詩篇55篇「あなたの重荷を主にゆだねよ」

2007年3月11日

詩篇55篇
指揮者のため。弦楽器によって。ダビデのマスキール

聴いてください!神よ、この祈りを。 (1)

私の訴えから、身を隠さないでください。

御心を私に留め、答えてください。 (2)

私はうろたえ、うめき、わめくばかりです。

敵が叫び、悪者が迫っているのですから…… (3)

彼らは災いで脅し、憤って攻めてきます。

私の心は奥底から悶(もだ)え、 (4)

死の恐怖に襲われています。

恐れとおののきにとらわれ、 (5)

戦慄(せんりつ)に包まれました。

私は申しました。「ああ、鳩のような翼が私にあったなら、 (6)

そうしたら、飛び去って、休みを得ることができるのに……

本当に、はるか遠くに逃れ去り、 (7)

荒野の中に、しばし宿ってみたい。 セラ

私の隠れ場に急いで行って (8)

あらしと突風を避けてみたい。」

絶やしてください!主(主人)よ、彼らを。その舌を混乱させてください。 (9)

私はこの町に暴力と争いを見ていますから。

昼も夜もそれらは城壁の上を巡り、その内側には不法と苦しみがあります。 (10)

破滅はその内側にあり、虐げと欺きとはその広場から離れません。 (11)

私をののしる者が敵ではありません。それなら忍べたでしょう。 (12)

私に高ぶる者が仇(あだ)ではありません。それなら彼から身を隠したでしょう。

しかし、おまえが。私と同等の者、私の友、私の親友が……。 (13)

私たちは親しい交わりを楽しみ、神の家へと群れの中を歩いたのに……。 (14)

死が襲いかかればよい。生きたまま、よみに落ちればよい。 (15)

悪が、彼らの住まいに、その内側にあるのだから。

私が、神に呼ばわると、 (16)

主 (ヤハウェ) は、私を救ってくださる。

夕、朝、真昼、私はうめき、嘆く。 (17)

すると、主(彼)は私の声を聞いてくださる。

迫り来る戦いから、このたましいを平和のうちに贖い出してくださる。 (18)

たとい、私に立ち向かう者たちが、いかに多くいようとも。

神は聞いてくださる。昔から王座に着いておられ方は彼らを悩ませる。 セラ (19)

彼らは、改めず、神を恐れないから。

彼は自分と平和のうちにある者にまで手を伸ばし、 (20)

その契約を破った。

彼の口はバターより滑らかだが、その心には戦いがある。 (21)

彼のことばは香油よりも優しいが、それは抜き身の剣である。

ゆだねよ!主 (ヤハウェ) に、あなたの重荷を。 (22)

主(彼)は、あなたのことを心配してくださる。

主(彼)は、正しい者がいつまでも揺るがされるままにはされない。

しかし、神よ。あなたは、彼らを滅びの穴に落とされます。 (23)

血を流す者と欺く者どもは、自分の日数の半ばも生きられません。

それゆえ、私は、あなたにより頼みます。

2007年 高橋秀典

訳注:
1節の「聴いてください」は、原文で、「耳」という単語から生まれた派生語で、「耳を傾けてください」と訳した方が適格かもしれないが、それだと叫びの雰囲気が弱くなるので、このように訳した。
また、「聴いてください!神よ」という語順は、9節では「絶やしてください!主よ」、また22節では「ゆだねよ!主に。」でも繰り返されており、その三つの「訴え」がこの詩の核心部分となっている。
2節の「うめき」は厳密には「うめきながら」だが、17節の「うめき」と同じことばであることを強調した。
4節「心は奥底から悶え」とは、「心が奥底において悶えている」と記されている。
9節の「絶やしてください!主よ、彼らを。」の「彼ら」は原文にはなく、何を絶やして欲しいと願っているかが曖昧にされている。「彼らの計画を絶やしてください」という解釈も文脈から可能と思われる。
10節の「昼も夜もそれらは……」は「……彼らは」とも訳され得るが、前の「暴力と争い」を指すと解釈した。
10、11、15節で、「内側」が三回繰り返され、城壁の内側での逃げ場のない状況が強調されている。
15、23節の「私」という主語はヘブル語ではなくても通じるのに、特に明記され、強調されている。
また23節の「神よ。あなたは」の「あなた」も同様に、特に明記され、強調されている。
18、20節の「平和のうちに」とは二つとも、ヘブル語の意味深い言葉「シャローム」が繰り返されている。
19節の「神は聞いてくださる」は、17節の「主は私の声を聞いてくださる」と同じ言葉が用いられているが、「私の訴え」に聞くとも、「私に立ち向かう者たち」の不当な攻撃を聞いておられるとも解釈され得る。
22節の「ゆだねよ」の中心的な意味は、「(石などを)放り投げる」ということで、自分の問題を神の御手にお任せすること。  また、「心配してくださる」とは、「(空の器を)満たしてくださる」というような意味が込められ、食べ物のない者に食べ物を与え、力のない者に力を与えてくださるような意味合いがある。それゆえ「支えてくださる」とも訳されることがある。

花粉症に苦しむ方が、「昨夜、私は鼻が詰まって眠られなかった……」と言ったことに、シスター渡辺和子は、「あら、お薬をちゃんとお飲みになったの?」と応答してしまい、自分の配慮のなさを深く反省したとのことです。人は、誰でも、自分の気持ち、自分の辛さをわかって欲しいと願います。そのときに、苦しみの原因を分析されたのではかえって気が滅入るかもしれません。この詩には、人の味わうマイナスの感情が驚くほど豊かに表現されます。それは自分と人の気持ちに優しく寄り添いながら、神に心を注ぎだすことの第一歩ではないでしょうか。

1.「私はうろたえ、うめき、わめくばかりです」

ダビデはかつて何の落ち度もなかったのにサウル王から命を狙われ、死と隣り合わせの逃亡生活を続けざるを得ませんでした。そのとき同族の者たちからも裏切られました。また、王権が安定した後にも、息子アブシャロムの反乱によってエルサレムから逃げざるを得ないことがあり、そのときは自分の顧問であったアヒトフェルに裏切られ、「主 (ヤハウェ) よ。どうかアヒトフェルの助言を愚かなものにしてください」(Ⅱサムエル15:31) と必死に祈ったほどです。この詩がいつ記されたかは分りませんが、そのような危機的な状況の中で生まれたことは確かです。

最初のことばは、「聴いてください!」という必死の叫びです。それは神が、「私の訴えから、身を隠している」ように感じられたからです。著者は、親しい友から裏切られ、胸も張り裂けるほどに悩み苦しんでいるのですが、神は何もしてくださらないかのようです。1-5節のような気持ちは無縁と思う人もいるでしょう。しかし、感情は説明し難いものです。ヘンリ・ナウエンは、50代半ばの頃、心の奥底を分かち合える友に出会い、急速に依存して行きました。しかし、あまりにも多くを求め過ぎたため友情は破綻しました。彼は、世界が崩れたと感じ、眠られず、食欲もなく、生きる気力を失いました。彼はその鋭い霊的洞察力によって世界中の人々から尊敬されていましたが、その信仰が何の助けにもならないと感じました。別に、友が裏切って命を狙ったわけではないのですが、それでも彼はこの詩篇にあるとの同じ気持ちを味わったのです。私たちは、失恋でも、失業でも、夫婦喧嘩や約束の時間に遅れた時でさえ、「私はうろたえ、うめき、わめくばかりです」(2節) という感情を味わうかもしれません。

そんなとき私たちは、その混乱したままの気持ちを、この詩篇を用いて神に訴えることが許されています。その時、ゲッセマネの園で「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです」(マタイ26:37節) と悶え苦しまれたイエスに出会うことができます。イエスご自身も、孤独でした。愛弟子のユダに裏切られ、弟子たちが逃げ去ることが分かっていたからです。その千年前、ダビデはアヒトフェルに同じように裏切られていました。それはいつの世にもある悲劇とも言えます。神の御子は、そのような悲しみをともに味わい、担うために人となられました。イザヤは、それを「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた」(イザヤ53:3) と預言しました。まさに、イエスは、私たちの心が些細なことで混乱することを、軽蔑することなく、いっしょに悲しんでくださる方なのです。

先に紹介したシスター渡辺和子が、50才の時にうつ病になったとのことです。一人のクリスチャンドクターは、「シスター、運命は冷たいこれども、摂理は暖かいものですよ。今、あなたが病気になったいうことは、運命ではない、神様のお計らいなのです」と言われました。そして、いつしか感謝に変わったというお話です。

あなたは、心の内側に湧き起こった感情を、自分で制御しようとして混乱を深めたことがないでしょうか?不安こそ、怒りの源泉と言われます。しかし、それを押し殺してばかりいると、不機嫌を撒き散らして周りの人を傷つけたり、また、自分を責めて鬱状態になることがあります。ところが、ダビデは、「私の心は奥底から悶え、死の恐怖に襲われています。恐れとおののきにとらわれ、戦慄に包まれました」(4、5節) という四つの並行文で、自分の恐怖心をやさしく受け止め、それを神に訴えています。彼は自分の心の状態を、分析することも、言い訳することもなく、そのまま言葉にしました。それこそ、感情に振り回されないためのステップではないでしょうか。ライオンの口から羊を救い出し、打ち殺したこともあるというあの勇気に満ちたダビデが、自分の気持ちを、ひとりぼっちで身体を震わしている少女のように描いているのです。彼はその微妙な感情を優しく丁寧に受け入れています。

感情を、いじるのではなく、自分のたましいに向って、「おまえは不安なんだね……さみしいんだね」と言ってそれを優しく受け止めながら、しかも、「私って何て可愛そうなんでしょう!」などという自己憐憫に逃げ込むことなく、ただ、「主よ。私は不安です……さみしいです」という祈りに変えてみてはいかがでしょう。それは、心の奥底で神との交わりを体験する絶好の機会です。それこそ御霊に導かれた祈りではないでしょうか。自分の気持ちを受けとめられない人は、人の気持ちも受けとめられないばかりか、神との交わりも浅いものに留まってしまいます。

2.「鳩の翼が私にあったなら……」

しかも、この人は「この問題から逃げ出そうとせずに、しっかりと向き合え!」などと自分を励ます代わりに、「ああ、私に鳩のような翼が私にあったなら。そうしたら飛び去って、休みを得ることができるのに……」(6節) と、逃げ出したい気持ちにも優しく寄り添っています。しかもその上で、逃げ場のない自分の現実を描きます。彼の住む町の中には、「暴力と争い」、「不法と苦しみ」、「虐げとあざむき」が満ちているというのです (9-11節)。人によっては、現在の職場がそのような環境かもしれません。逃げ出したくても、生活のためには逃げられません。

そればかりか、最も近しいはずの人が最も恐ろしい敵となっているというのです。たとえば家庭で精神的な虐待を受けるなら、どこに逃げ場があるでしょう。彼らは自分の悪意を巧妙に隠しながら「滑らか」で「優しい」言葉を用いて語りかけ (21節)、「私はあなたのためを思って……」となどと言いながら、実際には「そのままのあなたには生きている資格がない」いう隠されたメッセージを伝え、生きる気力を奪い取っているということがあります。

ところで、著者は何と、「荒野」を「私の隠れ場」と描きます。それは人の目からは、誰の保護も受けられない、孤独で不毛な場所でしょうが、だからこそ「神だけが頼り」となります。つまり彼は、「翼が私にあったなら……」という白昼夢に逃げているようでも、「あらしと突風」(7節) のただ中で、そのたましいは神のみもとに引き上げられているのです。それは、今は、「密室の祈り」と呼ばれる一対一で神に向き合うときに体験できることかもしれません。

五年前のビュルキ先生のセミナーのことが拙著の生島先生の推薦文に示唆されています。私があることへの感想を述べた時、それが自分の問題を他者のせいにしているような部分があったのを先生は鋭く察知し、厳しく突っ込んできました。私は皆の前で恥をかかされた気持ちになりました。その時、先生は、皆に向かって「彼に安易な慰めの言葉をかけてはならない」と命じられました。また私には、「湧いた感情をいじってはならない。自己弁護してはならない。受けるべきケアーを受けられなくなる……」と言われました。しばらく悶々とした気持ちでいましたが、徐々に予期しない形で不思議な慰めが与えられ、一週間近く経って、黙想の時に読まれたみことばが、心の奥底に迫って来て、感動に満たされました。後で先生が、「説明は、多くの場合正しくない。弁解の延長線上にあるからだ。『自己弁護する者は、自分や人を非難している』“S’EXCUSE S’ACCUSE”(フランスの諺)」と語ってくださいました。私は、人に慰めを求めるか、自分で自分をカウンセリングばかりしてきたように思えます。本当の意味で、問題を抱えたまま神の御前に静まり、神の解決を待ち望むことができませんでした。

しかし、ダビデはこの祈りを通して、恐怖におびえた心を、そのまま神にささげました。その結果、彼の心は、まさに鳩のような翼を得て、神のみもとに引き上げられ、安らぐことができたのではないでしょうか。彼はサウルやアブシャロム手から逃れるときに、驚くほど冷静な判断を下し、明日への布石を打つことができました。

3.「主 (ヤハウエ) は私を救ってくださる」

「私が、神に呼ばわると、主 (ヤハウェ) は私を救ってくださる」(16節) という文では、不思議に「神」と「主 (ヤハウェ) 」という言葉の使い分けがされます。これは、「私」が、神のご性質を漠然としか知らないまま呼ばわっても、神は、「わたしは『わたしはある。』という者である」(出エジ3:14) というご自身の名を示しつつ、親しく私に答えてくださるという意味ではないでしょうか。そして、「夕、朝、真昼、私はうめき、嘆く。すると……」(17節) とは、悲しみが夕方に始まり、神は私たちの訴えをじっと聴き続けた上で、初めて答えてくださるというリズムが強調されているかのようです。私たちは、「主は私の声を聞いてくださる」という実感を味わう前に、余りに性急な解決を求め、勝手に失望しているということがあるかもしれません。私たちの目の前には、神が「身を隠しておられる」(1節) と思える現実が繰り返し起こるかもしれません。しかし、ダビデは、苦しみのただ中でじっと祈り続けることを通して、自分の声が確かに神に届いていたことを確信できました。それは頭での理解ではなく、腹の底からの確信となりました。

なお、「絶やしてください!主よ、彼らを……死が襲いかかれば良い」(9、15節) という表現は、「のろい」を祈っているように感じられます。しかし、それは、自分の気持ちを正直に神に述べ、公正な裁きを訴えたものであり、復讐ではありません。自分で戦わなくても神が「平和のうちに、贖い出してくださる」(18節) のですから……。私たちは、しばしば、神のさばきを信じることができないからこそ、敵を赦すことができないのではないでしょうか。

そして、このような「私」を中心とした祈りの後に、突然、「ゆだねよ!主 (ヤハウェ) に、あなたの重荷を」(22節) との他者への勧めが記されます。これは、神の沈黙に悩んでいたダビデが、「私の祈りは答えられた!」という実体験を経た上で、他の人に神への信頼を訴えるものです。しばしば、これに至るプロセスを飛び越えて、この「勧め」ばかりが強調される場合がありますが、それは人の心の繊細さや揺れを軽蔑した暴力になりかねません。そう簡単に目に見えない神にすべてを任せきることができるぐらいなら、神の御子が人となって十字架にかかる必要などありませんでした。イスラエルの民は、それを繰り返し聞きながら、実行できなかったということを忘れてはなりません。信仰は人のわざではなく神が生み出してくださるものです。しかも、「ゆだねる」の本来の意味は「放り投げる」ことで、自分の思い煩いや恐怖感を、そのまま全宇宙の支配者であるウェの御前に差し出すことです。「あなたの御心のままに……」と祈る前に、自分の感情を注ぎ出す必要があるのではないでしょうか。

「主は、あなたのことを心配してくださる」とは、何と優しい表現でしょう。これは「あなたを支える」とも訳されますが、神の救いは、あなたの重荷を取り去ることではなく、重荷や思い患いを抱えたままのあなたを支えることなのです。そして、主の目に「正しい者」とは、主に向かって叫び続ける者のことです。その人を、主は「いつまでも揺るがされるまま」には放置されず、試練の中で立つことができるように支えてくださいます。しかし、神を忘れ、自分の強さを誇っている者は、死後のさばきを受けるか、人生の半ばで生きる力をなくしてしまいます。

病院で手術を受ける患者さんなどに、「大丈夫」と書かれた小石を手渡し、握らせながら、「あなたが願っているようになる大丈夫ではなくて、どちらに転んでも大丈夫の小石なのですよ」と言ってくださる方がいたそうです。そのように不安に寄り添ってくれる人は、確かに支えになりますが、私たちの主イエス・キリストは死の力に打ち勝つことで、人生の途中に何が起ころうとも最終的な勝利が保証されていることを証ししてくださったのです。私たちは、そのことのゆえに、どんなときでも、「それゆえ、私は、あなたに、より頼みます」と告白できるのです。

キリスト者の交わりは、自分の不安や寂しさを、相手構わずぶちまけるような共依存的な関係になってはなりません。「ひとりでいることができない者は、交わりに入ることを用心しなさい。彼は自分自身と交わりをただ傷つけるだけである」(ボンヘッファー)という原則を忘れてはなりません。あなたの心は、いつでも、どこでも、鳩のような翼をもって神のもとに憩うことがでるからです。その神との交わりこそ、人との交わりの力の源泉であるべきでしょう。