伝道者2章12節〜3章15節「四苦八苦の人生を神の御手の中で」

2010年5月30日

1968年に一年間という期間限定つきでプロ活動したフォーク・クルセダーズの名曲「何のために」が、ふと思い浮かびました。その歌詞は次のようなものでした。

風にふるえる オリーブの花
白い壁の教会で
ゆれてかたむく十字架のもと
ひとりの男がたおれてた
何のために 何を夢見て
歯を食いしばり 働いて死ぬのか
……
何のために 何を信じて
……
何のために 何を求めて
傷つき疲れ 年老いて死ぬのか……

当時15歳だった私の心の底に、「何のために……」という問いかけがあり、その後もずっと残っていました。それは22歳でイエスを主と告白する備えになったのかと思います。これを作詞した北山修は精神科医となり、その後、九州大学教授、日本精神分析学会会長にまでなっていますが、数々のヒット曲の歌詞を作りながら、この問いを仕事として選んだのかとさえ思わされます。私たちは、この社会で、「歯を食いしばり、傷つき疲れ」ながら、そこに何を残すのでしょうか。

1.「労苦が、わざわいの種になる」

ソロモンは、「日の下で労苦すること、そのすべての労苦が……空しく……益になることは何もなかった」(1:3、2:11) と繰り返しましたが、つぎに何と、大切な「知恵」を、「狂気と愚かさ」と同列に扱い、その意味を問います (2:12)。

ただし、その分析の前に、「知恵が愚かさにまさる」ということを、「知恵ある者はその目が頭にあるが、愚か者は闇の中を歩く」と、知恵を持つ者が自分の人生の見通しをつけることができるという点で優れていると述べます (2:13、14)。ところが、そこで、「同じ出来事がすべての人に起こることが分かった」と、知恵によって解決できない問題に目が向かいます。そして、自分の心に、「愚か者に起こる出来事が、私にも起こる。それなら、私が知恵あることにどんな益があるのか?」(2:15) と問いかけます。

それは、「知恵ある者も愚か者と同じで……時が経つとすべてが忘れ去られてしまう。実に、知恵ある者も、愚か者と同じように死んでゆく」(2:16) という「忘却」と「死」の現実です。このことのゆえに、人間は「時」とともに成長するのではなく、愚かな過ちを何度も繰り返してしまいます。

そしてこのような現実を前にして、著者は、「私は生きていることを憎んだ」(2:17) という恐ろしい表現を用います。それは、「日の下でなされる働きは私にはわざわいにしかならない」と、「働き」が無駄になるばかりか、「わざわい」になるという現実があるからです。

続けて「私は、日の下で私が労した、そのすべての労苦を憎んだ」(2:18) と、「労苦」を「憎む」という激しい表現を用います。それは、「後継者」のことに思いを向けた結果です。

人間の歴史は、しばしば、偉大な親の子が、親が苦労して築き上げたものをすぐに壊すということの繰り返しです。たとえば、聖書で有名な偉人のギデオンもサムエルもヒゼキヤも、そしてこのソロモンの場合も同じです。

後継者が「知恵ある者か愚か者かを」、誰も知らないまま、彼は親が「日の下で苦労と知恵を傾けたすべての労苦」を受け継ぎ「支配する」ことになってしまいました (2:19)。

そして著者は、「私は、日の下で労したすべての労苦を、心で絶望するようになった」(2:20) とさえ述べます。それは、「知恵と知識と才能を尽くして労した人」は、その結果の莫大な遺産を、「何の苦労もしなかった者の受ける分」として「残さなければならない」からですが、それこそ「空しい」ばかりか、子孫にとっても「大きなわざわい」となるからです (2:18)。

私たちは、「親から多額の遺産を受け継いだ人は、気楽に暮らせて、幸せだろうな……」と思いがちです。しかし、遺産が多いほど、堕落する可能性も高いというのが現実ではないでしょうか。しかも、苦労をせずに莫大な富を手にする人は、苦しみ方、また転んだときの起き上がり方を知りません。そればかりかそのような人は苦労を知らないため、他の人を導くことができません。日本では政治家の二世、三世が権力を握っていますが、これは国家として危険なことかもしれません。

西郷隆盛は、自分の身の安全を優先するような生き方を軽蔑し、人は志のために生きなければならないという思いをこめて、自分の家の家訓として、「児孫のために美田を買わず」と言いました。子供や孫のために富を残してしまえば、彼らがその遺産を守ることばかりに目が向かってしまうからです。人は守るものが多くなればなるほど、志のためにいのちを賭けるということができなくなります。それは自分ばかりか、まわりのひとすべての不幸の原因になります。

2.「人生の四苦八苦を受け止める」

日本にも、親の世代が、「歯を食いしばり、傷つき疲れ」ながら築き上げた豊かさが、子供たちの世代を幸せにはしていないという現実を見ることができます。実際、心の病は、豊かさに比例して増えています。

スコット・ペックは、「問題と、そこから来る苦しみを回避する傾向こそ、あらゆる精神疾患の一時的な基盤である。われわれの多くは、程度の差こそあれ、このような傾向を持つ。したがって多少なりとも精神的に病んでおり、全く健康というわけではない」と記しています。かなり乱暴に言うなら、必要なものが楽に手に入ることを体験してきた者は、問題に立ち向かい苦しみ続けるという機会を持つことができておらず、その結果、「問題とそれに伴う苦しみを避けて安易な道を見つけようと」して、空周りを起こし、かえって心に大きなストレスを抱えるというのです。

実際、「人生は楽に生きられるはず……」という幻想は、人を必ず不幸にします。ですから仏教の悟りは、人生の「四苦八苦」を受け止めることから始まります。

それは、「生きること」「老いること」、「病むこと」「死ぬこと」の四つの苦しみと、それに加え、「愛する人と別れなければならない定め」「憎い人と出会わなければならない定め」「求めても得られない定め」心身の活動が盛んになることによって苦しみが増すという定め」です。

この苦しみから逃げ出そうとすると、かえって苦しみに追いかけられます。仏教は、生に対する執着、つまり、煩悩を絶つ方向へと導きますが、聖書はその思いを創造主である神の御前に祈るようにと導きます。

しかも、「そのすべての日々は悲しみ、その仕事も苛立つことばかりで、夜でさえ心は休まらない。これもまた、空しい」(2:23) と描かれます。仕事の悩みで、夜も心が休まらないという人もいるかと思いますが、残念ながら、それも人生の一部であり、人はその現実から逃げられないというのです。しかし、それを避けられない現実として受け止めるなら、心が少しでも落ち着きます。

3.「神から離れて……誰が楽しむことができよう」

そのような中で著者は突然、「神の御手」ということばを用いながら、「人には、食べたり飲んだりし、自分の労苦の中にたましいの満足を見るより他に善いものはない。私は、これもまた、神の御手によるものであるということが見えた」(2:24) と記します。労苦から生まれる結果に期待するのではなく、労苦のただ中に喜びを見出すことこそ神のみわざだというのです。たとえば、受験勉強をするのは合格するためであり、結果が見えないことは苦しいことですが、そのような中でも、「食べたり、飲んだり」できること、また、何かに向かって心を燃やしていること自体の中に「たましいの満足」が生まれます。実際、試験に合格したとたん精神のバランスを崩す人もいるのですから、「今、ここで」の充実感を味わうことが大切といえましょう。これはまた、取れるか取れないか契約を求めて悪戦苦闘するビジネスマンにも適用できる教えです。

そして、「実に、神から離れて、誰が食べ、また誰が楽しむことができようか」(2:25) と続きます。神がいのちを守ってくださるのでなければ、誰も「食べたり」、「楽しんだり」はできないからです。イエスは「愚かな金持ち」のたとえでそれを解説します (ルカ12:15–21)。

ある金持ちが、畑が大豊作だった後、大きな倉を建て、自分に向かって、「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ」と言います。

しかし、そのとき神は彼に、「愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか」と言われ、イエスはこの結論として、「自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです」と言われました。

著者はそのような真理を予め示されながら、「神は、善人と認めた人に知恵と知識と喜びとを与え、罪人には、ひたすら集め貯えるという仕事を与え、善人と認めた人に渡される」(2:26) と言います。

これは、神の御前での罪人は、あくせく働き財産を蓄えても、それを自分で楽しむことができず、それを神は、善人と認めた人の手に渡されるということです。労苦した人の立場からしたら、「これもまた、空しく、風を追うようなものだ」といわざるを得ません。神が、ご自分にとって「善人」と思われる人に、労苦しなかった富さえ与えることがあるのは、善人はそこで神を喜ぶことができるからです。

使徒パウロは、「すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように」(ローマ11:36) と言いましたが、この世界が神の栄光のために存在しているのであれば、神にとっての「善人」とは、富も知恵も、自分で獲得したものではなく、神の恵みであると謙遜に認める人です。

4.「すべての営みには時がある」

ただしそれは、「日の下」という目に見える世界で完結することではありません。

それで三章からは、著者の目が、「天の下」という目に見えない神のご支配に向けられ、「すべてには季節があり、天の下のすべての営みには時がある」と言われます。

2–8節には七つの大枠によって人生全体を包括する神の時が描かれ、それぞれに二対の対比が描かれます。これを見ると、私たちは「都合のよい時」ばかりを選ぶということができないとわかります。光が照ると影ができるように、人生には好ましい時と忌まわしい時とが、創造主からセットで与えられているのです。

神道的な神観では、災いをもたらす神々と、幸いをもたらす神々の区別がありますが、聖書の神は、「わたしのほかに神はいない。わたしは殺し、また生かす。わたしは傷つけ、またいやす。わたしの手から救い出せる者はいない」(申命記32:39) と宣言しておられます。

しかも、人の目に災いと見えることも、神からの罰というより、祝福の契機とされることが多くあります。

第一の「天の下の時」では、「生まれる時と死ぬ時」「植える時と抜く時」とあるように、「始まりと終わり」の対比が描かれます (3:2)。この世界では誕生ばかりでは人が多くなりすぎます。残念ながら、同じ程度に死ぬ人がいて初めて均衡が保たれるという現実があります。

第二は、「殺す時と癒す時、崩す時と建てる時」という破壊と建設の対比」です (3:3)。たとえば、病原菌は殺さなければ癒されません。建物はまず崩さなければ、新しく建てられません。

第三は、「泣く時と笑う時」「嘆く時と踊る時」という悲しみと喜びの対比」です (8:4)。悲しみを抑えていると喜びまで抑えられます。感情を自分で操作しようとすることは危険です。

第四の「石を放つ」とは攻撃を始めること、「石を集める」とはその準備をすること、また「抱擁する」とは平和協定を結ぶことで、「抱擁をやめる」とは軍事作戦に移ることです (3:5)。

人類の歴史は残念ながら戦争の歴史です。かつての第二次大戦の日本のように、準備不足のまま博打(ばくち)的に戦いを始め、「ここまできたら止める」というシナリオもないまま戦うことは悲惨の極みです。

第五は、「求める時と失う時」「保つ時と放つ時」という財産の所有に関することです (3:6)。この世の経済では、誰かが得をする影で、誰かが損をします。ですから、高額所得者が寄付をすることや、他の人に働きの場を開くのは、社会のバランスを保つための義務と言えましょう。

第六の「引き裂く時と縫い合わせる時」は、あきらめるべき時と努力を続けるべき時の対比、「黙ることと話すこと」とは受動と能動の対比と言えましょう (3:7)。仕事も人間関係も、いつも積極的であろうとするのは危険です。妥協ではなく、現実を受け入れる勇気が大切でしょう。

第七は「愛する時と憎む時」「戦う時と平和になる時」(3:8) です。多くの人は「憎むこと」や「戦うこと」は常に悪であるかのように誤解します。

しかし、罪、サタン、神の敵を、憎み、「戦う」責任を果たさなければこの世に悪が広まるばかりです。真理を巡って戦うべき時が必ずあります。それを避けようとすると、隣人が滅びに向かうということがあります。私たちは、「愛」と「平和」を求めるからこそ、悪を憎み、安易な妥協をはかる人と戦うべき時があるのです。

自分にとって忌まわしい時も、「神の時」として見ることができます。ただ、それは自分の気持ちを偽ることとか、すべてを善意に解釈するとか、苦しむこと自体を美化することではありません。

この著者は、労苦自体は空しいと繰り返しているからです。そうではなく、すべての時が、神の支配下にあるのならば、どのような苦しみの中にも、神が与えてくださった恵みを見出し、「今、ここで」、神を喜び、生きていることの喜びを発見することができるという意味です。

5.「すべてをご自身の時に美しく」

「働く者は、その労苦から何の益を得るのだろう」(3:9) とは、先と同じく1章3節や2章11節の繰り返しで、人の希望が幻想と混同されないための現実理解です。

そして、私は見た。神が人の子らに労させようと与えた仕事を」(3:10) とは、1章13節のほとんど同じ繰り返しですが、「つらい」ということばが省かれています。 かつて著者は、自分の「知恵」によって「天の下に起こるすべて」の意味を探り調べようとして苦しんでしまったのですが、今は、すべての「時」が神のご支配のもとにあるという視点から、余裕をもってこの世界を「見た」のです。

今から約八百年前に、曹洞宗の開祖道元禅師は、「解脱を愛し求めれば解脱は遠ざかり、迷いを離れようとすれば、迷いは広がるばかりである。自己の立場から、あれこれと思案して、ものごとの真実を明らかにしようとするのが迷いである。ものごとの真実が自然に明らかになるのが、悟りである」と記していますが、これは人間の心の現実を的確に捉えた分析です。

それと同じようなことがここに記されています。必死に真理を掴み取ろうともがいていた時には苦しみと空しさに支配されていました。しかし、力を抜いて、神のご支配という観点からこの世界を「見た」時、急に世界が美しく見えてきました。同じ世界が、まったく異なって見えてくるということ、これこそ宗教的感動の真髄ではないでしょうか。その真理を著者は、「私は見た……神が、すべてをご自身の時に美しくしておられるのを、また、彼らの心に永遠を与えておられるのを」(3:11) と記します。

このことばは、時代と地域を越え、多くの信仰者たちにとっての深い慰めとなっています。これは、地上のすべての「時」を支配しておられる神が、「ご自身の時」に、「すべて」のことを、「美しい」と言える状態へとあらかじめ備えておられるという意味です。しかも、神は私たちの「心に永遠を与えておられる」ので、今の忌まわしいとしか思えない状況さえ、神の永遠の視点から見ることができるということです。

これは、決して、醜いできごとを「美しい」と思い込むことではありません。そうではなく、今は、醜く忌まわしく悪いことにしか見えないことをも、神がすべての時を支配し、歴史を支配しておられるという観点から受け止め、やがて「美しい!」と言える状況に変えられることを「期待し」、必ずそうなることを「信じて」、今、ここで、「喜ぶ」ことができるという意味です。キリスト者に与えられた確信とは、「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」(ローマ8:28) という告白です。

しかも、「心に永遠を与えられた」者は、それを神の永遠の時の観点から確信することができるのです。それは、「私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます」(Ⅱペテロ3:13) と告白されているとおりです。

ただし、「それでも、人は、神のなさるみわざを、初めから終わりまで見極めることはできない」(3:11) とあるように、「今、この時」を、神の永遠の観点から評価する能力は人にはありません。つまり、分からないことは分からないままに放って置くことが大切なのです。

6.「神のなさることは永遠に残る」

そのような中で、私は分かった。人には、生きる中で、楽しみ、幸せを味わうこと以上に善いことがなく、また、すべての人は食べたり飲んだりし、すべての労苦の中に幸せを見出すことも神の賜物なのだと」(3:12、13) という神によって与えられた「知識」が繰り返されます。これは2章24、25節とほとんど同じ繰り返しです。

また、それは2章10節で、著者が未だかつてない大きな贅沢という壮大な実験を通して初めて分かったことでもありました。

なお、この文脈で興味深いのは、原文では3章10、11節は、「私は見た」という動詞に支配されているひとつの文章であり、3章12、13節は、「私は分かった」という動詞に支配されているひとつの文章であるということです。

つまり、「私は見た。そして、私は分かった」という心の流れが描かれています。

力を抜いて、この世界を神の観点から見た結果、人の幸せは、何よりも、「今、ここで」味わうべきもの、それこそが神のご計画であるということです。

これに続いて再び、「私は分かった」と言いながら、「神のなさることは永遠に残り、何も付け加えられず、取り去られない」という真実が受け止められます (3:14)。これは、人の労苦の結果が、後継者によって壊されたり、財産を残すことがわざわいにしかならないような現実との対比で記されています。

ですから、私たちは自分の労苦を、「自分のため」にではなく、神から与えられた責任、「神のなさること」として取り組むことが何よりも大切であると言えましょう。

そして、それを通して私たちは、「神は、人々が神を恐れるようにと、それらをなさった」ということが「分かり」ます (3:14)。ここに私たちの幸いがあるからこそ、この書の結論は、「神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである」(12:13) と記されています。その上で、ここで、「今あることは既にあった。これからのことも既にあった」と、1章9–11節のことばが繰り返されます。ただし、その上で、「神は追いやられたものを探し出される」(3:15) という不思議な記述が付け加えられます。「追いやられたもの」とは、今の人間的な基準からしたら、世界から忘れ去られ、無視されていると思われるような物事です。しかし、神は確かにそれをも見ておられ、探し出され、ご自身の時に、「美しい」状態へと回復してくださいます

7.「労苦は、主にあってむだでない」

私たちはいつも目の前の出来事に追われて生きていますから、ソロモンが「見て」「分かった」というようなことをなかなか理解できません。しかし、私たちはイエス・キリストを知り、信じています。そしてこれらの真理は、すべて、キリストの生涯の中に見ることができます。キリストは、この世界を父なる神とともに創造された創造主ですが、この不条理に満ちた世界を上から見下ろして、上からただ指導ばかりをされるような方ではありませんでした。キリスト(救い主)であるイエスは、この世界の空しさ、不条理を自ら体験するために、私たちと同じ肉体を持つ人間となってくださったお方です。しかも、本来、神は死ぬことができないはずですが、神であるキリストは敢えて、人となることで、死ぬことができる身体となってくださいました。そして、死の原因である罪の力を無力にするために、私たちすべての罪をその身に負って十字架にかかられました。そればかりか、三日目によみがえって、この罪と死の力に打ち勝ってくださいました。

使徒パウロは、「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか」と問いながら、「死のとげは罪であり、罪の力は律法です」と解説しつつ、「しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました」と感謝を告白しています。

その上で、「ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから」(Ⅰコリント15:55–58) と告白しました。この確信に立つ者は驚くべき生き方ができます。それはドストエフスキーが「カラマーゾフの兄弟」の中で書いているような生き方です。

長老ゾシマは主人公アリーシャへの遺言として、「多くの敵を持つことになっても、その敵たちさえ、おまえを愛するようになる。人生は多くの不幸をおまえにもたらすが、それらの不幸によっておまえは幸せになり、人生を祝福し、ほかの人々にも人生を祝福させるようになる。これが何より大事なのです。おまえはそういう人間なのですよ」と語っています。彼はこの未完の長編小説で、そのような人生を描きたかったのではないでしょうか。

私はあるとき、「In His time」(御手のなかで)という英語の賛美歌を聞きながら、深い感動に満たされました。その原歌詞は先の3章10、11節をもとに記されています。

In His time, In His time,
He makes all things beautiful
in His time

主の時に、主の時に、主はご自身のときにすべてのことを美しくしてくださる

Lord, please show me ev’ry day,
as You’re teaching me Your way,
that You do just what You say,
in Your time.

主よ、日々、あなたの道を私に教えながら、あなたが言われたことをご自身のときに実現してくださることを示してください。

In Your time, In Your time,
You make all things beautiful
in Your time

あなたの時に、あなたの時に、あなたはすべてのことを美しくしてしてくださる。

Lord, my life to You I bring,
May each song I have to sing
be to You a lovely thing,
in Your time.

主よ。私のいのちをあなたのもとに携え行きます。ですから、私が歌うすべての歌が、あなたの時に、あなたにとってうるわしいものとなりますように