、「確かに、荒野に道を、荒地に川をわたしは設ける。野の獣がわたしをあがめる。ジャッカルや、だちょうさえも。荒野に水を、荒地に川をわたしが与え、わたしの民、選んだ者に飲ませるからだ」(43:19、20)と、荒野や荒地の中に、約束の地への帰還の道を開くことを保障してくださいました。なお、「ジャッカル」も「ダチョウ」も忌み嫌われた動物の代名詞のような存在でした。「ジャッカル」は山犬とも訳されますが、少数の群れをなして歩き回り、他の動物が食べ残したものをあさって食べる臆病な動物でした。「ダチョウ」は、自分で産んだ卵を置き去りにし、そのひなは別の孵化しない卵を餌として育つという無慈悲で貪欲な動物の代名詞でした。両者とも廃墟を住処としていました。つまり、そんなのろわれた動物さえも神の救いにあずかるというのですから、神に選ばれた民であるイスラエルが救いにあずかるのはなおさらのことであるというのです。そして、そのことが、「この民は、わたしのために造った。彼らはわたしの栄誉を宣べ伝えよう」(43:21)と描かれています。

2.「イスラエルよ。あなたはわたしに疲れていた」

ところが、何とも驚くべきことに、「しかしヤコブよ。あなたが呼んだのはわたしではなかった」(43:22)と、彼らが別の神々に救いを求めたことが非難されます。彼らは、周りの国々の神々をも並行して礼拝することで、近隣諸国との融和を目指したのです。これはあらゆる神々のご機嫌を取ることで争いを避けようとする日本人の発想と同じです。しかし、それは、ふたりの女性を同時に愛そうとする愚かな男と同じです。最初は刺激的なのですが、どちらからも不満を述べられ、それがどんどん重荷となってきます。

その様子が、皮肉をこめて、「イスラエルよ。あなたはわたしに疲れていた」と描かれます。これは新共同訳の「あなたはわたしを重荷とした」に近い訳です。「あなたはわたしを疎んじた」の方が分かり易いのですが、同じ言葉を用いながら、主は、「穀物のささげ物のことで、あなたにわたしは苦労をさせてはいない。乳香のことで、あなたを疲れさせてもいない・・・かえって、あなたの罪で、わたしに苦労をさせ、あなたの咎で、わたしを疲れさせただけだ」(43:23,24)と言いながら彼らを非難しているからです。イスラエルが主への礼拝が重荷になったのは、決して、主からの要求が厳しかったからではありません。彼らは、別の神々に向かって、「全焼のいけにえの羊」をささげ、その神々の心を満足させようとしていたために、主への礼拝がなおざりになってしまっただけなのです。

イエスも、私たちに向かって、「あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません」と警告しつつ、「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」と断言してくださいました。たとえば、日曜日は、主を礼拝するためにあると心で完全に決め、また、収入の一定額は必ず献金すると決めてしまうと、意外に、礼拝することも献金することも、ほんとうに自然に、楽に行うことができます。しかし、優先順位が定まっていないと、「この時間に、これができていたら・・・」とか、「このお金で、あれが買えたのに・・・」などと心が分かれて、すべてが重荷になってしまいます。そして、主から、「・・・・よ。あなたはわたしに疲れていた」などというご指摘を受けることになります。

しかし、「わかっちゃいるけど、やめられない・・・」というのが人間の現実です。悪循環に陥っているときに正論を言われても、ますます、それがまた、「疲れ」になってしまいます。それに対して、主はご自身が一方的に、彼らを新しくするということが、「わたし、わたしがそれだ、あなたのそむきをわたし自身のために拭い去る者。もうあなたの罪を思い出さない」(43:25)という圧倒的な恵みとして宣言されます。

神は決して、正論を立て続けに述べて私たちを自己嫌悪に陥れ、生きる気力をなくしてしまうような方ではありません。神の民を滅ぼしてしまうことは、神にとって取り返しのつかない損失となります。だからこそ主は、「わたし自身のために」と強調しておられます。私たちの側に、聞く耳があるとか、謙遜にされているとかいう理由があるのではありません。神は、救いに値しないものに格別な恵みを施してくださるのです。

しかし、それは私たちの誇りを傷つけるものです。私たちは、自分の側に救いを受ける正当な理由、「正義」があるということを主張したくなります。それに対し、主は、「わたしに思い出させよ。共にさばきに向き合おう。あなたが宣べてみよ。自分を正義とするために」(43:26)と問いかけます。その上で、本来、正当な原因結果の理屈から言えば、エルサレム神殿が滅びたままにされるのが当然であるということを、「あなたの最初の先祖は罪を犯し、あなたの仲介者たちは、わたしにそむいた。それで、わたしは聖所のつかさたちを汚し、ヤコブを聖絶に、イスラエルが罵られるままにまかせた」(43:27、28)と言われます。

そして、主ご自身の主導によって、私たちを内側から変えてくださるという約束が、慰めに満ちた語りかけとともに、「今、聞け、わたしのしもべヤコブ、わたしの選んだイスラエルよ。主(ヤハウェ)は、こう仰せられる。―あなたを造り、母の胎内にいる時から形造ってあなたを助ける方はー『恐れるな。わたしのしもべヤコブ、わたしの選んだエシュルンよ。潤いのない地に水をわたしは注ぎ、かわいた地に豊かな流れを起こす。わたしの霊をあなたのすえに、わたしの祝福を子孫に注ごう』」(44:1-3)と告げられます。「エシュルン」とは、申命記32:15に最初に出てくるイスラエルの民への愛称です。これは本来、「正しい者」という意味で、不道徳に満ちたカナンの中にあって、主の正しさを証するために選ばれたという思いがこめられています。しかも、ここでは、神が、「わたしの霊をあなたのすえに・・注ごう」と、聖霊降臨の約束まで記されています。私たちの心は、「潤いのない地」で干からびてしまうことがありますが、神の霊を受けた者は、「彼らは青草の間に芽ばえる。それは流れのほとりの柳の木のようだ」(44:4)というみずみずしい状態が保たれるというのです。これらの約束が、今、私たちの上に実現しています。

私たちは親の世代から受け継いでいる様々な生きにくさを抱えています。自分で自分を変えようと頑張ってみては、失望することの繰り返しです。しかし、主ご自身が、私たち一人ひとりを、母の胎内で形造ってくださいました。主は、あなたの弱さ、罪深さをすべてご存知です。私たちはですから、神のさばきを恐れる必要がありません。この「ヤコブ」という名の代わりにあなたの名を、「エシュルン」という呼び名の代わりにあなたの愛称を入れてこれを読み、主の祝福が一方的にあなたに注がれる様子をイメージしてみましょう。

そして、「潤いのない・・かわいた地」のような神の民の心が生き返って、神の民としての喜びと誇りに満たされるということが、「ある者は『私は主(ヤハウェ)のもの』と言い、ある者はヤコブの名で自分を呼ぶ。ある者は手に『主(ヤハウェ)のもの』と記し、イスラエルの名を名のる」(44:5)と描かれます。私たちも自分を「主(ヤハウェ)のもの」と言いながら、神の御子キリストの呼び名を持って、自分をクリスチャンと呼ぶことができるようになっています。

3.「わたしは、初めである。わたしは、終わりである。わたしのほかに神はない。」

そして、今、私たちに求められる最も大切な行いは、主に対する自分のイメージを変えることです。私たちの主がどのような方かを聖書のみことばから理解し、主の御名を呼び、主にすがることです。あなたにできないことを、主は可能にしてくださいます。そのことは、何よりも、歴史の中で、イザヤの預言はひとつひとつ成就しているということから明らかになります。そのことを覚えながら、以下の主の語りかけを味わってみましょう。

「主(ヤハウェ)は、こう仰せられる。―イスラエルの王、これを贖う万軍の主(ヤハウェ)はー『わたしは、初めである。わたしは、終わりである。わたしのほかに神はない。だれが、わたしのように呼ばわり、告げることができたか。これをわたしの前で並べたててみよ。わたしが永遠の民を起こしたときからのことを。未来の事、来たるべき事を彼らに告げさせてみよ。おののくな、恐れるな。もう古くからあなたに聞かせ、告げてきたではないか。あなたがたは、わたしの証人。わたしのほかに神があろうか。ほかに岩はない。わたしは知らない』」(44:6-8)

当時の人々の目には今にも滅びるように見えているイスラエルの民が、「永遠の民」また「わたしの証人」と呼ばれているのは何とも不思議です。これは、現在の私たちひとりひとりに適用できる語りかけのことばです。だからこそ、「おののく」ことも「恐れる」ことも必要ありません。未来を支配する神が、あなたを守り通してくださいます。

その上で、主は、同じく神と呼ばれる別の神々を拝むことの愚かさを、現実に即し、生き生きと表現しています。これはほとんど解説が必要のない描写だと思われます。

「偶像を造る者はみな茫漠としている。彼らの慕うものは何の役にも立たない。それら自身が証人だ。見ることも、知ることもできない。ただ恥を見るだけだ。

だれが、神を造り、偶像を鋳たのだろうか。それは何の役にも立たない。見よ。その仲間たちはみな、恥を見る。細工した者が人間にすぎないからだ。彼らはみな集まり、立つがよい。彼らはおののいて共に恥を見る。

鉄で細工する者は切削具を用い、炭火と金槌で働き、これを形造り、力ある腕で働く。腹がすくと力がなくなり、水を飲まないと疲れる。

木で細工する者は、測りなわで測り、朱で輪郭をとり、かんなで削り、コンパスで線を引き、人の形に、人間の

美しい姿に造って、神殿に安置する。自分のために杉の木を切り、また、柏や樫の木を選んで、林の木の中で自分のために守る。月桂樹を植えると、大雨が育てる。

それは人間のたきぎになり、人はそのいくらかを取って暖まり、さらに、これを燃やしてパンを焼く。また、これ

で神を造って拝み、偶像に仕立て、これにひれ伏す。半分を火に燃やし、この半分で肉を食べる。 あぶり肉をあぶって満腹し、また、暖まって言う。『ああ、暖まった。炎が見えた』と。その残りで神を造り、自分の偶像とし、それにひれ伏して拝み、それに祈って言う。『私を救ってください。あなたは私の神だから』と。

それらは知りもせず、見分けもしない。その目はふさがって見ることもできず、その心もふさがって悟ることもできない。心を振り返ることもなく、知識も英知もないので、こう言うこともない。『私は、その半分を火に燃やし、その炭火でパンを焼き、肉をあぶって食べた。その残りで忌みきらうべき物を造り、木の産物の前にひれ伏すのだろうか』と。灰を飼う者の心は欺かれ、惑わされ、自分のたましいを救うことはできず、言いもしない。『この右手に偽りがないだろうか』と。

そして、主は最後に、「これらを覚えよ。ヤコブ。イスラエルよ。あなたは、わたしのしもべ。あなたをわたしが造り上げた。あなたは、わたしのためのしもべ。イスラエルよ。あなたは忘れられることがない。あなたのそむきを雲のように、罪をかすみのように拭い去った。わたしに帰れ。あなたをわたしが贖ったからだ」 (44:21、22)と語りかけられます。あなたは、主から「忘れられることがないのです。私たちの側から主を忘れることがあっても、主は、私たちを「恩知らず」とさばく代わりに、「わたしに帰れ」と優しく語りかけてくださいます。私たちの信仰は、自分から始まったものではなく、すべて、主のめぐみのみわざなのですから。私たちが自分で自分を罪の奴隷状態から購ったのではなりません。すべてはイエスの十字架のみわざによって成し遂げられたことでした。

ドン・モーエンは、ある夜、妻の母から電話を受けました。妻の妹とその夫が、恐ろしい交通事故に会い、九歳になる長男ジェレミーが命を失い、他の三人の子も重症を負ったとのことでした。彼は無力感に圧倒され、心に浮かぶどんなみことばも慰めにならないと思えました。そのとき、彼らのために祈る中で、神はひとつの歌をお与えくださり、彼はそれを書き留めました。「神は道を造られる。道が何もないように思えるところにも。神は、私たちが見えない方法で働かれる」それこそ、私が妹夫婦に語りたかったことでした。神は、絶望の中に希望を生み出すことができる方です。この歌詞は、イザヤ43:18-21を元にしています。あなたにも、「神は私をお忘れになった!」と思えるようなときが来るかも知れません。しかし、神は私たちを決してお忘れにはなりません。それは、「あなたは、わたしのしもべ・・あなたは忘れられることがない」(44:21)と言われているとおりです。神はあなたを見捨てず、あなたを離れはしません。人生が順調なときには、「これは私が成し遂げた・・」という気持ちになりがちなものです。しかし、「もう道がない・・・」と思えるときこそ、主が道を開いてくださるという恵みが見られるチャンスなのです。

God will make a way, where there seems to be no way.
神は、道を造ってくださる。 道が何もないと見えるようなところにも。

He works in ways we cannot see, He will make a way for me,
神は、私たちが見えない方法で働かれ   私のために道を作ってくださる。

He will be my guide, hold me closely to His side,
神は、私の導き手であり、 私をご自身のふところに抱いて、

with love and strength for each new day,
愛と力を 日々新しく与えてくださり、

He will make a way,   He will make a way,
神は道を造ってくださる。   神は道を造ってくださる。

by the roadway in the wilderness He lead me
神が荒野の道に私を導かれることがあっても、

Rivers in the desert will I see;
私は砂漠の中に川を見ることができる。

Heaven and earth will fade, but His word will still remain,
やがて、この天と地は滅び失せる。しかし、神のみことばは永遠に残る。

He will do something new today.
神は、今日も、何か新しいみわざをなしてくださる。