ローマ8章1〜17節「罪深い肉と同じような形で」

2009年12月20日

今年は有名女優の薬物依存が大きな話題となりました。依存症は「否認の病」と呼ばれます。依存症の人は、自分が自分を制御できないということを認めることができないからこそ、何度も同じ過ちを繰り返し、その度に自己嫌悪をつのらせ、「今度こそ」という泥沼にはまって行きます。しかし、パウロは「私は、ほんとうにみじめな人間です」(7:24)と告白することで、驚くほど豊かに、神に用いられました。「罪を憎んで、人を憎まず」ということばがありますが、同じように、「罪を憎んで、自分を憎まず」ということばも必要でしょう。私たちの身体は、神の御子が同じかたちの肉体となられたほどに高価で尊いものです。ただ、この肉の身体を、罪が支配しています。その極端な現われが薬物依存です。その癒しとは、薬物を肉体から引き離すことです。同じように、キリストはこの肉体を罪の力から解放するために、この罪に無力な弱い肉体を引き受けてくださいました。私たちの身体には今なお、強力な罪の力が働いています。しかし、神はそんな汚れた身体に住むことができるために、ご自身の御子を世に遣わしてくださったのです。今、あなたの身体をキリストご自身が支配する道が開かれているのです。

1.「神は・・肉において罪を処罰されました」

「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません」(1節)とは、何という大胆な宣言でしょう。私たちが自分を、「心で何を考えているか?」「愛の原則に従ったか?」という基準ではかるなら、罪に定められるようなことばかりが目に付くことでしょう。しかし、人が自分の努力によって神の基準に達することができるなら、キリストが世に来られる必要はありませんでした。旧約聖書は、生まれながらの人間は、どれほどよい教えを聞いても、罪の誘惑に打ち勝つことはできなかったということを語っています。だからこそ、キリストは私たちをご自身の者として引き受けてくださいました。ですから、私たちは自分を何よりも、「キリスト・イエスにある者」として見る必要があります。そして、その者は、もうさばきを恐れる必要はないのです。

そして、8章2節は、「なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の律法(御教え)が、罪と死の律法(御教え)から、あなたを解放したからです」と訳すことができます。新改訳で「原理」と訳されていることばは、原文では「律法」と同じで、ここだけ別に訳すのは不自然だと思われます。この意味は、私たちが古いアダムの性質に縛られていたときに、「律法」は本来「聖なるもの」なのに、かえって「罪を引き起こし、死をもたらした」(7:8-13)という意味で「罪と死の律法」(2節)になったということです。しかし、キリストはご自身の十字架と復活によって、「罪と死」の力に打ち勝ち、「律法」「罪と死」の力から解放し、それを「いのちの御霊の律法(御教え)に変えてくださいました。7章でパウロはアダムの子孫としての「私」ということばで、自分自身の証しというより、すべての人を支配する罪と死の現実を語り、今度は、私たちに与えられた救いを「あなた」と個人的に語りかけようとしています。この「私」と「あなた」ということばで、パウロはすべてのキリスト者を含めようとしています。

たとえば、私にとって、聖書の最初の五つの書、つまり、モーセ五書は無味乾燥なばかりか自分を落ち込ませるだけの教えでした。しかし、今、それは、「主が私を恋い慕って」おられるという愛の教えに変わりました。同じ教えなのに、その意味が自分にとって百八十度変わったのです。同じことがあなたにも起きていることでしょう。私たちは、今、御霊に導かれることによって、神の律法を喜び、それを行い、生きる者とされたのです。7章14節で、「律法が霊的なもの」とありましたが、それゆえ律法は神の霊によってしか全うすることができないのです。それは、旧約聖書で繰り返し預言されていたことでした(申命記30:6、エレミヤ31:32,33、エゼキエル36:26,27等)。その意味で、今や、古い律法が、「キリスト・イエスにある、いのちの(いのちをもたらす)御霊の律法」として意味を変えました。ですから、「いのちの御霊の律法が、罪と死の律法から、あなたを解放した」と言われるのです。

ところで、律法の核心は、本来、人を束縛するような堅苦しい戒律のようなものではなく、神と人を愛するという単純なものです。それは、イエスが「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」と「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という二つの戒めに要約された通りです(マタイ22:37-40)。

ところが、「肉」に囚われ、自分のことで心が一杯になっているアダムの子孫は、これをさえ守ることができませんでした。それで、神は、上から指導する代わりに、神はまずご自身のほうから私たちに近づいてくださいました。それが、ご自分の御子を「罪深い肉と同じような形でお遣わしになり」(3節)ということです。

しかも、それは「罪のために」とあるように、御子を「罪のためのいけにえ」とするためでした。キリストは、父なる神と、罪に束縛された私たちとを隔てている仕切りをなくすためでした。預言者イザヤは、「見よ。主の御手が短くて救えないのではない・・あなたがたの咎が、あなたがたと・・神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ」(イザヤ59:1,2)と述べていますが、神はご自身と私たちとを隔てる「仕切り」となっている「罪」を、キリストの「肉において処罰」してくださったのです(3節)。

「神は・・罪を処罰した」とは、神は、罪を犯す人間を処罰するのではなく、原文では、「罪」「罪に定めた」と記されています。これはたとえば、酒井法子を罪に定める代わりに、覚せい剤の常用という行為を「罪に定める」ということかもしれません。そこから出てくる結末は、酒井法子を徹底的に責める代わりに、彼女を覚せい剤から切り離すという方向です。彼女は暴力団の父から生まれ、覚せい剤に溺れる者を夫としてしまいました。そこで彼女を裁くことが、彼女を暴力団の交わりに追いやることになっては本末転倒です。裁判官は、彼女の肉体が覚せい剤と縁を切ることができる方向に進むようにさばきを下したのではないでしょうか。国民的なアイドルが国民の敵と言われるにふさわしい罪を犯したときに、多くの人々が、彼女への評価を一転させ、偽善者、悪女のレッテルを貼ろうとしてはいなかったでしょうか。しかし、ひとつの失敗で、彼女のそれまでの功績を全面的に否定することになってよいのでしょうか。そこから生まれる神の救いとは、ご自身の御子を十字架にかけることによって、覚せい剤依存という行為を罪に定め、それを用いて「神の敵」となった人を救い出すということでした。そのことをパウロは先に、「敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられた」(5:10)と言っています。

イエスが十字架で息を引きとられたときに最初に起きたことは、「神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた」という不思議です(マタイ27:51)。それは、神がご自身の御子の「肉」において「罪を処罰」してくださったので、「私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができる」(ヘブル10:19)という意味です。

このローマ人への手紙の中心点は、「神は・・・(御子の)肉において罪を処罰された」ということです。それによって、神は私たちの真ん中に住むことができるようになります。神は、私たちの罪をさばく代わりに、罪の根元にある不安や孤独、渇きなどをともに味わう所まで降りてくださいました。愛は、愛によってしか生まれないからこそ、神はご自身の愛を私たちに溢れるばかりに注ぎ、私たちの内側に神と人への愛を生まれさせて下さったのです。私たちに今、求められていることは、何よりも、この神の恵みのみわざを思い起こすことです。

2.「あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです」

「肉に従って歩まず、御霊に従って歩む・・」(4-8節)という教えは、「自分の肉の欲求と戦い、それを殺さなければ・・」という戒めとして読まれがちです。しかし、それは、「むさぼってはならない」という戒めが、「私のうちにあらゆるむさぼりを引き起こしました」とあるのと同じような空回りを起こさせます(7:7,8)。自分のうちに残っている「肉の思い」に心が囚われ、神のかたちに造られた自分を、自分の基準で評価するというアダムの生き方に戻ってしまうからです。人の心は不思議にも、外からのことばに対し、逆の反応をしてしまいがちです。たとえば、「不安を感じるな」と言われ、かえって不安の虜になることがあります。それは、不安を感じるという自分の心の状態から目が離せなくなってしまうからです。それに対し、「御霊による思い」とは、「イエスは主です」(Ⅰコリント12:3)と告白させ、私たちのうちに神のみわざへの感謝と、神への愛を起こさせるものです。それに対し、「肉の思い」とは、心の目を自分に向けさせ、欠乏感を刺激するものです。「聖さ」への渇望感と、富や名誉や快楽への渇望感は、「空虚な自分を満たしたい」という自我の欲求という点では同じものになる可能性があります。

それは、自分と人の醜さに悩み、聖さを求めながら40歳で自殺した太宰治の例などをみると明らかではないでしょうか。彼は、自叙伝とも言える「人間失格」で次のように語っています。

「自分は神にさえ、おびえていました。神の愛は信ぜられず、神の罰だけを信じているのでした。信仰。それは、ただ神の咎を受けるために、うなだれて審判の台に向かうことのような気がしているのでした。地獄は信ぜられても、天国の存在は、どうしても信ぜられなかったのです。」

彼は人間イエスの孤独に深い共感を覚えたようですが、イエスを、「救い主」としてあがめ、「恋い慕う」ということはできませんでした。聖書を必死に読んではいても、父なる神とイエスとの愛の交わりという神秘、神がイエスを通して私たちを恋い慕っておられるという不思議を知ることはできませんでした。ある意味で、自分の感情をもてあまし、自分のことで心が一杯になっていたためでしょう。しかし、このように自分や人の醜さに圧倒されながら自分を見て絶望する前に、神が人となってくださったという面からイエスを見上げることができていたら・・・と思います。そこに、イエスを自分の救い主としてあがめる愛の告白を歌うことこそが御霊に満たされた歩みです。

ですから、何よりも大切なのは、何度も同じ過ちを繰り返す自分を責める代わりに、「ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡す」ことで「私たちの味方」になってくださった神のみわざに目を向けることです(8:32)。パリサイ人たちは、神に向かって、自分たちがどれだけの良い行いに励んだかをアピールしましたが、それはかえって神を悲しませました(ルカ18:9-14参照)。私たちの同じように自分を神と人とにアピールしていないでしょうか。それを基にパウロは、「肉にある者は神を喜ばせることはできません」(8:8)と言ったのではないでしょうか。

しかし、彼はすぐに読者を励ますように、「あなたがたは肉の中ではなく、御霊の中にいます」と断定しています。私たちは普通、「御霊がこの心の中に住んでおられる」という言い方をしますが、ここでは逆に、私たちが御霊の中にあるというのです。これは、最初に、「キリスト・イエスにある」と言われたのと同じように、「御霊の中に」と言っているものと思われます。なお、「聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です』と言うことはできません」(Ⅰコリント12:3)ということばは、厳密には、「聖霊にある」と記されていますが、私たちは自分で聖霊を心に招き入れた結果として、イエスを主と告白したのではなく、聖霊にとらえられた結果として、イエスを主と告白しているのです。私が聖霊を自由に操るかのように感じると、かえって不信仰な自分に絶望せざるを得ません。

先日の男性の交わりの中で、「自分たちが江戸時代のような迫害にあったら、自分の信仰を全うできるだろうか・・・」という趣旨ことが話題になりました。そこで、「僕は大丈夫!」という人は、ペテロと同様につまずく可能性があります。また反対に、「私は絶対に耐えられません」と言い切ることは霊的な自殺をすることと同じです。しかし、私たちの信仰とは、「私の創造主は、私の信仰を守り通すことができる」ということを信じることです。信仰は神のみわざ、聖霊のみわざです。ですからパウロは、「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成してくださることを私は堅く信じているのです」(ピリピ1:6)と記しているとおりです。これがわかると、私たちの信仰生活は、ずっとずっと、余裕のある歩みになることでしょう。

なお、9-11節に「もし・・」が続きますが、日本語では「あり得ないことを仮定する」という意味があるため、「もし、あなたが御霊を受けられたとしたなら・・」と読まれることがあります。しかし、この原文は「・・であれば・・である」という事実関係を述べているだけなのです。ここは、敢えてパウロの本来の意図を明確にするなら、次ぎのように訳すことができます。拙著、「心を生かす祈り」のP360に以下の別訳を記しています。

「あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいます。神の御霊は、確かに、あなたがたのうちに住んでおられるからです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません」(ローマ8:9)。

キリストの御霊を持ってないクリスチャンなどはあり得ないからです。私たちは「クリスチャンになる!」などと、信仰を自分の働きかのように表現しますが、聖書は、私たちの状態を「御霊の中にいる」と表現しています。

その上で、パウロは私たちの新しいいのちを感動的に次のように記します。「キリストは、あなたがたのうちにおられるのですから、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。今や、イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるのです。それゆえ、キリストを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられるその御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださいます」(ローマ8:10、11私訳)。かつて、神がイスラエルの民の真ん中に住んでくださったとき、彼らはカナンのあらゆる敵に勝利することができました。そして、ソロモンが神殿を完成したとき、栄光の雲が宮に満ちました。これをシェキナーと呼びますが、その主の栄光は、今、私たちのただ中に住み、私たちの朽ち行く身体を内側から生かしてくださいます。そして、父なる神がイエスを死者の中からよみがえらせたのと同じように、あなたに復活の身体を与えてくださいます。「永遠のいのち」とは、復活のいのちが今、すでに始まっていることを意味します。キリストに起こったのと同じことが私たちにも実現します。私たちの目に見える肉体は滅びに向かっていたとしても、私たちの内側には、すでに新しい御霊のいのちが始まっています。私たちはもう、自分に失望する必要はありません。すでに始まった新しいことに、この身を委ねさえすれば良いのです。

3.私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。

「私たちは、肉に従って歩む責任を、肉に対しては負ってはいません」(12節)とは、自分の肉の問題を自分で解決するという「責任」から人を解放するものです。過剰な責任意識は、一見、真面目なようで、「もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです」(13節)と宣告された道です。ハンズ・ビュルキ先生は、「地獄への道は、良い決断で舗装されている」とよく言われました。実際、何と多くの人が、これから心を入れ替えますと言いながら失敗し、自己嫌悪に陥り、自暴自棄になり、あげくに勝手に神に失望して滅びに向かっていることでしょう!

それに対し、「御霊によって、からだの行ないを殺す」(13節)とは、自分の内側の肉的な欲求を殺すというよりは、「自分の力で生きる!」という、身体に染み込んだ発想を、「御霊によって・・殺す」という生き方です。それは、具体的には、「主よ。こんな私をあわれんでください」と祈りつつ、すべての問題を神にお委ねし、神の解決を待つということです。これは、水の中に浮かぶことに似ているかもしれません。泳ぎの下手な人は、余計な力が働いて身体が堅くなり、浮こうとすればするほど沈んでしまいます。しかし、力を抜いて沈むのに任せるとき、かえって沈むことができなくなります。なお、それは、自分を怠けさせることではなく、神の語りかけに心を開いて、自分の願いではなく、神が望まれることを、結果を恐れず、黙々と行なうという地道な生き方でもあります。

それは、「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです」(15節)とあるように、神のさばきを恐れながら善行に励むことではありません。つまり、神のからの「愛の鞭?」を恐れ、自分を責めながら生きるのではなく、「私たちは御霊によって、『アバ、父』と呼びます」とあるように、キリストの御霊を受けた私たちも、御子イエスが御父を「アバ」と呼び、御父の愛と善意に信頼して歩まれたのと同じ「愛されている子」の立場にされたという誇りを感じながら堂々と生きることです。

またそれは、「私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人です」(17節)と言いかえられます。これは、神が実現する「新しい天と新しい地」において、私たちが「キリストとともに王とされ」、この地を治める立場に引き上げられることの保障です。それを、C.S.ルイスは、ナルニヤ物語というファンタジーで、四人の平凡な子供たちが、アスランによって「王」にされることとして描きました。ですから、何が起ころうと心配する必要はありません。御霊の働きは、このように、私たちの目を、自分ではなく、イエスとイエスの父なる神に向け続けさせるものです。

多くの人々は、三位一体の神秘を説明はできなくても、祈りの中で体験しています。父なる神と御子なる神の間には、すべてを分かち合う、親密な永遠の愛の交わりがあります。イエスの願いは即座に父なる神に届き、父なる神は無力な赤ちゃんとなられたイエスの命をヘロデ大王から守っておられました。イエスが貧しい「飼い葉おけ」に生まれられたことも、人の罪がもたらした悲劇以前に、父なる神ご自身の御手にあったことでした。私たちが神の子供とされるとは、この御父と御子との愛の交わりの中に招き入れられることです。あなたはそのままでイエスの弟、妹とされています。あなたの傍らにイエスがいて、その祈りを父なる神に執り成してくださいます。聖霊なる神はあなたの内側にいて、あなたの祈りを導いておられます。あなたは三位一体の神の愛に包まれて生かされています。目に見える現実を超えた、神の愛のみわざに思いを向けることこそ信仰の本質です。

聖書が語るクリスマスの「しるし」とは、クリスマスツリーでもろうそくでもイルミネーションでもなく、「飼い葉おけ」です(ルカ2:12)。ですから、ルターに始まるドイツの賛美歌は基本的に「飼い葉おけ」をテーマとします。その原型は、ルターが子供たちのために作った「天より来たりて」(心を生かす祈りP348)です。そこでは、幼子イエスが、私たちの神、創造主であることが何よりも強調されます。私たちはしばしば、クリスマスストーリーで、その貧しい誕生を悲劇的に描きますが、ルターは、どのような豪華な宮殿のベッドも神の御子を入れるには小さすぎると歌いながら、神の御子は人の目にもっとも貧しい場所を神の国にしてくださったということを強調しています。つまり、神はご自身の御子を、あえて、もっとも暗い場所に誕生させることによって、ご自身の栄光を現そうとしておられるのです。そして、ルターは、私たちの心も、この「飼い葉おけ」にしていただけると歌っています。私たちの心がどれほど暗く、汚れていても、神はそこをご自身の住まいとしながら、内側から作り変えてくださいます。自分から必死に神に近づこうとするのではなく、神が私たちに近づいてくださったことを覚えることこそクリスマスの意味です。「神は、ご自分の御子を、罪深い肉と同じような形でお遣わし」くださいました。それは、私たちの「罪のために」、御子の「肉において罪を処罰」するためした。それは、神は、私たち自身を罪に定める代わりに、私たちを誘惑する罪の力に、また、私たちと神とを隔てる罪に対してさばきを下してくださったという意味です。

自分の欠点を認識し、克服するという生き方は、傷口に絆創膏を張るような応急処置に過ぎません。御霊は、私たちの心を救い主イエスに結びつけます。そのとき、自覚しなくても、主が喜ばれることを行なえます。神の聖なる教えでさえ、人を生かす代わりに殺すという作用を生んだのですから、人間的な教えで自分を生かそうなどというのは土台無理な話しです。それよりは、御霊によって、イエスへの愛の歌を歌い続けましょう!