詩篇38篇「神の御前でのためいき」

2007年2月25日

詩篇38篇
ダビデの歌、記念のため

主 (ヤハウェ) よ。憤りによって、責めないでください。 (1)

激怒のあまり、私を懲らしめないでください。

あなたの矢が 私を刺し抜き、 (2)

御手が私の上に重くのしかかりました。

私の罪のため、骨にもやすらぎ  (シャローム) がありません。

御怒りのため、私の肉には健全なところがありません。 (3)

私の咎(とが)が、この頭を圧倒し、 (4)

重過ぎる重荷のようになっています。

私の傷は うみただれ、悪臭を放ちました。 (5)

それは私の愚かさのせいです。

私はうなだれ、ひどく打ちのめされ、 (6)

一日中、嘆きながら歩いています。

腰は焼けるような痛みに満ち、 (7)

私の肉には健全なところがありません。

私は衰え果て、ひどく砕かれ、 (8)

心の乱れによって、うめいています。

主(主人)よ。私の願いは すべて御前にあり、 (9)

私のためいきは あなたに隠されてはいません。

私の心は動転し、力は失せ去り、 (10)

目の光さえもなくなりました。

愛する者や友も 私の災難から目を背けて立ち、 (11)

私の近親者も 遠く離れて立っています。

私のいのちを狙う者は 罠をしかけ、 (12)

災いを求める者は私の破滅を告げ、

裏切りを一日中思い巡らしています。

しかし、この私は、耳の聞こえない者のように聞かず、 (13)

話せない者かのように、口を開きません。

まるで私は、聞くことができない者、 (14)

口で抗議できない者のようになりました。

それは、主 (ヤハウェ) よ。あなたを私は待ち望んでいるからです。 (15)

私の神、主(主人)よ。あなたは、答えてくださいます。

私は申しました。「この足がよろけるとき、彼らに喜ばせず、 (16)

私に向って高ぶらせないようにしてください。」

この私は、今にも 崩れそうで、 (17)

痛みが、いつも、ともにあるからです。

私は自分の咎(とが)を言い表し、 (18)

罪のゆえに不安になっています。

私の敵は、活気に満ちて強く、 (19)

ゆえもなく私を憎む者は多くいます。

善に代えて悪を報いる者たちは、 (20)

私が善を求めることで、かえって敵となっています。

見捨てないでください。主 (ヤハウェ) よ。 (21)

私の神よ。遠く離れないでください。

急いで、助けてください。 (22)

主(主人)よ。私の救いよ。

2007年 高橋秀典訳

1節の「憤り」とは、「怒り」の類語の中で最も激しいものを表わすことば。「激怒」とは、怒りの感情の中でも特に「熱さ」を表現するもの。
2節の「重くのしかかり」の「重く」は原文にはないことば。
3節の「御怒り」とは、罪へのさばきの面を強調した「怒り」の類語
3節と7節で「健全なところ」と訳されていることばは、原文では「完全」と記されている。身体中すべてが病気になっていることを強調しつつ、重ねて表現したもの。
3節の「やすらぎ」は原文でシャロームで、「平和」と一般的には訳されることば
4節の「重過ぎる」とは、原文で「重い」ということばが繰り返されている。
12節だけは三行詩になっているが、他の節はそれぞれが二行に分けられる。
15節は「答えてください」という嘆願にも訳せるが、「あなたは」ということばが特に強調され
ていることからしても、「答えてくださる」という断定形として訳すべきかと思われる。
17節は「私」という主語が強調され、「今にも崩れそう」とは、原文では「倒れることが定まっ
ている」と記されているが、文脈から、神の支えを期待した表現とした。

先日、原因不明のしゃっくりが一週間近く続き、「息が詰まる」苦しみまで体験しました。「楽に呼吸できるのは、何という恵みか……」と実感できました。その秘訣は、「息を吐く」ことにあります。同じように、人は、しばしば明日の希望が見えない中で、「息が詰まる」体験をしますが、回復の始まりは何より、「絶望感を吐き出す」ことにあります。よく、「ためいきをついたら、幸せが逃げる」と言われます。それは、暗い気持ちが人を遠ざけるという意味で本当でしょう。しかし、ためいきとは長く息を吐き出すという行為で、極めて自然な癒しのプロセスではないでしょうか。神は、あなたの「ためいき」を喜んで引き受けてくださいます。そればかりか「御霊の初穂」を受けた者は、世界の苦しみを身に引き受けて、「心の中でうめく(ためいきをつく)」と記され、そのとき、御霊ご自身がことばにならない「うめき(ためいき)」によって父なる神にとりなしてくださると約束されています (ローマ8:22-26)。神の御前でため息をつくことができるというのが真実な祈りの始まりです。自分の気持ちを自分で整理つけようとすると心が空回りを起こし、しまいに病んでしまいます。御霊に導かれたことばを用いて、絶望感を主に訴えることを学んでみましょう。

1.この詩の背景と特徴

この詩篇は、七つ悔い改めの詩篇 (6、32、38、51、102、130、143) のひとつで、別名、「病者の祈り」とも呼ばれます。標題の「記念のため」とは、レビ2:2の「穀物のささげ物」に用いられていることばで、神のあわれみを「記念」するものでした。キリスト教会では、この詩篇はキリストの受難の「記念」と理解され、伝統的に、受難節の始まりの聖灰水曜日に朗読されてきました(今年は2月21日、なお今年の受難日は4月6日、復活祭は4月8日)。この期間の日曜日を除く40日間、断食をしつつ、キリストの受難を思い起こすという習慣が守られたこともあったようです。

これはダビデの最も暗い時代の祈りだと思われます。彼は家来の妻を奪ったあげくその家来を計略にかけて死に至らしめたところからすべてが狂いだしました。長男アムノンは腹違いの妹タマルを強姦し、その復讐として彼女の実の兄アブシャロムがアムノンを殺し、アブシャロムはダビデから憎まれていると思い込んでクーデターを実行し、ダビデをエルサレムから追い出すという一連の悲劇が11年間の間に起こりました。この間、ダビデはただ手をこまねいて、引き篭もっていたかのようです。彼はその悲劇のクライマックスでこの詩篇を記したのではないかと思われます。詩篇のほとんどは、絶望感の訴えのまま終わることなく、そこに全能の神への信頼の告白と感謝に満ちた賛美へと移行します。しかし、この詩篇は、それが見られません。それは、絶望したたましいは、容易に慰めを受け入れることができないからです。彼は今、徹底的に無力な者となり、神にただすがりつこうとしています。

2.神の怒りを受けて苦しんでいると訴える中から生まれる希望

ダビデは、神の「憤り」、「激怒」、「御怒り」という三つの類語を用いて、自分の苦しみが神の「怒り」によってもたらされたと嘆いています (1、3節)。彼は自分の子供たちが互いに傷つけあい滅びてゆくことに深く心を痛めました。それがストレスになって身体全体が病み、自分の骨(身体を支える核心部分)から、神のシャローム(平安)が去ったと言います (3節)。家の悲劇の直接の原因は、人間の罪ですが、「雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません」(マタイ10:29) という意味で、彼はすべての苦しみ中に、「神の怒り」を見ています。そして、そのような悲劇の引き金は、「私の罪」(3節)、また「私の愚かさ」(5節) にあると認めています。つまり、ダビデは、自分の苦しみが自業自得であること、また神のさばきの結果であることを認めながら、なお、必死に神にすがっているのです。それは、父親に激しく叱られながら、なお、すがりつこうとする子供の姿に似ています。

ダビデは「私の傷が、うみただれ、悪臭を放ち」(5節) と言います。ほんの一瞬、ひとりの女性の美しさに心を奪われたという小さな傷を放っておいたら、化膿してしまい、家族全体の忌まわしいスキャンダルにまで広がりました。彼はそれを見て、ひどく打ちのめされ、一日中、嘆いて歩くことしかできません (6節)。「腰は焼けるような痛みに満ち」(7節) とは、感情の座が「腰」にあると理解されていたため、彼の良心が痛んで、自尊心を失っている様子を示していると思われます。そして「私の肉には健全なところがありません」(3、7節) という繰り返しによって、自分の罪が、身体全体を重い病気に陥らせていると言っています。彼は今、生きる気力さえ失い、心は乱れ、判断力を失い、うめくことしかできません (8節)。そのような落ち込みのため、ダビデは、長男アムノンが娘タマルを犯したときにも、アブシャロムがアムノンを殺したときにも、父親としての責任を果たすことができませんでした。私たちの人生にも、小さな誘惑に負けたところから、すべて狂いだし、「途方に暮れるばかり……」ということがあるかも知れません。

そんな中でダビデは、神を自分の主人と呼び、「私の願いはすべて御前にあり、私のためいきは、あなたに隠されていません」(9節) と告白します。これは、自分でどうしたらよいか、また、どのように祈ったらよいかも分らない心の状態を指します。彼は今、神の前でためいきをつくことしかできません。しかも、彼の心はさらに動転するばかりで (10節)、目の光も失われ、まさに生ける屍のようになっています。ただ、不思議なのは、彼はその自分の状況をこれほど多様なことばで言い表していることです。これは神の霊が、彼の心のうちに働き、ことばにならない絶望感を言い表すように助けてくださった結果です。それこそ、神の御前での呼吸、つまり祈りの本質です。多くの人は、自分の苦しみが、自業自得のものと思ったとき、神にも人にも、何も言えなくなってしまいます。原因結果が明らかであるほど、そこに神のみわざを期待できなくなります。ダビデは、自分の上に起こった悲惨を、神の怒りの現われと見ることで、神がみこころを変えてくださるならすべてが変わるという希望を持つことができました。あなたの悲劇の直接の原因は、人間の罪であっても、神はその状況すべてを支配し、それを益に変えることがおできになります。あなたの救いは、この世に向ってためいきをつく代わりに、神の御前にためいきをつくことから始まります。

3.すべての人から見捨てられたと感じる孤独の中で、神に信頼する

ところで、「愛する者や友も、私の災難から目を背け……遠く離れて立っている」(11節) と、ダビデは苦しみの中で深い孤独を訴えています。しばしば、私たちも、災いに会う中で、人の非難や、冷たさになお深く傷つきます。イエスも十字架への道を歩んだとき、弟子たちが逃げ去るという孤独を体験しました。ダビデの場合は、この機会に、彼を王座から追い落とす計略が進んでいました (12節)。その首謀者は何と息子のアブシャロムでしたが、それが一時的にも成功するのは、ダビデに従っていた多くの人々が、彼のあまりの落ち込みを見て、裏切りを決意したからに他なりません。人は、力を恐れ、力に屈服しますから、権力者が弱くなると権力を握りたいと思う者が出ます。

ダビデは、そのような中で、何も聞こえない、何も言えない者のように振舞うことしかできませんでした (13、14節)。それは息子の反抗の原因が、自分のふがいなさにあると思うから、また息子を失いたくないあまり、厳しく接することができなかったからかもしれません。その意味での、彼の父として沈黙はかえって問題を複雑にしています。しかし、一般的には、自分を裏切ろうと心を決めている敵に対しては沈黙しているのが最善ということもあります。

ただ、ここでダビデは初めて、「主 (ヤハウェ) よ。あなたを私は待ち望んでいる」(15節) と、神への信頼を告白します。彼の人々の前での沈黙は、その現われでもあったのです。攻撃は最大の防御とも言われるように、人は恐怖に圧倒されるからこそ沈黙していることができなくなりますが、彼は、「私の神、主(主人)よ。あなたは、答えてくださいます」と、すべての問題の解決を、神にゆだねます。これは多くの翻訳では、神への嘆願というより、信頼の表現と解釈しています。人は、絶望の淵で、突然、神の救いを期待できるようになるというのが多くの信仰者の常だからです。神は、無からすべての見えるものを、暗闇のただなかに光を創造される方です。そして、私たちが自分の力や人の力に頼ろうとしているうちは、その神のみわざに対して心を開くことができないという現実があります。

そして、ダビデは、自分の敵が勝ち誇ることのないようにと、神に訴えます。そして、神の助けがなければ、自分は「崩れる」しかなく、「痛みが、いつも、ともにある」と訴えます (17節)。その際、彼は「私は……自分の罪のゆえに不安になっています」(18節) と言いながら、自分の側に正義はなく、ただ、神のあわれみにすがるしかないと告白します。私たちは、「私は正しい!」と思うことで自分を主張する勇気を持ちますが、それが神のあわれみを見えなくすることがあります。パリサイ人たちは自分の義を立てようとして、神の御子を十字架にかけたことを忘れてはなりません (ローマ10:3)。私たちが頼るべきは、自分の正義ではなく、神の正義、神のあわれみなのですから。

4.イエスは、罪人の代表者となられ、「見捨てないでください」と祈られた

今、「私の敵」の方は、良心の呵責も感じない結果として、はるかに活力に満ちているという現実があります (19節)。彼らは図々しく、自分の罪に居直って、自分の都合だけを正当化し、善に代えて悪を報いてきます (20節)。

ダビデはそのような中で、ただひたすら、「見捨てないでください。主 (ヤハウェ) よ。私の神よ。遠く離れないでください」(21節) と訴えます。イエスが十字架で叫んだ「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」は、詩篇22篇の始まりのことばですが、それはこれを「どうして……」という疑問形に変えた表現で、その意味はまったく同じです。そしてイエスは、十字架で、「急いで、助けてください。主よ、私の救いよ」(22節) という気持ちを込めて父なる神に訴えました。そして、その訴えに、父なる神は奇想天外な方法で答えられました。人々の見ている前でイエスを十字架の苦しみから救い出す代わりに、誰も使ったことがない墓の中に葬らせた上で、三日目に彼を死人の中からよみがえらせました。それによって、イエスは死の力に最終的な勝利を宣言されたのです。

宗教改革者マルティン・ルターは、「この詩篇を、キリストは、ご自身の御苦しみと嘆きの中で祈られた。それは私たちの罪のためであった。」と簡潔に表現しました。ここにこそ福音の神秘があります。まったく罪のない方が、私たちすべての罪をその身に担い、罪まみれの罪人の代表者となって、この詩篇を必死に祈られたのです。

私たちも、一見、暗いだけのこの詩篇に、自分の心の奥底に隠されている絶望感を照らし合わせて祈るときに、不思議な慰めを体験することでしょう。神の怒りをイエスは私たちの身代わりに受けてくださいました。ですから、十字架を仰ぐ者は、神の怒りの背後に、神の燃えるような愛を見ることができます。神がなお私たちに苦しみを与えられるのは、私たちの癒しのためです。残念ながら、私たちは痛い目に会わなければ自分の行動を改めようとしないからです。しかも、あなたが神の怒りを感じながら、なお祈っているとき、イエスがあなたとともに祈っておられます。それがわかるとき、私たちは、どんな自業自得の苦しみの中にも、神の救いの御手をみることができます。

神の御前に祈るとは、自分で自分の心を慰め、励ますことではありません。答えが見えないまま、ただ、自分の心の奥底にある絶望感を正直に受け止め、それを神の御前に注ぎだすことが祈りの始まりです。また、あなたが人のためいきのようなうめきの声を聞いたときには、その原因を分析したり、解決の方法をアドバイスする以前に、その人が神の御前で「息をつく」ことができるというその一点に心を集中すべきではないでしょうか。祈ることさえできなくなっている人に代わって、あなたが御霊の導きを求め、その人のことばにならないうめきに心を合わせ、ともにあなたの心を震わせ、そして、それを神への祈りと変えること、それこそがキリスト者の最大の使命だと思われます。伝道の基本とは、人のためいきを引き受けて、神の前でのためいき、うめきとすることではないでしょうか。