ルカ8章40〜56節「恐れないで、ただ信じなさい」

2006年4月7日

去って行くのが惜しまれる人、「いなくなってせいせいした!」と言われる人がいます。ここに登場するふたりの「娘」はまさにそんな対極にいたように思えますが、ここに誰も思いつかないような展開が見られます。それはイエスが、邪魔者扱いされる人の内に隠された心の真実(信仰)を見てくださったからです。

1.「この女は、イエスのうしろに近寄って・・着物のふさにさわった」

「イエスが帰られると」(40節)とありますが、主はガリラヤ湖の向こう岸のゲラサ人の地からカペナウムに戻ってきました。それを「群集は・・待ちわびて」いましたが、そこで、「ヤイロという・・会堂管理者」が、「イエスの足もとにひれ伏し」ます(8:41)。彼は、会堂での礼拝全体を管理し、説教者を決める権限のある人で(使徒13:15)、誰もが一目を置く町の有力者ですから、まさに前代未聞の情景です。それは、彼の「一人娘・・十二歳ぐらい」が「死にかけていた」からでした(42節)。ここでは、イエスが神の「ひとり子」であると言われるのと同じことばが用いられています。しかも、当時で言えば大人の一歩手前の年齢です。これは、町の人全体の同情を買うに値する一大事で、誰もがこの子の癒しを願ったことでしょう。そして、イエスがヤイロの家に向うとき、「群集がみもとに押し迫ってきた」というほどの集団移動が起こります。

そこに、「十二年の間長血をわずらった女がいた」(8:43)と、ヤイロの娘の年齢と同じ年月苦しみ続けた女が登場します。これは、肉体的な痛みばかりか精神的な孤独感に圧倒される病です。当時の律法では、女性は、月経の七日間は、「誰でも彼女に触れる者は、夕方まで汚れる」と、引き篭もりが命じられましたが、「長い日数にわたって血の漏出がある場合・・彼女は月のさわりの間と同じく汚れる・・・その女のすわるすべてのものは・・・汚れる。これらの物にさわる者はだれでも汚れる」と言われていました(レビ15:19-27)。つまり、彼女は十二年間、汚れた女として、人々の冷たい視線を浴び続けなければいけなかったのです。マルコの並行箇所によると、彼女は、「多くの医者からひどい目に会わされて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまった」(5:25)ほどでしたから、まさに「生けるしかばね」と見られたことでしょう。このふたりの十二年には、まさに光と影の対照が見られました。しかし、今、ふたりとも絶望的です。

そんな中で、この女は、「イエスのうしろに近寄り」(8:44)ます。ヤイロはイエスの前にひれ伏すことができましたが、この女は自分の身を隠さなければ近寄れなかったのです!しかも、誰からも目を背けられる存在だからこそ、人々の心がヤイロの娘のことで一杯になっている今が、イエスに近づく千載一遇のチャンスでした。それにしても、その距離は何と長く思えたことでしょう。人々を押し分け、手を必死に伸ばしながら、ようやく、イエスの着物の「ふさ」までたどりつきました。これはタリスと呼ばれる祈りの装束の四隅についている「ふさ」で(民数記15:38,39)、イエスと父なる神との祈りの交わりの象徴的なものでした。彼女は、盲目的にイエスに近づいたのではなく、神からのいやしの力を受ける象徴を見ていたのです。

「すると、たちどころに出血が止まった」(44節)と簡潔に記されていますが、それは、とうてい言葉では言い尽くせない大きなできごとでした。彼女の十二年間の念願が、今成就し、世界が変わったのです。それは、彼女が、どんなに騙され、軽蔑され、苦しんでも、神への望みを決して捨てなかったからです。

2.「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して行きなさい」

このときイエスは、「わたしにさわったのは、だれですか」(45節)と問われます。人々は、自分が責められているかのように勝手に誤解し、ペテロも、その質問自体が愚かしいかのように、「先生。この大ぜいの人が、ひしめき合って押しているのです」と言います。誰もイエスのみこころを理解できてはいません。

それで、イエスは、「だれかが、わたしにさわったのです。わたしから力が出て行くのを感じたのだから」(46節)と言われます。当時は、汚れた人に触れられると、汚れが乗り移ると考えられていましたが、イエスは反対に、ご自身のうちに宿っているきよめの力が引き出されたことを感じました。イエスに触れる人は、その汚れがイエスのきよさに呑み込まれるからです。これをルターは、「喜ばしき交換」と呼びました。それは丁度、結婚において夫のすべてのものが妻によって共有されることと同じです。この女は、信仰によってイエスと結びつき、イエスのきよさを自分のものとでき、その汚れから自由になれたのです。

それにしても、イエスは、背後から近づく人の思いまで感じ取られたのです。これは「注目の奇跡」と呼ばれます。私たちが目の前の人の痛みすら分からないのとは対照的です。それで、「女は、隠しきれないと知って、震えながら進み出」ます(47節)。イエスが単なる宗教家であれば、彼女に触れる人は、「夕方まで汚れる」(レビ15:19)はずですから、イエスは働きができなくなります。つまり、この女は、ヤイロの家に急ぐイエスを立ち止まらせたばかりか、その癒しのみわざさえできなくさせる可能性があったのです。身勝手な女と非難されても仕方がありません。だからこそ、この女は、怯えていたのではないでしょうか。しかし、彼女は、実際は、イエスご自身に触れることを避け、着物の「ふさ」に触れただけなのです。

しかし、このとき初めて、彼女はイエスの「御前に」「進み出て」ひれ伏すことができ、「すべての民の前で、イエスにさわったわけと、たちどころに癒された次第とを話し」ます。何と、いつも身を隠しながら生きてきた人が、皆の前で、憧れの方と顔と顔とを合わせて語り合っているのです!このときイエスは、「娘よ。」と語りかけます。人々は、ヤイロの「ひとり娘」のことで心が一杯ですが、「あなたもかけがえのない神の娘だ」と言っているかのようです。そればかりかイエスは、「あなたの信仰があなたを直したのです。安心して行きなさい」(48節)と言いました。当時の常識では、多くの人は、この長い苦しみを、不信仰のゆえに神ののろいを受けたためと解釈したことでしょう。しかしイエスは、正反対に、彼女の信仰が癒しを起こしたと断言しました。イエスの弟子の中に、これほどの賛辞を受けられた人はいません。それは彼女が、信仰の父アブラハム同様に、「死者を生かし、無い(無価値な)ものをある者のようにお呼びになる方」を信じ、また、「望みえないときに望みを抱いて信じた」からです(ローマ4:17,18)。この結果、彼女は、日陰で生きる者から社会の真ん中に生きる者へと変えられました。それこそイエスの癒しの目的です。

3.「恐れないで、ただ信じなさい」

ところでこの間、ヤイロはさぞあせって、「私の娘は今にも死にそうなのです。この女の癒しとカウンセリングは後回しにしても良いのでは・・・」と思ったことでしょう。そんなとき、会堂管理者の家から、「あなたのお嬢さんはなくなりました」(49節)という知らせが届きます。人々も、「この女が、イエスを足止めしている間に・・・」と非難の目を注いだことでしょう。それにしても、この使いが、「もう、先生を煩わすことはありません」と言ったのは、余りに実務的です。イエスは、それに対し、ヤイロに向って、「恐れないで、ただ信じなさい」(50節)と言います。これは、長血の女の信仰に習い、どんな暗やみの中にも神にあって希望を見続けるようにとの勧めです。「そうすれば娘は直ります」と言われるのは、イエスをお招きするのに遅すぎることはないからです。私たちも、愛する人が死んだ後で、なお信じ続けることができます。それは、キリストにつながるすべての人は、終わりの日によみがえり、新しい身体を受けることができるからです。それこそが、究極の癒しです。私たちはこの希望の故に、お葬式で心から主を賛美することができます。

イエスは三人の弟子だけを伴ってヤイロの家に入ります。人々が泣き悲しんでいる中で、「泣かなくてもよい。死んだのではない。眠っているのです」(52節)と大胆に言います。しかし、「人々は、娘が死んだことを知っていたので、イエスをあざ笑った」(53節)のでした。しかし、イエスは、神の目からこの娘の死を見ていたのです。私たちの肉体の死も、「イエスにあって眠った」(Ⅰテサロニケ4:14)状態に過ぎません。

イエスは、「子どもよ。起きなさい」と言われます。マルコによると、イエスはこの少女の手を取りながら、アラム語で「クーームィ」と言いつつ起き上がらせたのだと思われます(5:41)。同じように、神は終わりの日に、私たちひとりひとりの手を取って、死者の中からよみがえらせてくださるのではないでしょうか。

「すると、娘の霊が戻って」(55節)とは、神がアダムを土地のちりから創造されたとき、「その鼻にいのちの息を吹き込まれた」(創世記2:7)ことを思い起こさせます。私たちは、神の御許しがなければ一瞬たりとも生きていることができない存在です。「両親がひどく驚いていると、イエスはこのできごとを誰にも話さないように・・」と命じます。それは、死んだはずの人が生き返ることはあくまでも例外であり、この少女もやがて地上の命を終えることがあるからです。私たちは、自分の希望を、この地上のいのちを越えた、終わりの日の復活に結びつける必要があります。それこそが、神のみこころです。人の心が奇跡ばかりに向かい、この地上の自然の営みを受け入れることができなくなるのは神の御心ではありません。

マタイもマルコもヤイロの娘と長血の女の癒しをセットに記します。もし、ヤイロの娘が生き返らなかったら、長血の女の癒しは人々から祝福を受けることはできなかったに違いありません。一方、人々がヤイロの娘のことに心が向っていなければこの女はイエスの背後に近づくことはできませんでした。イエスは、この対照的な十二年を過ごしたふたりを、同じように「神の娘」として愛されたのです。そこに神の眼差しを思うことができます。それは、「あなたは、見ておられました。害毒と苦痛を。彼らを御手の中に収めるために、じっと見つめておられました」(詩篇10:14)とある通りです。この出来事の後、この女とこの娘の間に、どんな交わりが生まれただろうかなどと思いめぐらすと楽しくなれます。同じように、過去や現在の状況があなたにどんなに暗く見えても、イエスは今も、「恐れないで、ただ信じなさい」と語っておられます。